visavis114

nao · @visavis114

25th Jan 2020 from TwitLonger

『心の傷を癒すということ』トークイベント(2020.1.25)


出席者:
NHK プロデューサー・京田光弘、堀之内礼二郎、演出・安達もじり
産経新聞社 論説委員・河村直哉

最初の挨拶:
河村)抱きしめたくなるような作品。
京田)神戸出身で被災した。自分の中にいろんなことがあって、25年経ってここに辿り着けた。
安達)企画の立ち上げからやってきた。日頃は朝ドラを担当することが多い。久しぶりにこういう題材のドラマを作ることができた。
堀之内)役割分担としては、京田さん、もじりさんは安さんの取材から携わり、ドラマづくりを進めてきた。河村さんは安さんにずっと関わってきた。自分はドラマの方を作っていく立場で、今日は進行役。

河村)このドラマは実話を基にしている。安さんは1960年生まれ、平成3年に結婚、平成7年に被災。神戸大学で中井久夫さんと出会った。震災が起こってから病院でずっと治療に当たってきた。震災前から面識があり、震災直後から産経新聞で「被災地のカルテ」という連載を書いてもらい、毎日というわけではなかったが、1年ずっと続けてもらった。
 阪神淡路大震災直後から心のケアだとか、PTSDだとかが言われ始めた。安さんは震災前からそのことに取り組んでいて、震災後、ずっと人と関わり続けていた。安さんの仕事は心のケアの宝物になっている。
 平成12年に病院を移り、3人めの子どもが奥さんのお腹にいるとわかった直後に肝細胞ガンと診断された。安さんは代替医療を続けながら家族と過ごすことを選択し、赤ちゃんの名を考えた。11月、次女が誕生、その二日後に亡くなった。今では震災下の精神医学のパイオニアで、東日本大震災でも参照されている。このドラマは抱きしめたくなるような優しいドラマで、それが作り手の思いだと思った。ドラマを見ながら優しい時間を過ごさせてもらったら、と思う。
堀之内)ドラマで新聞記者の「谷村さん」として登場しているのが実は河村さん。ここで、番組の紹介として2分間PRを。
河村)本当に優しい優しいドラマ。冒頭シーンで安さんを光で包むシーンが温かで優しい。見終わって優しく癒される。
堀之内)ドラマを作ろうという最初のきっかけは。
京田)実家が被災して、避難所生活をした。2010年に神戸の震災をテーマにした『その街のこども』を取ったことが1つ目のキッカケ。2011年に東日本大震災があり、その間も阪神淡路大震災のボランティアの取材などを続けていた。その時安さんの増補本が出て、安さんのしていたことから亡くなるまでの日々や、いかに人に寄り添うのかということを取材した。奥さんの末美さんの話も聞いた。そこにはドキュメンタリーでは収まりきれない大きさ、面白さ、かっこよさがあった。また、在日のことも絶対避けては通れないとも思った。2011年では結実せず、その後安達さんに持っていった。これは一種の賭けだったが、その賭けに勝った。
安達)安さんの本を読みふけった。自分は京都にいて、神戸とは微妙な距離感があり、震災のことは語るべきではないと思っていた。でも、これはちゃんと今伝えていかなくてはならないことだと感じた。京田さんにメモを見せてもらい、70数分のスペシャルドラマ、と考え始めた。そんな中、安さんの豊かな人間性を聞いた。皆が口を揃えて、心のケアという尊い仕事をしていたけれど、聖人君子にだけは描いてくれるな、と言った。一人の人間の人生を描いた方が豊かになると思い、連ドラの企画を三年出し続けて実現した。ドラマというものは、事実には乗っかるが、フィクションになってしまう。しかし安さんが考えていたこと、願っていたことだけは見た人に間違いなく伝わるようにしたい。
堀之内)台本のための取材ということで河村さんにも話を聞いた。そのときどう思われましたか?
河村)戸惑ったけれど、精神医療のパイオニアであるという仕事は知ってほしかった。ただお子さんが生まれてからすぐに亡くなったということもあり、変にドラマチックなものにならないか?と思った。京田さん、安達さん、もう一人女性の橋本さんという人に会い、安さんのことを伝えた。その時にこの人たちなら真心ある仕事をしてくれる、と思った。実は、安さんのことを語っていたら涙が止まらなくなってしまい、ちょっと席を外して、部屋に戻ったら安達さんが目を真っ赤にしていた。橋本さんを見たら彼女も目が真っ赤だった。それを見て、この人たちは興味本位のものには絶対しないだろうと思った。
京田)2011年が最初の企画で、末美さんのところへ話をしに行った。安さんの本を読んで世に伝えたいと思う人が来た、ということは、安さんが呼び寄せたと思ってくれるだろう、と感じた。2018年に今回の企画ができて、末美さんに連絡しようとしたら通じず、不安に思っていた。そうしたらガラケーがスマホになっただけだった。安さんの中学からの友人である、精神科医の名越康文さんから弟さんに連絡してもらった。京田さん、安達さんも交えて話をした。2018年4月に末美さんに改めて説明した。末美さんの話は楽しいことばかりで、安さんと出会ってから結婚するまでの話が中心だった。すごいラブストーリーで、末美さんは克昌さんのことを世界一と思っていた。それを娘さんたちにも伝え続けたので、娘さんたちも理想の男性は父と思っている。ドラマとして頑張れると思ったのは、震災後に家族とのしっかりした時間があったと知ったこと。エピソードをそのまま書いたら脚本家がいらないと思うくらいだった。
安達)家族以外で言うと、名越康文さんに会い、中学、高校のやんちゃな話や、ピアノを一日10時間くらい引いていた頃の話も聞いた。中井久夫の門下生の皆さんにも会って、1980年代の青春というエピソード、人間臭いエピソードをたくさん聞いた。実際に安さんには会うことはできなかったが、本当に会ってみたいと思わされた。柄本佑さんと一緒に、安さんの半生を3カ月で実感した。
堀之内)柄本さんについては。
安達)佑さんを見て、なんて似てるんだ、と皆言っていた。安さんが乗り移ったような感じで、3カ月いてくれた。現場にいた娘さんたちにも、佑さんがお父さんのように見えたと思う。若くして亡くなった安さんのことが、時間をかけてかさぶたのようになったところをひっぺがしたような気もしていたが、せっかく取りかかる以上、新しい姿も見せたかった。克昌さんを通して色んなものをもらった。
京田)映像が浮かぶような話をたくさんしてもらった。聞きに行って話をすることで、皆が心の傷を癒していくようだった。安さんとの楽しい時間を思い出すことができた、という感想ももらった。ドラマを作りながら大切に思っていたのは、家族、関係者にとって本当に大切な贈り物になるようなドラマになるということ。今贈り物、と言ってしまったが、これはもじりさんがキャスト、スタッフ全員を前にして言った言葉。
安達)庵さんのことを少し覚えている娘さん、辛うじて覚えている息子さん、全く覚えていない末の娘さんに対する贈り物にしたい、と言った。このブレない思いがあれば、結果としていいものになるのでは、と思っていた。
堀之内)その思いを柄本さんも汲んでくれた。今回、キャスティングがよかった、という声をたくさんもらっているが、なぜ佑さんだったのか。
安達)小学生の頃から佑を知っていた割に、一度も仕事をしていなかったので。一昨年の段階からお声がけをしていた。直感で似てるなあと思ったのと、絶妙な表現を、きっと彼ならしてくれると思った。
堀之内)実際向き合ってみてどうですか。
安達)何もいうことはない。色んな人から安さんが猫背だったと聞いていたので、真似る必要はないが、猫背は守ってほしいと言った。すると人柄が丸くなった。あと、当時のにおいを出すメガネだけはと言ったが、1995年あたりのメガネを探すのは難しかった。最後は佑さん自身が眼鏡屋さんに走って見つけてきた。真摯に役に向き合う人、と感じた。
堀之内)佑さんは役への理解が深い。安さんのことを、100人の人がいて、99人があっちに行こう、と行ってしまった時に、残った一人を見守る人、と行っていた。一人一人を大切にする人、という理解をしていた。
京田)95年の神戸で、寄り添うという言葉がないときに「最後の一人まで救う」という言葉ができた。それを佑さんが自分の中で考えて表現したことがすごいとおもった。安さんは映画監督にでもなれば、というような人でもあったが、そういうところもダブってきた。
堀之内)佑さんのピアノはこの作品のために練習した。レッスンの先生も驚くくらい上達も早かった。
河村)私は実在の人物を知っているので、遠目に見た瞬間に涙が滲んできてしまった。人柄が再現されていると思った。声の調子、猫背、実際の性格、優しくてはにかみ屋のところまで再現していた。父親に精神科医になると打ち明けるシーンなど、正面から父に刃向かうのではないが、反論はきちんとするところなど、実際の安さんもそうだったのでは、と思わせた。
堀之内)神戸の30カ所以上で撮影した。告白シーンは元町、プロポーズはハーブ園。実際に撮影して印象深いシーンは?
安達)神戸で生きた人なので、神戸で撮りたかった。ロケ場所を選ぶ時は、見栄えがいい場所を探すのが普通だが、今回はあえてそうせず、ゆかりの場所、安さんが歩いたんだろうと思わせる場所を選んで撮った。神戸の人が見てあそこや、あそこや、と思ってくれたら、と思っていた。どこにでもある街、自分の住んでいる街、と感じてもらえそうなところを撮った。最終回のラストにとっておきの神戸を撮影しているので、そこを待っている。
京田)授業のシーンは神戸大学の立派な講義室を使わせてもらった。ロケには中居ひさを先生も来られた。中居さんと末美さんの再開も実現した。これも神戸のおかげ、と思う。
堀之内)廃校になった雲雀丘小学校を使ったシーンでは、300人のエキストラに来てもらった。避難してきたような気持ちで私物を持ってきてもらった。貼り紙の感じ、舞台にも人が寝ていたことなどを教えてもらいながら撮った。

質疑応答:
1)安さんの連載で印象深い言葉は?
河村)被災者の苦しい声を安先生は書き留めていた。助けて、という声を後にして逃げた思いに苦しめられて安さんの元に来た人の話があった。今でいうサバイバーズギルトで、安さんは知識ももちろんあったけれど、実際の患者さんの声を聞いて模索して、傾聴するしかない、と言っていた。そういうことを易しい言葉で書いている。亡くなった人の話をする時は、安さん自身も生き残ってしまった苦しみを感じていた。
2)韓国人の友人がいて、電車の中で心筋梗塞で亡くなった。韓国と日本の取り持ちをしたいと言っていた。安さんは日本と韓国についてどう思っていたのか、覚えていたら教えてほしい。
河村)自身の二日後に連載を頼んだ。その時「連載の終わりに在日の思いを全部書きたい」と言った。でも最終回に書いていなかった。その時に、書かなくていいのかと訊いたらいい、と答えた。その時安さんはうっすら涙を浮かべていた。自分のトラウマより人のトラウマに優しくなっていたと思う。安さんは声高な主張をするのではなく、一緒に寄り添うという生き方を示した。こういう生き方こそが架け橋になったと思っている。
3)次は韓国でも放送する、というのが供養になるのでは?
堀之内)NHKインターナショナルでも放映されている。KBSで改めて放送することができるかどうかはこれから。「傷つき」に優しい社会、ということを安さんは著書で書いている。このドラマもそれに協力したい。

第2話以降の見どころ:
堀之内)1話では震災をあえて描かず、小さな幸せを抱きしめる時間を描いた。2話には震災シーンがある。一番気をつけていたのは、テレビを消したくなるようにならないような配慮、優しさ、ということ。

最後に一言:
安達)安さんの本を多くの人に読んでもらいたい、という思いでドラマを作った。一回こっきりの25年のブームで終わるものではなく、本当に大事な話だと思っている。
京田)ドラマ、ドキュメンタリーに限らず、自分の作るものは子供と思っている。完成した時は産声を上げた状態。皆さんのお力で大きく育ててくださればと思っている。なかなかいい子に育ちそうだと思うが、気を抜いてはいけない。在日の話は絶対にやりましょう、それでいいですか、と脚本の桑原さんにも伝えた。
河村)尊敬できる作品、尊敬できる仕事だと思った。見るのが辛いという思いもあるが、見る。辛くてもどこかで癒してくれる作品になっていると思う。

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