寄付者の声をご紹介いたします。
寄付者インタビュー(役職等はインタビュー当時のものです)
学習院の国際化は、波多野前院長がいち早く提唱されてきたとおり、教育改革における重要課題のひとつです。そもそも学習院は国際化にふさわしい学校といえます。その成り立ちや歴史、教育方針、今後の進むべき方向性などからしても、日本のどの学校よりも、諸外国に説明しやすく理解されやすい、広く海外にアピールできる特長と優位性が備わっているものと私は考えます。
国際化を推進するには、語学力は当然として、人間をつくる、すなわち人として基礎的な考え方を仕込んでいくような教育が必要です。そうした素養はディスカッションで培われます。講義を聴いてノートを取るだけの授業形態は見直すべきでしょう。国際化という教育改革にあっては、学校を運営する側も汗をかかなければいけないし、卒業生をはじめとする学習院を愛する皆さんの持続的な支援もまた欠かせません。
私が創設したアメリカンフットボール部は、2013年に創部60周年を迎え、その節目を前にした2012年、一部昇格を果たしました。このことは、スポーツ推薦枠のない学習院が、激しい団体競技において、品格あるおおらかさと同時に、タフであることも示せた点で大きな意味があると思っています。創部当時、部員が二人しかいないときもあり、何度やめようと思ったか知れません。部を創ってよかった、やめずに続けてよかった。後の事業においても続けることの価値を教えてくれたのが部活でした。そしてよくぞ半世紀以上もつないでくれたと感慨もひとしおです。学習院での思い出は尽きません。今でも門をくぐると、なんとなく胸がジーンと熱くなります。わが母校を、学生時代の友を敬愛する。学習院が好きだという理屈を超えた気持ちの結束こそ、連綿と続く校風なのではないでしょうか。その絆は寄付という無償の行為によって、さらに深まります。
経済を実地に勉強したいと考えて銀行に入行。 1972年当時、すでに国際化の時代と声高に叫ばれ、銀行の留学制度の試験に気迫で通り、アメリカへ。以降、私の海外勤務歴が始まりました。グローバル化の重要性はさらに加速度を増しています。海外とのエクスポージャー(exposure)なしにこれからの日本の将来はないでしょう。 当然、国際社会科学部の新設は大賛成。ここで学ぶ人材にまず言いたいことは「言葉を磨け」です。手段として英語ができないとスタートラインにも立てません。ネイティブにはどうしたって勝てないですから訛りがあってもいい。達意の英語を雄弁に駆使できるまで徹底的に身につけて欲しいと思います。
そのためにも、この新学部の教育成果が完遂できるよう、我々卒業生をはじめ、学習院を愛する同志が惜しみない支援を忘れてはなりません。こと寄付に関しては、留学先だった大学院からは依頼が毎学期ごとにやってきます。寄付文化がまるで違うと言われてしまえばそれまでですが、もうひとつの母校である一橋大学も募金には熱心です。緑豊かな目白キャンパスで学び鍛えられ、錚々たる生涯の友と出会い、享受した様々な恩恵を思い返すたびに、後輩たちを応援したいという強い気持ちがあらためて湧きあがってきます。学習院の卒業生たちが次々と世界の舞台に出て行き大いに活躍してくれることを、心から願わずにはいられません。
「ー人でも多く、世界に通用する人材を育てる。
後輩のために、私にも何かできることがあれば。」
マイペースな私は、暗記する勉強に馴染めず、学生時代はゼミも取らぬまま、成績はオール可を狙った省エネ低空飛行作戦を実行。それでも英語は基礎からきちんと学んでいましたので、成績は優でした。他にも優と良がいくつかあった気がします(笑)。英語研究部の小屋みたいな部室がくつろぎの場で、放課後、よくギターを弾いていましたね。西門や正門、そして豊かな目自の緑が懐かしく、時を経てキャンパスに立つと胸にグッと迫るものがあります。
2016年には新学部が開設されるそうですが、学習院がますます充実し、優秀な学生が日本と世界のために多く輩出されることを期待します。とくに英語圏、アングロサクソンの社会で活躍するうえで知らなければいけない文化や規範、さらには英会話ではない「ビジネスで通用する英語」を教えてほしいですね。そのためにお役に立てることがあれば、支援やアドバイスなど、できる限りの協力を惜しみません。
「今、こうして海外で仕事が続けられるのは、学習院事業というパスポートがあったおかげ。」
香港への転勤からスタートし、さまざまな出会いと経験を積み重ね、38年間、海外で仕事を続けられた。そもそものきっかけは、学習院大学経済学部卒業という一枚の証書(資格)があってのこと。その意味では学習院に大変感謝しています。
在学中は裕福でなく、学校への寄付も叶わず、申し訳ないなあ、いずれ返さなければ…とずっと思っていました。学習院サポーターズ倶楽部に入会し、寄付もさせていただきました。また、卒業生が母校に寄付を行っている欧米の習慣に倣い、私もいずれお迎えが来た時に、少しですが資産の一部を学習院へ寄付するよう、遺言も作ってあります。
ロンドン桜友会には15年前に入会し、帰国する先任者の指名を受け、10年前から会長を務めています。年一回の会合で参加者と楽しい時聞を共に過ごしますが、皆さん、慎み深く、あえて口には出さないものの、学習院への変わらぬ愛情や想いがひしひしと伝わり、いつもうれしく思っています。
大学に進学したら、自立しようと決めていました。自分で働いた分と奨学金で授業料も生活費も賄って…。だから、4年生になるまでほとんど遊んだことがありません。住込みでの牛乳配達に始まり、夜間の血液検査のアルバイト、家庭教師などもやりました。入学してすぐに知り合った学友に影響され、 一日一冊、本を読むようになって、大学と図書館とアルバイトを巡るような学生生活でしたけれど、 それなりに充実していましたね。楽しい経験もいろいろありました。
私の寄付など取るに足りない話なので、取材は辞退させていただくはずでしたが、お断りしきれず、お恥ずかしい限りです(笑)。学習院でもそうでしたが、これまでいろいろな出会いがあり、いい刺激をたくさんもらってきました。
進学したい、頑張りたい、 そういう若者がいるなら、何かしら貢献したい、少しでも思返ししたい、というささやかな気持ちです。たいしたことはできませんが、世の中には応援している人たちがいるとわかってもらえるだけでも彼らのやる気が出ると思います。私自身も奨学金があったからこそ、今の自分があります。それがなかったら人生が変わっていたでしょう。この春に定年退職を迎えましたが、やれるうちにやっておこうとの想いで、毎年定期的に届く募金案内を見て支援を続けてきました。
晴れた朝は正門を通るのがよろしい。向かいの小学校からは遊ぶ子供の声が聞こえる。駅前で昼食用のパンなど仕込めば、信号待ちも余裕だ。正門からの林間の小道はいつも閑静でなんとも気持ちが良い。木々の手入れは完壁で、派手な門や、威圧的な建物がないのもうれしい。北京や上海から帰ってくると心からno place like home!と叫びたくなる。
こんな理想的な環境をただで使わせてもらってよろしいものか?我が家の財政部長の見解は明確である。曰く、「お世話になった人には御礼をすべし」聞けば、利に聡い私立大学のなかには役職に応じた寄付を半ば義務化しているところもあるという。確かに大学からは実にタイミング良く、立派な寄付依頼の封書が届く。
しかし、ルネサンス期の哲学者が喝破したごとく、人は良いことをし続けるにはあまりにも忘れっぽいのである。今回、物忘れでは人後に落ちない小生はサポーターズ倶楽部に入ることにした。これで小生は家庭での財政部長からの非難のまなざし、大学からの無言の圧力から当分の間自由である。自由はタダではないが、素晴らしい。
学習院の卒業生が全国に10万人以上を数える中、サポーターズ倶楽部の会員はまだ1%程度と聞いています。経済学部同窓会としては率先して入会し、各団体・個人にも広く加入を促す機運を高め、母校支援を呼びかけたい想いがありました。経済学部同窓会名誉会長でもある内藤政武学習院長の発案が今に受け継がれ、2013(平成25)年度の総会にて入会が承認されました。
我々の合言葉は「団結と絆」。若手を中心とした「平成会」の取り組みも活発です。その勢いのもと、学部・職域・地域といった各桜友会支部を通じて学習院の活性化につながる活動を、模索し続けています。
長男が学習院大学に入学し、とても活き活きと通学しています。おっとりした性格の本人に校風が合っているようでうれしい限りです。入学前と入学後に私もキャンパスを訪ねてみましたが、都心の一等地にあれだけの自然があることに驚き、また、長男との会話から、教授陣の素晴らしさ、教授と学生の距離の近さにとても感心しました。(香様談)
父母保証人会で先生方の温かい対応に感激し、なにかせずにはおれない気持ちになりました。息子たちの教育環境をよりよくと思うのはすべての母親の想いですが、まとまった金額を1回でとなると考えてしまう、というのが正直なところです。サポーターズ倶楽部を知り、「これならできる!」と嬉しくなりました。半年に1回、家族4人の外食を我慢したつもりで、感謝の気持ちを支援に代えております。(一美様談)
学習院在学中から、「一生働きたい」、「責任ある仕事をしたい」、「心理学を生かしたい」と考え、国家公務員をめざしました。現在は外務省国際連合日本政府代表部(在ニューヨーク)にて働いています。今の私の心身の骨格を作ってくれたのは学習院です。特に初等科では話し合いや発表の授業が多く、自分の意見を人前で話すことを徹底的に鍛えられました。仕事での講演やスピーチ、世界各国の外交官とのタフな議論・交渉にも物怖じせず臨めるのはそのおかげです。
海外から日本を見ると、「日本の学生はなぜもっと積極的に世界に飛び出さないのだろう、機会はいくらでもあるのに」と常に感じます。英語は単なる手段ではなく、世界に羽ばたくための魔法のツールです。外国語を学ぶこととは、その言葉につながる文化や背景、考え方、つまり国際的センスを習得することです。新学部の開設は、学習院から世界に羽ばたく数多くの人材の輩出につながるはず、と期待しています。
寄付文化が根付いている欧米社会に暮らしてみて、自分が学生だったときの恵まれた教育環境は卒業生などからの寄付に支えられていたと気づきました。学習院の卒業生であることは私の誇り、喜んでできる恩返しをしたいと思います。学習院の卒業生としてのプライドを持ち、世界中で活躍する方が増えるよう、心からのエールをお送りします。
夫の仕事の関係で、福島県内を転々と異動しましたが、17年前に福島市内に定住を決め、家を建てました。すぐ近くに福島大学があり、楽しそうな学生さんたちを毎日眺めては元気をもらい、自分が学生だった頃をよく思い出します。二年間在籍した馬術部の方々、同じ学科の友や先生方はどうなさっていらっしゃるかしらと想いを馳せ、学習院での日々をいつも懐かしんでおりました。
そんな折、年金をいただける年齢となり、その一部を母校への恩返しになればと寄付を始めました。
年金は個人名義の口座に入るものですから、ずっと専業主婦だった私にとって、自分で使い道を選べるのがうれしく、喜んで応援しています。
景気が長く低迷する中、経済的な事情によって、進学や勉学の機会を失っている若い方が増えていると聞き、またそれは学習院でも例外ではないとも知り、無理のない微々たる金額ですが、塵も積もれば…という気持ちでお手伝いしています。
東日本大震災に遭い、涙が止まらない大変な時期もありました。でも、泣いてばかりもいられません。前向きになるためにも、震災とは切り離して、学習院への寄付を継続してきました。平凡な主婦のささやかな事例ですが、全国には同じような想いを抱く卒業生は少なくないと思います。
課外活動は、スポーツ・文化、団体・個人を問わず、授業では得られない多くの収穫を与えてくれます。厳しさ、苦しさ、挫折など全部含めて受け入れ、楽しみながら継続しつつ、謙虚に、より高みをめざし、ひとつの生きがいとすることそのものにも価値があると思います。また、縦と横の人間関係を通じて得た、さまざまな体験は、教室での勉学以上に余りあるものが身につき、その関係は生涯にわたって続く財産となります。
私は初等科から大学まで剣道部に在籍し、卒業後も毎年恒例の寒稽古に参加しています。2014年には、47回目の皆勤となりましたが、それは良き先輩や仲間がいて自分を奮い立たせてくれたからに他なりません。
そうした意義ある課外活動に対して、学習院父母会では、施設や設備・備品などの助成をはじめ、優秀な成績を残した団体・個人への褒賞など、物心両面での惜しみない支援を行なっています。
自身が所属した部に直接的な支援を差し伸べる卒業生が多いことは当然ですが、その一方で、全国に、そして世界に学習院の名を知らしめる逸材を輩出すべく、学習院の課外活動全体に広くあまねくご支援をいただくことが重要かと存じます。もっともっと応援すれば、そんな人材も必ず育つ環境が学習院にはあると私は信じています。
フランス文学科に入学し、二年目から国文学科へ転科しましたので、取らなければいけない専門単位が多く、また、課外活動やアルバイト、お花の稽古などもしておりましたから、在学中はとにかく忙しい毎日でした。そんな私を癒し、力強いエネルギーをくれたのが目白キャンパスの豊かな自然です。
とくに図書館周辺が美しく、紅葉の時季には銀杏の道が金色の絨毯になり、まるで時が止まったようでした。四季折々にさまざまな草木を心穏やかに楽しく愛でられる環境は、まさに学習院ならではの伝統とおおらかさを際立たせていると感じます。
物言わぬ植物ですが、その命ある自然が人に与える影響や恩恵は計り知れません。私自身がいただいた感動やインスピレーション、励ましや気づきをぜひそのまま次の世代に伝えられるように目白の自然を残したいという想いで、心ばかりですが、緑化関連事業を応援しております。
今時はどこの学校も立派な校舎になっていますが、都心の一等地にこれほどの自然を有している学校は、そうありません。長い人生の多感な一時期に、この自然環境の中で、素晴らしい人と出会い、同じ時間と空間を共有できるのはとても幸福なことです。私にとってもここが原点です。卒業後の歳月を経る度に想いをさらに強くしています。
在学中、私は大学と日本育英会の2つの奨学金の給付を受けていました。そのことを最近になって講演で話したり、近著に書いたりしたら、同級生や先輩などにひどく驚かれました。そうとは気づかなかった、わからなかったし、知って意外だよと(笑)。
家が経済的に困窮していたわけではなく、なるべく親に迷惑や負担をかけずに自活したい。裕福でなくても社会で堂々と自立して生きていきたいという想いがあってのことでした。それは警察官で北海道各地の署長も務めた父の教えでもありました。仕送りは最小限にとどめ、奨学金とアルバイトの収入があったおかげで、学生生活を明るく楽しく前向きに送ることができました。孤立したり卑屈になったりすることなく、部活、勉強、アルバイトと何事にも一生懸命に取り組んだ4年間だったような気がします。
大学入学当時は、ちょうど東大紛争や日米安保反対などがあった激動の時代。経済的な理由で進学できない者、地方から上京した苦学生、挫折し中退する者、学生運動に走るものなどがたくさんいました。一番優秀だった私の長兄も弟二人を進学させるために自ら大学進学を断念しています。
そうした事情を乗り越えられる制度として今も昔も奨学金があり、本当に必要な若者に広く給付され、志をもって勉強し社会に出て役立つ人間になってくれたらと願わずにいられません。
自己を振り返ると、それで大変助かったし、励みにもなったし、いい人たちに出会えて、とても感謝しています。多少の余裕ができた年齢となった今は率先して貢献したいと思っています。学習院の素晴らしい環境や伝統を次の世代にバトンタッチしていくのは卒業生の務めです。厳しい経済情勢の今だからこそ惜しみなく応援しようではありませんか。
初等科から高等科まで学習院に学び、大学は開業医を継ぐべく東京医科大学に進学。剣道は祖父の言いつけで初等科から始め、大学卒業まで続けました。練習がとにかくイヤで、中等科に入ったらやめよう、高等科に入ったらやめよう、大学に入ったらやめようとずっと思いながら、なぜか今もこうして楽しそうに竹刀を握っています(笑)。
剣道部の課外活動は、私にとって青春そのものであり、人としての基礎を作るうえで大切なことを学び、さまざまな肝要を身に着けた積み重ねの日々だったように思います。とくに剣道を通じて得た先輩、同級生、後輩との絆はかけがえのない生涯の財産となっています。剣道はイヤで仕方なかったけど、でも剣道部はすごく好き、ずっと長く続けられた理由はそこに尽きますね(笑)。
剣道に限らず、当然、多くの課外活動においては、勝つために皆、練習に励むわけですが、私個人は、勝敗だけに価値を求める過剰な勝利至上主義は学習院にふさわしくない気がしています。課外活動全般から得るさまざまな経験や教訓、礼儀、思いやりの心、人とのつながりによって、その後の人生を豊かに実り多くすることこそ、課外活動の大事な役割だと信じているからです。
学習院にあっては、体育系文化系を問わず、課外活動における成績優秀者を積極的に褒賞し、のびのびと育成するために、この課外活動助成基金がフルに活用されることを望みます。その継続の中から、世界でも活躍できる逸材を一人でも多く輩出できれば、それが何よりもおおらかで温和な学習院らしい成果だと思います。
石川県在住の私が、6つの指定項目からあえて緑化事業を選んで寄付しているのは「あの杜を永遠に」という愛着の想いからです。上京した際はなるべく時間を作って母校に足を運んでいます。全部が懐かしいし、目白の杜にいるだけで心身が癒されます。いつ立ち寄ってもいいように、自然豊かな杜の大きさにはわずかな金額ですが、母校への入場料のつもりで寄付しています。先輩として無料というわけにはいかんでしょう(笑)。
2012年の秋は2回寄りました。目白駅前のホテルに泊まり、早朝に正門から入って学内を散歩したときのこと。馬場のほうへ行くと、馬術部が練習していました。しばらく見学していたら、女子部員が温かいコーヒーをそっと出してくれました。あれには感激しましたね。私は弁論部でしたが、馬術部に借りができてしまいました(笑)。
2007年に還暦を迎え、自分の人生を振り返り、これまで母校に何も貢献できていないと思い、同級生で大親友の井坂(正富さん・京滋桜友会)を誘って、学習院サポーターズ倶楽部に入会しました。当時は10年コースがあり、70歳で満額に達したら銘板に記名されるから、共に元気で頑張った祝杯を目白であげようと約束しました。
また、2011年の卒業40周年記念同窓会に出席の折には、井坂と二人で初めて、輔仁会館のさくらラウンジを訪れ、血洗いの池を眺めながら、2021年の50周年には何かできる範囲で学校に恩返ししようと誓い合いました。
思えば浪人中、高田馬場の下宿の窓から目白の杜にピラ校(ピラミッド校舎)の先端が見え、あの学校に入ろうと一念発起したことが、今ある私の出発点だった気がしてなりません。
父の勧めにしたがい、学習院中等科に入学。高等科まで学びました。耳鼻咽喉科の自宅開業医だった父の背中を見て育ちましたから、中等科の頃には、なんとなく同じ医師をめざすべく自覚が芽生え、大学は日大医学部に進みました。
学習院在学中は、高校受験がなかったこともあって、中等科ではバスケットボールの部活に専念し、高等科では大学受験に備えながらも、ロック系のバンド活動でベースに熱中する、のびのびとした楽しくおおらかな6年間を過ごしました。
2011年に父が他界し、思ってもいないほどの遺産を受け継ぎました。手続きはすべて税理士さんにお任せしたのですが、相続税分を寄付するという選択もあることを詳しくアドバイスいただき、それならと迷うことなく、学習院と日大医学部、国境なき医師団へ寄付することを決めました。
今、私があるのは2つの母校のおかげです。学習院にあっては、人間形成にとって重要で多感な時期に勉強一辺倒ではない充実した日々を過ごし、良き恩師と友人に恵まれ、思い出も多く、学習院に学んだことを感謝しています。卒業生ではない父が、なぜ、私に学習院を勧めたのか今はわかる気もして、ごく自然な想いで寄付したことを草葉の陰で褒めてくれていると思います。
2002年から毎年、使途を奨学金に指定し、匿名で寄付を続けてきました。だから、このような取り上げ方をされるのは本意ではありません。しかし、少しでも多くの方に参加いただけたらとの想いも手伝って、協力しようと考えました。
教職に就き、20年以上、勤められているのは、やはり、学習院でお世話になったおかげです。大学での教育なしに今の自分はないと思っています。今こうしていられる、今年も健康で教壇に立てている、それを自己確認するために寄付を続けています。名前を出すほどの額でもなく、また、最終的には自分の気持ちの押し付けでもあるから、匿名にしてきました。働いて得た中から幾ばくかを自分なりに寄付したい。そうできる自分であり続けたい。微力ながらも、それで教育が受けられる機会の後押しができればとの単純な想いです。
社会人として仕事をきちんとする、家庭をしっかり守る、社会に貢献する、地域に貢献する、自分の時間をもつ、それらをすべてバランスよく整えてこそ、一人前の社会人だという、ある先生の言葉が、在学中からずっと頭の片隅にあったことも、私を動かした大きな要因のひとつかもしれません。
私自身も奨学金を受け、働きながら、学習院での大学生活を送りましたが、定時制高校で生徒たちと向き合っていると、自分は恵まれていた、甘かったと痛切に感じます。定時制の教員は生徒からいろんなことを教えられます。生徒から学んで成長し、収入も得ています。本人の責任ではなく、経済的事情で教育の継続が難しい状況にある若者に、なるべく還元できたらという切なる願いにも似た気持ちです。
思えば、私の寄付に対する意識は、すでに学習院在学中に種が蒔かれていて、社会で芽吹いたのではないでしょうか。
私共夫婦は史学科の同級生です。史学科は学生の仲が良く、また先輩・後輩との縦のつながりもあり、先生方を中心に親しくお付き合いいただき、そのご縁は今も続いています。
グループで学内を散策したり、目白周辺でお酒を酌み交わしたり、毎年恒例の鎌倉の先生のお宅での新年会やバーベキュー、家族ぐるみのスキーと思い出は尽きません。学習院の恵まれた環境のなかで4年間学び、その後も学習院の思い出とつながり、学習院で学んだことに感謝していました。
ところが、2000年1月、夫が急性膵炎で他界。入院して翌朝の急逝でした。生前から葬儀もお墓も戒名もいらないと言っておりましたので、遺志に従いましたが、それでも何か夫の供養と二人の記念になるようなことをしたいとずっと考えておりました。そんな折、ふと母校を思い出し、一周忌を機に、学習院の美しい自然をいつまでも残してほしいとの想いを、造園緑化のための寄付に託しました。
北海道で生まれ育った夫は渓流釣りや山歩きが好きで自然を愛していましたから、夫の強い思念が私にそうさせたのかもしれません。ほぼ毎年、命日に手続きをし、七回忌には少し増額しながら、早いもので、2012年に十三回忌を迎えました。
春は桜、夏は百日紅、秋は紅葉がとてもきれいで…。図書館辺りのユリノキや目白通り沿いの街路樹、ネームプレートが付いた愛らしい花々、山茶花や椿の花などなど、どれも手入れが行き届き、血洗いの池も公園のようになり、キャンパス全体がいつもきちんと整備されています。都心の広大な敷地の中にこれだけ豊かな緑が残っているのは大変貴重なことです。それは私たちだけでなく、在学生、卒業生ともに全員の共通した学習院への想いではないでしょうか。
通勤の途中、学習院の緑の杜を眺めることは、私にとってはつかの間の安らぎのひとときです。
企業からの現物寄付一例紹介
アジレント・テクノロジーは、電子計測機器、ライフサイエンス・化学分析機器の開発・製造・販売・サポートを世界100カ国以上で展開する世界のプレミア・メジャメント・カンパニーであり、それら事業分野のテクノロジーとマーケットのリーダーでもあります。
その日本法人である私どもは、2011年4月、放射性同位元素の分析研究の第一人者である、学習院大学の村松康行教授(故人)に、放射性物質を含む元素分析装置「Agilent 7700x ICP-MS」の寄贈を申し入れました。この装置は、安定同位体のヨウ素やセシウム、ストロンチウムだけでなく、半減期が長いヨウ素129などを極微量濃度まで正確かつ迅速に測定でき、原発事故により放出された、それら核種の分布や挙動を調査するうえで、当社の製品と技術が有効活用いただけるものと確信し、除染・復興への想いを託した次第です。
震災前から、村松教授には同装置の旧モデルをご利用いただいており、また、並行して、放射性ヨウ素を測定するための分析手法をさらに改良すべく、先生からアドバイスをいただきつつ、当社が開発を進めていたという経緯がありました。事故後、村松先生が、福島県農林水産部から放射性物質の農産物に対する影響に関するアドバイザーに委嘱され、その支援の一環として早速に寄贈を判断いたしました。
また、一方では、アジレント・テクノロジー財団が、震災後24時間以内に10万ドルの寄付を決定。同時に世界中の従業員からの21万ドルの義援金に対し、会社が同額を上乗せし、総額52万ドルの寄付を被災地に対して行っています。このような災害復興支援のほか、当社は技術に立脚したグローバル企業として、科学技術の振興と健全な生活環境への貢献にフォーカスした、さまざまなプログラムを用意し、つねに積極的な社会貢献活動をワールドワイドで取り組んでおります。