1:世界・システム・人間・予期
複雑さについて
社会に関係するような話というのは、何せ取り上げる対象がモノとして存在しているものではありませんので、常に特定の立場や前提にもとづいて話をすることになります。そこで、最初に、この講義全体を通して前提とするいくつかのことについて説明しておくことから話を始めます。
まず、この講義で一番の前提とする考え方として以下の2点を確認しておきます。
- 世界は複雑である
- 人間は複雑である(不透明である)
世界
まず世界についてですが、世界が複雑であるということは、簡単に言えば「世界の全てを理解することはできない」ということです。もう少し厳密に言うと「体験の諸可能性は、顕在化できるよりも、つねに多く存在する」ということで、私たちの体験している世界では、いろいろな物事が存在し、様々な出来事が起きているけど、それは世界が秘めているすべての可能性(有りうるもの、起こりうること)が体験されるわけではないということです。これを言い換えると、「今・ここで私たちが体験している世界は、他でもありあえたのに、たまたま/何かの理由で、こうなっているものである」、「今の私たちにとっての現実は、偶然に、偶発的に、今のようであるに過ぎない」、ということです。
このことは、私たちの体験のあり方という観点から見れば、私たちは世界に関して何らの「選択」が働いた結果を現実として体験している、ということになります。すべてを知覚したり体験したりできないわけですから、私たちが体験したり知覚したりしているのは、世界の限られた範囲のものでしかない。ということは、何かが私たちが体験できることを「限っている」わけです。この「限る」ことを、ここでは広い意味での「選択」としておきます。あれではなく、これが現実として「限られて=選択されて」生じている。
現実は世界の可能性の中からの選択で生じている
とりあえず、世界は、「他でもありえる」ものとして体験しているのだということは押さえておいてください。不確実で不透明な部分をつねにはらんだ、無気味さを秘めたものとしてある。デタラメではないけれど、当たり前と思っていることが絶対に当たり前なのではない。そして、私たちが生きて行くということは、この不透明さ(複雑さ)に、なんらかの形で対処しなければいけないということです。複雑性を消去することはできません。あくまでも「対処」するだけです。
現実は、「他でもありえる/ありえた」ものとしてある
また、複雑であるということは、未来に関していえば、思いがけないこと/思ってもみなかったことが生じうるということです。未来を完全に予測することは不可能であるというこのこと、将来に生じることを確定することはできないということ、このことを不確定性と呼びます。つまり、私たちは、世界の複雑性と不確定性のもとで、それに対処しつつ、生きているということです。
不確定性:未来はおもいがけないことが生じる
システム
世界は複雑で不確定なものだとしても、私たちは、毎日を同じように暮らしている。日々、色々なことが起きても、一人の同じ私として生きている。それが可能なのは、世界の中で同じであり続けるための働きや仕組みがあるからだと考えることができます。この講義では、世界の複雑性と不確定性の中で、「同じ」ものとしてあり続けるものを、システムと呼ぶことにします。世界の中で一つの同じものとして存続しているもの、同一性、アイデンティティをもっているものは、システムです。システムは、同じであり続けるための働きによって、ひとつの「もの」としてあります。
システムという言葉は、いくつかの意味を持っています。一番身近な意味は、色々な部分が集まって一つの全体を成しているもの、というところでしょうか。しかし、この講義では、システムをそのような「もの」の集まりとしては捉えません。変動する環境の中で、同じまとまりを保ち続けているプロセスをシステムとみなします。システムについては、改めて説明しますが、ここでは、自分を絶えず他のものとは区別し続けることによってまとまりを保っているもの、としておきます。
システム=変動する世界の中で、自分を絶えず他のものとは区別し続けることによってまとまりを保っているもの
なお、人間は一つのシステムではありません。身体は生理的なシステムですし、意識はそれとは別のシステムです。脳と神経系も一つのシステムだといえるかもしれません。ですから、人間は複数のシステムが統合されたものだということになります。ただ、この講義では、もっぱら意識(人格)システムとしての人間に焦点をあてて論を進めますので、人間≒システムとして考えてもらってかまいません。
環境
「他でもありえる」可能性の総体が世界であり、我々にとっての「世界」とは、我々の環境のことになります。
環境というのは、あるシステムから捉えられた/関わることのできる世界です。たとえば、音は空気の振動であるわけですが、私たち人間が音として知覚するのは、限られた振動数(周波数)の振動だけです。私たちにとっての音の環境は、世界にあふれている空気の振動のうち、音として知覚でき、音として聞くものです(身体がすでに情報を選択的に知覚するフィルター/防波堤であるということです)。このように、環境とは、あるシステムの側から、自分の外部として捉えられたものです。つまり、環境一般というものはありません。常に、何かの存在(システム)に対しての環境しかないのです。
人間にとっての世界は人間に相関的なものでしかない、と言うこともあります。
環境とは、あるシステムにとっての「世界」(現実)
また、個別のシステムごとに環境は異なることになります。ある人にとっては心地よい音楽が流れている場が、別の人には自分の好きな/嫌いなジャンル/ミュージシャンの音楽が流れている場になり、あるいは流れている音楽の楽譜を思い浮かべることができる場にもなるでしょう。システムの側が、環境として何を見出し区別できるか、何が「分かるか」は、システムに依存するわけです。
環境は、それぞれのシステムが見出すもの(観察するもの)
それぞれのシステムごとに、それぞれの環境がある。ということは、客観的な環境というものはないということになります。こう言ったからといって、物理的なモノの存在を否定するわけではありません。私たちにとって環境、自分たちが生きている環境とは、モノの次元ではなく、それに何らかの制約が加わり、意味づけを行ったものになっており、その次元においては、客観性は成り立たない、ということです。先ほどの音楽の例の場合、空気の振動が聴覚によって音として知覚される範囲は身体的な制約であり、ヒトである限り認識できる範囲は限られています。コウモリが会話している超音波をヒトは聴くことはできません。しかし、この範囲には個人差・時間差があります(歳をとると高音の感度が下がりますし、さらに歳をとると難聴のように聴覚自体が衰えます)。また、ほぼ同じ範囲の振動を音として聞くのは人間だれでも同じですが、それをどのような音、あるいは音楽として聴くか、そこにどのような意味合いを読み取るか、どのような違いを感じるか、それは個々人の趣味や体験に基づいて異なります。そういう意味で、だれもが同じように「体験する」ものではない。そういうことです。また、同じ音を聞いても、小学校の音楽の時間に聴かされたものと、それから年月を経て耳にするものとは、同じ人間であっても違って「聞こえる」。小学校の音楽の時間に聞かさたバッハの音楽を素晴らしい!と感じる人は、たぶん、少ないでしょう(ピアノとか楽器を習ってなければ、バッハなんて何これ?ってのが普通でしょう)。でも、その後、色々な音楽に触れて、色々な経験をしていくなかで、ある日、ふと、ラジオから流れてきたグレン・グールドの演奏するバッハのゴールドベルク変奏曲に体を突き抜かれ、立ち尽くしてしまうようなことがある。それが人間です。この経験による違いは、受けとる方の違い(成長、経験、体験、記憶によって自分が「違ってしまった」こと)によるわけです。このように、環境とは、それに関わるものによって見出されるものであり、そうである以上、だれにとっても同じ=客観的なものにはならないということです。
環境一般や客観的な環境はない
ここで述べている環境の捉え方は、ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの説をふまえたものです。「すべての生物を包括するような、唯一の普遍的かつ絶対的な空間、唯一の普遍的かつ絶対的な時間というものは存在しない」。「……動物の環境が当該の種のみに属する事物によって満ち満ちているということである。したがってミミズの世界には、ミミズ的事物しか存在せず、トンボの世界にもまたトンボ的事物しか存在しない」。(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『動物の環境と内的世界』)
あるシステムにとっての環境は、そのシステムが自分をとりまくものとして見出した/見いだせるものでしかない、ということから、ここでいう環境のことを環世界と呼ぶ人もいますが、この講義では環境と呼ぶことにします。
あるシステムが、そのつど、自分にとっての環境を見出し続ける。システムが存在するとは、その自分と環境をそのつど区別=選択する過程が進行することです。この点については、後でもう少し詳しく見て行きます。
社会
社会とは何かという問に対しては、様々な観点からの答えがありえます。この講義では、社会(全体社会)とは、人間のコミュニケーションの総体という考え方をとります。この点については、講義を進める中で説明していきます。
社会はコミュニケーションの総体
社会(全体としての社会)を一つのシステムとみなすかどうか/みなせるかどうかについては、論者によって立場が異なりますが、この講義では、人間にとっての社会とは、一つのシステムではなく、様々なコミュニケーションの総体として捉えておくことにします。
ここで少し横道にそれますが、現代がどのような社会であるかについて触れておきます。……
政治、経済、科学、教育などが相対的に独立したシステムを形成しており、中心的な統合はない社会。
*この部分は、書きかけです。
現代社会:機能分化した社会
現代社会と人間
現代は機能分化した社会であると述べましたが、それに関連して、現代の人間がおかれている状況についても触れておきます。簡単に言うと、様々な領域が相対的に独立した結果、人間として各領域にどのようにかかわることになるのかが偶然的な要素が強くなってきたということがいえます。分かりやすい話で言うなら、生き方、働き方は、各人それぞれであるということです。生まれなどで自分の関わり方、生き方がすべて必然的に決まってしまうような社会ではない。よく言えば生き方の自由がある社会ということになりますが、その生き方、別の言葉で言うならば広い意味でのキャリアですが、それは必ずしも自分が意図的に選び取ったものだけではないし、自分がなりたかったものでもなく、様々な偶然もはらんだ、出来事の積み重なりでもある。そうした出来事の積み重なりの先にいる今の自分を、ひとりの人間として(大げさに言えば個性をもった人間として)引き受けて生きてゆく、そういう状況におかれているのが現代の人間なのです。
つまり、生き方、キャリアは人それぞれに別々のものである。そして、その自分のキャリアは、自分が引き受け、自分で進めていく(思い通りになるかどうかは別にして)。そういうキャリアの時代と言うこともできるでしょう。
現代の人間:様々な領域と意図的・偶然的に関わる中で自己を保つ存在→個性=キャリア
人間
自由な人間
人間が複雑であるというのは、端的に言うならば、他人のことを100%理解することはありえないということです。他人の意識は不透明であり、コントロール不能である。それは人間が自由を持った存在だからです。
自由とは何かというのは大きな問題ですが、とりあえず、この授業では、人というものが、常に「わけのわからないことをする」可能性を秘めていることを、人が自由を持っているということである、と押さえておきます。人間の持っているわけのわからなさ、不気味さ、先ほどの言葉で言えば不透明さ、それを自由という概念でおさえます。
人間は、自由という複雑さ、不気味さ、不確定さをもっている
自由意思というものをどのように考えるのか?、意思はどこまで自分の意思なのか、意思がどこまで私たちの行動を支配しているのか、こういったことは、行為や責任を考える際には大きな問題なのですが、それについては改めて論じることにします。ただ、私たちは本当に自分の自由意思(他からの影響や誘導や経緯などとは全く無関係な自由な意思)で行動しているのか?という観点から考えると、自由はただ持っているものではなく、ここで述べているように(なんらかの理由や解釈のために)「持たされている」ものだと考えることもできることは覚えておいてください。
人間の自由意思については、それが存在するかどうかも含めて、哲学、認知科学、脳科学など様々な分野で研究、論争があります。最近では、ベンジャミン・リベット博士の実験が大きな反響を呼んでいます。意識的に指を動かそうとした時の脳の状態を測定すると、「脳が運動の指令を出す」のが、「意思で指を動かそうとする」ことの約0.35秒前に発生していたというものです。つまり、意思より先に脳が活動を開始している。これをふまえると自分の意思で行動しているというのは幻想であるということになります。
さて、人はなぜ自由を持っているのか(持っているとされるのか)。それについては、この講義では「人間は狂ったサルである」として理解しておきます。人間の行動は、本能の全面的な支配からは逃れている(あふれてしまっている)。だから、生理的・動物的な次元で行動のすべてが規定されるわけではない。動物的な必然性から「逸脱した」行動をとることができる。このことを「狂った」という言葉で表しておきます。人間は狂っているのに対して、動物は世界に結びつけられている(埋め込まれている)と言ってもよいかもしれません。
たとえば、人間が言語をあやつる能力をもち、言語でコミュニケーションをとることは、生物的な機能として、本能的なものだといえるでしょう。また、鳴き声ではなく言語を発することができるような身体的構造を持っている(そのかわりに餅で窒息死することがあるわけですが)のは動物としてのヒトとして共通の構造です。しかし、具体的にどのような言葉を使うのかという次元では、本能の規定をうけていません。だからこそ、世界中で、同じ人間なのに、多くの異なった言葉が使われているし、また、何より、学習しなければ身に付かないものになっているわけです。
人間以外の哺乳類は、息をしながら食物や水を飲み込める(鼻からの空気の通り道と、口からの食物の通り道が立体交差で交わらないようになっている)のに対して、人間の場合は2つの通り道が交差する(同じところを通る)構造になっているのです。(ただし、生後間もない赤ん坊は他の哺乳類と同じ構造になっており、お乳を飲みながら呼吸できるようになってます)。このような構造になっていることで、食べ物を喉に詰まらせると窒息するわけですが、他方で、喉(喉頭)の広さが、音の増幅装置として働くことで、様々な音を発することができるようになっているわけです。
人間という動物だけが、なぜ言葉を使えるようになったのかということについては、色々な説がありますが、人間のさまざまな言語に使われる音(音素)は、環境の物理的個体の運動音を真似たものになっており(衝突音/摩擦音+共鳴音=子音+母音)、音楽は人間の行動がたてる音を真似たものになっている(ビート=足音、メロディ=近づいたり遠ざかったりするときのドップラー効果によるピッチの変化)という説もあります。生物として生存のために必要な聴覚機能(周囲の変化に気がつく、他者の行動に気づく・気を配る)の特性に合うように、音が言葉や音楽として使われるようになったというわけです(Mark Changizi "Harnessed")。生物の進化は、何か新しい機能/形態がいきなり発生するのではなく、それまでのものが新たな活用・機能を獲得していくという形で進行するものでしょうから、言語もなんらかの動物的機能が進化プロセスを経て発生したのは間違いないでしょう。
また、たとえば浜辺に落ちていた綺麗な貝殻を旅の思い出にとっておく、なんてことを人間はするわけですが、おそらく、動物にとっては貝殻は食べられるか/攻撃されるか等の生存の観点から識別されるものでしかないでしょう。貝殻を食べない(食べれない)動物にとって、貝殻はただのモノでしかありません(モノとにして認識することさえないでしょう)。人間も貝殻は食べないわけですが、それでも「思い出の品」とか「美しいもの、かわいいもの」として、とらえることができる。そのモノの物理的・化学的な存在、あるいは生存のためのリソースとは違うレベルで捉えたモノになる。意味を持つ、と言ってもいいでしょう。貝殻が思い出の品「として」在るように、色々なものを、自分にとっての/人間にとっての関わり方という観点から、「〜として」持ったり使ったりするのは、人間ならではの行動でしょうし、こうしたことも生存本能からはあふれている(切れている)からこそ可能になるわけです。人間は道具を使うという点で動物とは違うともいわれますが、何かを道具「として」使える、石をハンマー「として」使えるのは、様々なモノに「〜として」関わることができるからこそですから、この点でも、本能の縛りからあふれている=狂っていると言ってもよいでしょう。
人間は本能による全面的規定から逃れている
人間はさまざまなものに「〜として」関わることができる
鳥などは鳴き方を学習しないと周囲とのコミュニケーションがうまくとれないということがあるようですので、人間だけが本能から絶対的に逃れているとまで強くは言えないようですが。また、動物でも(人間から見ると)道具を使うものもいますが、人間は同じ道具として色々なものを使うことができるという点(モノと道具の結びつきが緩い)で動物とは違うと言えそうです。
人間の具体的な行動の次元は、本能の規定(命令)によるものだけではない。このことから、人間の行動は、常に「他でもありえたのに」という影を伴ったものとして捉えることができることになります。人間がすることは、「必ず絶対にそうしなければならないもの」ではない。でたらめということではありません(そもそも身体的に可能な行動には制約があるわけですから)。ある行動が確定的・必然的ではない、他にも可能性はある、ということです。このとき、一つ一つの行動は、他にもやりかたがあるのに〜したということ、つまり「他の可能性の中から、これを選んだ」という選択という意味合いを帯びることになります。
必然的ではないが、不可能でもない、ということを偶発的 contingent であると言います。contingent は、複雑性や選択と共に、この後の話の中で色々な場面で出てくる、この授業の重要な概念(観点)の一つです。
人間の行動は常に選択になる(選択として理解されうる)
ここでいう選択は、行動を行った人間の意識や意図とは関係ありません。受け手の観点からの規定です。ですから、言い換えるならば、「人間のやることは、常に、相手(受け手)に選択として受けとられる可能性をもっている」ということです。
このように人間は自由を持った不透明な存在と捉えることができますが、正確にはこの自由は人間に限らず、自律的な行動をするシステム、私たちの身近なもので言えば生物ですが、それが持っている特性として捉え直すことができます。つまり、状況によって決定されない行動(ただしデタラメではない行動)を起こしうる(それゆえに「選択」になる)のは人間に限りません。犬だって、頭をなでるといつもシッポを振るわけではない。環境で起こったことに選択的に対応することができることが自律ということですが、そうしたものは、人間も含めて、ブラックボックスとして捉えられることになります。その「黒さ」を、人間の場合は自由や意思というもので了解しているわけです。
これまで述べてきた複雑さ・不透明さ以外に、もうひとつ、こちらの行動しだいで相手の行動も変わるという複雑さもあります。相互行為の複雑さとは、相手のことがよくわからないことだけでなく、そういう相手が自分の行動/対応次第で行動を変えてくることにあるわけです。お互いに自律的なシステム同士がかかわり合うことになったときに初めて現れてくる複雑さですから、自然界のことが「分からない」ことの複雑さ、あるいは相手のことがただ「分からない」という複雑さとは違うものです。社会的な次元の複雑さと呼んでも良いかもしれませんが、相手が人間の場合に限らず、犬の場合だって、道で野良犬と向かい合うことになった状況でも同じことは言えます。システム同士が「かかわりあう」ことから生じる複雑さです。
システム同士がかかわり合う複雑さも生じる
このように、人間の場合には、それが自律的なシステムであることからくる複雑さと、そうしたシステムとしてかかわり合いをもつことからくる複雑さの2つの複雑さがあるわけです。
人間の行動原則
さらにもう一つ重要な点を述べておきます。この講義では、当然のことながら、人間の行動(行為)を取り上げて論じていくことになるのですが、人間の行動原則についてです。細かなことは、改めて触れていきますが、基本的には、人間はなるべく楽に普通にしていたい存在である、というのがこの講義での人間の行動原則です。何かを欲望し意図し行動するのが人間である、人間は自分の意思に基づいて行動している、というのはある意味で人間行動を論じる時の基本的な考え方かもしれません。しかし、みなさんは、普段の生活の中で、いつも「考えて」「判断して」行動しているでしょうか? むしろ、何も考えずに、そうするもんだという大雑把な感触で行動していませんか? そもそも、何かを考えなければならない、判断しなければならない状況とは、面倒でやっかいで、いつもそんなことやってられるかというものではありませんか? もちろん、楽をしたいというのは、何もしたくないということでありませんし、何も考えたり感じたりしたくないということでありません。また、いつも今楽したいというのではなく、将来に楽になるために今は面倒なことをするといったこともあるでしょう。とりあえず、大雑把な傾向として、日常的に行動する際に、いちいち、すべての選択肢を考慮して、自分にとっての最適なもの、最大に満足できるできるものを選ぶ(経済学でいう効用の最大化)、なんてことを、その都度やってたりはしない、ということです。何も考えずに(悩まずに)済むなら、それに越したことはない、ということです。この講義では、人間の行動原則の大きな一つは、この「楽したい、普通にしたい」(ここでいう普通は、自分にとっての「普通」のことです)ことだとします。面倒はなるべく避けたいぐらいに理解しておいてもらえばいいでしょう。そう考えた方が良いということは、講義の中の色々な箇所で、改めて説明していきます。
認知科学の用語を使うならば、認知負荷をなるべく低くしたい、ということです。
人間の行動原則:楽にしたい、普通にしたい、あたりまえにしたい
予期
原理的に考えれば不確実で不透明な世界なのに、人間がなぜ平気で生きていられるのか。それは、人間には「期待する」という能力があるからです。過去の体験や情報などをもとに、現在や未来について勝手に思い込むこと(想定)、それがここで言う期待です。日本語の「期待」には良いことが起きることを望むという意味合いがありますので、この講義では、過去の体験等をもとに何かを思い込むことを予期という言葉で述べることにします。
思い込むことで複雑さを処理している
思い込み=予期
英語の expectation を予期/期待と訳しますが、英語の expect は「(将来)何かが起こると思う/信じる」という意味の動詞です。この場合の「何か」は良いことも悪いことも含まれます。
今日も明日も昨日までとたいして違わないだろう(だからいつものようにすればいいだろう)と思うといったのが予期です。別の言い方をすれば、慣れるということです。時間のたつうちに、なんとなく分かってくる(分かったつもりになる)。習慣(行動様式だけでなく、ものの見方、感じ方も含めた広い意味での習慣)を身につけることができる。細かな違いや変化を「無視して/見過ごして」、変わらない、同じこと、同じもの(の繰り返し)として感じたり分かることができる。パターンを見出し、類型化してしまう。そこから、色々な物事について、こういうもんだという想定を抱くようになる。そうした想定や思い、考えがここでいう予期です。漠然としたこんなもんだという感じを作っているいろいろなもの、という感じでしょうか。色々な体験や経験の記憶が、そうした「あたりまえさ」を生み出し支えている。私たちは、多かれ少なかれ、こうした予期に支えられて、世の中に「慣れていき」、日々を平穏に過ごせるわけです。
人間(の記憶)は、繰り返しや変わらないものをみつけだし、習慣・予期を抱く
人間の知覚には、バラバラのものであってもそこに規則性や関連性を見出してしまう、無意味なものに意味を見出してしまう、という傾向があります(この知覚作用はアポフェニア apophenia と呼ばれます)。また、視覚や聴覚で、(存在してはいない)よく知っているパターンを思い浮かべるということもあります。笑顔に見える→ (^_^)
記憶というと、コンピュータのメモリやデータベースのように、様々な過去の特定の出来事を覚えていること/思い出せること、と考えるのが普通ですが、人間の記憶は、単に過去を何でもかんでも記録したものではなく、取捨選択を行なって(必要なければ覚えない/忘れてしまって)、残したものを基にして、そのつどの現在によりそって、過去から今に至るつながり感をもとに「当たり前」を生み出し・裏付ける、そういう働きをしているものだと考えることができます。過去の色々な体験が今に活きている、といった発言を耳にしたことがあると思いますが、この「今に活きている」というのが、ここでいう記憶の働きです。記憶とは、必要なときに過去の思い出を取り出しにいく書庫のようなものではなくて、常に今に寄り添いながら、「今」を描きだす背景として働いているものだと考えることができます。このような記憶が支えている種々の「あたりまえ」が、ここでいう予期です。
記憶は今に寄り添いながら種々の「当たり前」=予期を支えている
この予期は、絶対的な真理だとか確実性に基づくものではなく、根本において、勝手にそう思い込んでいるものです(極論すれば妄想)。世界について、無根拠に決めてしまっている。人間の予期の根底には、世界や人間が全くデタラメではないということへの信頼(無根拠の信頼)が潜んでいる。そして、基本的には、そのように思うことでうまく行っているということが、予期を保証する。
予期は、それでうまくいくということだけを根拠にしうる
別の点からみれば、色々なことを「とりあえず気にしなくてよいこと」として意識しないで済むようになること。ある意味で「欺いている」。何かを当たり前だとして導くもの、そうするのが当然だと思わせるもの、それが予期です。思った通りに行かなかった時に、はじめて意識することができるようなものとして、私たちの中にしみ込んでいます。
先ほどの人間の行動原則を思い出してください。いちいち細かなことを気にしたくない、面倒なことを考えたくない、だから「こんなもんだろう」と思い込んで考えないで済むようにする。そして、それでうまくいくなら、考えないで行動できる。こうして予期を抱いて予期によって日々を生きているわけです。思い込んで想定内で生きていくことで、複雑性がもたらす過剰な刺激から身を守っているとも言えます。さまざまな予期による想定内の世界に埋もれて生きている、と言っても良いかもしれません。
そうした予期の中には、非常に具体的なものから抽象的なものまで様々ものがありますし、複数の予期が組合わさっている束のようなものもあるでしょう。こうした様々の予期を支えにして、私達の「当たり前の日々」がなりたっていて、そうした予期に導かれて、私たちは日常の行動を行うわけです。色々な「当たり前」や「そういうものだ」というものに囲まれる中で、「こうすればいい/こうするのが普通」という感覚に誘発されて行動がなされるわけです。だから楽に生きていけるわけです。また、何が「あたりまえ」が分かっているから「あえて」何かをすることもできる。このように、人間の行動は予期に支えられているわけです。
予期が行動を導く
状況や相手に関する大まかな枠組(予期)に導かれて、今、自分が、どうするのがよいのかという選択が行われていく。同じ友人に対する挨拶であっても日によって異なるように、その都度の行動は、その時の状況等さまざまな要因を考慮して決まっていきます。予期の選択(こういう時は〜すればよいと思うことは、選択に他なりません)にもとづいて、個別具体的な行動がその場で選択される、というように、人間は二段階の選択によって日々の行動を営んでいます。
二段階の選択:予期の選択、行動の選択
さて、とりあえず〜だろうと思い込む、そのことによって、さらに多くのことを「分かる」ようになります。世界の複雑さの体験を「思った通りだった」「思っていたのとは違っていた」という図式で整理して受けとめることができるわけです。このように、予期によって、世界の複雑さの問題が、予期の確実さの問題へと変換できること。ここに予期というものの意味があるとも言えます。
勝手に思い込むことが人間の偉大な能力だというのは、変な話かもしれません。妄想や誤解から理性によって真実を見出すのが人間という存在の素晴らしさだといった話とは反対ですから。でも、日々を当たり前に過ごせるということの土台は、妄想できる人間の予期能力が支えているのです。ですから、私たちが生きて行くためには、宇宙や社会のすべての真理など必要ない。日々の行動を導いてくれる予期さえ確保できればよいわけです。とりあえずの手がかりさえつかめたら、そこからなんとかできる。
他人への予期
自然界の出来事に対する予期と、他人に関する予期とは、予期のあり方が異なります。なぜならば、他人(人間)は先ほども述べたように自由を持っています。ですから、状況等が等しくても常に同じように行動するとは限りません。ですから、私たちは、他人というものを、単に「〜する」という具体的行動のレベルではなく、性格だとかキャラクターのような、「その人らしさ」という次元で予期します。時や相手によって色々と行動や言動は異なるかもしれないが、そこに一定のパターンや方向性、一貫性を見いだし、それを相手に結びつけて理解し、予期します。それによって、様々な状況の変化があっても、相手とつきあっていけるようになるわけです。
さて、相手の行動等のパターンや一貫性は、相手がどんな予期に従って行動しているか、相手がどんな予期を持っているか、によって生まれてくるものと考えることができます。ということは、私たちが他人に対して抱く予期(性格とか、らしさとして理解するもの)は、相手の持っている予期に対する予期、ということになります。このように他人に対しては、予期に対する予期というものになっている、そこが単なる予期である自然界に対する予期とは異なります。
別の言い方をするならば、「相手が自分に何を予期(期待)しているか」に関する予期、といってもいいでしょう。相手の「らしさ」とは、相手が自分にどのように振舞い、自分が相手にどのように振る舞うかという、関係(パターン)が凝縮したものだと考えることができます。これが分かって、初めて相手に対して何らかの動作ができることになります。
他人への予期は、予期の予期(→性格、らしさ)である
この他人に対する予期については、後の協働論で、人格という予期として改めてとりあげます。
予期の種類
予期ですが、いくつか分類することができます。まず一つの分類。こちらは予期であることが意識されているかどうかで分けます。
- 消極的予期:意識されることすらない予期。何かを当たり前だとか普通とか思うこと、外れるなんてありえないと思っていること。自明性は、こうした消極的予期が支える
- 積極的予期:たぶん〜だろうと、ある程度予期であること、つまり外れることもあるかもしれないこと、が意識されているもの。
予期は、最初は積極的予期だが、そのうち、消極的予期として意識の中に染み込んで行く(沈み込んでいく)といってもよいでしょう。
もうひとつの予期の分類。こちらは予期が外れたときの対処の仕方で分けます。
- 認知的予期:予期が外れたときに、予期の方が間違っていたと修正したり学習したりするもの
- 規範的予期:予期が外れたときに、外れた事例や人のほうが例外的なもので、予期の修正は行われない
法則だとか法というものは、規範的な予期であるということができます。「規範」という堅い言葉が出てきますが、これは普通に使っている「したがうべきもの」という意味合いではなく、「したがわないモノが<悪い>とできること」というぐらいの意味で受けとってください。自分が思ってたようにならなかったときに、自分が間違っていたと思うのが認知的予期、相手や状況が異常/例外/おかしい/悪いと思うのが規範的予期、ということです。
世界は複雑で不確定的ですから、予期は、外れる(失望)が不可避です。予期が外れるような事態が起こったときに、それにもかかわらずその予期を修正する必要はないとき、また、その判断が他の人たちにも受入れられると思えるとき、その予期は規範的な性格をもつことになります。
行動と行為
わたしたちの普段の行動は、予期に導かれて(支えられて)行われます(行われるとします)。人間の活動を指す言葉としては、行動、行為、振舞いなどいくつかありますが、この講義では、行動=振舞いと行為とを明確に分けて論じていきます。人間の身体的動作の次元が行動・振舞い、それに対する社会的な意味付けされたものが行為とすることにします。たとえば、「お・は・よ・う」と声を出すことは行動、それを朝の挨拶とするのが行為です。実際に挨拶をする際には、色々なやりかたがあるように、行動と行為との間には、一対一の対応は成り立っていません。様々な動作を、同じ行為として意味付けることが可能です。
また、同じ動作が色々な行為として意味付けることも可能です。たとえば、友人が自分の目の前を足早に走り去っていくという行動は、急いでいる行為ともとれますし、自分との会話の拒否ともとれます。行動と行為の間には必然的な結びつきはないとも言えるでしょう。
行動(振舞)と行為は、一対一ではないし、必然的な結合でもない
そして、行為とは、基本的に、他人(社会)が規定するものであるということです。自分の意図とは無関係に、自分の行動が、特定の行為として受けとられ応じられる。それが人間の相互行為です(もちろん、後から意図を説明したり弁解したりすることは可能ですが、行動が受けとられた時点では自分の意図は無関係です)。行為とは、それにどのように応じるのかという行為の連鎖の流れの中に、受け手によって位置づけられたものなのです。その意味で、行為とは、社会的なもの(自分の意のままにはならないもの)だと言うことができます。
行為は他者(社会)に意味づけられるものとしてある
さらに、行動が行為として受けとられるとき、その行為の意図が想定され、それが行為者に割り当てられることになります。ここでいう意図とは、「他のいろいろなことができるはずなのに、(あえて)〜という行動/行為をした」という選択の意図(理由)を指します。つまり、行為とは、自由を持った存在である人間の、選択の結果として読み取られるものだということです。
行為には意図が帰着される
とりあえず、行動(振舞い)と行為は異なる層にあること、行為には意図や選択が付着すること、を押さえておくことにします。
なお、言い方を変えるならば、行為とはコミュニケーション的作用を伴った行動と言ってもよいでしょう。あとで論じますが、コミュニケーションの概念を拡張することで、行為をコミュニケーションに含めることができます。
行為はコミュニケーション(と言っても良い)
2:コミュニケーション論
コミュニケーション≠伝送モデル
この講義のコミュニケーション論の基本的な考え方は、人間のコミュニケーションは単純な情報や意思の伝送ではない、ということにあります。
話し手の人が、思いや意見を言葉という箱に入れて、送り出す。受け手の人は、言葉という箱の中から、送り手の人が入れたものを取り出す。コミュニケーションとはこういう「思い」を送り届けることだと考えるのが普通かもしれません。また、そうした理解で日常生活で困ることはあまりないかもしれません。
しかし、実際に私たちがコミュニケーションを行っている最中のことを考えてみると、私たちは、自分が話したことがうまく伝わったかどうかを、話して聴いてもらったその時点で確認することはできません。他人の意志や精神、心は不透明で、直接に知ることはできないからです。私たちは、自分の発言の後の相手の表情や発言あるいは行動から、伝わったかどうかを推定しています。そして、相手の反応があった時点で、ようやく自分が話した結果が分かる(といっても、あくまで自分が推測するしかないわけですが)わけですから、自分が話すという行動は、その次の相手の行動にまで重なっているとも言える。つまり、実際のコミュニケーションは、一回ずつの行動が繋がっていくというよりは、前後の行動の繋がりの中で、話す−伝わった?がズレるようにかぶさっているとも言えます。このように、具体的な状況を考えてみても、単純に何かを手渡すかのように進行しているわけではない。そこで、私たちのコミュニケーションの具体的な状況や仕組みを、改めてみていくことにします。
通常、コミュニケーションが話題になる時には、送り手(話し手)の方に焦点が当てられます。自分が伝えたいことを、相手にわかるように、いかに話すか、といった具合に。就活でコミュニケーション能力が問われるといった場合も、送り手としてのコミュニケーション技法が中心でしょう。しかし、当たり前のことですが、コミュニケーションは一人ではできません。送り手と受け手の二者がいて初めてコミュニケーションが成り立ちます。聞いてくれる人がいる、受け止めてくれる人がいる、そのとき初めてコミュニケーションになるわけです。そこで、むしろ受け手の側に焦点を当ててコミュニケーションについて考えてみることにします。
コミュニケーションで何かが伝わり分かる。このことを否定する人はいないでしょう。そのとき、何が「伝わって」、何が「分かる」のか、それが議論の焦点になります。そこで、まず、私たちが「分かる」というのはどういうことか、その点を考えてみたいと思います。
メッセージが分かること
ひとまず「コミュニケーションとはメッセージを伝えることだ」ということで話を始めます。コミュニケーションのメッセージは、伝える内容、伝え方の2つが組合わさったものです。内容の方を情報、伝え方を伝達行動と呼ぶことにします。何らかの情報を何らかの伝達行動によって表現したものがメッセージとして届く。そして、相手の伝えたいことが分かるとは、情報と伝達行動のそれぞれの意味が分かるということになります。
メッセージ=情報+伝達行動
「分かる」=情報の意味が分かる+伝達行動の意味が分かる
最初に情報が分かる、つまり相手の言うことが分かるということを考えてみます。しばらくは言葉によるコミュニケーションを中心に考えていきましょう。このとき、相手の言葉の意味が分かることが、伝わる、分かる、通じるということです。
情報の意味
言葉の意味
情報の意味、つまり言われたことの意味がわかるということは、その言葉の意味が分かるということだと言えます。言葉の意味が分かるというと、簡単なことのようにも感じますが、なかなか面倒な側面をはらんでいます。まずは、言葉の意味のやっかいさを見てみることにします。
言葉の意味というと、まず思いつくのは、その言葉が何を指しているのかということだと思います。物の名前がそのものを指す言葉の意味、つまり言葉とは何かを指す記号で、その指し示されるものが意味というわけです。チョークという言葉の意味は、授業で黒板に板書するのに使われる白い筆記道具いわゆる白墨ことだというわけです。
ただし、チョーク chalk を辞書で引いてもらうとわかりますが、白墨以外にも石灰岩とか滑り止めの粉という意味もあります。もっとも、炭酸カルシウムがもともとの成分・原料という点では同じなのですが
言葉という記号には意味がありますが、記号が必ず意味をもっているとは限りません。数学の記号の「意味がわからなくて」数学が嫌いになった人もいるかもしれませんが(たとえばXの0乗がなぜ1になるのか)、意味ではなく、記号の体系(規則)がそうする、というのが納得できないとひっかかるわけですね。
(単純な)言葉の意味:その言葉=記号の指し示すもの
チョークのように具体的な一つの(一種類の)モノを指す言葉の場合は、その意味が言葉の指し示すモノであるというは納得しやすいと思います。ただし、「チョーク」という言葉で思い浮かべるもの、まで範囲を広げると、たとえば白い粉、黒板消しとクリーナー、折れてしまうこと、すり減っていくこと、あるいは学校といったように、連想されて思い浮かんでくるものはチョークというモノを中心として広がりを思っています。経験や記憶によってもたらされるものでもありますので、人によって連想されるものは違うでしょうし、歳をとるにつれて変わってくる(チョークに学生時代の懐かしさが重なるとか)ものでもあるでしょう。このように、言葉は、なにがしかの連想も伴っていることも、普段の私たちの言葉の使用においては大切な働きをします。メタファー(比喩)などは、言葉が連想を伴っているからこそ理解出来る(効果がある)と言えるでしょう。
言葉は、意味(記号として差し示すもの)だけではなく、連想も伴っている
言葉の意味はその言葉が指し示しているもの、という理解だけでは十分とは言えないようだというのは、少しは分かってもらえたと思いますが、この点をさらに見ていくために、今度は、「お金(おかね)」を例に考えてみます。
「お金」とは何か? 経済学的な定義については他の授業で習っていると思いますが、ここでは日常生活で「お金」という言葉が使われる場合に即して考えてみることにしますが、通常、お金といえば財布に入っている貨幣や紙幣を思い浮かべると思います。でも、「銀行口座にお金がまだある」というときは、この「お金」は具体的な紙幣が銀行の自分の金庫に残っているということではない。もちろん ATM で引き出せば具体的な紙幣になるわけで、「紙幣的なもの」と言ってもいいかもしれません。でも、銀行振込の場合は、具体的な紙幣などを手にすることなく、端末の操作などによる数値の処理で済んでしまいます。それでも「お金を支払った」ことになりますよね。ということは、「お金」は、具体的なモノとしての貨幣や紙幣だけではなく、「代金の支払いに使えるという働きを持ったもの」という、広がりをもったものということになります。この意味で電子マネーやポイントカードも「お金」ですよね。「お金」という言葉は、具体的なモノではなくて、概念を指し示している。
このように、言葉の指し示すものが、特定の種類のモノだけではなく、働きといった抽象的なこと(概念)が重要になってくると、支払いに使える/使えないといった違いが、その言葉で呼んでいいかどうかを決めてきます。もちろん、境目は明らかとは限らないわけで、たとえばポイントカードは特定の店舗やチェーンでしか支払いに使えないものが多いという点では、お金とは言い難い。でも、ポイントを扱ってるお店ではお金として使える。「お金」という言葉は、具体的なモノにだけ結びついてないので、形や状況(場所)次第でいろいろなものが該当することになるともいえます。その場、そのときに、他のものとの違い(「他のものとは違って、これは支払いに使える」)によって「お金」になる。言葉の意味、言葉がわかるということには、違いとか働きも関係してくるわけです。
言葉が記号として差し示すものには、概念もある。
さらに、「お金」のように、抽象的な、言い方を変えれば指し示すものが曖昧で固定されていない言葉の場合、それが使われる文脈、状況次第で意味(指し示す具体的内容)が変わってくる、状況が意味を決めるという側面が強く現れます。全ての言葉が、それが実際に使われる際には、使われている状況によって、何を指しているのか/意味しているのかが定まるという面があります。言葉の特徴として、この状況次第(状況依存性)というのも重要なものですし、それが時として「分かる」ことの難しさを生み出すこともあります。
言葉の抽象度が上がる(概念を指し示す)ことで、いろいろなモノを指すのに使えるようになり、取り扱いやすくなりますが、このことは、言葉から具体性や個別性が失われてしまうとも言えます。言葉から失われた具体性や個別性は、状況が補完するわけです。
たとえば、「私はお金を持っている」という発言を考えてみます。実際の場面では、「オレ、金持ってるよ」といった発言になるでしょう。さて、この発言の「お金」が意味していることは何か?
幼稚園の子どもが「ぼく,お金持ってるよ」と言った場合:たとえば自分のお金(=好きに使って良い小遣い)を持ってるということかもしれませんが、今持っているということなのか、それとも家に置いてるのか、どちらでも取ることができます。あるいは、親に買い物を頼まれて渡されたお金を今持ってるということかもしれません。
一緒にコンビニに来た友人が「あ、財布を忘れて来た」と言ったときに「おれ、金持ってるよ」と言った場合:この場合は、お金は友人の買い物の代金を立て替えてやれるぐらいの金額のお金を所持している、というのが普通でしょう。ポケットに百円玉が一つ入ってることを告げるために言うというのは、ちょっと考えにくいですよね。
一緒にショッピングセンターに遊びに来た友人と昼飯をどこで食べるか相談しているときに、友人が「モスバーガーは高いからなぁ」と言ったときに「おれ、金持ってるよ」と言った場合:この場合は、モスバーガーを昼食に食べても困らない金額のお金を自分は持っている、というところでしょう(場合によっては、おごってやってもいいよという意図を込めての発言になるかもしれませんが、この点は後ほど触れます)。
このように、「お金」が具体的にどのようなお金を意味するかは、その発言の状況次第でかわってくる、状況によってはじめて決まる、という側面があります。
このように、言葉の意味とは、記号としての言葉がなにを指すのかということ、という単純な図式で考えても、色々と幅があって、焦点ははっきりしてしていたとしても、境界はぼんやりしているものなわけです。
言葉の意味(具体的にどういうものか)は、状況によって具体的に決まるという側面もある(抽象的、一般的、概念的な言葉は特に)
別の言い方をすれば、概念を指す言葉は、「その言葉をどのような場面や発話、文の中で使えるのか、どのように使えるのか」ということが、その言葉の意味だともいえるでしょう。言葉で考えたり表現したりする時に、その言葉をどのように使うか(使えるか)、いってしまえば役割みたいなものが、その言葉の意味というわけです。物理的なモノの言葉の場合、言葉の外との対応に焦点がありますが、概念的な言葉の場合は、私たちの言葉を使う活動、言葉の「内」での使い方のほうへ焦点があるわけです。
概念を指す言葉の意味は、その言葉の使い方であるとも言える。
文章の意味
単語の意味の場合は、上で述べたように、記号としての言葉という観点で、ある程度のことは「分かり」ますが、これが文章(言葉の組み合わせ)になってくると、言葉の組み合わせが生み出す意味や組み合わせの意味というものが「分かる」必要が出てきます。
私たちは、普段、単語だけで会話していることはほとんどありません。たいてい、なんらかの文の形になった言葉をやりとりしていますよね。ですから、言葉の意味が「分かる」という場合、私たちにとっては、言われた文の意味がわかるということだと言えるでしょう。そうなると、言葉の意味が「分かる」とは、その言葉が何かを刺し示す記号であるという側面よりも、ある考え方(概念、想定)を、その言葉を使った人の意図や気持ちといったものをふまえたて「分かる」必要があるという側面が強く出てくることになります。単語がモノを指し示す記号だとすれば、文は思い(考え、想定、概念、記述)(固い言い方では命題)を述べたものだということです。
また、文の意味は、使われている単語の意味を足し合わせたものではありません。それぞれの単語の意味(指し示すもの)とは別に、文の意味が存在します。
文は、使われている単語の意味(の足し合わせ)とは異った、独自の意味=命題・判断(思い、考え、観察などを述べたもの)をもつ
たとえば、仲の良い友達と昼食を食べながら、雑談をしているときに、友人が、「恋愛って自転車だよなぁ」と言ったとしましょう。
「恋愛」と言われてなんのことか分からない人はいないと思います(たぶん)。あるいは「自転車」といわれてどんなものか知らないという人もいないでしょう(たぶん)。このように、単語であれば、たいていは、それが何を指しているかということが分かることが分かることです(単語=記号ですね)。では、「恋愛」も「自転車」も分かっていても、この文章がどういう意味なのか(どういう意味を伝えたい文なのか)、すぐに分かるでしょうか? 友だちが突然言ったら、あなたはすぐに「そうだよねぇ」と言うでしょうか? たぶん、「どういうこと?」と聞き返して、友人が何を言いたいのか分かろうとするはずです。
このとき、何が分かればいいのでしょうか? 大雑把に言えば、1:なぜ自転車なのか? 2:自転車のどの側面を取り上げているのか? 3;恋愛のどの側面を言っているのか? の3点ぐらいが鍵になります。
とりあえず、自転車に焦点をしぼって考えてみても、自転車というモノそのものではなく、自転車にまつわる様々な側面や体験が重要だということはわかると思います。自転車は(話し手にとって、あるいは私たちにとって)どんなものなのか、ということです。たとえば、恋愛の例えになりそうな側面としては、いつも漕がなければ止まってしまう/倒れてしまう、タイヤが2つある、たまにパンクする、上りはきつくて下りは早い、などなど。これらのどれかに話し手の思いの焦点があるかもしれませんし、こうしたいくつかの側面をまとめて恋愛をたとえているのかもしれない。
そして、いずれにせよ、「「なぜ、他の言葉ではなく、その言葉がふさわしいと思ったのか」、「なぜ他のものではなくて、あえて自転車なのか」、「なぜ他の側面ではなくてその点なのか」ということが納得できなければ分かったことにはなりません。つまり、私たちが何かを「分かる」時には、それが何なのか? だけではなく、なぜ他の〜ではなくてそれなのか? という側面も了解できる必要があります。
このように、意味が分かるということには、その言葉や文が選ばれたことで何が選ばれなかったのか(言われなかったのか)ということの理解も伴います。つまり、意味というものは、何が示されているかということと、それ以外の他の側面がある(それが何かははっきりしなくても)ということを同時にもったものだということができます。私たちはこのような意味として身の回りのものごとを理解しているのです。
意味が分かる=他でもなく、なぜ〇〇なのか、が分かる(受け止められる)。
語感の違い
別の例を挙げてみます。いわゆる語感の違いといったものも、文の意味を理解するには重要です。たとえば、次の文を比べてみてください
- 彼は川岸に立っていた
- 彼は川岸に佇んでいた
- 彼は川岸につったっていた
- 彼は川岸に立ち尽くしていた
2〜4も1の文と同じ場面を述べているのはわかると思います。しかし、この文を読む私たちは、2〜4が1とは違う「意味」をまとっていることはわかりますよね。2であれば、たとえば「寂しそうに」を付け足すのが自然と感じられるような、何かしらの思いを抱いて立っている感じでしょうか。3の場合は、「ボケっと」を足せるような、たたモノのように立っていたという感じで、そんなことしてる場合じゃないのに、といった感じですかね。4だと、「呆然と」を足すのが普通のような、なにか衝撃や強い感情にとらわれて動けないといった感じでしょう。もちろん、人によって感じることの違い、語感の違いは当然あります。まして、上の例は前後の文脈(事情)がない文ですから、「正解」はもちろんありません。しかし、違いは感じられると思います。
この違い、いわゆる語感の違いは、先ほどの言い方をすれば、「立っている」ということを述べるのにはいくつかの表現(この場合は述語)が使えるが、あえて他でもなくその言い方をした、そのことをどう読むかということでしょう。この場合も、「分かる」には、他でもなくこれであることが「分かる」こと、が絡んでいると言えます。
私たちが、ふさわしい言葉を選ぼうとして四苦八苦する時、こうした語感や連想も含めた、ある種の塊としての言葉の意味に向き合っていると言えるでしょう(もっとも、普段は、何も考えずに言葉を使っていることの方が多いわけですが)。
詩的表現
このような言葉の組み合わせの妙、あるいは語感の違いといったものが際立つのが、日常的な言葉遣いであれば比喩なんかでしょうし、もう少し際立つものとしては詩や俳句でしょう。その言葉が、他の言葉と組み合わされて、そこに置かれている(書かれている)こと、それを味合うのが詩を味わう(楽しむ)ことの一面であることは間違いないでしょう。
たとえば、次の文:
研ぎ澄まされたカタツムリが、闇をゆっくりと切り裂いて、洗い立ての朝が染み出してくる
場面としては、雨上がりの夜明けにカタツムリが動いてるのを見た、ということになりますが、「カタツムリ」を「研ぎ澄まされた」で形容することは、日常的な言葉遣いとしては、まずありえないでしょう。この文を、詩的に表現してみた文として読むならば、雨に濡れて朝日を浴びて光を金属のように反射しているカタツムリの細長い体を刃物に結びつけて(→「切り裂く」「(切れ目から)染み出す」と呼応)、あえて組み合わせること(つなげること)で、情景を描こうとしたものと読めます。
俳句の場合は、もっと切り詰められて、言葉の選択と組み合わせ(どちらにも「他でもなく」が強くかかわってきます)が意味(詩や俳句の意味って何というのも難しい問題ですが)を生み出しています。次の俳句:
いもうとは とてもなまいき サングラス
季語は「サングラス」で夏の俳句です。「いもうとは とてもなまいき」だけであれば、俳句でもなんでもない、ただ、5・7の語調の表現ですが、そこに「サングラス」が付け加わると、(例えば)「夏休みにサングラスをかけて気取ってみせる、いつも生意気なことをしたがる妹を、やれやれと思いながら見ている」ことを詠んだ俳句になりますよね(他にも解釈はいろいろ可能です)。「サングラス」が置かれることで、俳句が立ち上がってくる。これなんかは、言葉の組み合わせが、なんらかの読みを引き起こすもの(=意味のようなもの)になっている。文は単語の意味とは別の次元の意味をもつことがはっきりしてますし、そこには「他でもなく、その言葉、その組み合わせであること」を受け止めることが「分かる」こと、というのがはっきり出ていると思います。
言葉の重み
「他の〜ではなく」という、そこに現れていないものが示されたものの意味を支えている。このように言うと何かしらややこしい感じがします。そこで分かりやすい(?)例をもう一つあげてみます。
「言葉の重み」というのがあります。おなじ言葉であっても、20歳の人間が言うのと、60歳の人間が言うのとでは、言葉の感触が違う、と私たちは感じる。その違いを「重み」ということで表現しています。この重みとは何か? たとえば、今食べたいものを聞かれたときに、3歳の子供が「母親のハンバーグ」というのと、50歳のオヤジが「母親のハンバーグ」というのは、明らかに、何かが「違う」。この違い、重みの違いとは、結局のところ、先ほど述べた「それを選んだことによって、何が選ばれなかったのか」という部分の大きさ/深さにあります。つまり、否定されたであろう候補が多いほど、重みのある言葉になる。3歳の人間が思いつく食事の種類と、50歳の人間が思いつく食事の種類とでは、50歳の人のほうが多いのが当たり前だと私たちは思います。だからこそ、50歳の人間がハンバーグというと、なにかしら「あえてそれを選ぶだけの理由」みたいなものがあるにちがいないと思ってしまう。ハンバーグとそれ以外の候補との違い=区別が強いもののように感じる。それが言葉の重みの正体ではないでしょうか。私たちは、相手の年齢、性別、外見、役割、あるいは場とか空気とか、色々なものを手掛かりにして、相手の中に想定される選択の幅みたいなものを想定し、それを踏まえて、言葉を受けとっているわけです。
ここでいう言葉の「重み」とは、その言葉(発言)が出てくる可能性(確率)が低い(=選択肢が多い)こと、といい直せるでしょう。情報理論でいう情報量(選択肢の数の対数で定義される)にあたります。ありえなさ、と言ってもよいでしょう。
別の例をもうひとつ。『奥の細道』で有名な松尾芭蕉が、宮城県の松島を訪れた際、松島のあまりの美しさを前にして「松島や ああ松島や 松島や」という俳句を詠んだという話があります。これは史実ではなく、実際には芭蕉はそのような句は詠んでいないのですが(江戸時代の狂歌師が作ったエピソードらしい)、そのことはともかくとして、この俳句を芭蕉の句であるとして読んでみる。すると、この「松島や……」は、あの俳句の天才である芭蕉ですらただ名前を呼ぶしかなかったほどの感動を込めた歌として読めないでしょうか? この俳句が、俳句とは5・7・5の音からなる詩であると学校で習ったばかりの小学生が詠んだものであるなら、季語も入っていない、ただ名前の繰り返しの面白さだけの句であると思うでしょう(厳密には季語が欠けているので俳句とすら言えません)。しかし、この句が芭蕉の句だとして読むとき、他にいくらでも素晴らしい表現で詠むことができたはずの芭蕉なのに、ただ名前を呼ぶしかなかったのだ、という句として「現れ」、そこになにがしかの感動(感慨)を呼び起こされるのではないでしょうか? つまり、この「松島や……」という句に現れた言葉自体ではなく、その言葉が形になること/することで「言われなかったこと」「言えなかったこと」の重みを感じないでしょうか? 言葉の意味とは、このように、それが何を言っているのかだけではなく、それを言うことで何を言わなかったのか(否定したのか)ということも含めて、私たちは受けとめているものなのです。
なお、芭蕉は松島を訪れた際に、その景色のすばらしさゆえに、あえて句を詠まなかった(『おくのほそ道』には記さなかった)と言われています。つまり、俳句を詠めたであろうに、あえて俳句を作らなかったことが、『おくのほそ道』に松島の句のないことの意味であるというわけです。
分かること=選択の了解
さて、このように考えてくると、私たちにとって、意味が分かるということは、単純に受けとった言葉の中に入っていたものを意味として取り出すといったことではないことがわかります。その言葉が選ばれたことによって何が選ばれなかったのか、ということは、当然ながら届いた言葉には現れていません。あくまでも、受けとった側が勝手に想像し思い込むしかないものを含んでいるのです。話している本人であっても、自分がどれだけの選択肢を排除して選んだかを正確につかむことはできないでしょう。
つまり、私たちが意味を「分かる」ときには、一つの選択(=これであって、あれではないもの)として分かる必要がある(本人がどこまで意図的であったかは無関係です)。選択されたものとして、選択されなかったものとの「違い」が分かる必要がある。しかし、そのためには、分かる側が能動的・積極的に思い込みをしなければならないということが含まれる。分かるというのは、一方的な受け身のものではない。何かが分かることとは、「違いが分かる」ことで、その違いを受け手が読み込むものだと言うこともできるでしょう。
とすれば、送り手である他人の言葉の意味を100%正確に分かることは、原理的にありえないことになります。なぜなら、分かることには受け手の積極的な思い込み(極端に言えば妄想です)が必然的に含まれますから。意味は読み解かないと現れないのです。
人間は意味として「分かる」ようになっている。コミュニケーションを通じて送られてくるもの(言ったこと、情報)の意味を分かるためには、受け手が違いの重みを読み込まないといけない。ですから、言われたこと、伝えられたことの中身を100%正確に伝えることはできないのです(そもそも意味が、そのようにして「伝えられる」ものではないのですから)。このことを極端に言うと、人間が100%完全に分かりあうことなど不可能だと言ってもよいわけです。
この講義の基本的な視点として、世界や人間は複雑なものであり、だからこそ、私たちが経験するものは「選択」(他でもありえたなかでの、これ)として現れるということを述べました。意味とは、私たちが経験を選択として了解する仕方なのです。
意味が分かる=選択として了解する
意味は、受け手が積極的に読み解かなければ、選択として現れてこない
100%正確な理解はありえない(そもそも、そのような規準では捉えられない)
伝達行動
意図
私たちのコミュニケーションでは、何が伝えられたか(情報)も重要ですが、同じぐらいに、どうやって伝えられたかという側面、つまり伝達行動の方も重要です。場合によっては、こちらのほうが大きなこともあります。
たとえば、メールの返事が来ない、というのは何も来ていないのですから情報はゼロですが、来ないということに私たちは反応します。来るべきものが来ないことにメッセージ性を受けとるわけです。先ほどの松尾芭蕉が松島の句を『おくのほそ道』に残さなかったことも、意味をもちます。あるいは、挨拶なんてものは、言葉の意味ではなく、決められた言葉を言うことが重要です。「おはよう」の意味なんて誰も考えていないでしょう。このように、コミュニケーションについて考えるときには、伝えるという動作の側面も考えなくてはなりません。
通常、私たちは、この動作の側面、伝達行動の意味を、意図として了解しています。なぜ、今、このわたしに、そんなことを、そんなふうにいうのか? それを説明するものが意図とされます。情報の意味が分かっても、意図が分からないと、「通じた」「わかった」とはいいません。
伝達行動の意味=意図
言い方を変えると、情報の意味とは別の、話し手にとっての意味を了解するということになります。たとえば「何してるんだ!!」というのは、情報の意味としては現在の行動(行為)をたずねる文ですが、この文で怒鳴られた場合は、「そんなことしていいと思っているのか」と叱ることが話し手にとっての意味(その文の使い方)であり、叱るというのが行動の意図であることは、みなさんも十分にわかっているでしょう。また、「良いことをしてるねぇ」と言われても、口調によっては皮肉になり、叱責になる。この場合は、情報の意味(行動を褒める)があって、それが状況と対比され、口調などの伝達行為のあり方を踏まえることによって、話し手の意味=意図(皮肉、叱責)があらわれてきます。このように、伝達行動の意味=意図の場合は、行動そのものだけではなく、情報の意味や状況をも考慮した上で、読み解くものとしてあります。
この意図を了解するということには、「他でもなく」が含まれますので、情報と同じように、完全には理解できないということがあります。つまり、他の言い方、やり方があったのに、なぜ、あえて、今、そうしたのか? ということが「分かる」ためには、何をしなかったのか、誰に伝えなかったのか等々、情報の場合と同様に、否定されたもの・排除されたものとの対比が必要になります。つまり、選択として分かる必要がある。そうである以上は、受け手が読み込む(思い込む)しかないものを伴っているからです。
意図が分かる=選択として分かる=受け手が読み解く必要がある
受け手の側で「これが送り手の意図だろう」と推測するしかないわけで、客観的な意図など知りえないわけです。意図の理解においても、受け手の側の「思いなし」「思い込み」という側面を拭い去ることなどできない。受け手が能動的に読み取ったものとしてしかありえないのです。このように、意図というのは伝達行動の意味を受け手が読み解いた時に「分かる」ものなのです。ですから、意図においても、情報同様に、100%分かることはありえないことになります。
情報同様、意図の100%正確な理解はありえない
選択=意図の二重性
意図(伝達行動の意味)の場合は、情報の意味とは違って、全く何も分からないということはないところに特徴があります。
たとえば、身も知らない人が自分に向って何か分からないことを言ってくる(あるいは意味不明の叫び声を浴びせる)という場合、確かに、なんで自分にそんなことをするのか、はっきりとした意図は分からない。しかし、少なくとも、他ならぬ自分に向って何かを送り付けているということだけは分かる。意図として言葉にできるようなものはつかめなくても、何らかの理由で自分が受け手に選ばれたことだけは、分かる。自分に何かが送られ/贈られたことは分かる。何かはっきりとしたものではないけれども、意図から内容を削り落としてギリギリに残るものだけは受けとることができます。何か分からないモノがプレゼントされたようなものです。そして、私たちはそれに応えることができる。そういう意味では、意図が0%分からないということは無いと言えます。コミュニケーションが伝達行動を含むものである以上、0%分からないということはないのです。
伝達行動の意味(意図)が0%わからないということはない
受け手に選ばれた(何かが送られた/送ろうとされている)という選択は了解できる
見知らぬ人の話は極端にせよ、犬や猫のようなペットとのコミュニケーション、あるいはまだ言葉を完全にはマスターしていない赤ん坊とのコミュニケーションのことを考えてみれば、情報の意味や意図がこれだとはっきりしない場合でも、コミュニケーションが成り立つ(少なくとも成り立っているという感触がある)のは、このギリギリの送る−応じるという応答が成立することにあるのだと言えるかもしれません。心(意識、精神)があるかどうかも分からないモノ相手であっても、相手が「自分を受け手に選んだ」という選択の痕跡のようなもの(これがギリギリの意図といったもの)が感じられれば、そこにコミュニケーションの回路を設けることができるのです。
相手が何かを伝えようとしている(気がする)という、曖昧な、でも自分が勝手に思っているのとは違う、相手のなにかが自分に呼びかけているような感触、そうした直感的なものが、わたしたちを応える態度へと導く。コミュニケーションの根底には、この贈る/送る−応えるという繋がりがあると言えるでしょう。
送る−応えるという応答がコミュニケーションの回路を開く
つまり、私たちが日常的に発言の意図(伝達行動の意味)として受けてとめていることには、2つの異ったレベルの意図があるということです。一つは、自分が言っている内容を伝えたいという意図、もう一つは、自分がしていることがあなたに対するコミュニケーションであること(何かを伝えようとしていること)を分かってほしい/気づいてほしいという意図です。
受け手の側は、この2つの意図のうちの後者、何かを伝えようとしているということ、が了解された時(というか、それがあることが感じられる時)に、コミュニケーションとして相手に対応して、何を伝えようとしているのかという前者の意図を探る、ということになります(実際には、このような2段階のステップを踏む動作ではなく、一体となって「なんなんだ?」という感じで受け止めることになるわけですが)。
伝達行動の意図には、2つのレベルがある:コミュニケーションであることをわかってほしいという意図(伝達的意図)と、なんらかの情報をわかってほしいという意図(情報的意図)
伝達的意図とは、情報的意図を持っていることを分かってほしい(気づいてほしい)という意図、ということができます。この伝達的意図を感知する(意図と言えるほど確かなものではなく、その気配のようなものに反応してしまうわけですから、伝達的刺激といった方がいいかもしれません)と、私たちは、そのメッセージを自分に関係あるものとして、自動的に読み解こうとしてしまいます。その結果として情報の意味が取り出され(推定され)、その伝達行為のあり方、状況、タイミングなどが考慮されることによって、送り手の意味・意図を了解する(推定する)という流れになります。この一連の流れは、非意識的・非配慮的に行われます。つまり、何かについてじっくり考えるようなものではなく、ほとんど生理的な反応といえるようなものとして迅速に行われます。もちろん、納得できる理解にたどり着かなかったときには、意識に浮上してきて、「どういうことなんだ?」と考え・悩むことになります。
意図了解のプロセス:伝達的意図の感知→情報の意味の理解(言語的意味、情報的意図の了解)→状況・コンテキスト、記憶との照合と推測→伝達行為の意図(話し手の意味)の理解
「分かる」時の暗黙の前提
この了解のプロセスにおいて、先ほどから述べているように、受け手としての想定(思い込み)や推測が関わらざるをえないわけですが、その際の、無意識的な前提(暗黙の前提)として、以下のようなものを踏まえていると考えることができます。
- 送り手は、デタラメなことをしているのではなく、何らかの筋が通ったことをしている→その人なりに、ちゃんとしようとしている
- 送り手は、わざわざコミュニケーションするという動作を行なっている→わざわざそうするだけの理由があるはず
- 送り手は、私に向けてコミュニケーションしようとしている→私に関係あること、関連することだろう
- 送り手は、私が送り手について何らかの理解をもっていることをふまえてコミュニケーションしようとしている→送り手についての予期があることを前提としている
- 送り手は、受け手が私であることをわかった上でコミュニケーションしようとしている→私にとってなるべく分かりやすくしようと配慮しているはず
このうち、最後の「私にとってなるべく分かりやすく」ということは、言い換えれば、私にとって「当たり前で自然に受け止め/考えればいいように」ということです。つまり、あまり面倒くさいことをしなくてよい、自分が一番、楽に、すぐに思いつくであろうことでよいはず、ということになります。考えたり推測したりするのに、エネルギーをそんなに使わなくてもよいはずということです。だから、最初に感じた(受け止めた)内容でいいはずだ、ということになります。この前提があることで、分かりにくい表現や言い方をされたときには、「わざわざ考えないといけない=面倒なことをしないといけない」ようなことを、あえて伝えようとしているのだと了解することになると考えることができます(比喩や詩の受け止めの場合ですね)。
また、「私にとってなるべく分かりやすく」ということは、受け手は自分にとって、自分の当たり前の世界の中で受け止めていいはずだとして、了解の処理を行う(非意識的に自動的に、ですが)ということです。とすれば、もし送り手が受け手のあなたのことを配慮しながら、何かを発言したとしても、当然のことながら、送り手が「あなたにとって当たり前であろうと想定したこと」と、あなたにとっての「当たり前」は、全く同じであるはずがない(それが人それぞれ違うということですから)。大きく外れることはないにせよ、時として、クリティカルなところで食い違う可能性がある。このへんが、人間のコミュニケーションのややこしい原因(個人であることを認めるということは、その人がコミュニケーションでは解消できない差異=秘密を持っていることを認めることですから)だとも言えるでしょう。
受け手になる:メッセージを見出す
コミュニケーションに巻き込まれる
ペットや赤ん坊とのコミュニケーションは、もしかしたら、こちらが勝手にコミュニケーションをしているつもりなのかもしれない。この点に、人間のコミュニケーションの重要な側面が現れています。つまり、送り手に意思や意図がなくても、あるいはそもそも送り手がいなくとも、受け手が勝手に「受けとって」、コミュニケーションが起動することがある、というものです。
言語を介さないコミュニケーションにおいては、このようなことがよく起こります。相手の何気ないしぐさが自分への好意の徴に思えて、その時から相手が気になって仕方がない、というのは勘違いの王道みたいなもんです。あるいは、自分には全くその気がなかったのに誤解されてしまったという経験は誰にもあるのではないでしょうか。
このことは、先ほどの伝達行為の意図の二重性を踏まえるならば、何かに「コミュニケーションであることをわかってほしいという意図」が込められていると「感じてしまった」瞬間に、受け手になってしまう、と言えます。メッセージとは「コミュニケーションであることをわかってほしいという意図がこめられたモノ」ということですね。
つまり、私たちは、何かがメッセージだと「感じてしまった」瞬間に、受け手になって、受け手としてコミュニケーションに巻き込まれてしまう。身体的なしぐさに限りません。たとえば、机の上に置かれていたエンピツでも、道端に落ちていた石でも、それが「何かを自分に伝えているモノ」=メッセージだという感触が得られた瞬間、私たちは勝手に受け手になるわけです。
メッセージを見出した(伝達的意図を感知した)瞬間、受け手としてコミュニケーションに巻き込まれる
コミュニケーションは二人の間で起こるできごとです。ですから、送り手が何か言った/何かしただけでは、それはコミュニケーションとは言えません。受け手がいて、送り手と受け手との間で何かが「伝わる」のがコミュニケーションです。コミュニケーションには受け手が必要です。そして何かを自分へのメッセージだと感じた瞬間、私たちは受け手として巻き込まれる。つまり、その瞬間に初めて、送り手と受け手のつながりとしてのコミュニケーションが成り立つと言えます。何かをメッセージだと感じて、そこに情報の意味や意図(伝達行動の意味)を読み解き始めるとき、受け手が生まれる。人間のコミュニケーションは、このように、受け手が「生まれること」も重要な側面としてあります。
メッセージとは
では、受け手を生み出す(引き起こす)メッセージとはどんなものでしょうか。
メッセージとは、情報と伝達行動が一体になったものです。それによって、そこに示されているものが、そこに現れていないものを同時に表すという、二層になったものとして考えることができます。
ですから、何かがただそこにあるとき、それはメッセージではない。そこにあるものが、あえて/わざわざ/よりによって、そこに・そのようにある(そのようにした者がいる)と感じられたとき、私たちはそれをメッセージとして受け止めます。
机の上にただ転がっているチョークは、それだけではただのチョークというモノでしかない。でも、それがわざわざ置かれていると感じられたとき、あるいはその置き方に何か意図的なものが感じられたとき、チョークはただのモノではなく、チョークという情報に何らかの伝達の意図がかぶせられたメッセージとして向かってくることになります。何かに、情報(伝えられているもの)と伝達行動(伝えること)の二側面がある(そこにあるものに、情報と伝達の違いが込められている)ことを感じる、それがメッセージです。
友人が目の前を無言で小走りに通り過ぎていく。それがただ「あいつは急いでいる」と思ったのなら、それだけのことですが、もし「自分と話すのを避けている(逃げている)」と思えると、その瞬間に、「なんでだ?」と頭の中に色々な思いがわき起こってくる。このとき、友人の行動はメッセージとして届き、私に読み解きを押し付ける。受け手になってしまう。こういうことは珍しくありません。友人が「よりによって、わざわざ」(=そうしなくても良いはずなのに)小走りで去っていく。その「よりによって」、つまりわざわざ性の原因=送り手の意図を想定しようというパターンにハマります。このわざわざ性の感覚が、私たちを受け手として巻き込むといってもよいでしょう。
このように、メッセージとは、モノの性質ではなく、モノや言葉に感じられる「わざわざ性」によって見出されるものであると言えるでしょう。このわざわざ性が、私たちに、そのモノや言葉に託された(隠された)意図や、そうした意図を抱いた存在としての送り手を想定させ、その送り手からのメッセージとして受け取り、読み解くことへと巻き込まれる、つまり受け手になるわけです。そのとき、本当に誰かが意図的に行ったかどうかということは関係ない。ただ、受け手に一方的に巻き込まれるということが起きるのです。
もちろん、「わざわざ性」といっても、誰かの意図や作為が感じられるものがすべてメッセージになるわけではありません。道端の電信柱は、自然に生えてきたものではなく、誰かが立てたものであることは当たり前ですが、それを自分へのメッセージとして感じることはないですよね。自分には関係ないものは、メッセージにはならない(もちろん、状況次第では、そこに電信柱が立っていることが、なにかを自分に告げているかのように感じられることはあるかもしれませんが)。つまり、何かに意図的なものが感じられて、それが自分に関わりがある(関連がある)ことも重要です。自分に向けられた意図、先ほどの言い方をすれば、自分宛の伝達的意図、それが感じられるということです。
メッセージ=わざわざ性をはらんだもの
わざわざ性(自分へ向けられた伝達的意図の気配)が受け手へと駆り立てる
わざわざ性=痕跡
このわざわざ性とは、痕跡という言葉でおさえることができます。誰かが、何かをした、その跡、気配、それが私たちをメッセージとしての受け取りへと巻き込む。先ほどの伝達行動のところでの言い方をすれば、何かの伝達的意図が感じられるという感触です。目の前にあるもの、目に入った動作が、ただそれだけのもの/ことではなく、何か余分なもの、ただのもの/動作との違い(差異)が宿っている感触、ベールの向こうに何かが透けて見えるような感じ、あるいは謎として感じられること。そうしたモノや動作のあり方を痕跡という言葉でまとめておきます。
メッセージとは、根本的には、痕跡である、と言うことができます。そして、私たちは、痕跡に出会った時、それをメッセージとみなし、そこに情報と伝達行動の意味を読み解こうとして、受け手になってしまい、コミュニケーションを起動することになるわけです。
メッセージ=痕跡として読み解かれる(読み解かれた)もの
ですから、メッセージは情報と伝達行動の一体となったもの、という押さえ方は、やや不正確なのであって、メッセージとは、それがメッセージとして受けとられることで、情報と伝達行動の合体として読み解かれることを引き起こすもの、とでも言わなければなりません。つまり、受け手がメッセージとして受けとったものがメッセージあるということです。
送り手からすれば、メッセージは、何かの意図を込めて、一定の意味あるもの(言葉)で送り出すわけですから、情報の意味と意図をくっつけるものという理解でも良いのですが、受け手の立場からすると、すこし事情が異なります。何かをメッセージであると感得することが、意図と情報の意味の一体になったものであると読み解くことと同じことであり、それが本当に誰かが意識的な送り出したものなのかどうかは問題にならない。気付いたときにはメッセージを受けとってしまって、コミュニケーションに巻き込まれてしまって、受け手になっているのです。受け手とメッセージが同時に成立するのです。
送り手として何かをメッセージとして発信・表現したとしても、それが受け手を喚び起こされなければ、発信・表現されたものはメッセージではないし、コミュニケーションも起こりません。いつもと違った種類の服をわざわざ着て会いにいっても、その違いに気付いてもらえなかったら、違った服を着たことは、メッセージにならないのです。
コミュニケーションが成立するためには、受け手がメッセージを見出す(あるものに情報と伝達行動を見出す)ということも重要な条件ということになります。
メッセージが見出される=受け手が生まれることもコミュニケーション成立の重要な条件
言葉の特異性
この点を考えると、人間の言葉というのが、コミュニケーションの手段として特異なもの(特権的な手段)であることが分かります。
なぜなら、言葉は、かならず意思をもって用いないと現れてこないものだからです。前に、人間は狂ったサルだから言葉は学習するしかないという話をしましたが、学習するしかないものというのは、別の点から言えば、自然にはありえないもの、意識的に用いなければ出てこないもの、ということでもあります。だから、私たちは、言葉であれば、送り手(話し手、書き手)が、意図的にメッセージを発したことを確実な前提として、受け手になれる。もちろん、例外的な事例はあります。しかし、言葉に「出会った」時には、ほぼ確実に、そこに意図と意味が込められていることを前提にできる。単なる生理的な反応ではないことを確実に前提にできる。言葉とは、こういう点で、特権的なコミュニケーションの手段であるわけです。
言葉はメッセージであることが確実な特権的な手段
何らかの意思を持って何かを伝えよう(示そう)としていることが明らかなこと(正確には、受け手側から見て明らかに思えること)を、意図明示的であるとか直示的であるといいます。英語では ostensive といいます。私たちは、言葉が発せられた/書かれた時、それがコミュニケーション的行動(他者への何らかの伝達・刺激)であることは明白だと受け取ります(考えるより先に反応しますよね)。そうした私たちの反応を引き出す性質を ostensive (正確には ostensiveness と言うべきかな)と呼びます。言語の発話は、ostensive な行動、というわけです。
さきほど述べた「わざわざ性」=痕跡とは、ostensive な行動として反応してしまうこと、と言い換えることができるでしょう。ここではこれ以上展開しませんが、私たちが他の人々と共に行動している場面(協働)において、この行動の ostensive な側面が重要なものとしてかかわってきます。そのあたりは組織における協働を論じる際に、あらためてとりあげます。
言語コミュニケーションの始まりは受け手から?
わたしたちが、わざわざ性(ostensiveness)に反応して、勝手に受け手になってしまうことから考えると、人間のコトバやコミュニケーションは、送り手からではなく、受け手として始まったと言えるかもしれません。先に、自分の周りの物事(音)を真似することから音声言語や音楽が生まれたという説を紹介しましたが、それと結びつけて考えると、まずは自分の環境で起こっていることの「聞き手」として、つまり何が起こっているのか?とか、相手はなにをしようとしてるのか?とか、そういうのを観察して予想・推察する、まさに予期する!、その能力みたいなものがあったからこそ、その聞き手=受け手としての能力に意識的に働きかける手段としてコトバが使われるようになった(自然界の物音を真似た音を意識的に使うようになった)というストーリーを描くことができます(科学的な論証などは抜きに、たんに思いつきを書いてるだけですが)。
自分の身の回りで起こっている色々な出来事を解釈して、自分に関連づけて、なんらかの「理解」を得る。色々なことを、まずは自分なりに分かろうとする。そういう能力(先の言い方にならうなら、予期をもたらす思い込み)をベースに、それを刺激するものとして、コトバが生まれ、そこから言語的なコミュニケーションが起動した。受け手に、自分が発しているのが意図的な刺激であることをわかってもらうために、動物的な鳴き声ではなく、自然界の音を「真似た音」(同じではないが、人為的に似せてある音)を使うようになり、そうしてコトバが使われるようになった……。そういう話もありなんじゃないかということです。
もちろん、最初は、普通でないこと(奇声をあげるとか、変な動作をするとか、何かを真似るとか)で、他人の気をひくといったことかもしれません(赤ちゃんが泣くみたいなものでしょうか)。そこから、普通でない→あえてそうしている→「あえて」と呼べるような何かの意図がある→何かの「意図」を伝えようとしている、というステップで、受け手(というより聞き手ですね)が、その普通でないことを、話し手の「伝える」動作として受け止めることで、コミュニケーションが出来上がってきた。そういう感じです。
当たり前のことですが、誰もコトバを知らない(持っていない)ときに、音声で何かを表現したり伝達しようとしても、それは無意味な行動です。つまり、「送り手」が先に生まれることは単純に考えてありえない。とすれば、「受け手」(になり得る人)がいるところに、「送り手」が生まれてきたと考える方が、自然だと思いませんか?
ロビンズ・バーリングの『言語を使うサル』は、言語の始まりを似たような立場から論じています。「本書の中心的な話題は、産出よりも了解の方が、人間の言語を使う能力を進化させた原動力だということである」として、他人の行動(発声も含まれる)を了解する能力が高まって、はじめて意図的な発話を行う(産出)することが可能になる。「(受け手としての)解釈の技能が育ってこそ、他者がすでに理解しつつある行動について、その行動をとる者がそれを慣習化し、その行動を意図したコミュニケーション用の合図に転用できる時が、ようやく来るのである」。つまり、自分の振る舞いや発声を、他人が一定の受け止め方をしてくれるようになっていることが明らかになってはじめて、そのことを意図的に利用することが可能になり、発話が効果を持つようになる、というわけです。
正しいかどうかは別にして、このように考えると、コミュニケーションは、受け手が推測することの方にポイントがあると言えるでしょう。ここまでのコミュニケーション論の講義で述べてきたように、コミュニケーションは、伝える、のではなく、伝わる、それが重要。そして、伝わるのは、受け手が(意識的かどうかは別にして)積極的に思い込んでいく必要がある。言葉によって受け手を起動させ、推測させる、それが送り手の行うこと。このように整理すると、私たちが受け手としてどのように振る舞うかが、コミュニケーションの理解にとって鍵となると言ってもよいでしょう。
関連性理論(Relevance Theory)
言語学の語用論という分野(大雑把に言って、聞き手が「話し手が伝えたいと思っている意味」を理解できるのはどうしてか、を研究する分野)には、関連性理論と呼ばれる、私たちが受け手として意味を察したり推論することに重点を置いた説があります。
聞き手(受け手)は、話し手の意図や意味を、発せられた言葉という手がかりを基にして、どのように推論(推測)しているのか。その過程を明らかにした(仮説を作った)のが関連性理論です。スペルベルとウィルソン(Dan Sperber & Deirdre Wilson)の二人が定式化したものです。この講義同様に、コミュニケーションの伝送モデルを否定し、受け手が推論を行うことにコミュニケーション成立のポイントを置きます。ざくっと言うと、送り手は言葉という痕跡=手がかりを提示し、受け手はその痕跡を解き明かすことで送り手の意図や意味を想定している、という図式になっています。現場に残された証拠(痕跡)から、犯人を推理する探偵のようなこと(謎解き)を、私たちはコミュニケーションで(もっぱら非意識的に)行っているとします。
関連性理論は、認知科学(人間の知的な能力や仕組み、知能の性質を、情報処理の観点から理解しようとする研究です)に基づいて、私たちの知能(広い意味での心、精神、脳の認識作用)がどのように働いているかという観点から、コミュニケーションを論じたものになっています。ですから、意識的にどのように推察したり判断したりしているかではなく、意識していない(意識には上らない)処理がどのように行われているかを説明したものです。この講義に即して言えば、受け手に「なってしまう」時に、その「背後」で、どのような処理を私たちの知的処理プロセスとして行っているかということです。
以下、この説をざっくとまとめて紹介しますが、論じられている認知的活動は、意識に上らないで進行する過程なのですが(直観のプロセスと言ってもいいでしょう)、そこで行われている(と仮定される)処理については、どうしても私たちの意識的な認識活動の言葉を使って説明することになるため、あたかも意識的に行なっているかのような記述になっています。その点は気をつけてください。また、この講義に合うようにかなり端折った内容になっています。詳しく知りたい方は、「関連性理論」で検索すれば色々な論文などが見つかります。
私たちの中にある「世界」に関する様々な想定・予測の総体のことを認知的環境と呼びます(この講義で言う予期)。人間の認知的活動(色々なものごとや出来事を知覚・認識・理解しようとする活動)は、個人の「世界」に関する知識を向上させること(認知的環境の向上)を目的としています。ただし、すべての出来事が対象ではなく(そもそも無理ですが)、自分にとって関連のあるものごとや出来事についての知識です(世界ではなく「世界」)。ですから、人間は、いつも、(意識することなく)自分の周りの出来事やものごとに、自分にとって関連がありそうなことが起こっていないか探っている(気を配っている)状態にあります。
ハイデガーの『存在と時間』の「(世界内存在の我々の)気遣い」というのが、この状態を表すのには合っているように思います。くわしくは後述(するかもしれない)。
そして、何かが自分に関連のある出来事として感知・直感されるとき、自分にとっての関連性の観点からの情報処理が起動します。他者の振る舞いなどが自分に向けてのコミュニケーションであると感知される(メッセージを見出してしまう)ことも、このような情報処理の引き金(トリガー)です。
この情報処理の過程は、基本的に推論の過程です。言葉として明らかになっていることを手掛かりに、文脈や状況、自分の記憶などを踏まえて、明らかな意味(表意)や暗黙の含意を、非論証的・非意識的に「解釈」していきます。文の意味を読み解き、話し手の意味、意図を読み解いていく。なんらかの関連性に気がついて、コミュニケーションの受け手になってしまうとき、このような推論過程が、自動的・自発的に起動しているのです。
この推論の過程においては、受け手にとって最も関連性が高いような解釈が目指されます。ただし、推論過程の実行はエネルギーを消費します。ですから、なるべく少ないエネルギー消費で(効率的に)、なるべく高い関連性の情報を得ようとする(効果的に)、という原則で処理が行われます。可能な限り効率的に処理が行われるわけです(先にのべた、人間は楽したいものだということと同じ)
また、送り手について、わざわざ自分(受け手)に向けて話す(言語以外も含めるなら「刺激を与える」)のであるから、送り手は送り手なりに、出来る限り、分かりやすく(=効率的)、意義がある(=効果的)、そのようになるように伝達行動しているはずだという仮定で処理が行われます(処理のエネルギー、労力に見合う認知効果を含んだ情報を提供している、という想定)。言ってしまえば、送り手は受け手の自分にとって、なるべく分かりやすく得るものが多いように、それなりに筋の通った(=rationalな)伝達行動をおこなっているはずだということです。
話し手に意図、動機があるということ(わざわざする)が、関連性の見込みの根拠とされる
このような情報処理過程が進行して、その結果として、受け手として何かが「分かる」ということが起きるようになっている、というわけです。
この説のコミュニケーションとは、端的にまとめると、次のようになります:発話(送り手)は、受け手の認知的環境にポジティブな変化(新しいことを知る、間違いに気がつく等)をもらたす刺激を送り出す。受け手は、その刺激を推論過程で処理を行うことで自分の認知的環境の変化を体験する。
この説には、人間のコミュニケーションとは互いの認知的環境の向上のための活動であるということ、人間の認知は常に自分の認知的環境の向上を目的としていて知覚は関連性志向であるということ、このような目的論が入り込んでいます。そこを認めるかどうかが、この説を考える時の一つのポイントになりますが(他にも人間の認知的能力としてこのような推論プロセスを認めるかなども判断が分かれるでしょう)、受け手の推論過程がコミュニケーションでは重要であるとする点で、この講義で述べてきたコミュニケーションの議論と重なりますので、参考までに紹介しました。
コミュニケーションって?
ここまでコミュニケーションについてあれこれ考察してきて、コミュニケーションが単純な意思の伝達ではないことは了解してもらえたのではないかと思います。では、コミュニケーションとは一体何なのか?
これまでの話をまとめると、コミュニケーションは、情報(意味)と伝達行動(意味=意図)とメッセージの見出し(メッセージとして理解し、メッセージを理解すること)の3つの要素が一体になった出来事である、ということになります。
情報として何が伝えられているか、伝達はどのように伝えているか、そして何かをメッセージとして見出し(=それをメッセージであると選択し)意味を読み解くか、それが合わさったものがコミュニケーションという二人の間の繋がりを作り出します。二人の人間の間でこの3つの要素が一体となるようなことが起きることがコミュニケーションである、というわけです。
この3つの要素は、いずれも、違い(差異)と選択が関係しています。何を伝えて/何を伝えなかったのか、どのように伝えたのか/伝えなかったのか、メッセージ=痕跡を見出した/見出さなかった(さらにそこにどのような情報と伝達行動の重なりを読み取ったのか)。この点で、突き詰めて言うと、コミュニケーションとは3つの選択の統合であるといっても良いでしょう。
コミュニケーション:情報・伝達行動・メッセージの見出しの3つの選択の統合
ただし、メッセージは、あくまでも受け手が情報と伝達行動の2層の統一を見出すものであって、見出されない限りは、メッセージではありません。先ほど痕跡という言葉を使ったのは、メッセージには意味そのものが宿っているわけではなく(意味というものからしてそのようなものではないわけですが)、あくまでも意味を読み解かれるべきものしかないということです。
ですから、コミュニケーションは必然的に誤解の可能性をはらんでいます。メッセージが見出され、コミュニケーションが起こり、応答として次のコミュニケーションが起こる、このようなコミュニケーションの連鎖が成り立って、とりあえず問題なく進行している時に、読み解きが「正しかった」とされているのです。
間で起きる出来事
このように考えてくると、コミュニケーションというものは、二人の人間の間で起こってしまう出来事である、と捉えることができます。どちらの意思によっても完全にコントロールすることができないもの、ということです。誤解が起きたとき、私たちは、どちらかが「正しく」、どちらかが「間違っている」という図式で捉えますが、現実のコミュニケーションのただ中においては、どちらも「正しい/間違っている」わけではなく、ただ何かが起きているとしか言えない。あくまでも、後から、それが誤解だったり早とちりだったと位置づけることができるだけです。
このように、間で何かが起きてしまうのがコミュニケーションですから、コミュニケーションとは社会的なものである、と言うこともできます。他者がいることによって、自分の意志だけではどうしようもないことに切実に巻き込まれてしまう、それが「社会的なもの」です。私たちの社会の体験とは、コミュニケーションの体験であると言ってもよい。
コミュニケーション=社会的体験、社会的なもの
送り手、受け手のどちらも、完全にコントロールすることはできない
これで、とりあえずコミュニケーションとは何かということまで辿りついたのですが、コミュニケーションに関して、さらに考察しておくべきことがあります。
行為として観察される
まず、コミュニケーションは、行為として観察される(コミュニケーションの中で取り上げられる)ということです。コミュニケーションが先行する(過去の)コミュニケーションを取り上げるとき、本質的には間で起きた出来事であるコミュニケーションを、送り手が情報を伝達した行為として整理し、言及することになります。私たちは、この「誰かが何かを何らかの方法で伝えた」という形でしか、コミュニケーションについてコミュニケーションできません。だからこそ、私たちは、通常、コミュニケーションとは、送り手から受け手への情報伝達行動であると考えているわけです。そして、この図式の中で誤解なり食い違いなりといった形で問題が整理されたりするわけです。
原理的に考えれば、コミュニケーションは、送り手と受け手のどちらにも属していない出来事です。しかし、時間軸上で確定できる行動を中心にすることで、送り手の行為としてつかむのです。行動に「付着させる」ことによって、過去の時点として参照(言及)可能になります。このように、コミュニケーションを、伝達行動(行動)を軸として整理し補足していくようになっています。間で起きる出来事が、送り手に帰属させられた行為になります。
伝達行動として理解されるということは、コミュニケーションが続いていく時に、時間の流れの中でコミュニケーションが起きた時点が定められ、そしてつながりとして並べられていくということでもあります。こうして、送り手から受け手へ何かが「伝わる」ことが並んでいくことが、私たちにとってのコミュニケーションというものの理解になります。「伝わる」とは、実際は、これまで見てきたように、送り手の選択と受け手の選択が一体になるということなのですが、あえていうならば、選択が伝えられ、それが次の選択を引き起こしていくということです。伝わるものは選択であって思いではない。しかし、選択を受け止めることで受け手は意味を読み取って受けとるわけですから、そこでは意味が伝えられていると見ることもできます。そうすると、冒頭で否定した、送り手から受け手に伝えること、としてコミュニケーションが捉えられ語られることになります。つまり、伝送モデルとは、起こってしまったコミュニケーションを後から整理した図式であり、あとからコミュニケーションで取り上げることのできるための図式といってもよいでしょう。
送り手は、何よりも、具体的に、なんらかの現実的な形として行動(発話)を行ったわけで、そういう意味では、送り手のアクションがコミュニケーションの契機です。相手が頭の中で(心で)思っただけではコミュニケーションにはならない、送り手としてアクションを起こした(とみなせた)ことで、私たちのコミュニケーションがリアルな出来事になったわけですから。私が「ばかやろ〜!」と誰かに言ったら、それがどんな意味でどんな意図であったかは別にして(わからなくとも)、「ばかやろ〜!」という音声を発して、それが相手に何らかの影響を与えた(相手を巻き込んだ)、そのこと自体は、消しようもないリアルな出来事です。ですから、私たちが日常的に行なっている、コミュニケーションを送り手のアクションを中心に捉えて考える(送り手と受け手が非対称化される)のも当然とも言えるでしょう。
コミュニケーションは送り手の行為として記憶・記録され、言及される
送り手としての何らかのアクションを起こした人は、それが理解されるかどうか、うまく伝わるかどうかは別にして、アクションを起こしたということで具体的な関わり(コミットメント)を行った者としての立場は引き受けざるをえないわけです。その点で、話し手→受け手のコミュニケーションの理解は、伝えるという観点(伝送)からはここまで話してきたように問題をはらむものなのですが、関わりあいを引き起こすという観点からは、間違いではない(当たり前のこと)ということです。
コミュニケーションについてコミュニケーションできる
コミュニケーションが送り手の行為として理解される、このことは、当たり前のようで重要なポイントを示しています。つまり、私たちは、コミュニケーションについてコミュニケーションできる。他人や過去のコミュニケーションをとりあげて今の話題にすることができる。
他人が言ったこと、テレビで見たこと、ネットで見たこと…… 色々な他人の発言や意見を伝えることができることによって、私たちの知識は、直接的な社会的関係を超えてところから得られるようになっています。正しいかどうか、信じて良いのかどうか、といった問題はあるにせよ、自分が直接知らない人のコミュニケーションについても知ることができる、というのは、おそらく、言語を使う人間にかできないことでしょう。言語によって、その人がいなくても、その人の発言を知ることができる、ということが可能になっている(その背景で、その人自身が言うということと、言われた内容との分離、つまり伝達行動と情報の分離、が可能になっているということでもあります)。
そうした、他人の発言をコミュニケーションできるということも、私たちにとっては重要なことですが、社会的関係という観点からは、送り手(話し手)に対して、その発言(コミュニケーション)について、問ひ返す/尋ねるというコミュニケーションが可能になっていることが、他人との関係を作っていくという点からは、最も大きなポイントということになります。過去のコミュニケーションについて「なぜ?」と問い直すことができる。そのことによって、意味や意図について語り直すことができるようになっているわけです。その都度のコミュニケーションで起こってしまったこと(誤解した/された、傷ついた/傷つけられた等)を無かったことにはできませんが、それについてのコミュニケーションを行うことで意味付けを書き換えていく(アップデートする)ことはできる。
二人の間で起きる出来事が、送り手の行為として記録・記憶されることで、あとからその出来事=コミュニケーションについてコミュニケーションできるようになっています。
行為として記憶・記録されることで、コミュニケーションについてコミュニケーションできる
大げさに言えば、人間のコミュニケーションは、いつも問い返されることに対して開かれた、未完了のまま進行していくものなのです。コミュニケーションによるトラブルはコミュニケーションの継続によって書き換えることができる可能性がある(訂正可能性)。ここに人間のコミュニケーションの特徴があります。
コミュニケーションと責任
ですから、コミュニケーションを行うということ、コミュニケーションを続けていこうとすることには、常に「なぜ?」と問い返される可能性があることを覚悟し引き受ける必要があります。いつか分からないが、自分の行為として記憶されるコミュニケーションに対して「なぜ?」という問い返しがなされる。それに応えることが、応えることができること、これがコミュニケーションの中で関係を作っていく人間として負うべき責任(responsibility=応答可能性)であると言うことができるでしょう。
先ほども述べたように、私が相手に対して「ばかやろ〜」と言ったら、それがどんな意味でどんな意図で発したかは別にして(私が思っていたような理解をしてもらえなくても)、少なくとも音声を発する(伝達行動を行う)ことで相手に影響を与え、なんらかの関わり合いに巻き込んだことは確かです。だからこそ、私に対して「なぜ?」と問い返される可能性があり、その問い返しに私は応える立場にある。私がリアルな関わり合いを起こしたこと(コミットメントしたこと)で、私は責任を負うことになるのです。
コミュニケーションを行う者の責任=応答可能性(responsibility)
伝達行動を行うことで他者との関わり合いを引き起こすこと(=コミットメント)で、責任を追うことになる
先ほどからコミットメントという言葉をきちんと説明せずに使ってますが(日常的にも色々な場面で、特にビジネス書などでも使われる言葉ですので、初めて聞いたという人は少ないと思いますが)、改めて補足する予定です。
「なぜ?」の問いかえしを受け止められるためには、過去の自分の発言を、自分のものとして、自分へとさし向けることができるようになっている必要があります。通常、これは発言者の名が果たす機能です。もちろん、対面的なコミュニケーションにおいては、身体や顔といった、物理的存在に記憶を結びつけておくことができますが、そうでない場合も含めると、「その名の者がそのような発言/コミュニケーションを行なった」ということを確認できること、同じ者として同定できることが、なぜの問い返しを可能にすると言えます。なぜ?の宛先(=アドレス、言及先)が確定できることですね。
このことは、言い換えれば、私たちは、自分の名において発言・コミュニケーションすることで、なぜ?=理由を問い返される(かもしれない)関係に入り込んでいるということです。理由(を問われる)ゲームのプレイヤーであるわけです。スポーツのゲームを考えてもらえればよいですが、なんらかのゲームにプレイヤーとして参加するということは、ルールをわかっているとか、審判の判断には従うとか、いくつかの決まりごとを踏まえていることが求められるし、周囲からもそれが当然として扱われます。同じように、人間のコミュニケーションも、「なにかあったときには、なぜ?と理由の説明を求められる」ということを踏まえた上で、参加している/参加しないといけない、ゲームのようなものだと考えることもできます。
このような「なぜ?」=理由の拘束がないのが、匿名でのコミュニケーションです。SNS や掲示板の匿名のコミュニケーションでは、実の名とは切り離された、記号やアイコンでのコミュニケーションが可能になっています。その都度、番号などが付されることで、同一人物の発言かどうかさえ確認できないものもあります(たいていは、同一人物の発言かどうかは確認できて、最低限のなぜ?の宛先の機能は確保されているものが多いですが)。こうした場は、炎上したり、無責任な発言や、差別的発言が横行するといったものになりますが、一方で、そうしたなぜ?の拘束から逃れた状況でしか発言できないこともあるという点は忘れてはなりません。
先ほど、「分かる」のプロセスを整理した際に、受け手としての暗黙の前提について述べましたが、あのような暗黙の前提とは、見方を変えると、送り手として一定の覚悟(というと大げさですが)を踏まえた上で行動しているということをあてにできるということになります。送りと受け手が、ともに理由のゲームのプレイヤーだからこそ、互いに同じゲームのプレイヤーとして、一定の配慮と予期を認めうる、ととらえることができる。コミュニケーションで作られる人間の社会的関係の場は、理由のゲームだと言ってもいいかもしれません。
この理由のゲームと責任については、公式組織における決定と責任の問題につながっています。
コミュニケーション自体に目的はない
私たちはコミュニケーションによって分かり合ったり合意をとりつけたりします。しかしながら、こうしたことはあくまでもコミュニケーションに関与する人間が、コミュニケーションを手段として、あるいはコミュニケーションの結果として、得られることであって、コミュニケーションそのものには、理解や合意といった目的はありません。けんかの継続であっても、非難の応酬であっても、誤解の積み重ねであっても、コミュニケーションです。コミュニケーションは、続くか途切れるか、それだけです。あえてコミュニケーション自体に宿っているものを挙げるならば、それはコミュニケーションが継続するとき、そこに関係が、つまりは社会システムが生まれてくるようになっている、ということでしょう。
コミュニケーションそのものには目的はない。続いているか否かだけである。
+1の選択:さらなるコミュニケーションの起動
もう一つ、コミュニケーションでの意味の了解と、受容とは違うということも押さえておく必要があります。ようは、言われたことや意図が分かることと、それを受入れること(それを受けて何をするのか)は違うという、まぁ、当たり前のことです。つまり、コミュニケーションにおいては、受け手の選択(聞き入れるのか、従うのか、信じるのか等々の選択)が関与して、そして次のコミュニケーションへと接続していくことになるということです。
このことは当たり前のことののようですが、コミュニケーションの進行を考えるときに重要なポイントになります。つまり、コミュニケーションとは受け手に、さらなるコミュニケーションの選択を迫るものであるということだからです。先ほど、コミュニケーションは3つの選択の統合であるとしましたが、そのコミュニケーションはさらなる選択を迫るという点を考慮すると、コミュニケーションとは3+1の選択の統合ということができます。
コミュニケーションの受け手になったとき、そしてどうするのか、なんらかの選択をせざるをえない。否定するにしても肯定するにしても、いったん聞いてしまったら、聞かなかったことにはできない。受け手は選択するものだとみなされる。もちろん、聞かなかったことにするということも選択としてとらえられます。無視することもコミュニケーションになる。いずれにせよ、何らかの情報が何らかの行為によって自分に指し向けられた時には、何かは行うことになります。誰かに贈り物をもらったら、誰からのものであれ、何であったにせよ、お返しをしなければ気持ちが悪い。それと同じで、送られたら/贈られたら、応えざるをえなくなる。先ほど、伝達行動の話の中で、コミュニケーションの根底に送る−応えるがあると言いましたが、応えるとは次のコミュニケーションの送り手になることです。
ただし、どのように反応するかはコミュニケーションが強制することではない。否定するにせよ肯定するにせよ、あるいは無視するにせよ、コミュニケーションを行う(送り手としてのアクションを起こす)ことを強いられる。受動的・応答的に主体化されてしまう。
このように、コミュニケーションとは、送り手から受け手への選択の強制として捉えることができる。この典型的なものが、恋愛の告白というやつです。「自分の気持ちを伝える」というのは、自分の気持ちを情報として提供するということではなくて、その情報を受けとって自分との関係に選択(恋人として付き合うのか否か)を迫るものです。この選択を迫られることによって、受け手は、なんらかの次のコミュニケーション(反応)をせざるをえないわけです。そのことが、コミュニケーションの継続・進行を生み出します。コミュニケーションには、さらなるコミュニケーションを産み出す働きがあるといってもよいかもしれません。この点も、私たちの人間のコミュニケーションを考えるときには重要なポイントになります。
コミュニケーションは受け手に選択を迫り、さらなるコミュニケーションを起動する
コミュニケーションは繋がりを孕んでいる
メッセージに応じてコミュニケーションの送り手になる、その時には、自分がメッセージで読み解いた意味を踏まえつつ、自分の発するメッセージが相手に理解され、望むような反応(その次のコミュニケーション)が生まれるように言葉なり行動なりを選ぶことになります。送り手としてコミュニケーションに関わる場面を考えると、あるコミュニケーションは、その前のコミュニケーションを踏まえつつ、その次のコミュニケーションを予想しつつ行うものとしてある。
送り手として何かを言おうとする時、自分の言葉が痕跡として読み解かれるしかないものだからこそ、真剣に伝えようとすればすれば、逆に言葉がスムーズに出なくなるといったことが起きます。思ったままをそのまま言葉にすることは、もし目の前にいる相手に聞いて欲しいならば、できないのだといっても良いでしょう。相手に分かるように話したいということが、目の前にいるこの相手に分かってもらうためには、今、この状況の中で、どのように言葉を選ぶかという圧力になる。そのとき、受けとったメッセージ、あるいは聴き手がどのように受けとるかという予想、どんな反応が起きるか、あるいは起きて欲しいかという予想、そうした様々な要因が重なり合う中で、言葉が口に上ってくる。それは頭の中で思っていたとことをそのまま放り出した言葉ではないはずです。思いをそのまま手渡すことなんかできないからこそ、言葉を選ばないといけない。
そして、聞き手(受け手)も、送り手が自分を前に言葉を選んでいることが感知できるとき、そこに強く巻き込まれる。あらかじめ用意された原稿を目の前でただ読みあげられる時のライブ感の無さとは、そこにあります。ライブ感とは、自分(自分たち)がそこにいることが相手のコミュニケーションになんらかの影響を与えていることをリアルタイムで感じられる、他ならぬ自分が聴いていることを確認できるということ、そういうことですから。
このことは、私たちがコミュニケーションを行っているとき、メッセージの意味と意図の中には、そのコミュニケーションが行われている状況や人や経緯といったものが織り込まれ、確認されているということでもあります。極端に言うならば、あなたがそこにいて・わたしがここにいること、を互いに確認しあい、認めあうことが、メッセージを通して行われているわけです。テーマや記憶によって、その都度、コミュニケーション、メッセージ、あるいは予期の妥当性を確認することが行われている。この点でも、コミュニケーションが単なる情報の伝達ではないことが分かると思います。
このように、コミュニケーション自体に、繋がりの連続を生み出していく動きが孕まれていると言えるでしょう。コミュニケーションはコミュニケーションのネットワークを生み出そうとする。何かの受け手になってコミュニケーションに加わる、そのことで次のコミュニケーションが生まれる…… そこから人はお互いに分かり合い、関係が生まれていくことになる。コミュニケーションの連鎖が起きていくことで、そこから社会システムが生まれてきます。このことは恊働論で考えることにします。
コミュニケーションは社会システムを生み出す
コミュニケーションのシステム
話題・テーマ
言語コミュニケーションの場合には、情報と伝達行動が明確に分かれます。そして情報として、何かが取り上げられます。会話の話題とかテーマというものですね。これがあることによって、何を話していけばいいかという選択肢が絞り込まれることになります。
「寒くなってきましたねぇ」と話しかけたら、とりあえず天気の話で応える。「ついこの間まで暑かったのにね」、「秋は駆け足でやってきますね」等々、どのように応じるかという選択肢は色々とあるにせよ、少なくとも相手は天気の話を振ってきたということを明確な手がかりにできます。もちろん、天気の話というのは、どうでもいいこと、たいしたことではないこと、の代表みたいなものですから、「ええ、本当に」と軽く受けて、別の話題に振ってみる、「そういえば、今年はサンマが高いみたいですね」等々。このように、展開のバリエーションは色々考えられるにせよ、相手はコミュニケーションの意図はあって天気の話を持ち出してきたということが、それに応じる行動の可能性を絞り込んできます。
そして、ある話題の話が続くことによって、ますます、どのように応じればいいかを選択することは容易になります。それまで話してきた内容(テーマ、話題)が大きな枠として利用できるようになるからです。テーマや話題が絞られてくることは、選択の幅を狭めていますが、しかし同時に、別のテーマへと繋げる可能性や話題を掘り下げていく可能性も生み出す(可能性として見えてくる)ことになります。
このように、言語のコミュニケーションが生じることで、もっぱら話題(何の話をしているのか)に焦点をあてて振舞うことができるようになります。共在による身体的なコミュニケーションも同時に行われていますので、それを無視することはできませんが、それだけしかない場合によりも、対応が楽になると言えるでしょう。
テーマや話題がコミュニケーション継続の手掛り=予期になる
コミュニケーションのシステム
話題やテーマに沿ってコミュニケーションが続いていくとき、その都度のコミュニケーションは、話題に関係ある/関係ないという区別によって分けられ、関係あるものがつながっていくことになります。また、その場での、それまで話されてきたことが積み重なっていき、それを互いに覚えていることによって、新しい発言の選択の幅が絞り込まれていくことになります(一度話したことは、すでに話されたこととして互いが記憶している)。
このようなコミュニケーションの連鎖が形成されることで、そこには「つながり=コミュニケーションが続くこと」と「まとまり=ある話題に沿ったコミュニケーションの記憶」がうまれています。このようなコミュニケーションの「つながり」と「まとまり」を、この講義では社会的なシステムと捉えることにします。
コミュニケーションの継続→「つながり」と「まとまり」→社会システム
システムという概念は様々なものに使われているものです。コンピュータや自動車、あるいは生物のように無数の部分が集まって一つになっているモノのあり方に対して、通常はシステムという概念を使います。この場合、システムとは、複数の単位(モノ)が、関係によって、部分として、一つの全体へと結びつけられていることをいう概念です。この全体の枠内での諸部分間の相互依存こそがシステムだという考え方です。モノのまとまり方とつながり方を捉えたものです。
しかし、この講義では、システムという概念を、モノのあり方ではなく、コミュニケーションという出来事のつながり方を捉える概念として使います。コミュニケーションとは二人の間で3つの選択が重なることで生じる出来事です。モノではありません。ですから、コミュニケーションが(あるいは人間の行為が)システムになるという場合には、システムの要素としてのコミュニケーションは、モノのように集められて繋げられるわけではありません。生じてはすぐに消えて過去になっていくコミュニケーションという出来事が、一定のつながり方でまとまりを生み出している状態、コミュニケーションのプロセスのあり方を、システムという概念でとらえます。モノのシステムとは区別したい時には、社会システムという言葉を使うことにします。
モノのシステムではなく、出来事のシステム
さて、進行中のコミュニケーションが、特定の「つながり」と「まとまり」を生じているとき、そこにシステムがあるとみなすわけですが、この「つながり」と「まとまり」について、もう少し考えてみます。
「つながり」とは、次々にコミュニケーションが続いていくということです。先ほど、コミュニケーションは受け手に次のコミュニケーションを強いる(受け手としてコミュニケーションに巻き込まれる)ということを確認しました。コミュニケーションは、基本的には、次のコミュニケーションを生み出そうとするものです。また、コミュニケーションがなされる時には、先行するコミュニケーションを踏まえながら、次のコミュニケーションを予想しつつ行われます。(このように書くとややこしいのですが、ようするに、相手の言ったことを踏まえつつ、相手の反応を予想しつつ、話そうとする、ということです)。ですから、コミュニケーションはコミュニケーションを生み出して、繋がっていこうとするものだと言えるでしょう。コミュニケーションそのものが他のコミュニケーションとの連関のなかで生じる出来事であると言うこともできます。
コミュニケーションは「つながり」を生み出そうとする
コミュニケーションは、他のコミュニケーションとの連関の中で生じる
もちろん、コミュニケーションが生み出されると言っても、実際は、内容や話題の点ではバラバラのコミュニケーションがただ続いていく(お互いが勝手に思いついたことを話しているだけ)ということだってありえます。それでも、コミュニケーションとしては「続いている」(声の応酬として)。伝達行動のところで述べた、最低限の応答の連鎖として続いていける。このように、コミュニケーションには、つながりを生み出していく傾向がある。コミュニケーションはシステムを生む力(傾向)をもっていると言っても良いでしょう。
コミュニケーションのシステムの「つながり」は、コミュニケーションによって生み出されるわけです。
そして、そのコミュニケーションの繋がりが、特定の話題やテーマに沿ったコミュニケーションである場合、そこに「まとまり」が生まれていると捉えることができます。原理的には様々な内容のコミュニケーションが可能であっても、特定のコミュニケーションだけしか「繋がらない」。関係することと、関係ないことの区別によって、コミュニケーションの接続が制限されている。この区別が生じていることが「まとまり」があるということです。
関係する/しないの区別で繋がりが成立すること=「まとまり」
様々な可能性がある中から、なんらかの区別を軸にして、特定のコミュニケーションだけが選択され、つながっていく。多くのもののなかから、限定されたコミュニケーションだけが繋がっていく。この状態が「まとまり」です。関係する/関係しないという区別、一般的に言えば、内部と外部の区別、境界が維持され続けている状態が「まとまり」です。そして、この「まとまり」が生まれているとき、そこには原初的な形の社会システムが生まれているのです。そして、関係ないものは、そのシステム=まとまりにとっての環境ということになります。
ある話題やテーマといったものによって、特定の制限されたコミュニケーションが繋がっていくとき、そこにコミュニケーションのシステムが生まれている。関係すること(自分・内)とそうでないもの(環境・外)の区別がなされながら、次々とコミュニケーションを生み出していく。コミュニケーションがシステムを成しているとき、そのシステムの要素はコミュニケーションなのですから、コミュニケーションのシステムは、その要素を自ら作り出す。自らの要素を自らが作り出し、その作り出すことが続くことでシステムになっているのです(このようなシステムのことをオートポイエーシスと呼ぶこともあります)。
コミュニケーションのシステムは、要素を自ら生み出していく
システムとは、コミュニケーションの繋がりが一定の区別を維持しながら保たれている状態ですから、極端に言えば、コミュニケーションにおいて、何らかの区別が繋がっているとき、境界が生まれているとき、そこにはシステムがあると言うことができるでしょう。
社会システムについては、組織まで話が進んだ時に、あらためて取り上げて論じたいと思いますが、ここでは、コミュニケーションが繋がりとまとまりをもって進行していることをシステムと呼ぶということは覚えておいてください。
協働論
協働の成立
コミュニケーションの継続
協働(cooperation)とは二人以上の人間が共に働くことです。その本質的なものとは、相互行為であり、相互行為が成り立つということは、コミュニケーションが継続して行われているということです。コミュニケーション論で確認したように、コミュニケーションは二者の間で選択が連鎖していくことですが、相互行為は自分が行ったこと(選択)が相手の行為(選択)に影響を与えるということですから、コミュニケーションに他なりません。また、コミュニケーションもそうした相互行為として記録され記憶されていきます。ですから、協働とは、人々の間でコミュニケーションが継続していくことだと考えることができます。そこで、二人の人間の間で安定的にコミュニケーションが継続するための条件を解き明かしていくことにします。ただし、コミュニケーションが安定的に継続するということは、二人が「仲良くする」とか「分かりあう」、あるいはコミュニケーションで合意に達することではありません。たとえ喧嘩であっても、それが続いて進行するならコミュニケーションの継続とみなせます。また、言語的なコミュニケーションに限らず、通常なら相互行為と呼ぶような行為も、選択の連鎖としてコミュニケーションとして捉えます。
協働:複数の人間の間のコミュニケーションの継続
さて、この講義での人間に関する出発点である、人間の意識(心、精神)は、互いに不透明である、というところから出発しましょう。互いに何を考えているのか分からない2人の人間が出会って、そこで二人の間で安定的なコミュニケーションの継続が成り立つには、何が必要か? ここでは、原理的な点を考察するために、状況や場から得られる情報はないものとします(たとえば、大学という場であれば、たとえ見知らぬはじめての人間でも、最低限、学生であることは手掛かりになるわけですが、そういう場や状況からの手掛かりはないものとします)。
堂々巡り(ダブル・コンティンジェンシー)
何の面識もない二人の人間が出会う。このとき、二人の人間は、互いに、相手がどうするかを予想した上で自分の行動を決めようとする。AはBの出方をまって行動しようとする。BはAの出方を待って行動しようとする。こういう状況では、互いに相手の出方を待ってしまう堂々巡りに陥ることになります。初対面の人と何を話していいか分からないで悩んでしまう状況を思い浮かべてもらうとよいでしょう。
このような、互いが、相手の出方に依存する(コンティンジェント contingent)ことによって不確定になることをダブル・コンティンジェンシー(double contingency)と言います。
コンティンジェンシー(contingency)には、いくつかの意味(訳語)があります。ここでいうコンティンジェンシーは、「何かが必然的でもないが、デタラメでもないし、まったく不可能でもない、その場、その状況次第であること」という意味だと思ってもらえばよいでしょう。必然的でもなく、ランダム(偶然的)でもないことをさして、コンティンジェンシーを偶発性と訳すこともあります(偶然性と訳されることもあるので話がややこしいのですが)。また、何が「正しい」かをあらかじめ決められなくて、その場次第でやりくりするしかないということを強調するために、予測不可能性とか状況依存性と訳すこともあります。さらに、いろいろな条件に依存して決まるということを強調する際には因果的従属性と訳されることもあります。偶発性、予測不可能性、状況依存性、因果的従属性と並べると、前の二つと後ろの二つが別々のことを指しているように思えますが、これがコンティンジェンシーという一つの言葉に込められているのです(だから、コンティンジェンシーという言葉が出てきた時には、注意が必要なのですが)。なお、経営学には、科学技術や社会資本・文化などによって組織の「正しい」あり方は決まるというコンティンジェンシー理論と呼ばれる考え方があります(環境依存、従属性の側面のコンティンジェンシーです)。
二人の人間がなんらかの社会的関係を築き始めるには、このダブル・コンティンジェンシーを処理する必要があります。
社会的関係を築くには、堂々巡り=ダブル・コンティンジェンシーの処理が必要
では、この堂々巡りはどうのりこえられるのか? それは、とりあえずどちらかが何かをすれば、それを手掛かりとして関係を築くことができるということにあります。人間の行動は、なんであれ、他でもありえたという選択として受けとることができるということを以前に話しました。本人の意思や意識に関係なく、受け手が選択的行動として受けとって解釈することができるし、おきる。それが手掛りになります。
AとBの二人が、お互いに何かしなければという堂々巡りの状況にあったとします。このとき、たとえば、AがBに対して何かしたとする(少なくともBは、Aが自分に対して何かをしたと感じたとする)。このAの行動は、Bにとって、Aの選択として現れます。つまり、Bは「他にも色々なことができたであろうにAはあえて自分に対して○○を行った」として、そこから、Aに関して、「おそらく〜ということではないか」という読み(予期、思い込み)を立てることができる。あるいは、少なくとも、自分がどのように応えるべきかを予測できる。それを手掛かりに、BはAに対して何かを行うことができるということになります。反応することによって、コミュニケーションの意思だけでも伝えられることになります。
そして、実際にBがAに対して何かの振る舞いを行い、それがAにとってBの自分への反応だと受けとられ、それに基づいてAが再び応答する……、このようにして、(うまくいけば)コミュニケーションの連鎖が開始されていくことになります。
ここでは何が起きているのでしょうか? それは、なんであれ人の振舞は選択として了解できるということによって、それをきっかけに、うまくいけば、選択の連鎖としてのコミュニケーションが立ち上がるということです。コミュニケーション論で確認したように、コミュニケーションは選択の連鎖です。何らかの選択的な出来事が繋がっていくとき、それはコミュニケーションなのです。
偶然であれ何かが選択として生じれば(受け止められれば)コミュニケーションを起動する
何であれ、何かが行われると、それを選択として解釈できる。そして、少なくとも「自分に対して何かをしようとしている」という仮定に基づいてその選択を受けとめ、自分がどう反応するべきかを決めることが可能になる。相手の行動がコミュニケーションとして受けとめられるとき、その行動は、次なる行動の選択を可能にするという意味で、行為になるのです。
偶然にせよ何らかのきっかけでコミュニケーションは始まる。このとき、先ほどの堂々巡りは解消されてしまったのではありません。確かなものを探していたら堂々巡りになって途方に暮れてしまうからこそ、何であれ選択的な行動として受けとる(それがコミュニケーションの端緒を開く)という圧力として姿を変えて(潜在化して)働きかけているのです。ダブル・コンティンジェンシーが選択へと駆り立てていると言えます。
また、このようになんらかの偶然的きっかけで展開し始めるプロセス(コミュニケーションのつながり)は、何か確実な出発点や基準点に基づいて展開するものではなく、どのように展開していくかということも不確定・未規定なままにスタートするゆえに、その都度の、その場での、その相手との、多様な展開がありうる(社会的関係の多様性)ことになります。
ダブル・コンティンジェンシーが選択への感度を高める
ダブル・コンティンジェンシーは、解決されるのではなく、潜在化される
なにかが「正しい」ときまっているわけではない状況で、その場で、なにか「正しいと思える」ことをするしかない。これがコンティンジェンシーに直面した時の行動になるわけですが、そのとき行った行動は、それが「絶対に正しい」わけではなく、もしかしたら他にやり方があったかもしれないことになります。つまり、他の可能性(それは具体的なものとしては現れませんが)があるなかでの行動として、選択(他で〜ではなく、これ)になるわけです。このように、コンティンジェンシーは選択に結びついている、というか、コンティンジェンシーを背景として選択が現れる、と言うことができます。
自己を晒してしまうこと
どちらかの最初の振舞によって堂々巡りが破れて事態は動き始める。このように書くと、何か決意をもって最初の一歩をどちらかが踏み出す必要があるかのように感じられますが、実際は、本人にそのつもりはなくても、最初の一歩を示してしまうことがおきます。それは身体的な振舞です。
お互いに相手によって見られていることが分かっている状況では、どのような身体的な振舞も、一つの選択として相手に受けとられる可能性が生じます。何もしないことも含めて、互いに知覚している状況では、いやおうなく振舞は選択になる可能性をはらみます。私たちが身体をもつ存在であるというそのことによって、私たちは他者の面前にいる際には、自分に関する情報を表示してしまっているのです。
また、自分の振舞が選択として受けとられることを自覚することによって、互いに自分の振舞が、何らかの選択として解釈されるであろうという圧迫感を感じることになり、そのことが選択的に(意識的に)振舞うことを強制することにもなります。このように、私たちは、互いに見られているという対面的状況においては、自らの振舞が選択として受けとられること、それゆえに、選択的に振舞うことへの圧迫感のもとにおかれることになります。
ともに知覚している対面的状況のことを、ここでは共在と呼ぶことにします。共在の状況においては、我々はいやおうなく選択的に振舞うことを強制されるわけです。共在という状況がコミュニケーションであることを強制する(コミュニケーションとして受け取られてしまう)といってもよいでしょう。
共在→選択圧力→コミュニケーション
このことは、何もここで述べているような特別な状況だけで起きるものではありません。日常的に、私たちは、誰かに見られているという状況では、自分の振舞が他人にどう思われるかということを多かれ少なかれ意識せざるを得ません。また、どのように思われるかということは、自分ではコントロールできません。だからこそ、人前で何かすることは緊張するわけです。
共在において振舞は、まずはその動作を行った人間に関する情報として受けとられます。つまり、振舞は何らかの自己呈示として受けとられる。互いに自己というものを選択的に呈示している(何らかの自己表現を行っている)ものとして了解されていくことになります。もちろん、最初の段階で受けとられていくのは、漠然とした印象といったものにすぎません。そこでは、受けとった側も、主観的な思い込みであるかも知れないという保留がどこかに潜んだものでしょう。しかし、それは相手の振舞によって生じたものであり、それによって相手に対する予期を作り出していくものになります。
わたしたちは、相手の行動の原因を、まずはその相手個人の内面に帰属させる、つまりその人らしさとして受け止める傾向があります。こうした傾向を社会心理学では対応バイアス(correspondence bias)と呼びます。このため、相手の振る舞いを受け止める時、この人はどういう人なんだ?という観点が中心になって受け止めることになります。
振舞の選択性=相手の自己呈示→予期
さらに、振舞は、自己に関する情報であると同時に、その場をどのように捉えているかを示した情報としても受けとられます。つまり、「その場にふさわしいことをしようとしている」という規準をもとに解釈されるわけです。コミュニケーション論のところで述べた応答可能性の話や理由の空間のように、状況をふまえて何らかのその人なりに「ただしい」ことをしようとしている想定がここでも出てきます。この想定を土台とすることで、相手の選択を、自己の呈示と状況の解釈の呈示として読み解くことを行い、それによって相手の選択に応じることが可能になる。お互いの振舞が、その動作を行った者の情報と、その動作を可能にした条件として予想される状況の情報として呈示される。私たちは、他人の振舞をもとに、互いに状況について認識し、その認識を手掛かりに自己の振舞を調整していくことになります。
ただし、この状況(役割)については、相手だけでなく、周りの他の人との比較の中で類似と差異として浮かび上がってくるものですから、ここで想定しているような一対一の場面では見えにくい側面ではあります(日本人とか、男/女といった大きなカテゴリーのもとでの評価・観察は可能かもしれませんが)。
もちろん、日常的な場面においては、状況の手掛かりが相手の振舞しかないということは、まずありません。具体的な場所というもの、時間、相手の外見等のように、相手が何をするかに関係なく、状況を示すものとして手掛かりにできるものはあります。ただし、そうした手掛かりというものも、客観的に読み取れるようなものではなく、そうした状況の手掛かりを相手がどのように「利用しているか」は、振舞いを通しての互いの選択の突き合わせの中でしか確定できません。周囲の環境のなかから、何が関連し、何が関連しないのかという区別を行って状況という枠組を組み立てることになりますが(状況とは、ある意味で、利用できる様々なリソースに対して関連/非関連の区別を付けることでできあがっているものです)、その組み立ても、最終的には互いの振舞いを通じて確証することになります。
振舞の選択性=相手の状況認識(役割)→予期
センス・メーキングとイナクトメント
どうにかしなければならないけど、どうしていいかわからない。今、わたしたちが考察している場面は、このようなものです。数学の問題のような正解が必要なのではなく、とりあえず、その場でどうしたらいいか、自分で納得して行動するための手がかりを探る。「正しい」かどうかよりも、それで何とかなるかどうかの方が重要で、そうした納得できる筋を探す。そうした活動のことを、センス・メーキング(sense making)といいます。
「意味を作る」と訳してしまうと、何のことだ?とかえって分かりにくいのですが、英語で「なるほど、そういうことか」「わかった!」という時に、"That makes sense!" という表現を使う、その時の「sense =なるほどと思えること」を「make =作る」活動ということです。意思決定をすること(状況を分析して、最善の答えを選択する)をデシジョン・メーキング(decision making)と言いますが、これと対比される行動です。センス・メーキングの訳語はいくつかありますが、どれもこの意思決定との対比や、なるほど!感をうまく出せてないように思いますので、ここではセンス・メーキングのままにしておきます(中点なしの「センスメーキング」を使うことも多いようですが、ここではデシジョン・メーキングとの対ということで中点を入れた表記を用います)。
意思決定(この講義では「意思」を外して、「決定」と呼ぶことにするのですが)については、後の組織に関する議論の際に、改めて取り上げて論じます。組織を考える上で意思決定は重要なものなのですが(組織は意思決定の連鎖であるとみなせる)、組織に関わる活動におけるセンス・メーキングの重要性を取り上げたワイク(Weick)は、それまでの意思決定中心の組織理解(バーナード、サイモン)を批判する(否定ではない)議論を展開しています。
さて、デシジョン・メーキング(意思決定)が最適・最善の答えを決めようとするのに対して、センス・メーキングはその場で納得できることを見つけ出す(思いつく)ことです。正確性より納得性、説明可能性ではなくて物語的明快性、それがセンス・メーキングにとって重要なことです。本当はどうなのか(全体図)よりも、とりあえず自分のアクションを踏み出せる道(パス)を見つけることです。
言うなれば「何かのゲームが始まっていて、その真っ只中に自分は放り込まれているのだが、それがどんなゲームでどんなルールなのかよくわからない。ゲームについて全くわからないわけではなくて、なんとなく手がかりになりそうなものはあるけど、どれをどのような手がかりにすればいいのかは、よくわからない。でも自分は何らかのプレイをしなければならない」、そういう状況です(くどいですが)。もう少し単純にすると、「ボスキャラとの対戦の場面に入ってしまったけど、物理的攻撃が効くのか、攻撃系魔法が効くのか、あるいは防御系魔法とのどういう合わせワザが必要なのか、それがよくわからないけど、勝つためには(ゲームを進めるには)、何かのアクションを選択するしかない」、そんな感じです。
センス・メーキング:とりあえず納得できる手掛かりを探りあてること
このようなセンス・メーキングの過程では、とりあえず、なにかのアクションを起こすしかない状況になります(詳しくは論じませんが、容赦なしに経過する時間の中にいるわけですから)。その時に自分が行う行動は、「〜という状況(ゲーム)だとして、〇〇というプレイをする(手を打つ)」というように、単に「何かをする」ことだけではなく、それをするのが「ふさわしい状況」の自分なりの理解の表現であり、主張にもなります。一つの動作が、その動作を意味付け、その動作を「ありにする」枠組みの表現(示唆)にもなっている。人が他人の行動を受け止める時には「(〜だから)〇〇ということをした」という図式が作動して、この「(〜だから)」の部分に、意図とかゲームとか規則とか様々なものが想定されて、帰属されるわけですが、このことは、何らかの動作は、常に、その場におけるプレイと、そのプレイを意味付けるゲーム(の枠組み)の二重のものとして受け取られるということです。つまり、センス・メーキングのプロセスにおいて、何らかのアクションを起こすことは、この二重のものとしてのアクション、極端に言えば、プレイすることでそのゲームのルールや枠組みを示し/決める、そういうものとしてなされるものだと考えることができます。
このような、プレイであると同時にゲームを示唆し立ち上げようとしている行動のことを、イナクトメント(enactment)と言います。状況、その場を定義しつつ(ある意味、作り出しつつ)、その場にふさわしい行動を行うことです。enact は法を制定するという動詞で、それを踏まえて、その状況を定義しつつ、その場で自分なりに振舞おうとすること(自分勝手に何かをするのではなく、あくまでも自分は〜をふまえてこうしているのだという態度で振る舞うこと)、それを相手(他者)に提示して受容/拒否の判断を仰ぐこと、です。これもピッタリとする訳語がないので、この講義ではイナクトメントという訳語を使うことにします。
センス・メーキングを行わなければならない状況に巻き込まれて、互いにイナクトメントしながら、その場を定義しつつ、自分の立ち位置を探っていく(作っていく)、そのプロセスを経ていくなかで、記憶の働きで予期が生まれてくる。それが協働の成立、コミュニケーションの連鎖の起動時に起こっていることです。
イナクトメント:「こういう場だよね?、だからこうするのがいいよね?」と、定義しながら定義に従おうとする行動
予期と本質
センス・メーキングのためにイナクトメントを行いながら、相手の反応をみつつ、手がかりを探っていく。このような予期を形成しつつある状況において、わたしたちの傾向として、様々な断片的なものの背後に、見えない(不可視の)全体や本質を想定して、それをつかもうとする、ということがあります。可視的なデータの背後に不可視の本質があると思い込むこの傾向のことは、心理学的本質主義と呼ばれます。
色々な出来事の中に、何かしら一定の偏り(方向性、パターン)が感じられ、バラバラではないように束ねているものがあるように思われる。その時、個々の具体的な出来事は、全体が見えない何かの表現、現れとして感知され、何かが状況に応じて反復されているように思われる。それを手掛かりに、たとえば相手の「らしさ」=人格とか、その場というもの、あるいはその場での役割(ふさわしさ)として了解していく。そうした「らしさ」として分かってくると同時に、自分もそれに慣れていく。あるいは、慣れていくものとして「らしさ」を生み出している。ぼんやりとしていたものが、だんだん焦点があってきて、輪郭を持ったイメージのようなものとして掴める。それが、予期が得られていくプロセスでしょう。センス・メーキングという活動を通じて、何かを名詞的に捉えられるようになる、と言っても良い。
私たちは、相手の何らかの選択的振る舞いに気付いた時(何らかの振る舞いが選択=コミュニケーション的なものだと感じられてしまった時)、単純に表面的な「〇〇をした」の背景に、「〜だから」というかたちで、そのように振舞わせた何か、見えない原因のようなもの想定します。この講義では何度も出てきている図式ですが、「〜だから、ほかでもなく、この〇〇をした」というわけです。その「〜だから」として意図といったものが出てくるわけですが、そのような意図を生み出すものとして、人格とか状況(役割)のような、その都度には変わらないもの、何か「反覆」しているものを想定するというわけです。
このように、相手らしさ、その場らしさ、といった「らしさ」がつかめたとき、私たちは「分かった」感じがするし、それを手掛かりにすることができるようになります。
「らしさ」のような、背後の本質のようなものが「わかる」ことが手がかりになる
様々な具体的な出来事の背景に、そこに断片的・部分的に表現されているような本質があると考え、それを知ろうとする、というのは、私たちが何かをわかり手掛かりにするためには有効な方法ですし、わからないものをすっきりさせてくれます。しかし、本当にそのような隠れた本質、一つの本当の本質のようなものが存在するのか、ということは、保留が必要です。これまで幾度も述べてきたように、「本当かどうかは別にしてそのように思っておけば(思い込んでいれば)、行為やコミュニケーションが滞りなく行える」、そのような手掛かり=予期としてリアルなものですが、それはあくまでも、そのように理解しておくと分かったつもりになれるというものでしかない、ということです。そして、このような見方で自分を捉えようとする時、たとえば「本当の自分」が誰にも完全には分かってもらえないようなものとして、でも確固たるものとして、自分の中にある、といった考えにハマってしまうことになる。そして、そのことが自分を変に縛ったり方向付けてしまうこともある。そうしたトラップが潜んでいることは理解しておくべきでしょう(といっても、そう思ってしまうのが楽なので、本質主義をやめちゃうなんてできませんが)。
人格と役割
さて、このように、コミュニケーションを通じて、相手の人格(キャラ)への予期、(広義の)役割への予期が生まれてくることになりますが、それぞれについて、もう少し詳しく見ておくことにしましょう。
「人格」
個人に対する予期というものは、通常、私たちにとっては、「その人らしさ」、人物像として捉えるものです。やや堅い形でいえば、その人の人格(パーソナリティとかキャラクター)として、相手に対する予期を形成していきます。つまり、私たちが他人を「分かる」というときは、その人に対する一定の予期をもつことができるということなわけです。人格というのは、その人に着せられた予期(の束)だと言っても良いでしょう。コミュニケーションの中で、私たちが理解する「他人」とはそういうものです。
人格はコミュニケーションの中で形成される予期
通常、私たちは、人格なりパーソナリティといったものは、その人の内面にある何かが(本当の自分)が表面(行動)に現れたもの、として理解しています(心理学的本質主義)。不透明さの膜から透けて見える相手の真実、みたいなものとして。しかし、上の議論は、外部からその人に帰せられた予期が人格であるという構図になっています。この違いに注意してください。極端に言えば、自分がどんな人間かということは、周りの人間が自分をどんな人間だと思っているかということである、ということです。これが、コミュニケーションにおける私たちの人格の把握の仕方であるということです。
もちろん、コミュニケーションを通じて自己表現を重ねることで、自分のセルフイメージと、相手が抱いている人物像をする合わせていくことは可能です。しかし、コミュニケーションの中で自分の内面にある「本当の自分」が正しいという図式は、通用しない。ちょうど、コミュニケーションにおいて発話者の意思が、受け手の理解の「正しさ」を根拠づけないのと同じことです。コミュニケーションの継続にとっては、相手の人物像(予期)が真実かどうかは問題ではなく、その予期によってコミュニケーションを継続できることが重要なのです。
もちろん、自分の理解のされ方が自分のセルフイメージとは異なること(それは当然起こりうる、異常でも何でもないことですが)が、本当の自分探しという泥沼へ自分を追いやってしまうきっかけにはなるかもしれませんが、本当の自分(そんなものがあるとして)を見つけてそれを十全に表現したところで、そのように自分が理解されるかどうかは別の問題であるということは変わりません。本当の自分なんて探している暇があったら、コミュニケーションの中で自己をどう表現するかというセルフ・プロデュースの戦略を考えた方が実りがあるということになるのかもしれません。ともあれ、この講義では、個人の人格とは、コミュニケーションの中で帰属された予期の束であるということを基礎とします。
つまり、人格とは、コミュニケーションの中で、コミュニケーションを通して、相手(周囲)によって作られ、自分に帰属させられる(押し付けられる、被せられる)ものだということです。自分が持っているものではない。自分とコミュニケーションをするために/続けるために、相手が抱くものだということです。自分について他人が書いたガイドブックなのです。
他人にとっての「私」(というキャラ)とは、他人が自分について書いたガイドブック
人格のように、コミュニケーションを通じて得られる予期は、コミュニケーションのための予期である(でしかない)ということですね。
予期の予期
次に、他人に対する予期というものは、厳密に考えると、予期の予期という形になります。つまり、「その人がどのような予期に基づいて行動するか」ということに対する予期、相手がもっている予期に対する予期、これが人格的な存在としての人間に対する予期ということです。
人格=予期の予期
なぜ予期の予期になるかといえば、人間に自由がある(自由を認める)からです。原則的には自由勝手に行動できるはずの人間が、一定の傾向性を見せるとき、その傾向性(パターン)を予期として捕まえ、人物像を形成するわけですが、その傾向性とは、あくまでも自由であるにも関わらずそうするだろうというというものであり、つまりは行動の基盤となる予期がそういうものだからという理解になるということです。
相手の行動を評価する場合、相手が自由意志があるに関わらずそうせざるをえない法則とか限定があるというのであれば、それは人格的なものへの予期ではなく、身体的・物理的な法則(あるいは社会的な制約)への予期、つまり状況への予期になります。私たちが人格(人物像)として押さえるものは、自由意思を持った人間が自発的に行動する場合の傾向性であり、言ってしまえば自由にするときに現れるパターンです。このパターンは、その行動を支える予期によって生み出されると考えるしかない。ですから、人格的な人間の把握は、予期への予期になります。簡単に言ってしまえば、私たちが相手を分かろうとしているときは、相手がどんな予期をもっている人間かということを分かろうとしているということです。
そして、この相手の予期の中には、相手が自分に対して抱いているであろう予期も含まれます。こういうと何かややこしいもののようですが、ようは、相手が自分のことをどんなやつ/どんなことをすると思っているのか、ということです。相手が自分に何を期待しているのか、というとわかりやすいでしょう。普段のコミュニケーションにおいては、こちらの予期(相手が自分に対して抱いている予期)を感知することの方が重要かもしれません。それは自分の相手に対する行動の直接の手がかりになります。
信頼
この相手のもっている予期にたいする確かさの感覚が、信頼というものの基盤となります。信頼とは、その人の行動とその背景に想定される人格(人物像)がブレないという感覚、つまり、その人が、常にその人らしい行動をするだろうという感覚を基盤として抱くものだと言えるでしょう。ここにあるのは、相手は、相手のもっている人格的な予期に従うことへの予期です(話がややこしくなってきてますが)。状況の変化にも関わらず、その人がその人らしく行動するだろうという予期が得られるとき、私たちはその人を「信頼する」わけです。その信頼とは、相手が自分の予期に従うように/外れないように、ある種のセルフ・コントロールを行うだろうという予想とも言えるでしょう。いかなるときもその人らしい人を私たちは信頼する。個人的・人格的信頼とは、相手の中の予期と相手の行動との関連性の強さに向けられています。
相手の予期の一貫性が信頼の基盤
信頼が向けられるのは、自己規制力であるとも言えるでしょう。さらに、時間の経過の中での安定性、つまり一貫性が問われるということになります。
信頼とは、その関連性の強さを感じた人が一方的に抱くものです。信頼は、するものであり、されるものであって、してもらうものではない。予期と行動の関連性が信頼というものになるのは、そこに自由が絡むからです。つまり、原則的にはどのようにも行動できるにも関わらず、その人らしくあり続けているということ、自由をコントロールしていることへの予期、それが信頼です。ですから、計算と違って、信頼には、もしかしたら裏切られる(予期が外れる)かもしれないという保留がかならず着いています。そして、信頼し続けていいものかどうか、つねにチェックが働き続けるものです。なお、信頼の反対は不信(信頼できない)ですが、たとえ相手を信じられなくとも、私たちは信じられない人間として扱うことでコミュニケーションの継続が可能です。その意味では、コミュニケーションの継続という観点からすれば、信頼の反対(否定)は、「わけがわからない」(信頼していいのかどうか分からない)ということだと言えるでしょう。
「役割」
私たちが具体的な相互行為を行う場合には、つねに何らかの状況、場の中で行います。ですから、私たちが抱く予期についても、そうした場・状況に関連するものが含まれることになります。共在における議論の中で触れたように、私たちは相手の選択を受けとめる際に、相手がその状況にふさわしいことをしようとしている、という観点から押さえます。ですから、そこから相手に対する印象=予期と、状況の定義=予期とが生じてきます。
そして、状況の予期は、その状況へのふさわしさ、言ってしまえばその状況で担うべき「役割」という形でおさえられます。つまり、相手に対する予期が、一方はその相手の個人的な特質からくると思われるもの(これを人格として押さえておきます)と、他方はその場の状況から来ると思われるもの(これを広義の役割として押さえておきます)との二本立てになるわけです。後者の役割は、その人でなくても同じような状況ならばたいていの人はそうするであろうという予期、つまり匿名的な予期になります。
何らかの行動を起こすとき、私たちは、必ず「私が、この状況にふさわしい〇〇として、XXの振る舞いを行う」という枠組みで行動します。このときの「〜として」が広い意味での役割です。
役割=状況でのふさわしさ(=立場)への予期
個人の行動が、人格的な予期と役割的な予期にわけて処理されていくということは、観点を変えるならば、人のどんな行動であれ、その行動は、人格の表現と役割の表現という二面の表現によって受けとられていくものであるということです。単純に言うなら、どんな行動も自己表現でもあるし役割遂行でもあるということです。自己表現は止められない、といってもよいかもしれません。このように二重の表現として私たちは他人の行動を評価し予期を形成するようになっています。
人間行動の二重性:自己表現と役割遂行
ただし、ある行動の、どの部分が人格的表現で、どれが役割的表現なのか、ということは受け手の状況理解次第です。客観的・絶対的な区切りがあるわけでもなく、そうした区切りをつけることが可能でもありません。人格と役割の二面の区別が行われるということは確実ですが、特定の振舞いがどちらで評価されるのかは、コミュニケーションの当事者次第です。
たとえば、100%の自己表現だけといったものはありえません。パフォーマンスのように自己表現だけを目的として行われるものであっても、それが自己表現として読み解かれ受けとられるためには、何らかの枠組みにしたがっている、極端に言えば「自己表現を行っている」という枠組みにしたがっていることが了解されなければなりません。そうでなければ、ただのデタラメになってしまうでしょう。行動が行為として受容されるということは、そこに行為としての連関を成り立たせる「役割」がかならず意味付けられるということです。一方で純粋な役割遂行もありえません。どんなにあらかじめ決められた指示通りの動作を行っている場合でも、「指示通りにまじめに役割を遂行する人間である」という自己表現として受けとれるからです。どのような役割であれ、それが一人の人間によって担われるしかない以上、かならずその担い手の自己表現(自己呈示)になります。このように、具体的な行動は人格と役割という二面で理解され、予期を生み出すことになります。
行動が役割と人格という二面で受けとられるということは、体験・経験の履歴(歴史)が二面的に記憶されていくということでもあります。過去というものを参照することで私たちは関係を安定的なものへと仕向けていくことができるわけですが、その過去が二つに分けられ参照されるということになります。そして役割的な過去というものは、共有された過去として受けとられていくわけです。その場で起こったこと、その場だから起こったことの積み重ねのうちの、場の特有性は、ここでいう広義の役割的記憶として積み重ねられるからです。
「関係」の予期
過去=履歴・記憶
コミュニケーションが成立し、応酬が続くようになると、その応酬の積み重ねの経験・記憶、つまり過去(履歴)が生まれますので、少しずつ、過去=履歴を手掛かりにもできることになります。先ほどのテーマや話題も、この履歴になります。過去は、確実に起こったことであり変わりませんから、それを確実な判断基準として用いることができる。もちろん、その過去をどのように解釈し意味付け予期へと繰り込むかは、個人ごとに異なる。しかし、時間の進行の中で互いに応酬を重ねていくことで、互いに相手への予期を絞り込むことになる。行動の応酬、つまりコミュニケーションの連鎖が継続進行していく中で、その履歴(過去)によって、ありうることの可能性が互いに限定されていくことになります。関係というものに対する(関係に基づいた)予期が形成できるということです。
関係があること、続いていること、他の人たちとは違う関係であること等、関係が生まれたこと(お互いの間にシステムが生まれていること)が、それをどうするのかといった次元で行動の手がかりへとつながることになります。私たちが普段「つきあい」と呼んでいるものが、ここでいう関係の予期にあたるでしょう。色々とつき合ってきた中で二人で体験したこと、それが相手とのつき合い方を導くことになる。友達としてつき合っている、恋人としてつき合っている、といったときの「〜としてつき合っている」ということが、一つの枠組みとして関係を支えることにもなっています。
時間が経過する中で関係の予期(=「つきあい」)が生まれる
この講義では、コミュニケーションのつながりとまとまりをシステムと呼ぶわけですが、コミュニケーションのつながりが続く中で、それが何か「他とはちがうもの」としてのまとまりを形作り始め、そのまとまりが、つながりの手がかりとなる。関係の予期が生まれ、手がかりになるとは、そういう状況です。続いていることが、「続いているもの」を生み出し、それが続くことに関わってくる、というわけです。
抽象的に言えば、プロセスがプロセス自身に関わってくる=プロセスの再帰化です(過程的自己準拠と呼ばれることもある)。
ただし、友達としてのつき合い方にも色々あるように、実際には関係をさす言葉(概念)では捕捉できない個別的で具体的な予期が生まれます。また、一般的な言葉や概念に当てはめることが、関係の予期を方向付けることになることも起こります。
このように、時間が進行して行く中で、非可逆的に出来事が積み重ねられ、その積み重ねが「共有」されるとき、コミュニケーションの安定的な継続が生まれてきます。互いの抱く相手に対する予期が、コミュニケーションを切断してしまうような齟齬をきたさない限りにおいて、コミュニケーションを続けることができるわけです。履歴=記憶の蓄積によって、関係の次元において、互いのつきあいやすさ(=接続可能性)を増してくる、と言うことが出来るでしょう。
履歴の共有=関係の予期による接続可能性(付き合いやすさ)の強化
誰かと親密になるということは、この記憶の共有ということによります。記憶の共有と言っても、各人が同じ意味合いのものを共有するということではありません。同じコミュニケーションの連鎖に関わってきたということの共有です。このような記憶の共有だけが関係を支えるというのは、ある意味であやうい。何か、それまでの経験がもたらした予期を覆すようなことが起きたとき、一気に過去は疑わしいものへと転ずる可能性があります(ずっとだまされていた、ずっと勘違いしていた……)。ですから、関係の安定化のためには、記憶の共有だけではない、なにか制度的な支えがたいていの場合には必要になります。
なお、恋愛関係のようなものの場合には、記憶の共有以外に、秘密の共有(一定のテリトリーの内側にある限られた情報の開示と受容)が鍵になると考えられます。
このように、具体的な状況における相互行為・コミュニケーションの継続においては、相手に対する人格的な予期、相手に対する役割的な予期、そして継続を通じて生まれて来る関係の予期、とおおまかわけて3種類の予期が生まれてくることになり、私たちはこの3種類の予期の形成と確認を経ながらコミュニケーションを積み重ねていくことになります。
3種類の予期:人格、役割、関係
予期の両立可能性(compatibility)
これまで述べてきたように、たとえ互いに全く不透明な二人の人間が堂々巡りの状況で出会ったとしても、そこに偶然であれコミュニケーションが始まれば、互いに予期を抱き、それを履歴で検証していくことで、予期が両立可能なもの(互いに接続可能なもの)となって、コミュニケーションの安定的な継続(=システム)が生じる可能性があるということです。このとき、互いに相手に対して抱く予期は、相手の真実だとか本当の姿に迫るものかどうかということは関係ありません。とりあえず、相手はこんな人間だ(こんなことを考えている、こんなことをする)と思うことでうまくいくということだけです。
つまり、いったん始まったコミュニケーションは、コミュニケーションがそれでうまく行くということだけを最終的な基盤として、コミュニケーションの継続を成り立たせる予期を生み出すことになるわけです。システムと概念を使うならば、システムは自らが成り立っていることから存続の基盤を固めていくと言えるでしょう。
システムは、自らが継続していることを基盤とする
ここまでの話は、言ってしまえば、二人の人間の協働=コミュニケーションの継続は、互いの予期が両立可能であることによって成り立つ、という話です。それを最初にいえばいいのに、ここまで回り道をしたのは、予期が両立可能になる(一致するということではない)には、何らかの確固たる共通の基盤のようなものがなくてもよいということを確認しておくためです。コミュニケーションが進行を始めると、それが進行して行くことが、コミュニケーションを安定的にする可能性があるということ。二人の人間が互いに不透明であるとき、この不透明さを解消しなくとも、不透明なままで関係を築くことができること、このことがポイントです。
互いに相手に対する妄想を抱いているだけであっても、その妄想が、これまでの両者の間の出来事の履歴と、その都度の相手の行動とによって、「間違っていない」と「確認」でき、自分の行動の手掛かりにできるとき、妄想を抱いたもの同士がコミュニケーションを継続することは不可能ではないわけです。
人間の不透明さを解消しなくとも、コミュニケーションの継続、システムは成り立つ
予期の安定化=一般化
ここまでで確認したように、協働は、関与する人間の互いの予期が両立可能であることによって成立します。そして協働が安定化するには、この予期が安定的になることが重要だということになります。
予期が安定的になる、といいましたが、予期がどのようになれば「安定的」だと言えるのでしょうか? 記憶=歴史の共有を経ていくことで、予期はどのようになれば「安定的」になるのでしょうか?
それは、予期が個々具体的な出来事に左右されなくなる(左右されにくくなる)ということです。つまり、色々と細かい例外はあるにせよ、たいていは通用するような予期というのが、安定的な予期ということになります。言い方を変えれば、予期が単純化、無差別化するということです。
個人の人格に即していうならば、「Aのようなことする人」「Bのようなことする人」…… という個別実例の列挙による把握から、「基本的にはやさしい人だ」「面白い人だ」云々という、いわゆる性格の次元で捕まえることができるということに相当します。そうすることによって、多少のブレはあっても、だいたい「その人らしさ」のようなものは分かるし、また、時として予期に反するような行動に遭遇しても、異常な(例外的な)行動として位置づけて流すことができるようになります。このように、なにが「普通」「ノーマル」であって、何が例外/異常なのかという区別ができるとき、それを支える予期は安定的なものになるということができるでしょう。予期が、個別の出来事の記録から、もう一段上の(抽象的な)レベルで形成されるということです。ザクっと一言で言えば、予期が認知的なものから規範的なものへと変わるということですが、このような予期のレベルアップのことを、予期の一般化といいます。それがなされたとき、予期は安定化するということです
予期の安定化=予期の一般化
予期の一般化の3方向
予期の一般化は3つの方向で展開される必要があります。その3つとは
- 時間的一般化
- 内容的一般化
- 社会的一般化
です。それぞれについて見ていくことにします。
時間的一般化
まず時間的一般化ですが、これは時間が変化しても予期を変えなくて済むということです。時間の変化とは何か? それは状況の変化です。状況が変化していくということは、予想しなかったことが起きるということです。つまり、予期に反する、期待外れの出来事が起きていく、それが時間が経つということの本質です。ですから、予期に外れる出来事が起きても、予期を変える必要がない、そういう予期であれば、時間が経つ中で安定的であるということになります。
予期の時間的一般化:時間が経っても通用するようになる
予期に外れる出来事があっても予期が揺るがないようにするには何が必要か? 予期に反することが起きたときにどのように対処するのかがあらかじめ決まっていればいいわけです。端的に言えば、これは、先ほどの人格の例で話したように、予期に反することを異常/例外として位置づける、ということになります。つまり、たいていは「正しい」が、時として外れるようなことも起こりうる、という形で予期を形成できるとき、その予期が時間的に安定することになります。外れることがあるかもしれない予想というのが、いちばん強い予想です。
予想外のことを例外/異常として処理できるということは、なにがノーマルで何が例外かの区別ができるようになることだと言うこともできます。
もちろん、自分が抱いている予期が間違っていることを認めざるをえないようなことが起きる可能性はあります。予期というのは、根本的には勝手な思い込みですから、思い込みが間違っていることは当然ありうる。ですから、場合によっては予期を変更しなければならないかもしれないが、通常は、たいてい通用するもの、という形を取るのがよいということになります。私たちが互いに体験を積み重ねていく中で、私たちは、このような形で、帰納的に予期を一般化していくわけです。変化しないパターンを抽出しているということですね。ただし、しつこいようですが、絶対的に通用するものになることではありません。あくまでも、それまでの過去の履歴から推定したものであり、これまではとりあえず通用していたというものでしかないという点は消えません。端的に言うと、どう転んだって予期は予期でしかありえないということです。
だからこそ、各人には自己規制力と一貫性が求められるという圧力がかかっているわけです。
内容的一般化
次に内容的一般化ですが、これは、個々のその都度の出来事の内容に予期が振り回されなくなることです。状況から独立した予期になることです。先ほどの人格の話でいえば、まさに個人を人格としてつかむことです。ある種の役割を想定すること、さらには関係の予期(共有された体験に基づく予期)が作られること、こうしたことによって、予期の内容的一般化が実現します。根本にあるには、何らかの変化しないモノを想定し、それに予期を結びつけるという図式の働きです。
予期の内容的一般化:その都度の出来事に振り回されなくなる
先ほど心理本質主義の説明の繰り返しになりますが、私たちが誰かの人格(その人らしさとか性格とか)を把握するとき、個々の行動は、行動した人間の中にある「その人らしさ」の「現れ」として解釈することで、その人らしさ=本質を想定するという図式で観察を行っています。外側には直接現れていない何らかの本質のようなものが人間の中にはあって、それが性格だとかその人らしさという形で捕まえることができると思っているわけです。この図式を支えているのは、本当に個人の内部に何らかの本質のようなものがあるかどうかではありません。個人の行動がある種の一貫性、傾向性を示すということ、その個人が記憶を備えた「同一性」を担っていること(過去に関するコミュニケーションに応答すること)、これによって、その背後に「変わらない何か」が想定される。このように、予期を何かのモノ(必ずしも物理的に存在する物ではない、コミュニケーションにおいて/の中で存在するモノ)に結びつけることで、予期は、個々の出来事に振り回されにくくなります。
変わらないモノの想定(帰着、帰属)
社会的一般化
最後の社会的一般化というのは、相手の内面を考慮せずに予期が妥当すると思えること、です。今、目の前の人間が何を考えているのかを気にしなくても、たとえば友人だからとか、別の指標によって予期の妥当性を前提できることです。協働だと、この部分は、あまり強くはないのですが、組織ではこの方向が強力に働くことになります。
別の指標によるというのは、お互いの関係を類型化し、その類型=モデルに基づいて相手に対処できるようになることです。先ほどの関係の予期の話の中で触れましたが、相手と自分は「友人/恋人/夫婦なのだから、〜してよい/受け入れるはずだ」といった想定でコミュニケーションが行えるようになることです。この場合、お互いの関係がある程度意識的になっていること、あるいは持ち込むモデルに食い違いがないことが、コミュニケーションの継続には必要となります。世間一般ではそういうものだとされている(思われている)ということが手がかりになりますので、その部分で意識の違いがある場合には、かえって食い違いの原因になります。このあたりは夫婦の役割分担など色々と問題があることはご存知でしょう。
社会一般に認められている(広く受け入れられている)枠組みというものを制度と呼ぶことができます。社会的一般化とは、予期を制度化する、あるいは予期を制度的な枠組みを基につかまえること、そしてそれでうまくいくこと、ということができます。
予期の社会的一般化:制度化、類型化、一般的な枠組みに当てはめること
一般に、制度というのは、この社会的一般化のためのものとしてあります。たとえば、車に乗っている人は、皆、免許をもっているはずだし、免許をもっているということは最低限の道路交通法などは理解している。この免許という制度のおかげで、車を運転しているとき、前から走ってきた車を運転しているのがどんな人間かを気にすることなく、曲がり角ではどちらが優先されるかとか、そういうことを予期通りに運転できるようになっています。
もちろん、こうした制度が機能するためには、当事者の了解・了承や、他者の予期を可視化する何らかの装置が必要になります。自分の勝手な思い込みではないことが保証されなくてはなりません。
言い方を変えると、社会的に一般化された予期というのは、その予期に対する他者(第3者)の同意・合意をあてにできる、と思われる予期、ということになります。この点は、予期が外れるようなことがあった場合に、自分は間違っていない/相手が悪いという形で処理できることにつながっています。恋人なのに誕生日を祝ってくれなかった時、友人に「おかしいと思わない?」と愚痴をいったら、同意してくれるだろうと思える、そういうことです。
第三者の合意・同意をあてにできる(だろうと思える)ようになる
以上の予期の一般化は、ざっくとまとめると、「変わらないモノがある」→変わらない=時間的一般化、モノが=内容的一般化、ある=社会的一般化(皆も認めるようなモノとして「ある」)、ということです。
協働システム
協働から協働システムへ
さて、いったん成立した協働が、中断を経て継続する必要が生じた場合、あるいはその協働が一つのまとまりとして他の人々などと社会的な接触活動を行う必要が出てきた場合、協働は新たな段階へと進みます。その段階へと進んだ協働を、この講義では協働システムとして押さえることにします。協働は、名前をもつことで、協働システムへと転化します。
名前をもつことによって、中断の後も「同じ」協働として再開することが可能になり、全体として外部との交渉も可能になります。中断の後、ふたたび同じ協働を続けるための条件とは何か? まず同じ人間があつまるということは必要ですが、それだけではなく、協働として「同じ」ものであることを可能にし、確認できることが必要です。それは、協働に名を付け、コミュニケーションにおいて名指せることによって可能になります。コミュニケーションによって名指せることで、過去の協働の記憶を、今の体験につなげることが可能になるからです。また、名前を持つことで、他の協働とは区別できる、つまりは社会的な一つのモノになります。
名前をもつことで、中断しても同じモノになり、社会的な一つのモノになる
ひとつのモノとして同じであること、「同じ」協働であることの保証は、名前が指している履歴(記憶)の連続性によって確保することになります。履歴の連続性を確保するには、再開の時点で、コミュニケーション(行動)において過去の履歴を互いに参照する必要があるわけですが、当然のことながら履歴のすべて(過去において起こったことすべて)を語り直すことは不可能ではないにせよ、負荷が大きすぎです。そこで関係に名前を付けることで、名指しすることで、参照するのです。同じ名前の集まりであること、つまり同一性は名前が保証し履歴が裏付け支えるのです(同一性とは、時間の中で、不連続に起きることを「同じ」と認められるということ、つまり何かが反復していると認められることです)。このように、協働が他とは区別できる名をもつことによって、コミュニケーションの中で言及することが可能になり、それによって同一性が確保できることになります。
名が履歴の共有を確保し、同一性(反復)をもたらす
先ほど、コミュニケーションが「つながり」と「まとまり」を生み出しているとき、それをシステムとしました。その意味では、協働が成り立っている状態は既にシステムです。しかし、その協働というコミュニケーションの連鎖が、名前をもつことによって、自分自身(システム自身)についてコミュニケーションが可能になり、また中断・再開も可能になる段階にいたったもの、コミュニケーション的に一つのモノとして扱いうる段階に至ったものを、この講義では協働システムと定義することにします。
名を持つことで、システムはシステム自身をコミュニケーションできる
コミュニケーションにおける名の意義
関係に名前を付ける、それだけのことをなんで大げさに取り上げるのかと思われるかもしれません。しかし、コミュニケーションにおいて、名をもつということ(名指しできるということ)は重要なことなのです。他と識別できる名前をもったものは、その名前をシンボルとして、コミュニケーションすることが可能になるのです。
これは何も協働に限りません。私たちがひとりの人間としてコミュニケーションに参加するための条件も、名前をもつこととその名前の記憶を保持することに帰着します。たとえばネットの掲示板では匿名や偽名での参加が可能になっているものがありますが、そこで対話がなりたつ条件は、参加者が他と識別できる何らかの記号と発言を結びつけることと、その記号で名指された時に応えるということです。
実名を伏せたまま参加できる匿名の掲示板でも、発言番号が名前の代わりに機能しているのを見ることができます。コミュニケーションの継続において、私たちは、それが本名だろうが偽名だろうが番号だろうがとにかく他と識別できる記号と結びつけることができる形で発言し、その記号への問い掛けを引き受けるということが、ポイントになります。端的に言うと、他の人たちから名指すことができるようになること、です。その名前が指すものの具体的内容が明確である必要はありません。皆が同じものとして名指すことができる、時間が経過する中で同じものとして名指すことができる、それが重要なポイントになります。言い換えれば、名前を引き受けるということは、同じ記号=名前としての履歴の連続性(一貫性)が求められます。その連続性が最終的に同一性を支えるのです。名前と履歴(記憶)、これがコミュニケーションの参加者である最低限の条件なのです。
名を持つ=呼びかけることができる者になる
名前に履歴・記憶が帰属される
コミュニケーション論のところで、コミュニケーションの情報と伝達行為の意味は、未完了なものとして「なぜ」の問いかけに開かれていること、それゆえにコミュニケーションによって他人と交わるものとしての責任=応答可能性があること、これらについて触れました。この場合の応答可能性=責任を負うとは、自分の名前に対して呼びかける者に対して、同じ者として、その名前に帰属させられた過去を記憶し保持しているものとして応えるということになります。
名(言葉)というものについては、以下の夢枕獏『陰陽師』からの引用(安倍晴明の発言)も参考のこと:
「ものの根本的な在様を縛るというのは、名だぞ」……
「この世に名づけられるものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」……
「眼に見えぬものがある。その眼に見えぬものさえ、名という呪で縛ることができる」
すこし話がそれましたが、協働は名前をもつことによって、一つの他とは区別されたモノとして、協働システムになるのです。そして、名前があることによって、たとえば飲み屋の宴会の予約をしたりできるわけです。名前によって、つながり・まとまりが「一つのモノ」になります。
協働が名をもつことによって、役割的予期、役割的記憶が、システムの名前をシンボルとした予期、記憶として整理され参照されることになります。厳密に言うと、この段階で、はじめて役割は役割として、場そのものとは切り離すことができると言えるでしょう。その場がどういう場でありどういう状況を共有してきたかということと(先ほどは関係への予期と呼んだものですが、これをシステム記憶、システム予期と呼ぶことにしておきます)、その状況の中での位置とその位置で匿名的に「ふさわしい」行動とを、分けることが可能になるからです。こうして、協働システムにおいては、予期そして記憶が、人格、役割、システム(関係)、その他の状況、と分化することになります。
システムというモノと視点
名前をもつことで「ひとつのモノ」としてシステムが意識できるようになり、コミュニケーションにおいてそのように扱うことが可能になるという点を確認しました。名前というシンボルを介すことで、システムという現象を全体としてとらえる視点が得られるということです。このようなシステムにおいては、他と区別されたそのシステムに視点をおいてシステムについて論じることができるようにもなります。
協働システムに関与している人たちにとっても、自分たちの関係を一つの名前(固有名詞)で呼ぶことができるようになると、色々な意識の変化が生じることになります。たとえば、田中のゼミを通じて仲良くなった人たちが、ゼミとは別の遊ぶための集まりを作って、それに「ゆるゆる」という名前を与えたとしましょう。すると、「ゆるゆる」に関わっている人たちは、「ゆるゆる」という名前を使って、以下のようなことを考えたり、意識したり、また話し合ったりできるようになります。
- 我々というのが「ゆるゆる」の「メンバー」として意識される→メンバーとそうでない人、という区別の意識をもてるようになる
- 自分と「ゆるゆる」との関わり方に関して意識する(所属意識、参加意識、参加の動機等の意識)
- 「ゆるゆる」にふさわしいこと(期待できること/期待されていること)、「ゆるゆる」がどうあればいいのか、どのようにしたいのかなど、協働システム全体のあり方についての意識が持てるようになる
このように、名前(固有名詞)を獲得することで、ひとつの区別・違いがはっきりと確認できるようになる。そのことを通じて、他でもないこの集まりについての様々な意識が生まれ、それらがコミュニケーションの話題になることを通じて、その後のシステムのあり方(=コミュニケーション)を導いていくことができるようになる。名前をもつことは、システムが社会的な存在(=中断を挟んでも継続するプロセス)であることを認めることであり、他とは違う一つのシステムが生じていることを明確にする。見方を変えると、名前をもったシステムは、一つの存在として自らのあり方を反省し自覚的に変えていくことができるようになる、ともいえるでしょう。
システムの名前は、システムからの視点、システムとの関係という視点で考えることを可能にする
これまではコミュニケーションという出来事がつながりまとまるという点からシステムを論じてきました。システムが生まれてくる過程を捉えることに焦点をあてて論じてきたわけです。協働システムの段階に至って、一つのモノとしての存在(あくまでもコミュニケーション的な存在ですが)を獲得したことになりますので、ここからは、システムという一つのモノが、どのように自分自身を作り上げ維持しているかという観点から論じていくことが可能になります。この先の組織というシステムに関する議論は、そのような視点から展開することにします。
4:公式組織論
組織とは
協働システムと組織の差異=人の取替え可能性
通常、私たちが組織という場合、人が集まって一緒に何かしているということを言いますから、その点では、協働システムはすでに組織であるといってもかまわないようにも感じます。具体的実際的に、複数の人々が協働を行っているという点で違いはない。しかし、この講義では、あえて協働システムと組織を分けて考えます。そして、組織と協働システムの違いとして、組織は人の出入りがあっても同一のシステムであり続ける、として押さえることにします。
組織の特徴:人の出入りがあっても同じであり続ける社会システム
これまでの議論で、3つのシステムがでてきたことになります。まず協働。これはなんらかのきっかけで二人以上の人々の間でコミュニケーションが始まり、それが継続して進行して「つながり」と「まとまり」をなすときに生まれます。シンプルなシステムです。
次に協働システム。協働が時間的な中断をへても「同じもの」として継続し、また一つのモノとして外部との関係を結ぶようになるもの(コミュニケーションに参加できるもの)をこの講義では協働システムと呼びました。協働が自分を指す名前をもつことによって、協働システムが成立します。この協働システムにおいては、誰がいっしょであるかという人格的な側面の予期と記憶が、その存続において重要なものとしてあります。システム的な記憶と予期だけでなく、参加者相互の人格的な記憶と予期が、その場での互いの行動を支えるものとして重要です。
そして新たに組織というシステムが出てきました。組織もコミュニケーションのシステムであり、様々な予期に基づく協働が行われることに違いはありません。しかし、人の出入りがあっても「同じ」であるということは、少なくとも中心的な行動においては、互いの人格的な予期や記憶をあてにする(参照する)必要がない、ということです。同じシステムに関わっている人間であるということを基本的な判断の基準として自分の行動(を支える予期)を確保できるもの、それが組織だということです。
世の中にある多くの組織、たとえば会社にせよ学校にせよ、それらは年々入る人も辞める人もいますが、同じ「組織」として存続しています。県立大学も、年々、新入生を受入れ卒業生を送り出しながら、同じ組織です。あるいは、この経営組織論という授業は、田中がいなくなったとしても他の教員が担当するかぎり、教育機関として問題なく存続していきます。このように、組織とは、誰がかかわっているのかという関与者の個々人の人格的なものをあてにする事なく存続していけるようになっているシステムです。
組織は、人格的な予期や記憶に頼らずに存続していくシステム
組織という用語の曖昧さ
組織について議論を進めて行くまえに、組織という用語、概念について確認しておきます。先ほど、組織は行為のシステムだと定義しましたが、この定義では、組織は一つの社会システムであるということになります。しかし、実際に私たちが日常生活において関わっている「組織」は、ただ一つのシステムでしょうか?
普段の生活で私たちが意識している組織とは、コミュニケーションのシステムというよりは、一つの場のようなもので、建物があって、部屋があって、色々な人がいて、そこでは色々な人たちが色々な形でかかわり合いをもっている、そうした全部を含めて「組織」という言葉で捉えているのではないでしょうか。また、組織で重要なのがコミュニケーションのシステムだとしても、仕事のコミュニケーションもあれば、そうでない同僚や友人とのちょとした気楽な会話もあります。このように考えると、普段の私たちが意識している組織とは、コミュニケーション以外の多くのものが含まれ、コミュニケーションにも様々なものが含まれているモノです。
この講義で論じる組織とは、私たちが普段、組織として考えているものの、本質的なものを取り出したものです。組織が組織であるための根本的な条件、本質を考えていきます。実際の学校や会社に関わる活動は、本質的な組織に含まれないものも含んだ、重層的なものとなっています。会社や大学は、一つのシステムではありません。しかし、一つのシステムに関係することによって生じてくる活動が多々あり、多くのシステムが重なりあい、絡み合うものになっています。組織に関わる中でどのような活動やシステムが生じ、関係していくかは、講義を進めながらみていきます。しばらくは、本質的な組織を考えることにします。
組織に関係する活動には、組織というシステムの要素ではないものも含まれる
組織の普遍的形式
組織は人の出入りがあっても同じシステムであるという点を端的に抑えるために、組織の一般的な形式(=フォルム)、組織であればどれもが持っている形式、普遍的形式を確認しておきます。この講義では、組織の普遍的形式を「二人以上の人々の意識的に調整された行為のシステム」とすることにします。行為のシステムであって、人間のシステムではないのです。人間は、組織からみれば、行為の素材となる行動を提供する外部のもの、端的に言うと組織の外部環境ということになります。組織と人間の関係は、システムとシステムの関係になります。
組織:二人以上の人々の意識的に調整された行為のシステム
以前は、この普遍的形式を組織の「定義」としていましたが(バーナードの公式組織の定義をアレンジしたものなので)、定義とするのはそぐわないと考え、やや硬い表現ですが、普遍的形式とすることにしました。日本語の形式という言葉にはいくつかの意味がありますが、ここでは文書の形式などという場合の「外形、様式、形だけ」という意味ではなく、哲学などで用いられる際の「事象が成立する本質的な枠組み/構造/関係」という意味で使います。プログラミングに覚えのある人なら、普遍的形式=クラス、個々の「組織」=インスタンスと考えてもらえばわかりやすいかも知れません。
「行為」のシステムは、そのものとしては、当たり前ですが目にも見えないものです。具体的に存在しているのは、個々個別の人々の集団でしかありません。しかし、そこで生じていること、そこで行われていること、そこで体験されていることを理解するためには、行為のシステムが「存在」していることを想定するしかないというのがこの授業の基本的なスタンスです。行為のシステムのある一つの具体的な、局所的な現れとして、私たちが日常的に見ている組織がある。そのように考えるわけです。バーナードはこうした組織のあり方を、下記のように、物理学の重力場や電磁場のような場、言うならば人「力」の場であると言ってます。
『経営者の役割』第6章 注(7):「組織は人「力」の場(a field of personal “forces”)である。ちょうど電磁場が電力および磁力の場であるのと同じである。いずれの場合も、場とそこで作用する力を記述したり規定するのに用いることができるのは、それらの場のもたらす効果の具体的証拠(evidence)だけである。具体的証拠の生ずる範囲が、諸力の場を規定するといわれる。ある客観的物体に対して、他からの諸力が内外に働きかけ、その結果、場の中に特定の条件が整うと、力が存在していることの証拠となる効果(結果)が物体に生じることになる。しかし、だからといって、その客観的物体が場そのものを構成するとは考えられていない。たとえば、電磁石は電子が流れることで電磁場を作り出すと言われるが、電磁場の存在は、物体をその場の中に置いたときに生じる現象によってしか知ることはできない。しかしどんな物体であれ場そのものではないし、電流も、電磁力に必要な電気エネルギーを伝えるものではあるが、電磁力そのものではない。
同様に、人間は、組織という場を占有する組織力(organization forces)の客観的源泉である。その力は、人間にのみ存在するエネルギーから生じるものである。この力は、組織という場の中で特定の条件が整う場合にのみ組織力となり、言語、活動のような一定の現象としてのみ具体的な証拠を生じさせる。そして、そのような活動という具体的結果をもたらしたものとして、力が存在するとされるのである。しかし、人間にせよ、またその客観的結果にせよ、それ自体は組織ではない。もしそれらが組織として扱われたら、組織という現象の説明に矛盾と不適切が生じる。」(翻訳を田中が改変)
さて、これまではコミュニケーションのシステムという捉え方で協働や協働システムを論じてきましたが、ここからは行為のシステムという論じ方に切り替えます。行為とコミュニケーションについては、コミュニケーション論で取り上げましたが、行為も、それが他者の選択に影響を与える限りはコミュニケーションです。また、言語によるコミュニケーションも送り手の行為として捕捉され記憶されます。厳密には、行為の場合は、誰にも影響を与えることなく一人で何かをなすことも含まれます。ですから、正確には行為ではなく相互行為というべきなのですが、通常、組織に関わる場合の行為は相互行為として他者の行為にかかわりますし、会社等では仕事という行為に焦点があたりますので、行為という概念をシステムの要素であるとして議論を進めていくことにします。
コミュニケーション≒行為 (コミュニケーション=相互行為)
もちろん、これまで論じてきた協働や協働システムも、行為のシステムであるということができます。しかし、そこで関わりをもつ個々人の人格的な予期や記憶がシステムの同一性を保証するものとしてある。組織は、そうした個人的な予期や記憶をあてにしないで同一性を確保するということになります。コミュニケーションという概念は、そこに関わる具体的な個人の存在を意識させる概念です。ですから、行為という概念を用いた方が、組織をより非人格的なモノとして見ることが可能になるように思います(田中の個人的な感覚でしかないかもしれませんが)。
行為のシステムとは
システムについては協働論のなかで論じましたが、あらためて、ここで組織の定義の中の「行為のシステム」ということをじっくり見ておきます。先ほども述べたように、行為であって人間ではないというのが一つのポイントなのですが、それ以外にも押さえておくべきことがあります。
さて、行為のシステムというと、行為が要素としてあって、それを集めてきてシステムが作られるかのように感じるかもしれませんが、そうではないのです。組織は、行為を生み出している。つまり、何らかの動作や行動が行為というコミュニケーション的な接続価値をもったもの(行為として理解するということは、それにどう反応するかを導き選択を迫るものだということ)として規定するものとして組織はあります。黒板の前で大声を張り上げ字を書きなぐるのが「授業」になり、机に座ってぼ〜っと見ているのが「受講」になる、それによって県立大学という教育のシステムが成り立っていることであると同時に、その組織が「授業」−「受講」という行為として意味付けを行っているわけです。
システムが、行動を行為=要素として意味づける、と同時に、自らのつながりとまとまりを成り立たせている
このように、行為のシステムとしての組織は、要素である行為を、諸行動を意味付けることで、「自ら」産み出しているということができます。そしてある行為として意味付けることで、その他の意味付けや連関を捨象している。皆さんが自動車で大学に来るとき、二酸化炭素を排出し化石燃料を消費している。けれども教育の組織としては、「授業を受けに来た」という行為としてそれを意味付け、授業を行うことで応じるわけです。化石燃料を消費したからといって組織論を不可にするなんてことは、通常はありえない。
システムとは、特定の区別を維持しながら継続するコミュニケーションのつながりとまとまりです。組織は、自分に関係する(=組織の要素になる)コミュニケーション=行為と、それ以外のものとを区別しながら、行為の連鎖を生み出しているものなのです。諸行動(振舞い)を特定の行為として「すくい上げ」、それに更なる行為を接続させていくという形で組織は動いているものです。何がその組織の要素であり、要素でないかを選別しながら、組織という一つのまとまりを維持するプロセスが進行していきます。これが組織は行為のシステムであるということです。何かの振舞を「行為」としてすくい上げて、次なる振舞に繋げていく、この瞬間に組織の現実性があります。システムの本質は、この振舞=出来事の連鎖の産出です。
行為のシステム:行為がプロセスとして次々に繋がり生み出されていくこと
行為のシステム化
では、行為のシステムを「作る」にはどうすればいいのでしょうか?
個々の行為(振舞)は直接にコントロールできるものではありません。先ほども延べたように、行為というモノをかき集めてきてシステムを作るといったことはできません。ですから、行為のシステム(社会システム)の編成は、行為の次元では行われません。
協働論において、協働(コミュニケーションの継続)のために必要なのは、互いの予期の両立可能(接続可能)化であるという話をしました。つまり、人間関係とは、予期の次元で調整されるものであるということです。ですから、行為のシステムも、予期の次元で形成されます。特定の予期によって、振舞の選別や接続が可能になり、それによって行為の連関が可能になること、それが行為のシステムです。何かが起きたとき、それを関連する/関連しないという区別をつけて処理していけるには、予期が必要になります。社会的なシステムは、予期の次元で編成されるものなのです。
社会システムは予期の次元で編成される
予期と構造
私たちが具体的に何かをするとき(振舞うとき)、必ずしも意識的でないものも含めて一定の予期(複数)をふまえて振舞います。このとき、私たちは予期によって選択の範囲(可能性)が限定された状況の中で、個々の具体的な行動をどうするのかという選択を行います。たとえば、田中は、今ここで、授業をするべきであるという予期を踏まえて(授業にならない行動はするべきではないという限定を踏まえて)、どのように話す/書くかという行動を選択しているわけです。このように、私たちの行動は、二段構えの選択になっています。予期による可能性(選択肢)の選択と、具体的な振舞の選択。予期は、具体的な選択を可能にするものです。このようなものを構造と呼ぶことができます。構造としての予期によって、その都度の具体的な振舞は「生み出されている」わけです。
予期=構造
行動は、構造の選択と、作動の選択という2段構えの選択で生まれる
先ほど、行為のシステムは予期の次元で構成されるといいましたが、それを言い換えると、特定の予期がシステムの構造になるということができます。ただし、構造はシステムではありません。システムは、あくまでも個々の行為の水準で存在します。システムが成り立つような行為の連関が生まれたとき、そのシステムを可能にする構造が作用していたと言える(みなせる)ということです。
構造=予期はシステムの要素ではない。
また、構造=予期は、あくまでも、具体的な行為を生み出す限りにおいて存在していると言えるものです。構造というと、なにか家の骨組みのような、がっしりした変わらないモノであるかのように思えますが、行為のシステムの構造は、個々の行為との繋がりにおいて見いだせるものでしかありません。もちろん、あるシステムが存在するためには、それを可能にする構造が安定的である必要はあります。前に述べたように、協働が安定化するためには予期が一般化する必要があります。ですから、少なくとも何らかのシステムを支えるようなものとしての予期は、個々具体的な状況や人や時間の経過に左右されないようなものとして「安定化」されたものである必要があります。構造としての予期は一般化されたものであるということです。この意味において、構造は、個々の出来事の生起に対して相対的ですが不変的であるとは言える。しかしながら、予期=構造は変更可能なものであり、時として変更が必要なものでありますから、あくまでも相対的な不変性であることには注意が必要でしょう。
構造は一般化・安定化された予期
さらに、具体的な振舞を可能にする予期は複数あります。つまり、ある振舞がなされたとき、それをどのような行為であるかとみなすかによって複数のシステムが関与しており、複数の構造が作用しているということです。
構造は一つではない
履歴から明文化された予期へ
協働や協働システムにおいては、互いの関係の積み重ねの中で、人格的予期、役割的予期、関係的予期、それにその他の状況の予期という4つの予期が、行動する際には関わっていました。では、これを「人の出入りがあっても同一な行為のシステム」にするには、予期がどのようになれば良いのでしょうか?
人の出入りがあるということは、当然のことながら、協働の相手が変わるということですから、すぐに思いつくように、人格的予期に依存しないようになることが必要ということになります。
ただし、これは人格的な予期を廃棄するとか消去することではありません。人間が具体的に協働する際には、どんなに萌芽的なものであれ人格的な予期は発生しますし、それを手掛かりに目の前の具体的な個人との行動の調整を行う必要があります。ですから、お互いに人格的に行動するということは必要条件となります。人格的な予期への依存を下げるというのは、協働の中心的な予期において人格的な予期は不要、ということです。その代わりに、役割的な予期が重要になるということはすぐに判ると思います。相手がどんな人間かではなく、相手がどんな役割を担っているのかということの方を軸にして、相手との最低限の協働が可能になるようになれば、システムに関わる人の出入りも可能になります。
それでは、役割的予期と関係的予期を中心的な予期とすればよいのかというと、そう簡単ではありません。というのも、協働や協働システムの予期は、基本的に、過去(履歴)の共有によって生まれてきたものであり、履歴が保証するものになっているからです。つまり、「同じ体験をしてきている」(受けとり方や解釈は個別に異なるにせよ)ということが、協働(システム)を支えています。このままでは新たな人は関わりを持てないということになります。新しい人というのは、当然のことながら、過去を共有していない人だからです。その人に過去を共有せよとか学べというのは、絶対に不可能ではないにせよ、かなり無理なことであるのは間違いない。もちろん、神話とか歴史の物語のような形に凝縮された履歴を学ぶことで、新参者が過去(履歴)を学ぶことはできるわけですが、それはあくまでも語られた過去であり、過去の体験そのものではない。
しかしながら、今述べた、「神話や歴史の物語を学ぶ」ということに、履歴の共有の代替策が示されています。つまり、予期の基盤となるもののを明文化・定式化し、それを軸に互いに予期と行動を調整していくということです。体験するのではなく、学ぶものにしておく、と言ってもいいかもしれません。実際には、神話のような物語ではなく、会則、規則、ルールといったものを明確に定めておくということになります。特定の予期を明確化し、それを受入れるようにするということです。
このように、組織という「人の出入りがあっても同一な行為のシステム」を成立させるためには、協働や協働システムの存立を支えている履歴(歴史、記憶)を、明文化し学びえるものした予期に取り替える必要がある。こうすることによって、過去の体験を共有していないものが新たに加わることが可能になるわけです。
履歴(過去の共有)から明文化された予期への取替えが組織を可能にする
公式組織
予期の公式化とメンバーシップ
人の出入りがあっても同じものであり続けるという組織が成り立つためには、共有された記憶(歴史、履歴)への依存部分を、明文化された規則(規範)に置きかえることが必要であることが確認されました。組織とは、知らない人との間で即座に協働が可能になるものです。互いに承認し調整の軸となる予期が、過去の体験の共有からではなく、新参者にでも理解し受容できるものになっていることで、人が入れ替わっても、互いに協働が可能になるわけです。
通常は、組織のメンバーであることを希望するということでもって、この明文化された予期を受入れたる(受け入れた)ものとみなします。組織は人の出入りがあるということは、緩やかなものであるにせよ、その組織に関わる人とそうでない人の区別を付けることが必要ですから、メンバーというものがはっきりします。そしてメンバーであることは、メンバーであることを望んでいる人であるということですから、その人は、通常は、組織の中心的な予期(たとえば目的)を了解し受容しているとみなしうることになります。
メンバーは明文化された予期を受け入れている
しかしながら、本当に中心的な予期を受入れているのかどうか?という問いを立てると、ここでも内面に踏み込まないかぎり本当のことは分からないという問題にぶつかります。この点を解決するのが公式組織というものです。
公式組織とは、その組織の中心的な予期を明文化し、それの承認をメンバーに加わるための条件とする、という組織です。予期をメンバーであるための条件とする(予期の承認と受容をメンバーの資格とする)ことを予期の公式化と呼びます。公式化された予期によってメンバーを定めている組織のことを公式組織と呼びます。
明文化された中心的予期の受容をメンバーの条件にする
予期の公式化:予期がメンバー資格と結びつく
公式組織:公式化された予期でメンバーを定めて編成される組織
この仕組みのポイントは、メンバーであるということは、当然のことながら、中心的な予期やルールを受入れているとみなせるということ、つまりそのようなものとして扱って良い、ということにあります。本人がどのように考えていようと、メンバーである以上は、一定の予期にしたがって行動するはずとして扱える。
このように、公式組織では、互いの内面に立ち入ることなく、メンバーであるという点だけを基準にして最低限の行動の調整が可能になるということです。そして、もし中心的な予期に反する行動をとったり、ルールに従わないということがあった場合には、成員資格に背いたとしてメンバーから排除されることになります。それによって、メンバーということと、中心的な予期に従うということの繋がりが必ず保たれるようになっています。
メンバーであることをもって公式的予期に従うことをあてにできる
このように、特定の予期を公式のものとして、その公式的な予期(と諸規則)の承認・受容をメンバーであるための条件とするという仕組みをもっている組織のことを公式組織といいます。私たちの周りにあるほとんどの組織は、公式組織になっています。
メンバーという役割(成員役割)
メンバーというものについて、少し考えてみたいと思います。
まず当たり前のことですが、メンバーであるということ自体は、何らの具体的な役割の担い手であることを意味しません。メンバーであることは、組織において具体的な役割を引き受ける前提です。そのことは、言い方を変えると、メンバーであることによって要求されることを引き受けることが、どんな具体的な役割を担う場合でも前提となるということです。このように、何かのメンバーであるということは、メンバーという一種の役割のレベルにおいて、皆が同質のものとして扱われるということになります。
同質として扱われるということは、個人的なものを消去する(無いことにする)ということではありません。メンバーとして関わりを持つべき組織上の役割(公式的な事柄)と、個人的な事柄が区別されるということです。個人的な人間関係と、仕事上の関係が明確に区別されるということです。しかし、一方で、たとえば規則に違反するなど、メンバーとしての資格が問題になったときには、その違反を行った個人の人間的な側面が問題として取り上げられます(違反の動機は個人的なもの)。つまり、普段は社会的な行為と、個人的な行為は分離されるのですが、限界的な状況においては、この区別は取り払われます。
個人と公式的役割は分離的に接合される
いかなる理由であれ、メンバーになることを希望し、公式的な予期などを承認した時点で、メンバーであることの背後にある個人的な事情は「背景にしまい込まれ」、互いにメンバーであるということを手掛かりとして相互作用を行えるようになっているのです。
もちろん、具体的な行為の場面においては、目の前にいる個人との関わりが生じ、人間関係が生まれてきますが、それにしたって、あくまでも互いにメンバーであることを背景として成り立ってくるものになります。このように、公式組織においては、あらゆる社会的な関係が、メンバーであるということを土台として築かれるものになります。
メンバーであることを土台に社会的関係は築かれる
加入と脱退
当たり前のことですが、人は、ある組織のメンバーであるかメンバーでないかのどちらかになります。また、少なくとも公式組織においては、自然とメンバーになってしまうということはありません。何らかの決意でもって自らメンバーであることを希望し、メンバーのなり、そして事情によってメンバーでなくなる。このように、メンバーというものは、内側と外側の区別がはっきりしているものです。人の次元で境界が作られる。
このことは、個人にとっては、メンバーという役割が、組織への加入と脱退を意識させるものだということになります。
加入と脱退については、それを意識することで、組織を対象化し、さらには外部を意識するという作用があります。人間は日常的な連続性が途切れることになると、それまで自明のものとして何も意識していなかったものについての意識が高まります。卒業式前に友だちや学校生活が妙に愛おしくなってきたりしたことはないでしょうか?。難病で恋人が死ぬ恋愛が燃え上がるというドラマでよくあるパターンも、そこには「終わりへの意識」からくる意識の濃密化があると言えるでしょう。このように、組織というものをあらためて意識し考える契機として、加入・脱退というものが関わってくるようにもなります。
加入・脱退という可能性があるということで、組織を外側の視点から一つのシステムとしてとらえ、そのシステムと自分との関係を考え、反省することが可能になります。
加入・脱退の可能性が、外からの視点でシステムを捉えて自分との関わりを考えることを促す
成員資格と報酬
人が公式組織に参加する動機は色々なものが考えられますが、基本的には、公式組織のメンバーに成ることによって、なんらかの報酬を得ることでしょう。メンバーになり、メンバーであることによって、何らかの利益を得られるからこそ、人は公式組織に参加する。そして、公式組織においては、メンバーは、その組織に関わることの利益を、基本的には成員であることから得ることになります。
これは君たちがアルバイトをしたときのバイト代が、たとえば1時間に800円という時間給で払われることで考えてもらえば分かりやすいでしょう。何をどれだけしたかではなく、アルバイト人員として1時間働いたということにお金が支払われる。このことは、アルバイト人員というメンバーであることがベースになって支払いを受けているわけです。
言い方を変えると、メンバーであることの見返りを得るためには、メンバーであり続けるしかないわけで、成員資格に反しないように行動するしかないわけです。メンバーというものは、その報酬(利益)がメンバーであることにリンクされることによって、自ずと成員資格に反しないように行動する(行動せざるを得ない)ようになっています。また、何か問題が起きたときには、その出来事そのものだけでなく、常に、そのような問題を起こした人の成員資格の問題へとリンクされるようになっていて、場合によっては辞めさせられる。つまり、常に脱退の可能性がある(辞めさせられる可能性がある)ことが、メンバーにとってある種の圧力として存在し続けている状況ということになります。
報酬はメンバーであることにリンクされている
辞めさせられる可能性があることが圧力になる
公式組織と労働市場
公式組織の側からすれば、問題を起こしたメンバーを辞めさせられるためには、替わりのメンバーを見つけられることが条件となります。つまり、メンバーを実際に取り替えることが可能でなければなりません。
経済活動を行う組織、つまり会社、企業にとっては、メンバーの取り替えが可能であるためには、労働市場から必要な人間をいつでも調達可能であるという経済体制が必要になります。多くの人間が労働者として雇用されて働くという社会になってこそ公式組織はまともに機能しうるのです。その意味で、近代の資本制(商品経済、貨幣経済)の成立によって公式組織が社会の主要な協働形態になったとも言えるでしょう。
メンバー選考と取替え可能性
このように、公式組織ではメンバーの決定が重要な決定になるのですが、加入と脱退の決定でメンバーを調整できるということが、加入の決定を変化させるということがおきます。
加入希望者がメンバーとして相応しいかどうか、成員資格を満たしうるかどうか、これを判定するのですが、厳密に考えるならば、この時点で加入希望者の人格的な側面にまで踏み込む査定を行い判定を適確に行うのが当然とも言えます。しかし、公式組織においては、この判定が一定の二次的な指標による判定に置きかえることが可能になるのです。たとえば、試験の点数だとかそういうもので判定する。もちろん、まったくのデタラメで判定するのではなく、それなりに関連はあるだろうと考えられる指標によって判定を行うことが可能になります。
二次的指標によるメンバー選考が可能になる
なぜこのような二次的な指標による選別が使えるかというと、メンバーに加えてみて不都合があればいつでも排除できる(辞めさせられる)ということがあるからです。メンバーが取り替え可能だからこそ、そこそこ相応しそうな人間であればとりあえずメンバーにしてみるという手段が使えるのです。もちろん、メンバーの交替にはコストがかかりますから、選別にかけるコストとの比較で、じっくり選別する方がいいのか、緩く選別してどんどん入れ替えていくのがいいのかはケースバイケースですが。
メンバーと役割
公式組織では、メンバーであることを前提に、個々具体的な役割を引き受けていくことになります。メンバーという役割(成員役割)の上に個別の役割が乗せられるわけです。このことは、どのような役割を担うにせよ、メンバーとして必ず担うべきことがある(それが前提になっている)ということです。メンバーである以上は、組織の目的を承認し、決定された事項は承認し、上下関係を受け入れ、公式的な規則などを尊重することが求められるし、そのように行動することが求められることになります。このような基本的な態度(行動様式)を守ることが、メンバーとして求められます。そのことは、いかなる個別の役割を担うことになっても、かならず守るべき義務のようなものとして課せられることになります。つまり、メンバーという役割による枠組みの中で、個別の役割を引き受けて担うことになっています。
見かたをかえるならば、成員資格によって全体的な規制を行いつつ、個別の具体的な状況には個別の役割を割り当てて対応するわけですから、二層の役割になっていることが、コントロールと柔軟性を併せ持ったものを可能にしているともいえます。
公式組織では成員役割の上に個別の役割が載る二層構造
公式組織おける予期の一般化
協働を論じた際に、協働の安定化のためには予期の一般化が必要であり、その一般化は時間的・内容的・社会的の3つの方向でなされるということを確認しました。公式組織においても、当然のことながら予期の一般化が必要になるわけですが、公式組織というシステムの形態が可能にする一般化について確認しておきます。
●時間的一般化
まず時間的一般化ですが、行動期待は成員役割によってシステムの存続に結びつけられ、それによって公式的な持続的妥当を得ることになります。つまり予期が外れるような事実が生じたとしても、システムが存続する限り妥当し続けるようになります。メンバーになるためには承認しなければならないということによって、メンバーを決定したシステムが存続していることが、その妥当性を保証することになるのです。関与している人々の合意や意識には無関係になる、つまり、予期が規範化されます。このように、公式化によって、時間の経過のなかで予期が安定化します。
予期の公式化によって規範になる
ただし、このことは、予期が変わらないということ(永遠に妥当し続ける)ということではありません。時間の経過に伴って状況が変化したからといってそれだけで妥当性が揺らぐわけではないという意味にすぎません。状況が変化し、予期があまりにも状況との間に不都合を生じるようになったときには、予期の方を変更しなければシステムは存続できません。
しかし、公式組織においては、予期の変更は、決定によって行われるものとなります。つまり、誰かが勝手に変更してしまうとか、自然と変えられていくというものではあり得ません。そのようなものになったら、人の取替え可能性を保証することができなくなります。ですから、成員資格と特定の期待との結びつきを変更することを可能にするのは公式的な決定だけということになります。
決定というのも色々な意味をもつ概念ですが、ここでは特定の選択が明示的に特定の時点でなされ、その選択結果をメンバーは承認し合意し、以後の行動の前提とすること、としておきます。いつ、どのように決まったか誰にでも分かるものでなければならないわけです。通常は意思決定という言葉を用いることが多いのですが、この講義では、選択した本人の意識を根拠としない場合も含めるために、決定という言葉を用いることにします。すべての公式的な予期に関連すること(規則等)は、すべて決定によってのみ変更されます。決定されたことで成り立っているわけです。
予期の公式化も決定によるわけですし、メンバーも決定によって決められるわけですから、公式組織とは、決定によって成り立っているシステムであると言うことができます。
また、各人は、公式的な予期を受け容れるという決定によってメンバーになっており、さらに組織において行うすべての公式的な活動は、予期に従うか否かという観点で捉えることができますから、予期に従うという決定をしたか否かという選択=決定であることになります。つまり、個々の行動は、何をするのかという選択であると同時に、公式的な規則に従うのか否かという選択であるともみなせます。だからこそ、もし行為が公式的な予期に反するとみなされると、すぐさま、成員資格の問題にリンクされる可能性があるわけです。このように考えると、公式組織では、すべてが決定という選択の連鎖で成り立っていると言うことができます。
公式的予期は決定によって変更される
公式組織は決定によって成り立つシステムである
このように、公式的な予期は、決定によってのみ変更できるものとして安定化するのですが、このことは、見方を変えると、公式的な予期は環境の変化に対して遅れを伴うということでもあります。状況がどのように変化しようとも、変更の決定がなされない限りは、予期は変わらない。また、環境のもたらす問題が、なんらかの決定によって対処できるものでない限りは対処できない。この意味において、公式組織の安定性とは、変わりにくさという硬直性でもあるということです(ただし、この硬直性は、あくまでも公式的な予期の次元での話であって、個々具体的な行動に関わるすべての予期のことではない)。
公式的予期は環境の変化に遅れをとる
●内容的一般化
予期が状況から独立したものになることが内容的一般化でしたが、これについては、先ほど論じた、メンバーであるということが予期の内容的一般化を担うことになります。メンバーであるという次元において、個人的な側面は分離され、関与する人々の同質性と透明性が確保されるからです。メンバーが行うことという次元では、それがどのような状況で行われることであっても、メンバーの行為として予期できるわけです。
先ほどの言い方をすれば、メンバーというものがある種の役割として認められ、受け入れられているということです。
内容的一般化は成員役割が認められること
このようにメンバーであることと結びつけられた公式的な予期は、その予期によって指示される行動が矛盾を孕んだものであってはなりません。ある公式的な予期に従うことが、別の公式的な予期に反したり、勝手に個人的な問題とされてしまうのであれば、システムは存続できません。ですから、公式的に保証される予期(規則など)は、両立可能性をもった一貫性をもったものでなくてはなりません。
このことは、組織において具体的な行為を行う際にかかわる予期がすべて無矛盾でなければならないということではありません。後ほど論じますが、変化する状況においてシステムが存続していくためには、システムは矛盾する行為や非合法的な行為を時として必要とします。無矛盾であることが必要なのは、あくまでも公式的な予期です。
公式組織では成員役割の上に個別の役割が載せられていくのですが、個々の具体的役割は、それを担っている個人とは切り離して、独立したものとして扱われるます。一人の同じ人が複数の役割を担っている場合でも、それぞれの役割は結びつけられない。ある役割を担う時には、同じ人が担っている別の役割は無関連なものとなっていることがあります。
言い方を変えると、役割(役割に基づく行動)が非人格化されると言うこともできます。あるいは、行為が役割的側面と自己表現の二面のものとして捉えられ、役割的行為は非人格的なものとして了解されることになるわけです。バーナードは、この二重性を組織人格と個人人格としました(人格という言葉の使い方がこの講義とは異なります)。
役割の分離・非人格化がなされる
また、その人が公式組織とは無関係なところで担っている役割も、公式組織の中ではまったく配慮されないことになります。このように、公式組織では、個人と役割、あるいは個人が担っている複数の役割が、それぞれ分離されて扱われることになります。役割分離がしっかりなされていることで、それぞれの状況においてメンバーとしてある特定の役割を担っていることだけを手がかりにできる。これが内容的一般化です。ただし、このことは、一人の個人が矛盾したり対立する複数の役割を担ってしまうという問題を起こす可能性があります。
●社会的一般化
相手の内面に踏み込まずに予期が妥当することが社会的一般化でしたが、それもまた、メンバーというものが可能にします。メンバーになっているということは、公式的な予期を承認し合意したということですから、どんな相手であっても、メンバーであるということによって公式的な予期が通用することを当然のことにできるわけです。
このことが成り立つためには、メンバーであることが「可視化」される必要があります。つまり、互いにメンバーとして公式的な予期に従っていることが「分かる」必要があります。そのために、様々な装置が用いられます(制服やカード、あるいは場所)。
メンバーシップの可視化により一般化
また、メンバーは互いに公式的なものに合意しているものとして行動することが求められます。たとえ自分が関与しないところで定められたものであっても(上層部)、そこで下された決定には、自分も合意しているものとして受け容れ行動する必要があります。メンバーであるとは、そのように行動することを了承したものとして扱われるということです。ですから、公式的な決定は、組織全体が合意したものとみなせるということになるのです(もちろん、決定が公式的になされたものであることを確実にする手続が必要になりますが)。本来は、合意というのは、個々人の判断の問題です。しかし、公式組織においては、個々人の考えなどに一切踏み込むことなく、全員が合意しているものとみなすという擬制が通用することになります。
合意しているという擬制が通用する
公式化による一般化の意義
このように、公式化によって、予期というものを時間的、内容的、社会的の三つの方向で一般化することが可能になります。それによって予期は高度の確実性と信頼性を備えることになるわけです
予期が高度の確実性と信頼性を備えるようになると、態度の持続性や内容上の意味連関や合意といった、本来行為の基礎となるはずのものを、一定の決定を下されたものによって、代替することが可能になるわけです。これはシステム内のやり取りに関して、意識の負担を軽減し、状況を単純化するメカニズムです。しかしこの予期の保障一般化がもたらす最大のものは、社会システムを一定の境界内で環境に抗して維持するということなのです。
公式組織と行為システム(秩序の多重性)
公式組織の様々な面については、これからの講義の中で論じていくことにしますが、最後に重要な点を確認しておきます。それは、公式組織のメンバーとして行動する場合に関係するすべての予期が公式的な予期なのではない、ということです。つまり、公式的な予期というのは、あくまでもその場での協働を調整する主要な予期だけであって、具体的な行動=協働の場面では、公式化されてない様々な予期が関わってくるということです。具体的な協働を可能にする秩序化作用は様々なものが担っているのであって、公式組織だけが担っているわけではない。活動に必要な予期をすべて公式化することはできない。多重的な秩序化の作用が交錯する中に、公式組織が成り立っているわけです。
公式組織は、必要なすべての予期を公式化することはできない
組織に関わる活動に関与する予期のうち、公式的予期は一部分である。
必要な予期をすべて公式化して成員資格で縛る組織など存在しえません。メンバーとして特定の役割を引き受けて協働する場合でも、実際の協働においては、具体的な個人の人格的な側面などは当然のことながら関わります。先に述べたように、どのような場面だっても、行為とはかならず自己表現を含むものですから、当然のことながらメンバーとして振舞いながら自己をどう表現し他者とすり合わせていくかといった問題は生じることになります。公式組織とは、すべての予期や行動を規則で縛りつけて人間を機械の部品のように扱う組織などではない、ということは確認しておくことにします。現場で起こっているのは、常に、対人行為(相互行為)です。
5:公式組織の諸側面
動機付けの一般化と権威の一般化
動機付け
協働においては、人のために何かをする、人に言われたことをする、という行動をとることになります。こうした行動をするには、その行動を行うのが当然である/自然であると思う必要があるわけですが、そのような気持ちにさせることを動機づけといいます。武力などによって強制して無理やりやらせるというのもあるわけですが、通常の場合、私たちは、自発的に、他人のための行動、他人に指示された行動をとります。日常的な場面では、私たちは、多くの場合、何かに応えるということから、他人のための行動を自発的に行います。たとえば何かを贈られたことへの感謝の気持ちなどです。モノに限らず、期待とか信頼あるいは依存(頼りにされる)といったものを贈られ、それに応えるために、自ら行動するわけです。しかし、公式組織においては、仕事への動機づけは、このような応えることとは、異なった回路で確保されることになります。
メンバーと動機づけの一般化
公式組織おいては、メンバーであること=成員資格を満たすことに、組織に関わることの利益の享受が結びつけられます。このことの結果として、メンバーは、それが組織の仕事であるならば(公式の仕事であるならば)、その仕事は行うということを、あらかじめ承認しており、組織の仕事を行うことがメンバーの条件であり利益を受けとるための条件であるということです。ですから、メンバーになりたい/あり続けたいという動機(参加意欲)が、すでに仕事をする動機と結びつくことになります。この場合、メンバーとして受入れているのは、組織の仕事を行う、ということであり、具体的にどのような仕事を行うかという部分は未規定になっています。
このように、公式組織においては、メンバーであるということでもって、各自は組織の仕事を行うのは当然であり、そのようにみなされるものになっています。各人が最終的にどのような動機を抱いていようとも、メンバーであることを通じてその動機を満たそうとするのであれば、メンバーとして仕事をするのは当然であるというわけです。そして、メンバーであることに報いるわけです。
動機というのは、何かを欲しいと思うから、それを手に入れるために行動するという図式で出てくるものです。ですから、動機というものは個人的な欲望や欲求の問題であり、それを満たすには各人の動機の内実に踏み込んで、動機を満たすことを考えなければなりません。
しかし、公式組織においては、各人がどのような個人的な動機をもっていようと、メンバーであることを望んだということ(メンバーであり続けることを望んでいるということ)としてひと括りに扱います。メンバーへの欲求として動機を一般化して扱うわけです。そして、そのような動機に対して貨幣(お金)という一般化された報酬(見返り)を与えるという形をとります。
貨幣経済と欲望の一般化
私たちの社会は貨幣経済、商品経済の社会です。生きていく上で、常に、何らかの形で貨幣が関わり、商品の売買が関係してきます。そして、私たち自身が労働力という商品を売って報酬を得ることで生活しています。生きていくためには貨幣を得る必要がある。商品の売買に関わる必要がある。そういう社会です。
また、たとえ生存に関わらないことであっても、すべてとは言わないまでも、多くの場合、何かを行いたい、実現したいと思う時には貨幣が必要になります。つまり、貨幣は、個々人の欲求を直接に満たすものではありませんが、その欲求を満たすための手段になります。すべての欲望、欲求は、多くの場合、間接的ではあれ、貨幣への欲望になります。言い換えれば、全面的な貨幣経済である現代において、人々の欲望は、貨幣への欲望という形でも一般化されている。先ほど、メンバーへの欲求として動機が一般化されていると述べましたが、それはメンバーであることによって得られる貨幣報酬への動機付けの一般化、欲望の一般化ということです(報酬だけがすべてではありませんが)。だからこそ、貨幣による報酬を見返りとしてメンバーを動機づけることができる。
そして、貨幣によってどのような欲求を満たすかについては個人的な事柄として組織は一切関与しない。これによって、動機(欲求・欲望)というものが持っている個人的な側面に、組織の側ではいっさい立ち入る必要はなくなります。貨幣経済は、消費においては個人に自由を与える社会です。自分の金は自分が好きに使って良い。どんな商品であれ、お金を持っていれば購入できるし、そこに人格や人間性といったややこしいものは関係ない。どうやって稼いだお金かも関係ない。
つまり、貨幣経済においては、貨幣というものが、私たちの欲求充足(の自由)を抽象的=一般的に保証するものとして働きます。
- 時間的一般化:貨幣は確実性の等価物=未来の交換の可能性が現在の時点で確保(いつでも必要な時に購入手段として使える)
- 内容的一般化:貨幣は価値尺度=様々な商品を価格という点で比較可能にし、商品であればなんであれ購入できる
- 社会的一般化:貨幣は交換手段=不特定の相手との交換可能性(売買に人格が関わらない)
このように、動機が成員資格に結びつけられ、貨幣報酬が用いられるということが公式組織の動機づけです。ここでもメンバーというもの(メンバーであること)によって、人格的なものが棚上げされて扱えるようになるという図式が出てきています。
権威の一般化
先ほども言ったように、公式組織のメンバーになる時点において、各人は、中心的な予期の承認や、公式的な指示や命令に従って仕事をするということを受入れています。ですから、実際の仕事の場面においては、上の立場のものが指示を出せば、その指示に下のものは従うということが、当然のこととして通用することになります。指示の内容だとか、指示の出し方、あるいは指示を出した上司についてといったことが問題になることなく、ただ「上からの指示だから」という理由だけで指示が受けとられ仕事が遂行されていく。
純粋な命令・指示系統が成立するといってもいいでしょう。内容や個人にとらわれない、一般化された権威というものが成立するわけです。このように、指示の度ごとに、それを受容してもらうための説得などが一切不要になり、純粋に指示内容を伝達すればよいということになります。従う方も、自分が従う理由を説明したり釈明したりする必要がない。メンバーなので上からの指示に従った、それだけのこととして通常は了解されます。命令・指示に従う個人的事情などは問われないということです。
また、具体的にどのようなことを行うかは、その都度の指示で規定すればよく、その指示内容に関しては通常は不問のまま受入れられますから、組織からすれば、必要に応じてその都度必要な仕事をやってもらえるという柔軟性を確保することができます。ただし、不問のまま受入れてもらえる指示にも限度はあります。何でもかんでも命令だからといって受容されるわけではない。あくまで公式的な組織の仕事と認められるものに限ります(それ以外に、各人のキャリアへの意識なども関係する)。組織の仕事かどうかは、最終的には、なんらかの組織としての決定に基づくものかどうかで判定されます。
このように、命令指示が命令指示であるというだけで受容される状況が成り立っていることを一般化された権威が成立していると言います。公式組織ではメンバー制を軸に一般化された権威が成立します。この状況を受容者に即してみれば、受容者は一定の命令に関しては内容等に無関心(不問)に従うという状況ですので、経営学では無関心圏が成立するとも言います。
言ってしまえば、公式組織は、金で、メンバーの無関心圏を買っているわけです。
プログラム化
このような一般化された権威が成立している状況では、そのつどの個別の指示などがなくても仕事が行われる、業務のプログラム化を可能にする派生的権威というものも成立します。これは、一定の情報に、指示と同じ役割を持たせるというもので、条件プログラムと呼ばれるものです。
たとえば、顧客から電話で問いあわせがあったら決められた方法で応対する、という仕事のセットを考えてみます。もし上司からの指示があった場合のみ行動するのであれば、電話があったときに上司から対応するように指示がでるまでは何もしなくてよいということになります。しかし、「電話があったら応対しろ」という指示があらかじめ出されていたならば、たとえ上司がいなくとも、電話がかかってきたということが、一定の決められた仕事を行う指示と同じ機能をはたすわけです。
このように、直接的な指示ではなく、一定の情報や出来事を継起として仕事を行うようになっていることが条件プログラムであり、そうした条件プログラムの集積として日常的な業務を遂行していくことができるようになるのが、公式組織の仕事の特徴です。情報や出来事が、仕事を開始する指示と同じであり、その意味で権威の力を持っているわけです。このように、情報や出来事に権威の力を持たせるというのが派生的権威です。ですから、組織の側では、任意の情報に仕事を開始する指示と同じ権威を付与できるわけで、それによって状況にすばやく対応することが可能になるわけです。
組織の目的と動機付け
公式組織では、各人の動機は、組織のメンバーであろうとすることにあるわけで、組織の目的(中心的な予期)の内容そのものにダイレクトにリンクしていません。ですから、組織の側では、必要に応じて目的を変更することが可能になります。組織の目的が変更されても、その目的から直接利益を得ていない各メンバーは、メンバーであり続けるわけで、そのことで変更された目的の仕事も組織の仕事して遂行することになります。
もちろん、先ほどの仕事の未規定性同様に、目的をなんでもかんでも自由に変更できるというわけではありません。しかし、メンバーであることから利益を得ていることによって、昨日までは鉄を売っていたのが、今日からは遊園地を運営することになっても、同じ組織の仕事として遂行していくということになります(もちろん、そうした目的の変化を嫌ってメンバーから脱退する者もいるでしょうが)。
参加の動機と仕事の動機
このように、公式組織では、仕事をするということに関して、ある程度の「やる気」はあらかじめ確保されています。しかし、そのことと、特定の仕事を一生懸命するとは別の問題です。公式組織での各人の仕事のやる気は、組織への参加の動機(メンバーであろうとすること)によって確保されたものですから、個々の仕事への動機とは別のものになります。つまり、公式組織においては、参加の動機と仕事への動機は分離する。
これは公式組織である以上は避けられない構造的なものです。どのような仕事であれ組織の仕事をするということが柔軟性を生み出していたのですが、これは、見方を変えると、どのような仕事であれ、成員資格を満たす程度にしか仕事をしないということにつながります。つまり、命令に対する無関心の対価として仕事に対する無関心が生まれるといってよいわけです。人間は楽をしようとするわけですから、何らかの事情がないかぎり、成員資格維持の最低条件をにらんで仕事量を調整することになります。ですから、個々の仕事への動機づけ、つまり「より一生懸命働いてもらうための動機づけ」が必要ならば、なんらかの策を講じる必要がある。この点が、いわゆるインセンティブとかモチベーションの問題として経営学で論じられる領域になります。
授業の中で説明したように、経営学(経営管理論)とモチベーションといった心理学は、アメリカでほぼ同時期(20世紀初頭)に成立した(必要になった)「人を動かす」ための理論(方法論)として括ることができます。
通常、こうした仕事へのモチベーションを高めるには、貨幣報酬以外のインセンティブ(=組織が見返りとして与えるもの、誘因)が重要だとされます。たとえば地位や役職、周囲の評価、社会的評価、あるいは仕事内容や責任や権限の大きさなど、人が社会的欲求として抱くものに対する働きかけです。ただし、インセンティブは、その価値評価は個人的な差があること(仕事に何を求めるかは人によって違いますよね)、また地位などのようにインセンティブに用いることができる手段は有限であること(全員が課長なんてありえないわけです)(これは貨幣もそうですが)などの問題があり、最適解とか最適量を割り出すなどといったことがほぼ不可能です。
しかしながら、仕事への無関心は根本において、公式組織の構造的なものであり、それが公式組織であることのメリットを産んでもいることから分かるように、仕事への動機づけを強く行うことは、システムに歪みをもたらす可能性を秘めています。参加への動機と仕事への動機が分離するということを組織それ自体によって解決することは不可能なのです。
目的の機能
目的と存続
組織に目的があることは当たり前のことです。そもそも多くの組織は、何かの目的を達成するために作られるものですから、組織の存在自体が目的を前提としていると言っても良いでしょう。経営学では組織の定義または成立条件に共通の目的があることを当然のこととしています。
しかし、ここでは、視点をずらして、目的そのものが組織(社会的システム)にどのような意義を持つのか、組織にとって目的がどのような機能を果たしているのかを考えてみたいと思います。そのことが、組織というものをより深く理解するための新しい視点をもたらしてくれると考えます。
目的の機能、と言いましたが、何かの機能を語るためには、その機能が果たす目的を視座とする必要があります。目的が組織の目的のために果たす機能、なんていうのは無意味ですから、別の「目的」、組織にとって必要な別の働きの観点から考えることにします。ここでは、組織の存続にとって、目的はどのような機能を果たすのか、という観点から考えていくことにしましょう。
組織のような社会システムは、モノのシステムとは違って、存続=おなじものであり続ける、そのこと自体が、解決すべき根本的な問題としてあります。モノのシステムであっても、時間がたてば劣化したり壊れたりするわけですが、社会システムは、常に同じつながりとまとまりを維持し続けないと、すぐに消滅します。複雑で変動する環境の中で、自らを同じシステムとして維持・存続させることは、社会システムがシステムとして常に解決し続けなければならない問題です。ですから、環境への対処という観点から目的がどのような働きを担っているかを考えていくことにします。
なお、普通は、環境のなかでシステムが存続していくためには、環境に「適応」することが必要だとされます。さまざまなところで環境適応という言葉は用いられています。しかし、環境に「適応」しているかどうかの判断を考えると、適応として考えることは、そんなに簡単なことではありません。システムと環境との外側に立って、二つを比較しうる視点からしか、正しい「適応」あるいはより良い「適応」は語れないはずですが、そのような視点はありえません。環境の複雑さをすべて測定することなどできませんから、適応度といった量的な評価なども無理です。ですから、適応ということを言うのであれば、結果として存続していることをもって「適応している(らしい)」というしかないことになります。そこで、この授業では、環境の中で存続していくのに必要なのは、環境に適応することではなく、環境のもたらす影響に対処(自分たちなりにやりくりしていくこと)することだとしておきます。システムは、環境に対しては、適応するのではなく、対処していくのです。
「環境への適応」、「適応による進化(自然選択)」、あるいは生存競争とか DNA など、社会科学、とりわけ経営学では生態学や生物学の概念(正確には「用語」)が使われることが多いのですが、大抵の場合、比喩的な表現として使うなら悪いとは言わないけれど……というものになっています。たとえば、「進化は生存競争によって環境に最も適応したものが生き残っていくことで生じる」といったことが平気で言われます。そもそも、進化=進歩とされているのが間違いなんですが、これは進化という言葉が生物学固有の用語からは乖離した一般的な言葉だということで大目に見るにしても、他にも最近では遺伝子や DNA なども、かなりラフな使い方をされています。この点は気をつけてください。あと、動機付けのところで少し触れたように、心理学的概念も気を付けておいたほうがよいものが多いように思います。
環境に対処するための目的の機能について、二つの側面から考えていくことにします。一つは、組織が特定の目的を持つと言うことが環境(具体的には社会や他の組織などになります)に対してもつ機能、これを外的機能と呼んでおきます。もう一つは、システム自身にとっての機能、これを内的機能と呼んでおきます。この二つです。
目的の外的機能
目的の外的機能とは、組織(社会システム)が目的を持っていることが、環境である他の組織や社会などとの関係にどのような働きをするかということです。環境との社会的関係の構築と維持ということですが、これは端的に、社会的存在として認めてもらい、受け入れてもらうためのシンボル(象徴)になるということです。組織の自己表現としての目的、ということです。
目的の外的機能:環境に存在を受容してもらうための組織の自己表現
なにかを行なっている集団があったとき、私たちは、「何してるのか? 何やってるのか?」ということを知ることで、その集団をとりあえず理解し受け止めます。何をしてるか分からない集団というのは怪しい集団ということになる。つまり、「あれって何?」という問いは、社会的な存在に対しては、「あれって何してるの?」、つまりその集団の存在や行動の目的は何?という問いかけが中心にあり、それに対する納得できる(なるほどと了解できる)答えとして、目的を知ろうとします。
組織の側から言えば、自分たちの存在を社会に了解し受容してもらうための端的な表現が、自分たちの目的を知らせることだということです。
目的を組織の自己表現として提示することで、存在を社会的に認めてもらうことができる。これが目的の外的機能です。
目的というものは、それを定式化(言語化)する際には、さまざまレベルや切り口で行うことができます。資本主義社会において民間会社の目的は、突き詰めると利潤の獲得ということができますが、このレベルでは、他とは違う自分たちという自己表現にはふさわしくありません。具体的な財やサービスを生産・提供することが、通常はその会社の目的ということになりますし、私たちが求める答えのレベルもそこにあります。他でもないその組織の目的、他とは違うその組織ならではの目的、が、その組織の理解の軸として表明され、受容されていく。もちろん、その財やサービスをどこまで具体的に、あるいは修辞的に語るかは異なるでしょうし、最近よくみられるように、経営理念や経営哲学として〜の生産/提供を通して社会に貢献するといった語りも、組織の自己表現としての目的の提示(呈示)です。
先に挙げた経営理念のように、外部に自己表現(呈示)として示される目的は、ある種の理想化がなされたものになります。そして組織のメンバーは、そのような理想化された目的、理想化された組織像と言ってもよいでしょうが、それにふさわしい行動や態度をとること(少なくとも対外的には)が求められます。ある意味で抽象的な目的を、具体的に示すのが、その組織の生産物と、メンバーということになるからです。
目的と理解
ここで、少し脇道にそれますが、なぜ目的が社会的な理解や受容に結びつくのか、を考えておきます。
何かの目的を知るということは、目的というものが、その何かが自分(たち)にどのように関わる(関わらない)ものなのか、に結びつくからだと言えるでしょう。
この講義で幾度か触れてきたように、私たちは、普段、自分たちの身の回りの全てのモノやコトについて、正確に理解した上で生きているわけではありません。むしろ、大半のものは、あんまり今の自分には関係ないものとして気にもしてないでしょうし、自分に関わりのあるものであっても、「自分にとってどうかかわるのか、どう対応すればいいのか」ということをもとに、そういうものだからと特に意識的に考えることなく接するのが日常的な態度ではないでしょうか。
つまり、私たちにとって重要なのは、それが正確には何であるのかではなく、それを(とりあえず)どうすればいいのかということです。前に、人間の特性として、様々な対象を「〜として」捉え扱うことを挙げましたが、まさに、自分がそれを「何として」扱う(接する)のが普通なのか、ということが、私たちの日常的な世の中の理解の中心だと言えます。理解と言っても、意識的にそのモノやコトについて考え了解するのではなく、何も考えずに対処できるようになること、です。私たちは、自分を取り巻く日常的な世界のものごとを、とりあえず自分は「○○として」扱う/接することにしている。言ってしまえば、自分にとってどのように役に立つという観点、道具「として」どう関わるのかという観点で、了解し受けとめて接している。コミュニケーションのところで、受け手として分かるというのは、正確な理解かどうかではなく、とりあえずどうすればよいかという手がかりが自分なりに得られることの方に焦点があることを論じましたが、あの視点のあり方も、ここでいう道具的な捉え方だと言えるでしょう。
このように、私たちが自分たちの日常世界、それを構成しているモノゴトは、自分にとっての道具という観点から捉まえた理解が中心になって構成されています。様々なモノゴトが道具的なつながり、かかわりでつながっている世界の中にいることで、普段はたいして考えなくても自然に当たり前に振る舞うことができていると言ってもよいでしょう。
何かの目的とは、何かが何らかの道具「として」あることを示すものです。道具的に理解することで、余計なことは考えなくても対処できる。チョークの化学的な成分が何であるか、どのように製造されるのかといったことは気にしなくても、黒板に文字や図を書くためのもので十分です。そして、何か問題が起きた時に、単なる道具的な理解ではカバーできない、モノそのもののあり方が気になる。パソコンや自動車が、こういうふうに使えばいいのだという想定どおりに使えている時には、それがどんなものなのかは気にならない。ある日、パソコンが起動しなくなる、自動車のエンジンがかからないといった問題が起きた時に、何でだ?という視線の先に、そのモノが分からないモノとして現れてくる。
このように、目的がわかる、あるいは目的があるということは、面倒なことを考えなくて生きていく日常を支えていると行っても良いわけです。だからこそ、何か見知らぬものや集団に直面した時には、それの目的、つまり何のための道具なのかという道具性(変な言葉ですが)が知りたくなると考えることができます。
私たちの日常的な理解:「〜のための、〜として」という道具的理解
ドイツの哲学者のハイデガーは、『存在と時間』という著書のなかで、私たちが様々なモノゴトを道具的に「了解」し関わることで日常世界に埋れている(気にしなくて済んでいる)あり方を「世界内存在」と呼び、そうした「〜として、〜のためのもの」として関わっているモノのことを「手許的なもの、道具的存在者」と呼んでいます。また、意識せずに道具的に物事を受け止め関わることを「気遣い、配慮」と呼んでいます。世界内存在としての私たちは、気遣いを通してモノゴトに道具的に出会い、了解し、関わっているというわけです。一方、故障などで謎めいたモノとして現れてきたモノを「事物的なもの」と呼んでいます。(かなり大雑把な要約ですが)
なお、自分にとって「〜として」ある、という道具的なあり方は、自分だけにとってという場合もあるでしょうが、多くは「人々にとって」というものになります。そして人は〜のように使うものだから、自分もそう使う、ということになります。世間の人はそうしてる、というのに合わせるのが、楽な受け止め方(理由を自分で考える必要もない)ですから。そもそも、日常的な多くのモノたちは、自分で使い方(関わり方)を考え出したものではなく、それがなんであるかを他人から学んできているわけですし。つまり、道具的に関わるということは、他の人もそうするものだから、という意味でも楽なことなのです(この場合の人とは、特定の誰かのことではなく、世間の普通の人という、実在しない平均みたいな存在の人です)。もちろん、このことは、具体的な関わり方において他の人と同じであるということではありません。自動車の運転の上手い人もいれば下手な人もいるし、人それぞれに運転の仕方にはクセがあるように、大枠で人と同じではありながら、個別具体的な自分の関わり方は、人それぞれということになります(「人」がいっぱい出てきてややこしいですが)。同じようでありながら、ちょっとずつ違う、その違いが、その人の個性として(あるいは自分とは違う他人だということとして)、受け止めていると言えるかもしれません。
目的の内的機能
目的の内的機能についても、目的が示す「〜として」という関わり方が関係します。こちらの場合は、目的があることによって、環境を特定の問題として捉えることができる、というものです。
目的を持つということは、当たり前ですが、それを実現したり達成したりするためにはどうすればよいかを考えることになります。この時、自分たちを取り巻いている環境を、目的の実現への関連で分類することになります。目的達成のための手段、目的実現のために取り組むべき課題、あるいは目的達成にはとりあえず関係ないもの。このように目的を軸として環境を分類・分析できるようになるわけです。幾度となく言っているように、環境そのものを丸ごと理解したり捉えることはできません。しかし、目的があることによって、様々なモノゴトが目的実現の役に立つのか、障害なのか、無関係なのか、それぞれ位置付けることが可能になる。もちろん、あくまでも目的を実現しようとしている自分(たち)から見た時に、そのように見ることができるということでしかありません。また、それが客観的に正しい判断かどうかはわかりませんし、見落としているものがないかどうかもわかりません。その意味では、環境を主観的に色付けすることです。また、無関係と思われるものはとりあえず気にしないでおくことで、一つの取り組むべき問題、解決すべき問題として単純化できるわけです。
経営学では、目的達成のために働きかける対象として見出された要因のことを戦略的要因、とりあえずは無関係と分類された要因のことを補完的要因と言います。目的を持つことで、環境が戦略的要因と補完的要因に分類されるわけです。また、複数の要因に一度に対処できない場合は、順を追って取り組んでいくことになりますから、その都度のとりあえず対処すべき戦略的要因は、時間の経過の中で変わっていくことにもなります。
目的の内的機能1:環境を、一つの問題として、主観的に、単純化することを可能にする
目的の内的機能2:環境を分析・分類できるようになる(環境分化)
組織のように協働している社会システムでは、目的が共有され、環境の分析が共有されることで、目的を軸として互いの行為を調整することが可能になります。目的は協働の調整の軸になる。だからこそ、組織の定義や成立条件に目的が不可欠のものとしてあるのです。相互行為(協働)とは、複数の人間が、自分の行為を他者に合わせるように調整することで(先の言い方をすれば接続可能性が確保されるようにすることで)成り立つわけですから。
もちろん、目的や環境の分析を共有すると言っても、メンバーの理解が皆同じということはありえません。大枠の方向性に、それほどブレがない、という程度のものでしょう。それであっても、互いのコミュニケーションや行為の一つのテーマとして、調整していくことが可能になります。
目的の内的機能3:行為の調整の軸になる
協働の調整の際には、分類された環境に従って、互いの行為の調整を行います。役割分担ですね。後ほど改めて論じますが、この講義では役割分担(分業)を、一つのシステムの中に下位のシステムを作っていくシステム分化(受精卵が細胞分裂して多細胞生物になっていくイメージで捉えてください)として定式化します。目的は、環境の分化を可能にし、それに対応したシステム分化を可能にするものということです。
目的の内的機能4:システム分化を可能にする
ただし、環境分化にせよ、それに対応したシステム分化にせよ、目的に照らして見たときの環境の複雑さや変動がそれほどでもない、ある程度の定常性を持っている(と見いだせること)ことが前提になりますし、複雑さの程度に応じて分化のあり方は変わってきます。また、あくまでもシステムの主観的な観察ですから、それが正しいかどうか(環境に「適応」しているかどうか)は、少なくとも客観的には確証できません。
目的と環境
ここまで、組織(社会システム)の存続にとっての機能という観点から、目的について見てきました。
ざっくりとまとめると、目的は、環境という複雑で分からないものを、取り組むべき問題として輪郭を与えてくれるものだと言うことができるでしょう。そこには、私たちの日常世界での道具的理解、「〜として」見る/関わるという人間の特徴が関係しているわけです。
ただし、あくまでも、目的を持った側(主体)が主観的に単純化しているので、目的に向けて活動し、目的を達成すれば、存続が確保される保証はありません。単純化の背後に隠れてしまったもの(想定外のもの、思いもかけなかったこと)が、何らかの作用を及ぼし、それが時としてシステムの存続を脅かすこともあるでしょう。主観的単純化によって視野が狭まるわけですから、視野から外れてしまうものがあることは必然です。先ほど述べたように、何も考えずに使いこなすことができるぐらいに馴染んでいた道具も、ある日、突然、うまく使えなくなって、不気味さをもったモノとして目の前に現れることもあるわけですから。
しかしながら、社会システム、環境そのものを捉えきれない以上、目的によって環境の複雑さに対処し続けるしか、存続を確保することはできない。その都度の問題解決という形で環境に対処し続ける際、目的の働きに頼っていく(いる)のが組織の存続のあり方だと言えるでしょう。
システム分化
システム分化とは
目的の機能のところで論じたように、システムの環境への対処能力を上げるためには、システムを分化させる(大きな一つのシステムから、小さなサブ・システムのシステムへと分ける)ことが有効な手段です。個人で活動することよりも、複数の人が協働することの方が有効なのは、単純に力を足し合わせることでパワーが増すことだけではなく(大きな岩を動かすといった場合であれば、これだけで十分かもしれませんが)、メンバーの間で役割分担(分業)を行うことで、色々な側面の問題に同時に対処が可能になり、また一人が対処するべき問題が限定されるからです。少し抽象的に言うと、環境の複雑性に対処するためにシステムの内的な複雑性を上げるということです。ここでは、この役割分担をシステム分化として整理しておくことにします。
なお、役割分担というと通常は個人間の話であり、一方の分業や専門化は会社の部署や部門のような諸集団間の話として論じられます。ここでは、特に区別を設けず、個人間の役割分担であっても、集団間の部門分けであっても、それらに共通する側面に焦点をあててシステム分化として論じていきます。個人間の役割分担をシステム分化と言うのは違和感があるかもしれません。その点については、後ほど、組織において個々人が配置される(各メンバーが役割を持たされ編成される)諸個人の編成のあり方として、ポジション構造のところで論じることにします。
下部システムは部品ではない
役割分担は、個人を部品化することではない。機械の場合、部品は、その作動が厳密に決められていて、因果的に作動が連結されることで、全体の働きが生み出される。社会システムの場合、下部システム(あるいは役割を割り当てられた個人)は、その作動=振る舞いが割り当てられるのではなく、果たすべき課題や機能が割り当てられ、それをどのように具体化するか(実際の行動で果たしていくか)は、下部システムの選択・判断に委ねられる。つまり、働きが分配されるのではなく、判断(意思決定)が分配されるのである。この点が、物的なシステムの構成と、社会システムの分化の決定的な違いである。
環境分化と対処力
環境が分割・区別され、それに対応したシステム分化がなされると、それぞれの下部システムは、限定された環境(問題)にだけ専念すればよい。自分たちに関係ないことは、他の下部システムが対処することをあてにできる。つまり、気にしなくても良いことが大幅に増える(情報処理の負荷が減る)。その分、自分たちのやるべきことに専念できるし、その中で学習やスキルの蓄積も可能になる。このことが、全体システムの環境への対処能力を向上させ、パフォーマンスそ向上させることになる。複数の人間が全方向を24時間体制で監視する場合、シフトの時間に決められた方向を集中して監視すればよいからこそ、個人は能力を集中できるし、全体としての監視パフォーマンスが向上するわけである。
分化による自律性
対処する環境が限定された下部システムが形成されることで、環境の諸問題は、それぞれの対応するシステムが対処する問題になり、他のシステムにとっては定常性が確保される。また、新たな問題に対処しなければいけなくなったときには、下部システムに割り当てられた課題(機能)の変更、あるいは新たな下部システムの分化によって対処可能となる。このことを通じて、全体システムは環境に対しての一定の自律性を確保できる(変化や問題が起こるたびに全体が振り回されることがなくなり、またシステム分化の問題として取り組めることになる)。
構造化された環境
ある下位システムにとっては、他の下位システムおよび全体システムは、一定の秩序をもった(構造化された)環境になる。つまり、下位システムは、限定された外部環境と、構造化された内部環境との、二面の環境に対処しながら活動を行い、存続していくことになる。
環境問題の内部化
下位システムの間でのコンフリクト、利害対立は、それぞれが対処している環境の違いから必然的に生じうるものである。つまり、環境の複雑性という問題が、組織内の部門対立の形で内部化され、内部で解決するべき問題として処理されるのである。
システム分化のデメリット
調整のコストと時間によって、変動に対する柔軟性が失われる
ポジションとステータス
個人に対する仕事の割り当て、役割の割り当て、協働体制の編成
ポジション構造
公式組織においては役割構造はポジション構造で編成される。あるポジションに:
- 個人(特定の能力などをもった人間)
- 仕事(課題、権限と責任)
- ステータス(地位)
- 公式コミュニケーション経路
これらが配置されて、一つの役割となる。
柔軟性
ポジション構造をとることによって、問題が起きたり状況が変化した場合には、そのポジションに割り当てられているものの一部を変更したり、取り換えることで、対処することが可能になる。つまり、一定程度の柔軟性を確保できる。
ただし、自由に変更が可能なわけではない。具体的な個人が割り当てられていることから、変更への抵抗などが生じてくる。
報酬の割り当て
報酬の割り当て方の違いが、組織の雇用や人事の体制の違いをもたらす。ポジション(仕事)に報酬が割り当てられるのが、いわゆる欧米型と言われる職務給である。一方、報酬が個人(の能力)に割り当てられるのが、日本型と言われる能力級である。
決定
決定による連鎖
組織は行為のシステムですが、行為と行為が直接につながっているわけではありません。システム分化のところでも論じたように、組織の分化・役割分担は意思決定の分業として行われます。つまり意思決定のつながりとして組織という社会システムはまとまっている。そこで、改めて、意思決定について考えてみることにします。
まずコミュニケーションについて確認することから始めます。コミュニケーション論で確認したのは、他人のコミュニケーション(行為)の受け手は、それでどうする?という選択を迫られて、なんらかの反応(リアクション)を起こすことになることでした(コミュニケーションの拒絶も含めて)。つまり、受け手としての選択が、次なる行為への接続を生み出しています。
行動//行為→[受け手としての理解・選択]→行動//行為→
この受け手としての選択を意思決定と呼ぶならば、行為のシステム、組織は、意思決定の連鎖によって成立するシステムであると言うことができます。経営学においては、組織(の本質)を意思決定の連鎖、意思決定のシステムとして捉える考え方があります。
意思決定とは、問題を解決するために決定・判断・選択することですから、コミュニケーション(行為)のそのつどの選択を意思決定と呼ぶのは、いささか大げさですが、組織のメンバーは、自分の仕事をどうするかを考えながら行なっているという点では、自分に与えられた問題を自分なりに解決しながら行為しているわけですから、意思決定と、ひとまず呼んでおきましょう。
意思決定過程
まず、一般的な意思決定について確認しておきます。
通常、意思決定(decision making)は、問題に対して、とるべき行動を決定するプロセスを指します。決定を確定する前の問題設定や情報収集の段階も含めて、ここでは意思決定過程と呼んでおきます。意思決定過程は、以下のようなプロセスになります。
- 決定すべき/解決すべき問題が見つかる
- 情報収集によるデータなどから、問題解決に利用できるリソースを見つける
- 問題解決のための複数のプラン(選択肢)を考える
- 選択肢を評価して、最適なもの、最善なものを選択する
- 選択されたプランを実行する
このプロセスは大きく分けると3つの段階に分けることができます。一つ目は問題を認識する段階です。情報の収集や分析、現状認識などで、何がどのような問題なのかを明確にする(決定可能な問題として定式化する)段階で、インテリジェンスと呼ばれます。次の段階は、明らかになった問題の解決手段を考える段階です。解決策になりそうなプランを考えたり発見したりする段階で、設計と呼ばれます。最後が選択肢の評価と選択で、選択と呼ばれます。狭い意味での意思決定はこの段階を指すことになります。
数学の問題のように、いくつかの解法があるにせよ、論理的に一つの正解が導けるような問題を解くことは、意思決定ではありません。意思決定が必要になるのは、計算や論理では正解が定まらない問題、そもそも正解があるかどうかもわからない問題です。不完全な情報や不確定性(複雑性)、限られた時間、限られた資源、そして人間の限られた能力のもとで、なんらかの選択を行うのが意思決定です。その意味では、最適解を選択することは実際は無理(それが最適解かどうかの判断も含めて)とも言えます。誰にとっても最適解が明らかな問題には、意思決定など必要ありません。ただ正解を採用すればいいだけの話になります(数学の計算と一緒)。この点を突き詰めると、正解がわからないからこそ、何かを正解として「選択」しなければならない、ということになります。現実には、さまざまな制約のもとで、とりあえず最善と思われるものを選択することになります。経営学では、人間は、合理的であろうとしても認識能力の限界によって限られた合理性しか持っていない、限定合理性による意思決定を行うものだとします。そして、たとえば一人では合理性に限界があっても、多くの人たちが下位の意思決定を行うこと(問題をさらに下位の問題に分割し、それぞれの意思決定を行う)のつながりを通じて、組織としてはそこそこ合理的な意思決定が可能であると考え、この点でも、組織とは意思決定の連鎖であると捉えます。
意思決定の二重性
問題解決というと大げさですが、組織に関わる活動においては、自分に与えられた仕事や課題を、その都度、組織の観点にたって判断を行なっています。メンバーの各人が、組織的意思決定を行なっている。それは個人的な価値判断ではなく、組織の目的などを基準に下されるという点において、非人格的な決定活動だといえます。このような組織における意思決定は、以下のような二重になっているとバーナードは論じました。
- 与えられた課題に対する組織的、非人格的意思決定
- 課題に取り組むという貢献を行うかどうかの個人的、人格的意思決定
つまり、公式組織におけるメンバーの意思決定は、組織のための意思決定であると同時に、そのような意思決定を自分が行うかどうか、公式的予期に従うのか否か、の意思決定も伴っているというわけです。課題を与えられた時に、それを仕事して担うかどうか(=公式的予期に従うかどうか)の判断も必ず伴う、そして場合によっては、そんな仕事・課題なんかやってられないと拒否する可能性もあるというわけです。
この授業では、公式組織においては権威の一般化が成立することによって、無関心的に仕事が遂行されていくものだとしていますので、この二重性が常に意識されたり問題にされることはない(脱退を意識することがなければ)ことになりますが、根本において二重性を持っているということは、重要なポイントです。
*バーナードはメンバーシップによる権威の一般化を決定的なものとはみなしておらず、その都度の仕事において、人は、仕事の内容と誘因(見返り)と自分の利益・満足に照らして、満足いく交換(苦労よりも得るものが多い)であれば人は働くということを協働の基本においてます。
意思決定と決定
これまで述べてきた意思決定は、通常、行為者の意識的な選択・判断とされるものです。意識的判断が伴うからこそ「意思」決定と呼ばれるのであり、無意識的行動や反射的行動とは区別される。しかし、わたしたちは、常に、自分の行動を意識的に行なっているでしょうか? 仕事をする時に、その都度、選択の中からの最善の選択を行なって行動しているでしょうか? 公式的・非公式的な予期に導かれて、そういうものだからと行動しているのではないでしょうか? コミュニケーションの受け手としてリアクションを起こす場合でも、ほとんどの場合、考えるより先に言葉や行動が生じているのではないでしょうか? このように考えてくると、行為のシステムを成立させているのは(行為と行為をつないでいるのは)「意思」決定である、とすることに疑問が生じます。
この講義の最初の方で、人間の行動は、本人の意識や意図には関係なく、他者(受け手)によって選択とみなされうる、ということを述べました。このことは、言い方を変えるならば、人間の行動は、本人の意思や意識にかかわらず、意思決定とみなされうるということです。つまり、意思決定とは、かならずしも本人が自覚的に行うものだけではない。むしろ、さまざまな活動が、意思決定とみなされうるものとして遂行されている、ということになります。この点を見ていくために、今後、意思決定という用語ではなく、決定という用語をもちいることにします。
決定と自由意志
なんらかの行動が、決定と見なされるのはどういう場合でしょうか? 選択とみなされるのと、決定とみなされることの違いはなんでしょうか? まず、何らかの行動が選択と見なされるのは、「〜ほかにもやりようがあった」という他の可能性を伴って行動が評価された時です。何度もいうようですが、本人の意思や意識は関係なく、その場で受け手が「そうしなくてもいいんじゃないか、ほかにもやりようがある(ん)じゃないか」という枠組みの中で行動を受け止めた時、それは選択になります。具体的な代替行動の想定はなくとも、ある行動が、そうするしかないものではないとされる(感じられる)時、それは選択であると見なされると考えることができます。そして、あえて選択と決定を区別するとするなら、その選択が、「もっと良い選択肢があった/あったのではないか」という特定の判断基準・価値基準のもとで最善ではなかったとされる時に、決定として問題になると言えるでしょう。つまり、特定の価値や規則のもとでの選択が決定であり、それが場合によっては決定として問題とされる。すこしわかりにくいですが、行動=決定と、行動が決定として問題になる場合とを分けておく必要があります。
本人の意思や意識にかかわらず、他者からみて、なんらかの選択の余地があり、選択の基準がある状況下で行われた行動、それをこのこの講義では選択と呼ぶことにします。そして、その行動の最善さに疑問が付けられるとき、あるいはその行動の結果がなんらかの損害のような問題を引き起こした時、その行動が決定として問題化される、責任が問われることになります(責任については、この後で改めて論じます)。
コミュニケーション論において、自分の発言は、つねに「なぜ?」の問いかえしの可能性を伴っていることを論じましたが、この「なぜ?」は、受け手が単に何を言っているのかわからないという意味での「なぜ?」だけではなく、受け手にとって何らかの不利益なりネガティブな効果を与えた(気分を害したとか)ことが契機となって「なぜ?」でもあります(言ってることが分からないことも、広い意味ではネガティブな効果と言えるでしょう)。自分のコミュニケーション・行動に対して、「なぜ?」が実際に発せられ問われてた時、それは行動が決定として問題化されることだと言えます。
公式組織に関わる活動においては、公式的予期に従って活動を行なっています。ですから、個人の行動は公式的予期と照らし合わせて、常に、決定とみなされうるものとして行われているわけです。実際に、特定の状況で特定の課題に取り組むにあたっては、その場の複雑性に多かれ少なかれ関わらざるを得ない。複雑性に関わるということは、それに応じて行う行動は確定的で必然的なものではなく、「他でもありうる」という状況依存的な偶発性を伴うわけで、その行動は決定(に基づいたもの)であるということになります。公式組織が決定のシステムであるというのは、このように、そこでのメンバーの行動は決定である(決定であることを要求されている)ということでもあります。
このような場合、個人は、自分の行動が決定と見なされる可能性があること、必要な場合は正当化しなければならないことをふまえた上で行動することになります。そこから、さまざまな行動様式(基本的にはいかにして自分の行動が個人的な決定とみなされないようにするか)が不可避的に生じてくることになります。
決定の問題化と意思
なんらかの行動が、決定として問題化された時、その時は「なぜそのような判断を行なったのか?」という動機が問われます。つまり、意思に基づく選択として問題化され、責任が問われます。「他にもやりようがあった」ということが、「あえてそれを選んだ」意思、動機を説明理由として求める根拠になる。「さまざまな可能性があった」状態から、「他にもありえたのに、特定のものが選ばれた」状態への変換(切断)を行なったものとして、個人の意思や動機が呼び出され帰属されることになります。
もちろん、行動した本人は、何も考えてなかったとか、いつものとおりやったとか、あえてそうしたわけじゃないという事情を述べることはできますが、その場合でも「本来はきちんと考えて意思決定を行うべきだったのに、そうしなかった」として問題にされてしまう(不作為というやつですね)。
そして、個人としての意思・動機が問われることによって、先ほど述べた決定の二重性が表面化することになります。つまり、(単なる)判断ミスとして了解されるだけでなく、場合によっては、公式的予期からの逸脱・違反という問題として取り上げられてしまう。メンバーとしての資格が問われることになる場合もあるわけです。組織的意思決定の問題は、個人的意思決定の問題へとリンクされる可能性を常に持っている。個人として意思や動機が問題にされる時には、個人としての成員資格の問題への回路が常に開かれるわけです(だからこそ、責任が個人に帰せられ個人が処分されることもある)。
決定と決定前提
以上、みてきたように、公式組織におけるメンバーの行動は決定である(とみなせる)。決定は何もないところでいきなり起きる出来事ではありません。意思決定過程のところでみたように、さまざまな前提にもとづいて行われる。このことは通常の行動の場合でも同じですが、決定という観点からは、行動の前提は決定前提と呼びます。公式的予期、他者の行為、状況、リソースなどの決定前提を踏まえて決定が行われる。
この点から見れば、公式組織は、さまざまな決定前提を与えることによって、個人の決定行動をコントロールし、組織という決定の社会システムを編成していると考えることもできます。
先に見たように、公式組織においては、ポジションに個人、権限と責任、仕事(課題)、コミュニケーション経路などが割り当てられるというポジション構造をとります。このポジションに割り当てられるものは、そのポジションで発生する決定を誘導する決定前提だと捉えることができます。決定前提として、選択可能性に様々な制約を加えることで、個人が特定の範囲で決定を行えるようにしている(行為主体性の制約)。この決定前提には、公式的に明示的なものもあれば、組織文化と呼ばれるような価値観や傾向性のようなものも含まれます。そうした決定前提を通じて、個人という外部のシステムの行動を方向付ける。それが公式組織だと言っても良いでしょう。
ただし、さまざまな決定前提が、実際の具体的行動をどこまで誘導するかは、確定的ではありません。その場、その時の状況の中で、個人が自分の行動を実現化するためのリソースとして何をどのように使うかは、その状況次第です。あくまでも前提を与えるものであって行動を確定するものではないのです。
不確実性の吸収
公式組織に関わる通常の活動において、他の人(や部署)の行動=決定を、自分の決定前提として受け止めて、自分が行動=決定をなすということになります。この際、他の人や部署の行為結果や情報は、「正しい」ものとして受け入れるのが普通です。システム分化のところで論じたように、他がちゃんとやってくれているからこそ、自分のことに専念できる(余計なことに悩まなくて良い)というのが、システム分化の基本です。ですから、ある情報がしかるべき権限のポジションからやってきた場合には、その情報は正しいということを前提に仕事を行う。「他でもあり得た」という不確実性は、他人の情報処理によって「消えた」ものとして受容できるわけです。それによって、それぞれのポジションの人間が直面する不確実性は、決定によって次の決定前提として渡されることによって、吸収されてしまっている(問題として表面化しない)。このように、決定の連鎖は、不確実性の吸収のメカニズムになっています。
個人の行動が決定とみなされるということには、このように、そこで不確実性を処理した=封じ込めた、というポイントとしてみなすということでもあります。決定から決定へとうまく接続され行為のシステムとして作動していくことが重要であるということが、決定前提を通常は疑問視せずに受け入れるということになっているのです。
もちろん、時として問題が起きることはあります。「正しい」からではなく、あくまでも「正しいものとして」受け継がれていったことが、不都合を起こす可能性はある。そのような時に、責任の問題が浮上するわけです。
責任
根源的責任
以前のコミュニケーション論などでも論じたことですが(コミュニケーション論の「コミュニケーションと責任」)、まず、人間がコミュニケーションを行う存在であること、コミュニケーションによって他者と共に生きる存在であること、そのことから来る根源的な責任の確認から話を始めます。
コミュニケーションとは選択の連鎖であるというのがこの講義でのコミュニケーションの基本的な捉え方です。いうなれば、コミュニケーションとは、自分の決定(選択)が、何らかの具体的なアクション(出来事)として実行され、それが他人(の決定)に影響を与えることだといえます。そして、人間のコミュニケーションの特質として、コミュニケーション自身をコミュニケーションで問い返すことができるということがあります。つまり、自分が納得いかないような言葉を受けとったときの「なぜ?」という問い返しができる。これによって、他者とのあいだのコミュニケーションの調整ができるようになっているわけです。コミュニケーション自身は、二人の人間のあいだで起きる出来事であって、そこで起きることは両者共にコントロールすることはできません。言うなれば、誤解や傷つきが起きてしまうことは避けられないのです。だからこそ、後からの「なぜ?」の問い掛けによって、その出来事の意味を反省することができることが、人間の他者との共在を支えているわけです。
あなたに対する相手からの「なぜ?」の問いかけは、この先(未来)、あなたとの関係を築いたり、維持したり、良くしたい(悪い状況を改善したい)からこそ発せられるわけで、あなたのことなどどうでもよい、あなたとは今後関わりたくないなら、「なぜ?」とは問い返さないはずです。ですから、自分の行った選択的行動に関して、他者から「なぜ?」と問われたら、それに応えようとすること、少なくとも応え手になることから逃げないこと、それが人間がコミュニケーションを通じて他者とこれからも生きて行くために、根源的に引き受けるべき責任、応え手になりうること=応答可能性=responsibility であると言うことができるでしょう。
コミュニケーション論のところでも述べたように、送り手としての何らかのアクション(伝達行動)を起こした人は、それが理解されるかどうか、うまく伝わるかどうかは別にして、アクションを起こしたということで、相手に対して具体的な関わりを行った(巻き込んだ)、相手に何らかの影響を与えた、そして自分を特定の個別具体的な考えや立場の者として呈示した、それらのこと(コミットメント commitment と言います)は取り消せない事実になります。その以後の自分を何らかの形で拘束する出来事になると言ってもよい。だからこそ、そういう伝達行動を行なった者として、同じ自分であり続け、同じ自分として相手と関わっていくつもりならば、アクションを起こした者としての立場は引き受けざるをえない。それが応答可能性としての責任を引き受けるということです。時間の中でのつながりの中で、伝達行動のコミットメントによって、責任が発生するわけです。
自らの良心の呼びかけに応えること、あるいは神からの恵に応えること、それが人間の根源的な責任=応答可能性であるという考え方もありますが、ここでは責任はコミュニケーションによって他者と共に生きていこうとする存在であることから生じるものとして考えていきます。
コミットメント(commitment)について
上で述べたように、応答可能性としての責任は、自分がなんらかのコミットメント(具体的な伝達的行動)を行ったゆえに負うものだというのがこの講義での解釈です。しかし、コミットメントと言われてもよく分からないかもしれません。経営学やビジネス誌などではコミットメントという言葉はよく使われますので、言葉としてはこれまでに聞いたり見たりしたことはあると思いますが、それは何?というと、あまりはっきりしないかもしれません。そこで、少し脇道にそれますが、コミットメントというものについて、ここで触れておき、先ほどのコミュニケーションにおけるコミットメントについて説明しておくことにします
そもそもコミットメントが分かりにくいのは、コミットメントという言葉(英語の commitment )自体が複数の意味を持った言葉であるからです。英語の辞書を引いてもらえば分かりますが、commitment には次のような意味があると説明されています(いくつかの辞書などの説明を田中が整理したものです)。
- 何かをなしと遂げるという約束や硬い決意
- 仕事や活動に対して自分の時間とエネルギーを捧げようとする意志
- 自らの時間を捧げて行ったり取り組んだりしなければいけないもの
- 何かを購入したり支持したりするためにお金や時間を支出する契約、金額
日本語の訳語では「約束、公約、献身、傾倒、義務、責任、関与、投入」などが、文脈に応じて用いられるようです。経営やビジネスでコミットメントという言葉が使われる場合は、大抵の場合は「仕事に熱意を持って取り組もうとすること」とか「仕事や会社に献身的であること」という意味で使われています(上記の2)。またあまり見かけませんが社長などが達成すべき目標などに対して「これはコミットメントである」(上記の1と3)と言うこともあります。
経営学(組織論)においては、組織コミットメントが論じられます。論者によって意味合いや規定の仕方は異なりますが、組織の目的や価値の受け入れ、組織に対する強い貢献意欲、組織に止まろうとすること(愛着)などが組織コミットメントとされ、経営者、管理者は社員のコミットメントをマネージメントすることが重要だといった議論になってます(モチベーションとか内発的動機づけといった話と同じ心理的要因として)。
こうしたコミットメントは、個人が組織で行動を積み重ねていくなかで、過去によって個人が組織に拘束されていく(価値などの内在化も拘束です)プロセスであると考えることができます。先程のコミットメントの意味の1に約束という言葉がありましたが、約束は他者に対して行うもので、約束した以上はそれを果たすように自分が行動するように方向づけられることですよね。まさに約束という行為を行った、あるいは強い決意を語ったことによって、自分自身を縛るわけです。
つまり、コミットメントとは、他者に何らかを表明し、その表明したことに背かないように一貫して行動しようとすること、と一般化することもできるでしょう。これが、先ほど伝達的行動のコミットメントといった際のコミットメントの意味になります。自分が(言わないこともできたのに、あえて)何かを言い、言ったことに対して、そう言ってしまった自分というものの一貫性、継続性を保つようにすること、そう言ってしまった者としての立場を引き受けて果たそうとすること、これがこの講義で言うコミットメントです。何かを言ったり行動したりする者として(そういうことをする者として)自分を他者に呈示し、それに自らを巻き込んでいくことです。
発話行為がコミットメントであり、ある種の義務を引き受けることであることについて、ジョン・R・サールは『社会的世界の制作』において次のように述べています(関連する部分を抜粋します)。
「なんらかの陳述(statement)をするとき、私はただそれに対応する信念を表に出しているのではなく、その真理性へのコミットメントを有してもいるのである。なんらかの約束をするとき、私はただそれに対応する意図を表に出しているのではなく、その実現へのコミットメントも有してもいるのである。……。コミットメントには大きく分けて二つの側面がある。第一に、いったん引き受けたらそう簡単には反故にはできないこと、第二に、義務を伴うことである。……。ある信念を私的に抱いているだけなら、偽だとわかった時点で修正すればいい。だが陳述に伴うコミットメントには、偽だった場合に修正されることに加えて、当の陳述をした理由を述べうることや、嘘をついていないことも含まれ、したがって仮に陳述が偽だった場合には、当人に対し公的な責任が問われる可能性もあるのである。……。言語の規約に従って明示的な発話行為が遂行された場合、コミットメントの創出は不可避である。これは陳述に限らず、すべての発話行為について言えることである。」(第4章生物学的かつ社会的なものとしての言語)
日常的な責任問題
このように、コミュニケーションを通じて他者と共存することに由来する根源的な責任というものを考えることができるわけですが、私たちの普段の生活において、そのような責任が責任として問題になる(「責任」を問われる)場面は、まずありません。実際に責任が問われるような場面、責任問題が発生する場面について考えてみましょう。
たとえば、次のようなケースがあげられます:田中が「X社は素晴らしい会社なので、ここの株は必ず値上がりするよ」と言ったので、B君はX社の株を買ったところ、実際にはX社の株は暴落し、B君は大損を被った。
この場合、B君は田中の言うことに従ったゆえに損したとして、田中の責任を問い、田中が損の責任を負うことを求めることになります。皆さんもそのことは自然だと思われるでしょう。
このとき、田中は何をしたから責任を帰せられるのでしょうか? まずB君に結果的に損をさせてしまうような情報を与えた、ということがあります。しかし、それだけであれば、田中に責任があるとは言いきれなくなります。たとえば、田中はY証券会社からもらった情報をそのままB君に伝えていただけだったらどうでしょうか? その場合、田中の責任が全くなくなるわけではないにせよ、B君が損をすることになった原因はY証券の情報と言うことになります。ですから、先の場合、田中に責任があるという場合には、田中の言ったことが田中自身の判断である必要があります。田中が自分で判断したことを言い、それを自分の行動の前提としてB君が受入れた、つまりB君はX社の株については自分で判断を行っておらず、田中の判断を受入れているだけです。
さらに、そもそもB君はなぜ田中の発言に従ったのか、ということもポイントになります。B君が損したことの責任を田中に問うたとき、田中の方からは田中の言うことなんか信じた方が悪い、という反論がなりたちます。つまりB君は、X社の株のことは判断できなかったにせよ、田中の言葉を「正しい」と思うかどうかはB君が判断しているはずです。このとき、勝手にB君が信じたのであれば、信じたB君が悪いと言われても文句は言えない。しかし、B君が田中の言うことを信じてしまうのは当然だということであれば、田中に責任が生じます。たとえば、「田中は経営学科の教員であり、その田中が授業中に言ったことだったので、学生であるB君は信じた」ということであれば、田中の役割(権威)によってB君が信じるのも当然だとされ、田中に責任は生じるでしょう。
もうひとつ、当たり前のことですが、「田中がX社の株が値上がりするといい、それを聞いたB君がX社の株を買ったところ、大もうけした」という場合には、そもそも責任を問うような問題にはなりません。田中が行っていることだけを取り出せば、まったく同じにも関わらず、それがB君に被害を与えたかどうかで、責任が実際に問題になるかどうかは決まるわけです。
責任問題の構図
以上の状況を整理すると以下のようになるでしょう。
- 田中は、「X社の株が値上がりする」と、自分の判断で述べた(他のようにも行動できたのに)
- もし、田中が「X社の株が値上がりする」と述べなかったら、B君は損をしなかった
- 田中が「X社の株が値上がりする」と述べたのにB君は損をしなかったということはありえない(Bは、自分で判断せずに/できないので、田中に従う)
もうすこし一般化して述べると、次のように言えるでしょう。
ある不確実な状況に関して、Aがαという判断(決定、選択)にもとづく伝達行動を行い、それを受けたBはαに従って行動した結果、損害を被った。
ここでAに責任が生じる条件を整理していくと、以下のようになります。
1:決定の連鎖と不確実性への対処
・Aの選択結果をBが決定前提として受入れる
・Aは不確実な状況で選択を行っている(=選択の余地がある)、とみなしうる
・Aは自らの自由意思で決定を行っている、とみなしうる
2:決定行為への予期
・BはAが適切な決定を行うことを予期している(信頼)
・あるいはAは適切な決定を行うことを求められている(役割、状況)
・そして、そのことにはAも分かっている
つまり、
Aは、自分が不確実な状況で何らかの決定を自ら下す必要性に迫られている
さらに、自分が適切な決定を下すことを要求/必要/期待されていることも分かっている
また、自分の決定が後続の決定行為の前提となること(他者に影響を与えること)も分かっている
このとき、Aが何らかの決定を下すと、決定の責任がAに帰せられる。
Aに責任が向けられるのは、根本においては、不確実性を吸収したからであり、それが他人に影響を与えたからだということができます。その意味では、冒頭に挙げた根源的な責任というものが、具体的な出来事の次元で問われている、と考えることもできる。コミュニケーションは選択の連鎖である以上、そこには多かれ少なかれ決定が入り込むわけですから。
決定の話のところでも触れましたが、決定にせよ責任にせよ、それが個人の行為として帰せられるのは、その個人に自由意志がある(=選択が可能で、他の行動もありえた)ことを最終的な根拠としています。本人が自発的・意識的に行ったかどうかは別にしても、「通常の人間には自由意志があり、行動においては意志による判断/選択の余地がある」からこそ、他ならぬその行動をとったことが、決定とみなされ、責任が負わされる。しかし、この講義の人間に関する議論のところでも触れたように、認知科学、脳科学の最近の知見などが示しているのは、人間が意志によって自らを統制する主体であること(自由意志を持つというのはそういうことです)への疑問です(否定と言ってもよい)。そもそも、物理的に考えれば、物理的な因果関係とは独立した自由意志などありえない。では自由意志、あるいは決定や責任は、何なのか? この点を巡っては哲学などで様々な議論があります。この講義では、その議論には踏み込みませんが(色々と面白いんですが)、この講義で「自由意志がある/意志で行動した」と「みなされる」、という表現を多用しているのは、「本当にあるのかどうかは別にして、社会的にそういうものだとして扱われる」ということになっているということ、そういうものだとして行動しコミュニケーションするのが少なくとも今の私たちの社会を構成する制度的原理になっていること、を踏まえて話をすることにしているからです。お互いに自由意志を持ち主体的に行動する存在「として」関わっているのです。
遂行責任と結果責任
上記の場面において、Aの「責任」とは、以下の2つの側面をもったものとして整理することができます。
- :自分に向けられた予期(=決定圧力)を引き受けて、適切な決定行動を行うこと
- :自分の選択結果(決定内容)が後続の行為にとって適切なものにすること
1の責任は、自分の役割や使命を果たすこと(予期に応答すること)という決定に関わるものであり、それを果たすために不確実性に自ら向き合うという意味で、チャレンジングで自発的な活動を行うことへのうながしにも繋がるものです。私たちが「責任を持って仕事をする」という時の責任はこれになります。こちらの責任を遂行責任と呼ぶことにします。通常の社会的関係において発生する responsibility はこの遂行責任であると言えるでしょう。他人からの期待・予期あるいは依頼に応えて、自分なりに「正しい」と思われることをやり遂げようとする。なぜそうするかと言えば、これからの他人と自分との関係を築き維持していくためでしょう。このときの「正しさ」は、自分が勝手に考えたり思ったりするものではないにせよ、自分なりの基準で判断する、大袈裟に言えば個人的な倫理的判断ということになるでしょう。
2の責任は、自分の影響を受ける他者が被害を被らないような結果を出す、あるいは問題が起きたときには釈明し被害を補償することが該当します。いうなればきちんと結果を出す「正しい」ことをする、結果を出していることの責任です。「仕事の責任を取る」というときの責任がこれにあたるわけです。この責任を結果責任ということにします。日本では「説明責任」と訳されるようになってしまった accountability (アカウンタビリティ)がこれにあたります。こちらも、もちろん、遂行責任同様に他者との関係を維持するために依頼に応えるものですが、「正しさ」は他者(依頼した側)の基準で判断するべきものとしてあります。
このように、応答可能性としての責任は、遂行責任 responsibility と結果責任 accountability の二面の責任となるわけです。
公式組織における責任
組織では、他人(他の部署)の決定は正しいものとして受入れることが前提でシステム分化や役割分担が行われます。システム分化のところで説明したように、それぞれの下位システムは、他の役割(下位システム)が正しい判断で情報処理をおこなっていること(正しい決定を下していること)をあてにできるからこそ、自分たちの問題に専念することができ、その結果、組織全体の環境対処能力が向上するわけです(決定の連鎖によって不確実性が吸収される)。これが成り立つ前提として、各下位システムは、他の下位システムや組織全体に損害を与える(問題を引き起こす)ような決定を下さないことが必要となります。
また、動機づけと権威のところで論じたように、公式組織においては権威の一般化と動機づけの一般化が成立しています。個人的な関係の場合は、決定を受けとった側の信頼が問題になることもあります。ところが、公式組織では、決定者の情報を受容するのは、決定者個人を信頼しているからではなく、それが同じ組織のメンバーによる公式の決定だから、ということになっています。つまり、受容者は、受容するのが当たり前であり、信頼を言うのであれば、決定者ではなく、組織への信頼に基づいているわけです。組織の信頼によって、個々の個人的な関係における信頼は考慮しなくて済むわけですし、そうしなければメンバーの資格を失うことにすらなりかねないわけです。ですから、公式のルートを通って伝えられた情報や決定は、中身を考慮されることなく受容されるわけです。たとえ何処で誰が下した判断かまったく判らなくても、公式に伝えられた情報や指示は、「正しい」ものとして受けとられ、各自の行為の方向づけに組み込まれていきます。
このような公式組織においては、「間違った決定」が公式のルートに乗らないようにすることが重要なのです。その結果、責任というものが、自分(自分たち)の下した決定によって他者が不利益を被ってはならない、つまり失敗は回避しなければならない、というものとして現れます(失敗が生じたら、まさに「責任をとる」わけです)。公式組織で公式的に割り当てられる責任とは結果責任です。決定を行った者には結果責任が課せられるということが、組織における個々の決定を「縛る」ものとして現れるわけです。
このように、組織においては、責任とは結果責任のことであり、成功や失敗の責任は必ず特定できるものとされます。一定の位置に還元することのできる確実なコミュニケーションだけが存在しているのでなければならない(確実さを支える決定を確定しうる)わけです。
結果責任と権限
結果責任を問うためには、その人がどのような結果を出すことを求められているのかが明確になっている必要があります。ですから、どのような仕事なり職務を負っているか、つまりどのような問題(環境)に関して自分で判断を下して良いのかをはっきりさせてこそ、結果責任は明確になります。
ですから、組織において、結果責任は、権限とセットで割り当てられます。つまり、各人が「決定を下しても良いこと」=裁量権を明確にしておくことで、各人が勝手に判断することを防ぐわけです。このとき、結果の判断の基準もなんらかの形で示されます(そうでないと成果の評価はできません)。権限の委譲によって各人が自分の裁量で決定できること(自分の裁量で処理して良い問題=環境)を限定し、さらにそれには、業務遂行の義務(これも責任と呼ばれます)と結果責任を負わせる。権限を与えられる代わりに結果を出すことが求められるという統制的な関係が生まれることになります(というか、統制そのものと言ってもよいでしょう)。
権限(裁量)を委譲された者が、権限を委譲した者(上司や会社)に対して、委譲した側の基準(価値)に従って自己の行為を説明し(正当化し)、それが認められなければしかるべき処罰を受ける。それが「権限と責任」の場合の責任(結果責任)です。
このように権限と結果責任の割り当てによって、過剰なリスクを負うことを組織は回避しながら、必要な不確実性は吸収するわけです。システム分化は環境を分割して対処するものだという話をしましたが、分化(役割分担)とは、権限の分割と分配のことであるわけです。ですから、システム分化は、決定を分割して限定することで不確実性を吸収する仕組みであるとも言うことができます。
遂行責任と結果責任の分裂
公式組織でポジションに割り当てられる責任とは、結果責任です。しかし、先ほど確認したように、他者との関わりにおいて生じる責任には、遂行責任と結果責任があります。組織においては、遂行責任は、通常は、業務の遂行義務を引き受けること(自分がやるべきことをする)として果たされるもので、責任の二面性が問題になることは少ないかもしれません。しかし、遂行責任の「正しさ」と、結果責任の「正しさ」の間にズレが生じるような状況に直面することがあります。「その場にふさわしいことをする」と「その場でふさわしいことをする」の「ふさわしさ」のズレです。
これまで公式組織は環境との間に必然的にズレや遅れが生じることを述べてきました。そのズレや遅れに直面した場合には、遂行責任と結果責任の分裂に直面せざるを得ない事態が生じます。具体的には、組織のメンバー以外の他者を相手にした場合です。顧客や取引先の担当者など、業務においては組織の外の人(言ってしまえば環境)との協働やコミュニケーションを行いながら仕事を行う場合も少なくありません。その際、目の前の相手、今自分が置かれている状況において、「正しい」ことと、組織にとって「正しい」ことの食い違いに、多かれ少なかれ直面することになる。公式組織において、結果責任は、根本において、組織に対して負う責任です。一方で、遂行責任は、その場における相手との関係の中で担う責任でもあります。その違いが、「正しさ」のズレの問題として、自分が解決するべき問題として出てくることになる。
社会の一員としての組織が、組織の外部(社会)に対する責任として担う、いわゆる組織の社会的責任としての「正しさ」と、組織から担わされた結果責任に基づく「正しさ」のズレが生じる場合もあるでしょう。
このような責任が分裂する状況については、改めて協働の現実の問題として論じることにしますが、「ある状況において、組織の外部の人間(顧客等)に対して、組織の一員として、正しく行動しようとする」場合に、「正しさ」のブレが、遂行責任(その状況において自分なりに相手にとって「正しく」行動しようとする)と、結果責任(その状況で業務を組織にとって「正しく」行動しようとする)との分裂が「問題」として個人に降りかかってくる事態は、公式組織のメンバーとして活動する際には、色々な場面で発生することになります。
doing the right things→遂行責任と、doing things right→結果責任との right の違い、と言えばドラッカー好きな人には分かってもらえるかな(ドラッカーはリーダーシップとマネジメントとの違いとして述べてましたが)。
責任回避の行動
組織においては、日常的な決定に際しては、遂行責任と結果責任の分裂という問題は、未解決のままになります。そして、個々の個人の実際の行動に、その解決が「ゆだねられる」ことになってしまいます。それゆえ、組織に関わる人々のあいだには、遂行責任と結果責任の分離にかかわる行動技術が生まれます。簡単に言うと、遂行責任は引き受けつつ(これは仕事をするためには必要)、結果責任を帰せられるのを回避することになります。
- :慣例主義、同調(決定者として人目を引かないように、皆と同じにする、慣例に従う)
- :責任転嫁、帰責転位(決定と結果に対する責任を外部に負わせる)(逸脱のさいに)
つまり、自己裁量ではないように表現すること、自分を決定者として目だたせないこと、それが基本的な態度になってくるわけです。仕事をするにあたって、自分の判断が必要になったとき、上で述べたような言い逃れの戦略が使えるかどうかをあらかじめ探るといったことも当然、出てくるでしょう。
もちろん、こうした言い逃れは「良いこと」ではないでしょう。しかし、組織で働く個々の人間にとっては、基本的に失敗は許されないという状況からくる圧力下で、それなりに行動していくためには、このような行動戦略を取るのは当然とも言えます。
公式組織において、公式的な構造では解決できない、公式組織ならではの問題といったものが存在し、それは現場の個々の人間の行動の戦術として解決されていく、ということです。
アカウンタビリティとは何か
*補足的説明です
この講義では、accountability (アカウンタビリティ)を、任された仕事の結果を出すこと、結果について場合によっては釈明し補償すること、という結果責任であるとしました。しかし、現在の日本では、アカウンタビリティを「説明責任」と訳すのが普通になっています。この講義で、説明責任という言葉を用いなかったのは、結果責任という言葉で語られていることが、アカウンタビリティとは異なってしまっているからです。
現在、説明責任という言葉が持ち出される場合、そこで問われているのは情報開示、透明性と、釈明でしょう。企業が不祥事を起こしたときに、なぜそのようなことになったのか説明責任が求められる、というわけです。確かに、accountability には、このような結果の釈明義務もあります。しかし、accountability とは、根本において、引き受けたことをきちんとやりとげることであり、だからこそきちんと行ったことを説明すること(あるいはきちんとやったのにうまく行かなかったことを釈明すること)です。つまり、なんで説明しなければならないかといえば、他人から何かを任され(権限が委譲され)、具体的な結果を出すことを期待されたからであり、その期待に背いてないことを明らかにするためです(そして場合によっては懲罰を受ける)。何より、きちんと結果を出すことがアカウンタビリティを果たすということでは重要なのです。
たんに説明すれば良いわけではない。さらに、最近では、事後ではなく事前に説明して了解を得ておけばよい(了解を得ておくこと)を説明責任と呼んでいることもあるようなので、ますます、アカウンタビリティとはずれてしまっているようにも思います。
ですから、説明責任という言葉では、この「目標を達成すること」という部分が見えなくなっている(抜け落ちてしまう)ので、この講義では、あえて結果責任という言葉を使いました。