田舎の専業農家の家に嫁に行く、という闇

 

 

これは、私が実際に経験した闇であり。

どこの農家もそうだ、と言っている訳ではありません。

私の結婚がただ、特殊だっただけなのだ。

そう思うけれど、ド田舎の専業農家の闇は、とても深い。

 

 

シングルマザー死ねって日本に言われてるとか言い出した馬鹿なシングルマザーです。

沢山の方の、ブコメ

 

長い、読みづらい

自己責任!

心中しろ

三人も子供を産んだ事が間違い

選ばれなかった人の尊厳を奪うな

自分を守る努力をしろ

夫に従わなかった罰だ

スキルと知識もなく可哀想ヨシヨシされたいのか

 

たくさんのブコメを頂きました。 

 

気持ちの持ちようでどうにかなるのにこんな人に育てられたくない

 

というのが一番心に刺さりました。 

まず私は2人しか授かりませんでしたし、それなりに良い会社に独身時代に就職できたので、なんとか生きて居られます。

ごくごく一般の派遣社員の戯言であり、愚痴のようなものです。

 

そして今回も上手く纏められなかったのでそれなりにかなり長いです。すみません。

 

だけど、可哀想だ、ヨシヨシとされたい訳でもありません。

ネタだと思うくらいに、私の人生はハードモードでしたし。

こんな人も居るの?くらいで流して笑ってくださればそれでいいです。

ネタではなく実話なんです。

驚くことに、こんな時代錯誤みたいなところが今もあるのです。

 

 

人生の側面でなく全部まで書けというお言葉が多いので、少し書かせていただきます。

私の人生の全部を見たところでなにも面白いことは無いと思いますが。

これが私が離婚に至り、シングルマザーになった理由です。

 

 

今回も長いエントリーで申し訳ないです。

 

 

私の結婚生活はだいたい7年程でした。

その間に2人の子供を授かり、離婚し、今は下の子どもと2人暮らしをしています。

 

旦那と私が結婚したのは付き合って1ヶ月。

断る事は幾らでも出来ただろうけれど、付き合い始めて3週間程で突然200キロ近く離れたところから、元旦那の親御さんが揃って会いに来ました。

まずここで意味がわからないし、創作だと思われても仕方がないと思うくらい、私も私の両親も驚いていました。

後から分かった事だけれど、義両親はとにかく思い立ったらすぐ行動しないと気が済まない人達でした。

 

 

初めて向こうの親に会うのだ、綺麗目で大人しく見えるようにしよう。

そう決めて、新しいワンピースをおろし、アクセサリは付けずに、ドキドキしながら向こうが空港の出口から出てくるのを待った。

 

初めまして、と。それなりの挨拶を交わした後、義両親は周りを観光したいからレンタカーを借りたい、と言う。

なるほど、確かにいつも乗っていない電車やバスに乗るのも不安だろう、そう思ってそのままレンタカーを借りに行ったら、義父が何故か運転席に乗り込んだ。

 

うん????????????

 

なぜ?とかどうして?とか言える空気ではなかった。

隣を見たら何故か神妙な面持ちの彼氏。

正直付き合い始めて1ヶ月、その前もそれ程会話した事のない彼氏の事は、私はよくわかっていなかった。 

 

今だ!ヘイター達!お前はどうだこうだと文句を言うところ葉ここだぞ!

なんと言う無知!なんというコミュニケーション能力のなさ!相手の表情でこれからの展開を読み取る能力のない愚直さ!

あなたはえらばれたんでしょう?そう言うならここだぞ!

そう言える貴方はあの瞬間の私と代わって下さい。

 

 

お互い社会人だし、休みの日に会う程度。

中高生で言えばまだ付き合って1週間程度よりもっと、相手の事を知らないに近いと思う。

 

その状態から、何故か。これまた地方にある私の実家に行くことになった。

ネタでもなんでもない。いっそネタならよかった。

高速のパーキングエリアで、ドッキリ大成功という札を持って出てくる人を真剣に探した馬鹿は私だ。

 

なにはともあれ、私はパニックだ。

慌てて親にメールをしたら親もパニックだ。

そりゃ当たり前だ。

 

なんで?あんたなんかしたの?

 

母の一番最初の返事はそれだった。そりゃそうだ。

なんでいきなり付き合い始めの相手の親がうちの実家に来るのか?

 

まず実家に来られるのは困る、介護しているおばあちゃんは先週から帯状疱疹になっている。

 

結果

パニックになりすぎた親は、地元でも有名な料亭を予約してしまった。(正直パニくりすぎだと思ったのでそこについては今は笑い話だけれど)

 

目の前に出される舟盛りのお刺身

重苦しい沈黙

まるで両家顔合わせ

 

とても四人で食べきれそうにない刺身を眺めながら

うわぁ〜多いねぇ、と言った私の声は乾いていた。

 

すかさず挟み込まれる義父の言葉

 

「二人は結婚するつもりなんでしょうか?」

 

誰に聞いているんだ?

そう思いながら私は刺身を口に入れて咀嚼する。味なんかよくわからない。醤油の塩辛さくらいで、何の刺身だったかも思い出せない。なんかしろっぽいコリコリした刺身。

味はしない。

続けて義母が言葉を続ける

 

「我が家としては娘さんをお嫁さんとしてお迎えしたい次第です」

 

固まる両親。同じく固まる私。

ちら、と、見た彼氏は何を考えているのかわからない顔をしている。

 

なんだこの空気?

そう思いながらも、ここで何か言わなければ私は下手したら嫁に行かなければならない!!

 

そう思って、喉から声を絞り出した。

 

「結婚は……出来ません」

 

何を言っているんだ?という義両親の表情。

そりゃそうだろうな。私もそちら側の人間だったら同じ顔をすると思う。

でも。私には何一つ今の彼氏と結婚出来る自信がなかった。

沈黙が怖くて私は必死に言葉を繋げた。

 

「けっこん、と。いうものは。お互いの生活に責任を持つものだと、私は…思います。私は自分自身の事にも責任が持てないのに、結婚なんて軽々しく言えません

 

何よりも私の本心だった。

結婚した先の生活は?

もし、子供が、今の時代に産まれたら?

親としての責任は?妻としての責任は?

大きな渦のようなものが、私の頭の中にはずっとあった。

 

いえた!!

 

そう喜んだのは一瞬で、次の瞬間には義父に

 

「誰もが結婚する前はそうなんですよ」

 

にこやかに、けれど目が全く笑ってない顔で言われて空気はまた重苦しいものに戻ってしまった。

そこから先の記憶は私には余りなく、気がつくとこんなにお前みたいな人間を嫁にと求めて下さっているならいいじゃないか、とか。

いえいえ味噌より塩派だからいいんですよとか。

なんだかわからないうちに、舟盛りの上の刺身は乾いてしまっていた。

 

そうして、私はなにも発言できないまま。結婚が決まった。

親は私を持て余していたし、きっと嫁の貰い手がある事が嬉しかったんだろう。

私にとって、何年ぶりかに見る両親はまるで知らない人のようにも見えて、思っていたよりずっと小さくなっているようにも見えた。

 

その味気ない食事会の終わり、早く孫を産んで貰わないと、と笑顔で言う義両親が恐ろしかった。

 

そして。私の結婚式場も。結婚式で着るドレスも、披露宴の食事も全て義両親が決めた結婚式が翌月開催された。

まるで全て用意していたかのような式で、私には少し大きい胸周りのドレスを後ろからずっと式場の人が支えてくれていた事が今となっては何度思い返しても可笑しい。

そして、結婚式の祝辞の挨拶で何度も言われる早く子供を産んでくださいという私への言葉。

これは平成か?

目眩すら感じながらずり落ちるドレスの脇を抑えるだけで式は終わった。

私側の参列者は親と妹だけ。

なんとも奇妙な結婚式だった。

 

私は、子供を産む道具として。そして小間使いとして、嫁に迎えられた。

旦那の家は地主さんでお金持ちだがとてもケチだった。節約家と言えば聞こえはいいんだろうか?

 

 

嫁の仕事は、朝は5時に起きて、全員の食事の支度。(介護職、義父母の食事と弁当、旦那の食事と弁当、ここに子供を授かれば離乳食と幼児食)

食事は常に4-5パターンだ。

夜間電力の間に電気を使う家事を行うように、とのいいつけで、食事を作り終えたら義祖母と義祖父を起こし、洗濯機を回しながら入れ歯を洗う。

洗い終えたら、家の中をモップがけして掃除機をかけ、洗濯物を干し終わる頃に一日分の米が炊あがる。

ご飯を昼と夜の分に、わけて。洗濯物を外に干す。

そして朝食用の味噌汁やおかずをよそい始める頃に各自が起きてくる。

 

夜間電力は8時まで、それまでに電気を使う家事が終わらなければ叱責され。私は朝食を取らずにゴミを捨てに行く。

そうして家に戻れば、義両親と旦那は仕事に出かけていて、私は義祖父と義祖母の介護をしながら一緒に朝食を摂る。

義祖母の、身だしなみを調えデイサービスに送り、義祖父の介護をし。

夕食の買い物をして夕飯の用意(これも4-5パターン)を作って、子供を風呂に入れれば気がつけば夜9時。

 

要領が悪い、なにをしているんだもっとうまくやれるはずだ。

そう叱責されて毎日をすごしていたが、きっとこのブログを、読んでいる人もそう思うだろう。

なんてノロマで間抜けな女なのだと。

 

そして9時になれば、

私たちは家族でリビングでゆっくりしたいから、お爺さんお婆さんの夜の薬飲ませたら、子供と一緒に寝て、降りてこないで、邪魔されたくないから

そう言われるまま、子供二人を寝かしつけながら真っ暗な部屋で眠気が訪れるまでじっと過ごす。

少しでも煩くすれば、不眠症気味の義父に迷惑がかかると義母に嫌味を言われる日々。


そんな毎日だ、友達等出来るわけもない。

スマホの中、SNSの繋がりだけが私と世界を唯一繋いでいた。

日中はスマホは触れない、そんな事をするならこれをやれあれが出来ると言われる。

(そんな私の隣で義母はツムツムをしている)

子供を見るのは大変だ、と言われ、月に1度だけ許された外出で出来る、唯一の友人とのランチは何よりの救いだった。

彼女と、会うまで1時間強バスに揺られて、2時間ほどランチをして慌ただしく帰る、その日が私には毎月待ち遠しかった。


 

逃げ出せばいい、時代錯誤だ。

そういう人も、居るかもしれない。

けれど、私はまともに機能する家庭を上手く知らなかった。

嫁にいくというものは、相手の家に入ることだから、必ず従いなさいという母親の言葉の呪縛に縛られていたかもしれない。

 

このエントリーを見て、羨ましいと思う人は私の7年と人生をとっかえっこしてもいいかもしれない。

選ばれる、選ばれないではないのだ。

それは、愛される、愛されない、であって。


その当時の私にとっては、だけれど。

選ばれるのは、子供を産み家の小間使いとして働き、家族とは決して認められない事だった

 

長子の様子がなんだかおかしい気がする、そう訴えても、

あらそう?旦那ちゃんの子供の頃もこんなだったわよ

その一言で片付けられてしまった。

ひたすら空回りする子育て。あんなにお金を注いで、上手く行かなかった自分を責め、幾度と泣いたのに、勝手に他人と比べてしまう自分が嫌で何度も一人で消えてしまいたくなった。

どうすれば人に迷惑をかけずに死ねるのか、そんな検索結果ばかりのスマホの履歴。

 

愛しくて愛しくてたまらないのに、どうやって向き合えばいいかわからない。

言葉が交わせない、目があわない、何故か突然癇癪を起こすのは私の躾がなってないせい。

 

自分を、責めてばかりの日々だったけれど、長子を背負い、7ヶ月のお腹で畑仕事をしながらふと思った。

 

もしかして、この子は特殊な子だから。義両親が言うようなかたにはめたような子育て以外をしたらどうなんだろう?

 

そう思うようになりました。

畑の草むしりをしている途中でした。

背中に背負う。重たくなってきた子供をひたすら愛したく、意思疎通がしたい一心でした。

 

季節は6月。

義両親が無理矢理のように入れた公立保育園から、勝手に長子を辞めさせました。

毎日保育園に行っては吐く、お弁当は皆と食べられない、走り回って座っていませんといつも腹立たしげな保育士さん。疲れきった顔をしながら、いい加減にして下さい!と、言われる度に頭を下げました。

なんでも真っ直ぐに並べたがるところ、水や砂を何度も上から落とす事を何時間でも、やるところ。止められると癇癪を起こし、吐き戻すまで泣き喚くところ、言葉が出てこないところ、こちらの言葉をオウム返しにかえすところ、目が、どうしてもうまく、あわないところ。。。

思い当たる節は沢山ありました。

 

長子が大人になっても、社会で上手くやっていけるようにと、公立保育園を辞めさせて療育を受けさせたいと義両親に、訴えてみました。

 

そんな恥ずかしい事出来るわけが無い!

というのが義両親の意見でした。

旦那は、好きにすればいいんじゃない?というなんとも頼りない答え。

 

そして、勝手に公立保育園を辞めさせ、(あっちにいってなさい、とかここに入ってなさい等という家では言わない言葉、それも連語を使い始めたのが引き金でした)

児童民生委員さんと、役所の保健師さんを頼り、長子を療育施設に通わせだしました。

 

ここから、私と、義母の間に溝が生まれました。

必死に勉強し、本を読み漁り、長子に、ちゃんとした診断を受けさせ、得手不得手を知った上で関わり方を考えたいと主張したら。

 

義母は裸足のまま家出してしまいました。

塩ちゃんがいるなら私はあの家に帰らない、そう言われてしまえば、嫁が出ていくしかありません。

そうして私は、3歳の長子と0歳の乳飲み子を抱えて、何一つ家財ももてないまま、追い出されるように別居しました。

その間の、旦那は、義母が出ていってしまった事に意気消沈し。義姉からは責められ。

私が出ていく事に反対する人は誰も居ませんでした。

 

この時既に私は、子供二人を前後に抱えての農産業と家事に腰と股関節を、やっており。

痛み止めの、注射なしには動けないほどでしたが。

子供を、愛する気持ちは何よりも勝つのか。

すんなりと、別居の引越しに至りました。

 

これが、私の結婚生活と、シングルマザーに至った結果であり。

誰もが羨ましいと思うような生活はなにひとつしていないつもりでしたし、家族の愚痴を自分の親や幼なじみ、親友にさえ言わないままでした。

(別居が決まってからはTwitterの、鍵アカウントで愚痴りまくりでしたが)

 

最後に義母から言われたことば。

 

家の家はあんたみたいな馬の骨の腹を借りただけだ、孫は全部家のものだ、財産だ

あんたのもんじゃない。出ていくとか離婚するなら、近所の後家さんに行ってくれ。

 

私はいつの時代にいきてるんだろう?

それもこれも。

私が幸福な家庭というものを、よく理解してないからだろうか?

そう、思いながら。

離れていく街並みを3人で眺めました。

とてもとても、こころがすっきりする気持ちでした。

この時の私の、体重は産後なのに36キロ。

身体も心も悲鳴をあげていました。

 

 

だから今。

色んな事を経て、私は、幸せです。

友人や知人が専業農家に嫁に行くと聞いたら必死で止めてしまうけれど。

田舎のしがらみ、農家の闇。

昔からの名家。

上手に暮らしている、知人もいるというのに。

耐えられなかった私はシングルマザーになりました。

 

自己責任、そう言ってしまえばそうなのでしょう。

けれど、こんな闇もある事を、誰かに知って欲しいと思うのです。