2019/09/16 - 2019/09/16
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横浜臨海公園さん
- アクセス
東京-飯田町間3.9km開通時期は、明治37年(1904年)から大正8年(1919年)に亘る15年間である。
即ち、
飯田町-御茶ノ水間 明治37年(1904年)12月31日 甲武鐵道
御茶ノ水-昌平橋間 明治41年(1908年) 4月19日 帝國鐵道庁
昌平橋-萬世橋間 明治45年(1912年) 4月 1日 内閣鐵道院
萬世橋-東京間 大正 8年(1919年) 3月 1日 内閣鐵道院
である。
飯田町-御茶ノ水間延長開業は、甲武(こうぶ)鐵道に依り、明治37年(1904年)12月31日大晦日に実施された。
該区間延長に鑑み、当時の第13代東京府知事 三浦 安(みうら やすし)(文政12年(1829年)9月15日~明治43年(1910年)12月11日)(明治26年(1893年)10月26日~明治29年(1896年)3月14日在任)を座長とする東京市区改正委員会は、該社該区間建設工事許可申請に対し、
甲武鐵道ノ飯田町萬世橋間延長ハ単ニ萬世橋ニ至ルモノトハ許可セス東京中央高架橋鐵道ニ連絡スヘキモノトシテ許可スヘキ
との見解を開陳決議し、明治28年(1895年)8月に出席者全会一致で可決した。
然るに、問題は、飯田町以東は当時の東京市神田區内に於ける住宅最密集地域形成故に、用地取得が計画当初から困難が予想され、事実、土地選定も二転三転を余儀無くさせられる状況だった。
該社に依る、飯田町-神田鍛冶屋町間2.6km建設工事許可に対し、明治33年(1900年)4月25日附で建設免許が交付された。
現在の神田三崎神社は、本来は現在の水道橋駅西口付近を中心に鎮座し、且つ、広大な境内を有していたが、該区間建設の為に現在地への移転を強いられ、あまつさへ、昭和8年(1933年)の複々線化工事に伴い、更なる用地提供を余儀無くさせられ、現在の猫の額の如き狭隘な境内になってしまった。
現在の御茶ノ水-水道橋間は面倒な一般土地収用を放棄し、代りに、神田川堤防を開削する事で解決施工する始末だった。
因みに、新宿-牛込間開通は明治27年(1894年)10月9日、牛込-飯田町間開通が翌明治28年(1895年)4月3日だった事から、飯田町以東延長施工が如何に困難な条件下での施工だったかが理解されよう。
因みに、飯田町-御茶ノ水間は開通当初より複吊架線式直流600V電化で電車運転され、更に、当時としては画期的な自動閉塞式で米ユニオン・スイッチ・シグナル社製円盤型自動信号機を採用していた。
飯田町-萬世橋間の殆どの橋梁桁は、独逸ハーコート(HARKORT)社製造品が使用された。
即ち、該社は、フリードリヒ・ハーコート(Friedrich HARKORT)(1793年(寛政8年)2月22日~1880年(明治12年)3月6日)に依り創設された鋼鉄橋梁製造企業で、本社はデュイスブルク(DUISBURG)に設置された。
該橋梁桁は、関東大震災後に於ける道路拡張、及び、飯田町-御茶ノ水Ⅱ間複々線化工事時に撤去例も多いが、昌平橋架道橋、及び、小石川通橋橋梁はじめ数箇所橋梁で現存現用しており、特に、後者橋梁は、平行弦上路プラットトラス構桁は、都内現用橋梁では唯一の存在である。
御茶ノ水-昌平橋(しょうへいばし)間0.4km延長工事は甲武鐵道に依り明治39年(1906年)3月に着工したが、然し、該工事着工時点で、同年3月31日附で公布された鐵道國有法にに拠り同年10月1日附で該社は政府買収が決定されていた事から、該区間延長工事着手は、利用者企業の利益を考慮したものなどでは無く、寧ろ、政府買収価格は買収時に於ける資産全体が対象とされた事から、政府買収対象会社は、俄土木工事開始例が多数見られ、該社新宿-中野間複線化、日本鐵道大宮-宇都宮間複線化、関西鐵道名古屋-湊町間全線複線電化、同城東線全線電化、参宮鐵道亀山-鳥羽間全線複線化、等々、明らかに政府に依る企業買収価格吊上を狙ったものが多く、正に狸の泥舟状態で、現在ですら非実現的事業も多きに亘った。
御茶ノ水-昌平橋間延長工事は国有化後も継続工事とされ、明治41年(1908年)4月19日に逓信省帝國鐵道庁に依り完成した。
引続き、昌平橋-萬世橋(まんせいばし)間0.3km延長工事が施工され、該区間は明治45年(1912年)4月1日に開通し、同時に昌平橋駅は営業を廃止した。
延長工事酣な折、昌平橋駅構内に於いて重大列車事故が発生する。
明治43年(1910年)3月8日
中央東線昌平橋驛ニ於テ電車到着ノ際何人カ制動機排気弁ヲ開放シ置キタル為制動ノ効力ヲ失シ停止スルコト能ハス 為ニ車止ニ激突シ乗客拾一名職員一名負傷シタリ
なる記録が現存するが、要するに職員外の第三者が制動機の排気弁を故意に開放した事が原因で、空気制動機が通常作動であるべき減速状態にならず、該駅車止に激突し車内の乗客職員が将棋倒しで負傷したもので、一歩間違えれば列車自体が高架橋から墜落していた危険性を有していた事故で、現在なら列車往来危険罪で、直ちに刑事事件として捜査が開始されたであろうと思われる。
竣工した萬世橋駅本屋は、東京帝國大学工科大学(現 東京大学工学部)教授 辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)8月22日~大正8年(1919年)3月25日)設計に依る3階建総煉瓦建築で、同時期に建設中で大正3年(1914年)3月30日竣工の東海道本線烏森(現 新橋Ⅱ)駅本屋と同様の外観を有し、建設中だった東京中央(東京)駅本屋の試周作建築と看做されていた。
該駅本屋内には、1,2,3等旅客用待合室やレストラン、会議室等々が設置されたが、当初計画と異なり、該駅発着列車は近距離電車が主で、中長距離列車は相変わらず飯田町駅発着だった事から、特に1等旅客待合室利用者など絶無に等しい状態だったが、該駅本屋が東京市中心部に出現した事で、東京市民をして驚愕させるに充分な存在だった。
また、該駅本屋前広場には、日露戦争第3次旅順軍港閉塞作戦(明治37年(1904年)3月27日)遂行中に戦死した 海軍中佐 廣瀬武夫(ひろせ たけお)(慶應4年(1868年)5月27日~明治37年(1904年)3月27日)、及び、海軍兵曹長 杉野孫七(すぎの まごしち)(慶應3年(1867年)1月24日~明治37年(1904年)3月27日)を軍神と讃え、明治42年(1919年)5月27日の日本海海戦記念日に建立された銅像が存在し当時の東京名所となった。
残存未建設区間たる東京-萬世橋間1.9kmは、明治45年(1912年)6月に計画骨子が決定したが、用地買収等々に時間を要し、実際の着工は大正5年(1916年)1月だった。
該区間延長工事の為に要した土地は計12330坪で該土地買収資金は826830円だった。
該当時、当該地は東京市内に於ける最密集地だったが、買収提示金、及び、移転費が高額だった事から、一般住民は概ね土地買収に対し協力的だったが、寧ろ、一番厄介な存在だったのは、当時、麹町區常盤橋に所在した内閣印刷局だった。
結局、内閣印刷局移転費用は639坪183000円を要したが、該区間土地買収資金全体の22%を占めた。
該本庁舎は煉瓦建築物で、内閣鐵道院は該庁舎を解体し、煉瓦、木材を売却し補填し様と計画したが、調査の結果、使用煉瓦は粗悪品で再用不能と判明し、木材は公開入札の結果、12525円の二束三文的格安価格で落札された。
該区間は開通以来、陽陰極の複吊架線式が採用されたが、内閣鐵道院は他車種に先行し電車に限定し既成螺旋連結器を自動連結器交換を決定したが、然し、自動連結器に交換する為には、現在の電棍(ポール)集電では連結時に相互車輌に接触する事が判明した為に、2本電棍集電から軌条を陰極帰線とするパンダグラフ集電とさせるべく、架線を単線からカテナリー式に改造し、萬世橋-四ッ谷間が大正7年(1918年)3月2日、四ッ谷-中野間は翌大正8年(1919年)1月7日に架線変更が施工され、同年内に全車輌がパンダグラフ集電化された。
該区間最大の難工事だった萬世橋-東京(呉服橋)間建設は、大正8年(1919年)3月1日に開通し、該線起点が萬世橋から東京駅に変更され、同時に、電車の運転形態も、中野-東京-品川-新宿-池袋-上野間運転に変更されたが、他方、萬世橋駅は中間駅化してしまい将来に於ける蔭りが見え始める。
大正12年(1923年)9月1日は、前日未明から続いた二百十日も早朝には止み、天候回復後は夏日特有の蒸暑の午前が正に終わろうとした11時58分頃、東京市民は突然の揺れに当初は単なる地震だと思ったが、然し、単なる揺れから更なる激振動を伴い、木造家屋が次々と轟音を立てて倒壊する姿を目の当たりにし、呆然としつつ立っている事すら困難な状況に人々は大地震が発生した事を身を以って知らされた。
後世、関東大震災(かんとう だいしんさい)と命名され記憶された地震は、震源地が神奈川縣西部だったにも拘らず、東京市内、特に、神田區(現 千代田区)、日本橋區(現 中央区)、下谷區(現 台東区)、及び、本所區(現 墨田区)に於いて甚大被害を生じせしめた。
該区間に於ける該震災被害は下記である。
神田驛 同日19時00分頃全焼
萬世橋驛 同日18時30分頃全焼
御茶ノ水驛 同日14時00分頃全焼
水道橋驛 同日13時40分頃全焼
飯田町驛 同日15時00分頃全焼
御茶ノ水-水道橋間神田川築堤部分では、線路が人家に面していた事から、該民家群火災に伴う、木片、衣類断片が着火状態で線路上に襲来した事や該線、枕木類焼失が他所と比較して著しく、軌条も長時間に亘る高熱の為に屈曲被害が多く発生した。
神田-萬世橋間 枕木焼損 164本
万世橋駅構内 枕木焼損 132本
万世橋-御茶ノ水間 枕木焼損 274本
御茶ノ水駅構内 枕木焼損 110本
御茶ノ水-水道橋間 枕木焼失1000本
水道橋駅構内 枕木焼失 300本
水道橋-飯田町間 枕木焼失 606本
然るに、該区間内に於いて最も甚大被害発生に為に悲惨な結果を現出させたのは神田駅である。
該駅建設着工当初からを知る地元住民達は、該駅ならば鉄骨鉄筋コンクリート構造で安全なりと考えたのは自然の成行きと言えた。
住民達はリヤカーや大八車に家財道具一式を積込み、家族共々、該駅に次々と避難してきた。
当初は神田區猿楽町、及び、同區神保町付近で発生した火災が一団となり火砕流化した事から、同日17時頃に付近一帯に延焼し、該駅では重要帳票類、備品等々を該駅地下煉瓦倉庫に搬入させたが、住民達が持込んだ家財道具類が導火帯化した為に引火全滅し、更に、火砕流に包囲され立錐の余地も無い状態中、且つ、当時の女性は日本髪を結っていた事から鬢付油に引火し、悲鳴大絶叫と共に次々に人々に連鎖しながら避難者を襲い、避難現場は壮絶凄惨状態を現出させ、焼死者約550名を出す大惨事現場となった。
地震発生と同時に萬世橋駅本屋は煉瓦壁に無数の亀裂が発生したが、倒壊を伴う危険性は全く無かった。
他方、地震発生直後より付近住民が家財道具一式を携え次々と集まって来たが、付近数箇所で発生した火災が集約化され火砕流となり、該家財道具群に着火炎上し導火帯化した事から、該駅本屋も当日17時30分頃には火災に巻き込まれ全焼するに至った。
現在に於いて、地震発生と同時に津波からの逃避、倒壊建築物に対する注意喚起はなされているが、然し、東日本大震災発生直後に持参道具類に着火炎上例も有り、該事例に対する注意喚起をも必要と痛感させられる。
駅施設火災焼失に関しては、神田、萬世橋、及び、御茶ノ水、水道橋、飯田町とは大きく被災要因が異なっていた。
即ち、後者3駅が地元火災延焼が原因だったのに対し、前者2駅は、地震発生後、地元住民達が該高架線工事着工時から知り尽しているとして構内は安全なりと考え次々と避難して来たが、かの者達は家族と共に家財道具一式をも帯同し立錐の余地無き状態となったが、同日夕刻頃より付近一帯での火災が集約し火砕流化して駅構内に雪崩れ込み、該家財道具群に着火し導火帯化した事で、結果的に駅構内が全焼したものであり、一方の露天との相違こそ有れど、本所區(現 墨田区)旧陸軍被服廠跡地で発生した惨劇と同例である。
萬世橋驛本屋は、屋根が崩れ落ち鉄骨が熔解するなど内部立入が極めて危険な状態だったが、取敢ず、付近一帯で回収された焼死体仮収容所に指定され、神田駅遭難者焼損遺体も該駅本屋内に移送収容された。
新水道橋、第2三崎町、第1三崎町、及び、小石川架道橋下は、安全と信じ、付近住民が家財道具一式を携え次々と避難して来たが、近隣火災に依り持参家財道具に着火した事に依り大火災が発生し、該火災高熱の為に該各架道橋桁塗装が焼損し、改めて修復を要する事態も発生した。
因みに、該震災で奇跡的に助かった人々で、後に、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲時にも生存を勝ち得た人の共通項は、大災害発生時は何も携帯せず身一つで逃避すべき事を、教訓として身を以って知っていたからだった。
該区間外震災被災電車は下記の通りである(電車以外の被災車輌に就いては機関車を含め、該線飯田町-新宿間編に於いて仔細記載予定)。
神田驛 中野発東京品川経由上野行 第324列車
デハ23502+サハ33772+デハ23503 同日19時頃焼失
萬世橋驛 中野発東京行 第80列車
該駅進入 停止直前に激震の為に該駅構内に於いて2号車に、該駅ホーム上屋支柱が折損命中し車体は大破したが、死傷者無く奇跡的に焼失を免れた。
水道橋驛 東京発中野行 第335列車
デハ6318+クハ6434+デハ6319 同日13時40分頃焼失
飯田町驛 東京発中野行 第833列車
デハ6267+クハ23600+デハ6268 同日15時20分~17時頃焼失
当時の電車被災記録に、
停車場構内にて焼失せしものは被害程度甚しく、高架軌道上に在りたるものは可燃材料焼失後冷却作用を伴ひしため比較的軽微なり。一般に木製の部分は速に焼尽し、鐵製の部分はその構造上、取付位置等によりて異なるも、台枠、電動機等の如きは修理の後再用し得る程度にあり。今ボギー電動車の損傷の一例を示せば次の如し。
主要電動機は導線のケース外の部分は焼損せしも、ブッシング緊密なりため火はケースの内部に侵入せず、以て内部には殆ど異状なく、電動子は其の儘これを使用し得べく、界磁線輪には巻替を要したるもこれは外部の熱のためその表面の焼損に由るものにして、電動圧縮機及び、ダイナモーターの界磁線輪並に電動子巻線の大部分焼損せしは孰れも外部の高熱に因るものなり。
とされ、実際に焼失車輌台車台枠、制動装置類、及び、電動機は再用されたものが多かった。
曲がりなりにも、飯田町以西区間開通が同月3日に可能だったのに対し、東京-飯田町間被害は甚大で、殆どの高架橋本体は無事だったにも拘らず、沿線火災に依る高熱現象の為に、床石変状、コンクリート剥落に依る鉄骨鉄筋露出、軌条湾曲変状、枕木約7000本焼失、等々の被害が発生した。
該区間復旧着手は同月5日だったが、被害甚大だった為に時間を要し、同月24日に東京-萬世橋間が復旧完了したが、永楽町変電所焼失の為に送電が不可能で電車運転が不可能だった事から、取敢えず、東京-横濱間運転で、鐵道院基本型12000型客車数両の前後に6700型炭水車付蒸気機関車を連結した列車を延長運転させ、25分間隔30往復運転が可能になった。
翌10月1日初電から京濱線は電車運転が可能になった事から、該日より京濱線列車乗入は中止され、東京-萬世橋間小運転で対応した。
同月4日には、漸く萬世橋-飯田町間が復旧し電車の試運転が実施され、該試運転は機関車牽引、および、電車単独で実施され、同月5日より電車運転を再開した。
永楽町変電所は関東大震災が原因で全焼し、調査の結果、被害状態が著しい事から、鐵道省は該変電所復旧を放棄し、新に神田に変電所設置を決定し、東京電燈會社から買電して直流600V1000kW送電が可能になった。
長らく萬世橋駅は神田歓楽街地帯への連絡駅として機能してきたが、大正8年(1919年)3月1日に該駅-東京間が開通し神田駅が開業した事で、それ迄は、東京市内駅乗降順位は第4位を維持し、大正12年(1923年)に第5位になったが、それでも、東京-萬世橋間から東京市電を中継し上野駅への連絡駅としての機能を有していたが、関東大震災翌年たる大正13年(1924年)には第7位、そして、神田-秋葉原間開通翌年たる大正15年(1926年)には第24位へと転落した。
即ち、内閣鐵道院線は東京、上野、萬世橋、及び、両國橋(現 両国)、京濱電気鐵道(現 京急電鉄)は品川、東武鐵道は浅草業平橋、京成電気軌道(現 京成電鉄)は押上が起終点であり、此れらターミナル間を連絡する第1輸送手段は東京市電だった。
内閣鐵道院線利用者は、運賃計算を東京市内通過を東京、上野、両國橋(現 両国)各駅終点で打切とせず通し計算された。
東海道本線は乗換の関係で特別急行利用者以外は新橋Ⅱが利用され、その為に、普通急行は市電乗換客、及び、霞が関官庁街目的とする事から、当時は全列車が停車した。
それ故、萬世橋駅利用者が相当数存在したが、大正8年(1919年)3月1日以降、東海道本線対東北本線乗換客で市電利用者は神田駅を利用する様になり、反比例して該駅乗降客が漸次低下し、更に、関東大震災以降、道路、及び、市電線路付替が実施され、該駅前電停が廃止された事で不便さが露呈し、更に、大正14年(1925年)に神田-秋葉原間が開通し神田-上野間で旅客扱が開始された事で、市電利用者は、新橋-両國橋間のみとなり、結果的に萬世橋駅衰退に拍車をかける事態となった。
帝都震災復興院は、関東大震災後に於ける震災復興計画に基き、東京市内既設指定道路幅拡張が実行される事になり、該区間内に於いて、萬世橋架道橋、及び、飯田橋通架道橋が該当とされた事から、鐵道省は、該架道橋架替を決定し、前者は昭和3年(1928年)、後者は大正15年(1926年)に実施された。
架線電圧は、長らく直流600Vを使用してきたが、
東京-阿佐ヶ谷間 大正15年(1926年)4月 1日 1200V
東京-立川間 昭和 4年(1929年)6月30日 1500V
に昇圧した事で高速運転対応可能になり、更に冬期は電気暖房設置も容易となった。
該線飯田町-新宿間は昭和4年(1929年)3月16日に複々線化が完了し、電車運転とは原則分離されていたが、然し、起点たる飯田町駅と云う地が禍し、殊に、昭和3年(1928年)11月15日に飯田橋駅開業と同時に、飯田町駅電車乗降場が廃止され、駅本屋位置が移転した事で、飯田町始発列車に乗車する中長距離列車利用者は1両0~2名と云う回送列車状態となり、早晩客扱廃止が決定的になった。
此の為に、鐵道省、閑散状態の列車線を活用すべく、急行(現 快速)線電車運転を立案し、昭和6年(1931年)1月に、飯田町-御茶ノ水間増線建設工事に着手した。
昭和7年(1932年)7月1日には、それまで開業以来、御茶ノ水橋名古屋方に所在した御茶ノ水駅を反対側に移設し、同時に、総武線両國橋(現 両国)-御茶ノ水間が延長され同時に電車運転が開始された。
最難関工事たる御茶ノ水-水道橋間立体交差工事は、昭和8年(1933年)8月に竣工したが、相前後して、飯田町駅旅客取扱は同年7月14日を以って廃止され、同年中に該駅旅客ホームも撤去された。
同年9月15日に全ての工事が完了し複々線運転が開始された。
鐵道省は、昭和10年(1935年)後期新車として、新たに、三鷹電車庫に対し モハ51型10両配置を決定し、該線名古屋方先頭車として、翌昭和11年(1936年)4~5月に掛けて次々と就役した。
該車は、それ迄の鐵道省電車の前面平妻様式から、初めて半流様式3扉セミクロスシート構造を採用し、その後に於ける76系、111系、211系電車構造の先鞭原型となった。
該線用電車として、臨時電車用に先行配置されたモハ42型以外でクロスシート構造だった事から、老若男女の人気の的となり、且つ、該車輌就役当時に於ける該線ホーム連絡階段が名古屋方設置駅が多数を占めていた事から、該車輌は常に満員状態を現出していた。
水道橋に存在した、元水戸徳川家屋敷跡に設置されていた帝國陸軍砲兵工廠は、敷地狭隘と設備老朽化を理由に、帝國陸軍小倉砲兵工廠に統合廃止が決定し、昭和10年(1935年)に実施され、跡地は更地化されたが戦争終結後も、そのまま残存した。
該区間に於ける大東亜戦争中の空襲に依る被害は、
昭和20年(1945)
2月25日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計172機
07時35分 警戒警報発令
14時15分 空襲警報発令
14時58分 空襲開始
16時03分 空襲警報解除
16時30分 警戒警報解除
爆弾42.3t 焼夷弾411.4t
該空襲に依り、神田-萬世橋間高架橋下火災
復旧26日始発
4月13日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計328機
22時44分 警戒警報発令
23時00分 空襲警報発令
23時18分 空襲開始
2時22分 空襲警報解除
2時52分 警戒警報解除
爆弾81.9t 焼夷弾2037.7t
該空襲に依り、御茶ノ水、水道橋、及び、飯田町各駅が被災、
モハ30171
モハ31015
クハ38016
サハ39004
サハ39012
サハ25134
御茶ノ水駅構内に於いて、電車6両に焼夷弾直撃に依り全焼。
戦災廃車後、モハ30171は東武鉄道払下、サハ39004はオハ7047、サハ39012はオハ7065に復旧され客車として再生、サハ25134は東急電鉄払下された。
御茶ノ水駅本屋、水道橋駅本屋、及び、該駅上下線旅客ホーム上屋全焼。
復旧 15日14時
5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機
22時02分 警戒警報発令
22時22分 空襲警報発令
22時30分 空襲開始
1時00分 空襲警報解除
1時30分 警戒警報解除
該空襲に依り、神田駅本屋、飯田町駅信号取扱所、及び、飯田町機関区全焼。
因みに、一部文献に飯田橋駅本屋全焼との記述を散見するが、該事実は無く、飯田町を飯田橋と誤植、誤転記の結果と推定されるが明らかに事実無根である。
運転再開28日6時00分~19時30分 蒸気機関車牽引列車運転、電車運転は30日初電。
大東亜戦争終結直後より数年間は、資材不足の為に全施設が限度規定以上使用が要因で、疲弊老朽化が著しい状態となったガ、此の為に、電化区間各地に於いて、架線切断事故が多発したが、該線萬世橋電留線に於いて、昭和21年(1946年)9月13日に、架線断線が原因とする車輌火災事故が発生した。
即ち、
モハ30133 → デハ73333 昭和3年(1928年)3月31日附竣功 汽車會社製造東京支店製造。
昭和22年(1947年)4月24日附 事故廃車 相模鉄道払下。
現在の東京地下鉄東西線中野-大手町間10.7kmは、中央本線東京-三鷹間複々線化計画代替建設区間として別途設置された路線である。
即ち、昭和32年(1957年)日本国有鉄道理事会に於いて、中央本線東京-三鷹間24.1km増線計画案承認事案が事の発端である。
御茶ノ水-中野間12.1kmの既成複々線区間を活用し、東京-御茶ノ水間2.6km、及び、中野-三鷹間9.4kmに新に複線施設を追加し該区間全線を複々線とする内容だった。
該計画案に基き、東京駅に0番ホーム設置スペースを構成させたが、然し、現実には、東京-御茶ノ水間2.6kmに於ける用地取得は殆ど絶望的であるとされ、追加複々線化は中野-三鷹間9.4kmに限定し、中野-東京間は、帝都高速度交通営団地下鉄に依り、別途建設施工し相互乗入計画に変更された。
該計画案は昭和62年(1987年)4月1日の民営分割後も継続したが、昭和63年(1988年)に東京駅復元計画が浮上した事で、該計画案は自然消滅した。
現在では、首都高速道路都心環状線で中央本線跨線部が複々線跨間となっているのは、該計画案の先行結果である。
昭和43年(1968年)7月16日22時38分頃、御茶ノ水駅1番線で重大事故が発生した。
即ち、先行旅客第2239F列車は、該駅出発直後、該列車に直前乗車した乗客荷物が扉に挟まった状態で扉が閉止したが、該乗客が無理やり荷物を引張った為に、扉が開閉状態となった事から、該列車運転台のパイロットランプが消灯し、該列車運転士は異常事態と判断し非常制動を動作させた。
他方、後続旅客第2201F列車運転士は、先行第2239F列車に接近し、閉塞信号機が停止現示で列車自動停止装置ATS-B型が動作した為に確認動作したが、漠然と行動した為に、該停止信号を冒進し、先行旅客第2239F列車後部に気づき非常制動を動作させたが間に合わず追突した。
該事故に依り双方の電車2両が破損し、乗客20名が重軽傷を負った。
復旧は双方の電車を分割し、万世橋留置線に収容後、線路復旧を実施し、翌17日6時50分に開通した。
当時のATSは確認ボタンを押印後はバックアップ機能が無く、言わば、起こるべくして発生した事故だった。
因みに、現在、東日本旅客鉄道が使用するATS-Pn型は、運転士に依る確認作業を必要とせず、信号冒進時にのみ非常制動が作動するシステムとなっており、保安装置としてはATCよりも高度機能を有する。
東海旅客鉄道は、該社所有地大半から西日本旅客鉄道が採用した交流60Hz様式のATS-W型導入を決定し採用したが、故障が多いのみならず、該システムと連携する踏切誤動作に依る、遮断機が列車通過中にも拘らず開状態だった事故が連続発生した事が契機となり、東海旅客鉄道は主要線区に於いて設置工事中だったにも拘らず、W型採用を中止し、東日本旅客鉄道50Hz様式のATS-Pn型採用に踏み切った。
此の為に、大垣-米原間に乗入れていた西日本旅客鉄道普通快速用電車は、Pn型車上機器設置を見送った事から、該区間乗入が不可能になり、結果的に長らく続いた大垣乗入が廃止された。
逆に、東日本旅客鉄道小山車両区配置の231系電車はW型未設置だった事から、東海道本線熱海以西区間乗入が不可能だったが、東海旅客鉄道がPn型が設置された事で、事実上、米原まで入線可能である。
表紙写真は、
1903年(明治36年)ドイツ・ハーコード社製
平行弦上路プラットトラス構造
小石川(こいしかわがわ)橋梁
中央本線歴史的痕跡探訪記
~東京-飯田橋間編 明治頌歌~
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~飯田町-飯田橋-新宿間編 明治頌歌~
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~辰野-塩尻間編 明治頌歌~
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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東京駅
第2番ホーム(旧第1番ホーム)
東京駅開業当時、大正3年(1914年)12月開業から平成7年(1995年)7月新ホーム切替まで中央線電車発着ホームだった。東京駅 駅
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東京駅
第2番ホーム(旧第1番ホーム)東京駅 駅
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東京駅
第2番ホーム(旧第1番ホーム)
ホーム上屋支柱がホーム縁に比較し内側に湾曲状態なのは、中央本線東京-三鷹間複々線計画に基く0番線設置計画に拠る。東京駅 駅
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東京駅
第1番ホーム
平成7年(1995年)7月移転。東京駅 駅
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東京駅
第1番ホーム
構内信号機と中央本線0キロポスト。東京駅 駅
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東京駅
第1番ホーム
中央本線0キロポスト。
1番線中央部に所在。東京駅 駅
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東京-神田間
銭瓶町橋(ぜにかめちょうばし)高架橋
20連構成
総延長200m
スパン間長 8m
明治39年(1906年)12月竣工。
該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區銭瓶町(ぜにかめちょう)から採用されたものである。
その後、行政合理化で、昭和4年(1929年)3月30日附府告示第203号に拠り大手町2丁目統合改称が決定し、該府告示は同年4月15日附で施行され、該町名は消滅した。
該高架橋は、現在の東京駅構内中心部を形成。
但し、東京-神田間中央本線別増線工事時に、該高架橋前を拡張した為に、該高架橋自体直視は不可能。
東京都千代田区大手町2-5-9
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分銭瓶町橋 高架橋 名所・史跡
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東京-神田間
銭瓶町橋高架橋
表面上に於ける設置当時の痕跡は見当たらない。
東京都千代田区大手町2-5-9
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分銭瓶町橋 高架橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋(ごふくばし)架道橋
36.17m(56.70ft)
鋼鐡製複線型橋桁使用
カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間36.4×1連(2)
明治36年(1903年)7月9日設計完了。
明治43年(1910年)9月架橋。
該架道橋名は、該地に存在した外濠に架橋された呉服橋から採用されたものである。
永代通り(国道1号線)
東京都千代田区丸ノ内1-7
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋架道橋架道橋
東京方
煉瓦積橋台
東京都千代田区丸ノ内1-7
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋架道橋
球体支承(きゅうたい ししょう)
該物は、橋梁に於ける重量物受支柱 対 台座接点部に球体を設置する事で柱全体に於ける振動揺に遊間を付与軽減させる構造、ピボット支承とも称する。
X字状の補助補強鋼材は、耐震工事施工時に追加設置された。
東京都千代田区丸ノ内1-7
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋架道橋
支柱
左 大正初期
中 明治後期
右 昭和中期
設置時期で個々形態が微妙に異なる。
東京都千代田区丸ノ内1-7
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋架道橋
球体支承
近接
東京都千代田区丸ノ内1-7
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋架道橋
球体支承
装飾頭部横面
東京都千代田区丸ノ内1-7
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋架道橋
球体支承
装飾頭部横面
東京都千代田区丸ノ内1-7
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋架道橋架道橋
名古屋方
煉瓦積橋台
煉瓦は小口積
東京都千代田区大手町2-5-1
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
呉服橋架道橋架道橋
名古屋方
煉瓦積橋台
装飾隅石
東京都千代田区大手町2-5-1
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分呉服橋 架道橋 名所・史跡
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東京-神田間
旧呉服橋駅跡
全景
東京都千代田区大手町2-5-1
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分呉服橋跡 名所・史跡
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東京-神田間
旧呉服橋駅跡
駅出入口跡
東京都千代田区大手町2-5-1
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分呉服橋跡 名所・史跡
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東京-神田間
旧呉服橋駅跡
駅出入口跡
東京都千代田区大手町2-5-1
東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分呉服橋跡 名所・史跡
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