東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 2月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

秘密戦の記憶守って 旧陸軍・登戸研 一角に明大新校舎計画

明治大学生田キャンパスにある登戸研究所史跡の車寄せと、常緑のヒマラヤスギ=川崎市多摩区で

写真

 太平洋戦争中に風船爆弾など旧陸軍の秘密戦兵器の研究・製造を行っていた登戸研究所(川崎市多摩区)の史跡の一部が失われる可能性が出てきた。敷地を所有する明治大学が新校舎建設を計画しているためだ。川崎市の地域文化財に指定されている遺構群でもあり、学内外から憂慮する声が上がっている。 (松本観史、山本哲正)

写真

 旧登戸研究所の跡地の一部は戦後、明治大学の農学部と理工学部のキャンパスに利用されている。構内には弾薬庫や動物慰霊碑などの関連施設が残り、二〇一〇年には生物化学兵器を開発していた建物内に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」も開設された。

 今回、新校舎を建設する構想が浮上したのは、約十七万平方メートルの生田キャンパス敷地のほぼ中央部。研究所本館があった場所のよすがとなる車寄せや、当時からの八本のヒマラヤスギが残る一帯が候補地に挙がったという。

 明治大学は新校舎建設について「具体的な建設予定地、規模、スケジュールなどは未定」(広報課)としているが、昨春ごろに計画を知った大学関係者らは、関連施設が撤去される可能性を危惧。とりわけ、心配されているのがヒマラヤスギの行方だ。

 同資料館の山田朗(あきら)館長(同大文学部教授)によると、ヒマラヤスギが植えられたのは登戸研究所ができる五年前の一九三二年。山田館長は「ヒマラヤスギは歴史の目撃者であり、移民や秘密戦というなかなか表に出てこない過去を思い起こす貴重な場所でもある」と説明する。

 一月中旬に開かれた理工学部教授会でも、ヒマラヤスギを可能な限り保全するべきだとする要望を出すことを決めた。理工学部教員の一人は「老朽化した校舎の建て替えは最優先事項だが、みすみす貴重な史跡を失うような判断をすると、大学自体が社会的批判を浴びる可能性がある」と話している。

◆「歴史を知る糸口に」 保存会 史実解明へ活動

 旧登戸研究所の史跡は、2018年に川崎市地域文化財にもなっており、市民からも史跡保持を求める声が高まっている。川崎市民らでつくる「登戸研究所保存の会」の今野淳子さん(73)は「生田キャンパスの史跡を案内する機会がある時、参加者は『ヒマラヤスギはどこ』と聞いてきます。一番人気があるんです。伐採しないでほしい」と訴えている。

 敗戦時に旧陸軍は証拠を隠滅し、戦後も研究所の「秘密」は続いた。その秘密のベールをはがす一翼を担ったのは市民らだった。研究所施設の保存、活用も求め、06年に結成したのが保存の会。

 明治大学が10年に、生物化学兵器の開発に使われた鉄筋コンクリート棟を現状保存して資料館を開館すると、保存の会は14年、秘密と軍事が生み出す脅威を子どもたちに伝えようと絵本を刊行。これを朗読劇「ヒマラヤ杉は知っている」にし、研究所の活動を伝えてきた。今野さんは「ヒマラヤスギは、こうした伝えたいけど難しい話の入り口。子どもたちが昔に思いをはせる、よすがです」と保存を求めている。

<旧陸軍登戸研究所> 1937(昭和12)年設立。電波兵器や風船爆弾、偽札づくり、毒物などの研究・開発・製造を手掛け、秘密戦を支えた。終戦後に閉鎖され、50年に敷地の一部約10万平方メートルを明治大学が購入、キャンパスとして利用している。当初は100棟近い建物があったが、建物として現存するのは登戸研究所資料館として整備された1棟のみ。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報