名古屋市は、小学校の部活動の指導を新年度から市内半数の学校で民間の事業者などに委託する方針を固めたそうである。
その活動をする為の指導員の確保1000人以上。その人件費数億円かかるそうである。
昨年9月から市立の5つの小学校で部活動の指導の民間委託を試験的に始めており、スポーツスクールのスタッフや大学生らがサッカーや合唱などの指導にあたっているそうだ。ボランティアなのか、時給いくら支払われているのかは不明。
民間委託のメリットとして
【教師サイド】
・部活指導の時間を授業の準備に当てられる。
・残業を減らせる。
【児童サイド】
・専門知識ある指導者に教えてもらえる。
・通年通して活動できる。
と挙げてあった。
児童を安心して任せられる指導員が千人以上も揃うのであろうか。その為にかかる数億円もの人件費を名古屋市は出せるのだろうか。その数億円の根拠は載っていない。
指導員と呼ばれる方々はどういう方々をイメージされているのだろうか。何も書いていない。
その仕事だけで生計を立てられるイメージなのだろうか。それとも最初から生計を立てるのは不可能と決め付け、大学生のような若い方々、還暦を過ぎた方々を対象にし小遣い程度での数億円なのだろうか。何もわからない。
児童は若者か、年配者としか接しないことになるのか。
この名古屋市の方針。
私には現実性が感じられない。
この名古屋市の方針に対し、様々な方が意見を述べられていた。
「とっとと部活動など学校から廃止してしまえ。」
「その数億円を教師に渡して、今まで通り教師にやらせる。部活動担当者にはプラス10万円くらい渡せばいい。」
「親は金払ってプロがやってるクラブチームとか、音楽教室に子どもを入れればいいんだよ。」
「部活などせず、子どもは外で遊びなさい。」
などなど。
また一方で冷静な方も数多くいらっしゃった。
「現実性が乏しい。」
「学校の先生が部活動を持たれるから部活動としての意味がある。民間の大人では意味がない。だから、教員の給料の増額、教員の人数を増やす方が遥かに現実的である。」
「スマホSNS、ゲームに蝕まれている子どもたち。部活動が消えてしまったら、今以上にスマホ、ゲームに蝕まれていくのではないか、心配です。」
そのような中、このような意見があった。
「平日の授業時間にやれば良い。スポーツや文化活動は人間にとって重要な事。勉強は脳ミソを鍛え、スポーツや文化活動は心と身体を育てる。毎日毎日黒板に向かう教室では得られない貴重な体験活動はこれからの課題解決型の生き方には不可欠。そのために民間より派遣されたプロフェッショナルが指導をする。教員は教材研究や会議をする時間が増え、教材に磨きがかかるので、学力は下がる事はない。授業は量より質なのです。大量の漢字や計算ドリル等の宿題で、夜遅くまで机に向かわせる時代遅れ。家族と団欒し、早寝早起きの習慣を促進させるべき。離婚率の低下や虐待の根絶にもつながる。余裕の中で生まれる素晴らしい生活を皆が送る権利がある。働くために生きる様では本末転倒。小学校の在り方を見直す事は沢山良いことがありそうです。因みに私の妻は小学校で働いています。」
皆さんはどう思われますか?
私は以前から述べていますように
今こそ、学校に対する固定観念を変える時だと思います。
学校=机に向かってひたすら勉強していれば良い、安心、将来有望 → 先ずはこの考えを完全に改めた方が良いと思います。
また、
学校=部活動を根性論的に頑張る。理不尽な縦社会を学ぶ場 → この考えはお話になりません。
学校=自己肯定を得る場
その為に授業が、アクティブなスポーツ部活動が、感性を育てる芸術部活動が、そういう総合的な力を身につける為に部活動が、行事が、ある。
自己肯定を得るには、学校に好きなことがなければならない。やりたいと思えることがなければならない。やる気にさせる、子どもの力を導く指導者がいなければならない。
子どもの自己肯定を育むことは、国が、地方自治体が考えているような甘いものではない。
現在の部活動批判、校則批判、行事批判…学校批判から育まれるようなものではない。
日本中の現場で様々な立場の方々が建設的な意見を交わす議論の場が必要である。時間が必要である。
名古屋市の方針にどこまでの覚悟があるのか、どこまで本気で子どもたちの未来を考えているのか、残念ながら私には全く見えて来ない。
加速度的に一方的に進む部活動ガイドライン。
もっともっと議論が必要である。
後悔してからでは遅い。
話は逸れるが。
あなたは決められたチャイム。決められた教室で椅子に座り、黒板を見て、黒板の前に立たれる先生を見て時間がただ過ぎてゆくことの虚しさを感じたことはないだろうか。
尾崎豊の言葉が頭をよぎったことはないだろうか。
『退屈な授業が俺たちの全てならば、
なんてちっぽけで、なんて意味のない、
なんて無力な15の夜』
私は教師をしていながら、教師という立場でありながら、
この尾崎豊の言葉を忘れたことがない。
忘れられない。
学校とは一体何だろう。