どん底手帖

病気、大学中退、多額の借金・・・人生に挫折した20代男性のブログ

愚かになる

 

 疲れたら休む、というのは、常識だ。特に、最近の世間の風潮としてはそうだ。これだけ、長時間労働をさせるブラック企業の存在が問題視されている。

 休むと言っても、休日に寝ていれば、確かに、肉体的な疲れは取れるかもしれない。

 しかし、精神的にも、心底疲れている人は、それだけで満足することはない。

 また身の上話になってしまうが、10年間も闘病生活を送っていて、学歴もコネもなく、就活はほぼ全敗。さらに借金まである。身内には半分、見放されている。

 簡単に言えば、そういう人は、寝るだけでは疲れが取れないのだ。

 では、どうするのか。

 愚かになるのだ。

 愚かな行為をするということである。

 例えば、私はこれだけ喫煙者に厳しい時代に、あえてタバコを吸っているが、これはその行為のひとつだと言える。法には触れておらず、マナーも守っている。禁煙の場所で吸ったりすることはない。だから、愚かでも「OK」と言える。

 当たり前だが、愚かになるといっても迷惑行為や犯罪行為に及んではいけない。

 正確には、「ぐれる」という表現が正しいのだろう。以前、中島義道の「ぐれる!」という本を読んだことがあるが、その中に「自分のダメさ加減、そしてこの世の理不尽さを、これでもかというほどに噛みしめて、適当に生きていく」という内容があった。

 そう、「愚かな生き方」というものもある。

 私の生き方なんか、まさに愚かと言えるだろう。言い訳になるが、別に私とて、自ら望んで、こんな人生を歩んでいるわけではない。世の中には、どうにもならないことがたくさんあり、運悪く、それを被ってしまう人がいる。「自分は幸せだし、関係ない」と思っている人もいるのかもしれないが、決して他人事ではない。あなたとて、明日、通り魔に襲われて、身体に障害が残ってしまうかもしれないのだ。そして、そうなってしまった人が責められるべき理由など、どこにもないのである。「そんなの、しょうがないじゃないか。結局は自己責任だ」って?この時代に、日本人特有の精神論も程々にして欲しい。

 「自分は関係ない」という態度を示し、人を咎めるという行為は、明らかに愚かと言える。

 例えば、別に面識もない、どこかの芸能人のスキャンダルを、これでもかという程にネット上で叩いている人たちは、そんなに立派で偉い存在なのだろうか?

 無論、ここで指す行為は、人を攻撃する、いわゆる迷惑行為なわけだから、許されるわけがない。

 許される愚かさと、許されない愚かさというものがある。それはわきまえなければならない。

 しかし、まとめると、人は愚かさと紙一重のところで生きている生き物なのだ。愚かなことについて、少し見識を深めてみてはどうだろうか。

 みんな、疲れているのだ。だったら、愚かになればいい。

 あくまで、人に迷惑を掛けない程度に、だ。

 

鬱に勝つ

 

 当たり前だが、「オギャー」と生まれたときから鬱の赤ちゃんはいない。鬱は、後天的な原因で発症する病気なのである。

 この記事を読んでいるあなたは、きっと鬱なのだろう。私とてそうだ。どうして鬱になったのか、その原因は、はっきりとはわからない。ただ、ぱっと思いつくのは、仕事のストレス、親子関係も含め人間関係の問題、お金の問題あたりか。原因はひとつとも限らないが、いずれにせよ、

 自分が置かれている状況(環境)が劣悪だと人は鬱になる

 ということである。

 ならば、どうにかしてそれを変えない限りは、鬱は治らないと言える。SSRIのような薬なんて、所詮は気休め程度にしかならない。

 例えば、まったく違う土地に引っ越してみるとか、それが無理ならば、今の人間関係を断つ(リセットする)だとか、お金のことなら、あくまで身体を壊さない程度に、プライドをかなぐり捨てて、嫌な仕事も必死にやって、ひたすら稼ぐしかないだろう(私の知り合いにも、そういう人がいる)。

 あとは、心の支えとして、何か趣味を持たなければならない。「趣味」というと、なんだか漠然としているから、こう言い換えたい。

 自分が「楽しい!」または「気持ち良い!」と思えるようなことを探すのだ。

 私の場合だったら、読書かな。名前こそ出さないが、自分と似た境遇を経験してきた作家さんの書籍がとても好きで、いつも手元に置いてある。あとは、タバコ。私はお酒は飲まないが、タバコは吸う。寝起きの一服なんて、最高に美味しい。

 心の支えになるものを探さないと、延々とストレスに蝕まれて死んでしまう。

 私も含め、あなたは鬱なのだから、なおさらそうだ。

 私は、バイトの勤務中に、トイレに駆け込んで、お菓子を食べたり、タバコを吸ったりして、勝手に休憩したことがある。もちろん、本来はいけない行為なのだが、そうでもしないと心も身体も持たないのだから、仕方がない(後日談:バレました)。

 心の支えになるものが見つからないのなら、せめて、心の中にそのくらいの悪徳を持って欲しい。ただし、他人に迷惑を掛けない程度に。

 極端な話、人は、若くして自殺しなければそれでいいのである。暴論と言われるかもしれないが、ストレスに蝕まれ鬱になり、自殺を考えている程に追い詰められているあなたに、世間の綺麗事なんか通用しないでしょう。だから、こうして過激な内容の話をしている。

 ストレスで鬱になったあなたが、そこから解放される方法を見い出せることを願ってやまない。

 

生きながら死んでいるような人生

 

 先日の話だ。バイト中に、突然具合が悪くなった。

 「早退してしまおうか」とも思ったが、同じシフトの人に迷惑を掛けてしまうので私は我慢することにした。とりあえず抗不安薬を飲み、「トイレへ行ってきます」と伝え、個室でしばらく座り込んでいたら、少し良くなったので、すぐにバイトへと戻った。

 思えば、こんなことばかりの人生だった。病気というのは辛い。それが肉体的なものだろうと精神的なものだろうと、辛いものは辛い。しかし、完治させる方法が確立されていない以上は、耐えるしかない。ひたすら耐えて、耐えた末に、慣れてしまうしかないと言える。

 2007年。当時、まだ13歳の中学1年生だったのにも関わらず、鬱状態と診断され、私は抗鬱剤を飲む生活を強いられた。副作用が酷く、足がムズムズして、まともに立つことも座ることもできない。それでもなんとか卒業し、高校へと進んだ私は、遅れを取り戻そうと部活や勉強を必死になって頑張った。一時は復活したと思われたが、それでも鬱やいじめの後遺症は大きく、大学生になった頃になると精神的なトラブルが再発。大学は、休学や留年を繰り返した末に中退。挙句の果てに2017年には障害者手帳まで取得し、私は国にも正式に障害者として認識されることとなった。 

 今でこそ、障害者手帳は返納したが、一度でも障害者手帳を取得した場合、返納してもそれから5年間は、住宅ローンが組めないらしい。もっとも、将来住宅ローンを組めるほどの収入が得られるとも到底思えないが、心療内科に通院していた過去もあるから、生命保険にすら加入していない。というよりも、加入できないのだ。「自分は死んでも1円にもならないのか」と、少し笑ってしまった。

 こういう人生なので、自殺未遂は3回ほど経験している。いずれも首吊りだが、どうしても怖くて死ねなかった。わかるだろうか。頭に血が昇るような感覚に襲われ、視界がチカチカしてくるのである。その怖さを言葉で表現するのはとても難しい。

 なので、もう、自殺という選択肢は諦めた。私は生涯、この地獄のような人生と向き合っていくことにした。

 「最悪なのは死で、それ以外は最悪ではない」とは、ある作家さんの言葉だが、それを胸に刻んで今日まで生きてきた。これからも、寿命を迎えるまでは精一杯生きていくつもりである。

 しかし、生きていくためには、現実問題として、働いてお金を稼がなければならない。正直、働くのは辛い。今はバイトで食い繋ぎつつ、営業職の正社員を目指しているが、なかなか内定をもらうことができない。先程、「自殺することは諦めた」とは言ったものの、「こんなに辛い思いをするくらいならば、別にもう、死んでしまってもいいのではないか?」という考えが、今でもふと頭をよぎったりするものだ。しかし、

 正直、自殺するのは、生きていくこと以上に怖いことのように思う。そして、情けないことのようにも思う。

 とある知り合いが自殺した。25歳だった。今年2月のことだ。約4年前、上野のカラオケ店で一緒にB'zを熱唱したのがまるで昨日のことのようだ。しかし、もう彼はこの世にはいない。非常にショックとしか言いようがない。

 しかし、彼自身を責めるつもりはないが、自殺するくらいならば、せめてなにか、どん底から這い上がるための突破口を見い出せなかったのだろうか?彼もまた、鬱を患っており、大学を留年していて、親との確執にも随分と悩んでいたようだが、例えば私のように、一切のプライドを捨て、障害者になってでもゼロスタートするという考えは浮かばなかったのだろうか・・・。

 どんなに苦しかろうが、生きてさえいればそれでいい。私はそう信じて、この地獄のような人生を歩んできた。そして、これからもそう信じて生きていくつもりだ。

 いつかは、報われる日が来ると信じている。まあ、また辛くなったら、こうした愚痴をブログに綴っていこうと思う。

 

留年

 

 私は約3年前に大学を中退したのちに、現在は通信制の短期大学に在籍しているが、ついこのあいだ、留年が確定してしまった。それも、2度目である。

 それを告げると、父親は激怒した。当たり前である。

 バカは同じ過ちを繰り返す。

 この私も、バカなので、過去に同じ過ちを何度も繰り返してきた。借金とてそう。1度、借金を肩代わりしてもらったことがあるが、のちにまた借金を作ってしまい、今は大変苦しい生活を強いられている。

 1回くらいの失敗は誰にでもある。それは仕方がない。しかし、2度、3度と同じ失敗を繰り返していたら、仮に何か事情があったとしても、世間は「ただのバカ」としか受け取ってくれない。

 今度こそは卒業できるよう、頑張りたい。

愚行

 

 前回の記事にも書いたように、人は疲れると、楽しいこと、つまり快楽に走る。それは、一般的に愚行と呼ばれる行為である。ある人は、お酒を浴びるように飲み、ある人は、このご時世にタバコを吸う。またある人は宗教にハマる・・・。それは仕方がない部分がある。我慢に我慢を重ねた末に、ストレスが原因で自殺してしまったら元も子もない。しかし、そんな愚行と呼ばれる行為にも、一定のルールはある。

 真の愚行とは、他人に迷惑をかけることだと私は定義している。

 極論かもしれないが、誰にも迷惑をかけないよう、「密室で」大麻を吸って気持ち良くなるのは、あくまで密室で行う以上、他人に迷惑をかけないのだから、真の愚行とは言い難い。

 また、今の時代は、喫煙者に対しての風当たりがとても強いが、タバコも、マナーを守り、喫煙可の場所で吸う分には、なんら問題はないはずである。

 私は愛煙家だが、WHOは、喫煙者をこの世からなくそうと躍起になっている。しかし、飲酒が原因の暴力事件は日常茶飯事。飲酒運転も社会問題になっている。本来ならば、お酒を先に規制するべきではないか。喫煙者がそのように暴れることはないが、何故か現代社会は、喫煙者を排除することに必死である。順序が逆ではないだろうか。

 私怨はほとほどにしておくとして、要は、他人に迷惑さえかけなければ、大抵のことはしても良いという結論になる。一人でひっそりと、オーバードーズなり、自傷行為なり、好きにしておけばいいでしょう、という話である。

 人が最もしてはいけないことは、自殺なんだ。それを回避するために、知恵を絞り、自分なりの快楽を求めないといけない。

 ただし、何度も言うように、他人に迷惑はかけないこと。それさえ守れば、何をしていい。「暴論だ」と批判されても、別に構わない。そういう人は、一生、ストレスに蝕まれて死んでいくといいでしょう。

 

一億総病み社会

 

 私は、当時17歳の女子高生と横浜でお食事デートをしたことがある。・・・と書くと、今の時代は炎上しかねないのだろう。言っておくと性的な行為には一切及んでいない。レストランでサラダを一緒に分けて食べただけである。その子はお金がないと嘆いていたから、付き合ってくれたお礼としていくらかの現金を手渡し、そのあと駅まで一緒に歩いて解散した。

 この内容だけでも、昨今の異常なまでに強い道徳観を抱いている、正義マンと呼ばれる人たちからは、「けしからん。お前なんか捕まってしまえばよかったのに」と言われてしまうのだろう。実際、私がそのとき職務質問を受けていたら、逮捕までは行かなくとも、交番で軽い取り調べくらいはされていたかもしれない。しかし、職務質問はされずに済んだからラッキーだったと言える。本題に入ると、

 私のこのような行為は、果たして悪いことなのだろうか?

 女子高生(要は未成年)と性的な行為に及ぶのは、未成年淫行という立派な犯罪行為に当たるから、さすがにダメだと私も思うが、単純に女子高生と一緒に遊ぶのは、そこまで悪いことなのか。 

 私のように、少年時代にいじめられた経験があり、傷ついていて、さらに病気持ちで疲れ果てた男が、女子高生と遊び、会話を交わすことで癒される。一方でその女子高生は、一介の年上の男から、報酬としてお金をもらい、経済的に援助してもらう。

 どちらも損はしていない。むしろ得をしているのだからとても合理的な話である。しかし、世間一般的には、このような行為は「いかがわしく、罰されるべき」とされている。きっと多くの疲れ、病んでいる男たちは、本当はこのような行為に及んでみたいと渇望しているのだろうが、下手すれば警察のお世話になるかもしれないという恐怖が伴うため、我慢を強いられ、ますますストレスに蝕まれていく。

 普通、人は疲れ果てた末に病むと、楽しいや面白いこと、つまり快楽に走るもの。

 日本は世界でも稀に見る自殺大国と言われている。その割には、庶民のさまざまな娯楽を規制するから不思議な国と言わざるを得ない。タバコを吸おうにも、あらゆる喫煙所が撤去されてしまい、歩きタバコをすれば罰金数千円。タバコ税に限らず、酒税もずいぶんと上がった。これだけ大麻を合法化して欲しいという声があるにも関わらず、一向に大麻が解禁される気配はない。消費税はついに10%まで上がり、生活は苦しくなる一方。心療内科の数は爆発的に増えて、いのちの電話は何十回かけてもなかなか繋がらない。

 日本は物質的には恵まれているが、国民の心はもう、病みきってしまっている。

 ネットなんか、政治家や芸能人を誹謗中傷する書き込みで溢れ返っているではないか。それどころか、一般人までもが勝手に晒し上げられ、誹謗中傷を受けてしまっている場合もある。私もそうだ。有名人でもないのにアンチが湧いていて、ネット上に本名などを晒しあげられている。

 職業や社会的地位にあまり関係なく、皆、病んでいる。少しでも癒されたくて、「なにか楽しいこと、面白いことはないか」と、電車でうつむいてスマホと睨めっこをしている。異様な光景だと思わざるを得ない。

 ときには、本当に犯罪に及んでしまう人もいる。とある芸能人が、テレビであまり見かけなくなったと思ったら、覚せい剤で捕まるように。まあ、それは明らかな犯罪だから擁護のしようがないが、私が気にかけているのは、

 法的にグレーな、捕まるべきか否か微妙な行為をどう考えるか

 という問題だ。芥川龍之介は、「私刑は娯楽」と言い切った。ツイッターなどで、いちいち赤の他人の犯罪(と思われる)行為を晒し上げ、非難している人たちも、きっと心を病んでいるのだろう。それを癒すために、たまたま私刑という娯楽に手を染めたのである。しかし、それは自分で自分の首を絞めているのと同義だとは思わないか。例えば、そういうあなたたちは、信号無視すら一度もしたことがないのか。そんな清廉潔白な人が、いったいこの世に何割いるというのか。

 その人が、その行為で捕まるべきか否か。そんなものは、すべて警察に任せておけばいいんだよ。

 なにも一般人が介入する必要はどこにもない。警察に任せておけばいいじゃないか。多額の税金を払っているのだから。これだけストレス社会と言われていて、赤の他人を咎めることで鬱憤を晴らしたくなる気持ちもわからなくはないが、それにしても今の日本人は、色々とうるさすぎやしないか。これ以上、皆で皆の首を絞めて、いったいどこへ向かうというのだろう。

 余談になるが、日本では主に1990年代後半にかけて、女子高生の援助交際が大流行し社会問題にまで発展した。それで捕まった男たちは、きっと運が悪かったのだと思う。援助交際に手を染めた男たちが、ひとり残らず捕まったとは到底思えない。

 実際、捕まってしまうかどうかは、運に左右される部分も大きい。例えば、5ちゃんねるの犯罪予告は、すべてが検挙され、書き込んだ全員が逮捕されているのだろうか。もし、あなたが近い将来、せいぜい立ち小便くらいの行為で捕まってしまったとしたら、「あ~あ、捕まっちゃったよ。俺は運が悪かったんだな」と思わないといけない。

 そのくらい気楽に構えて生きていないと、一生、部屋に引きこもる生活を強いられてしまうというアイロニーである。

 

怒り

 

 私は今、まさしくどん底にいる。

 人は落ちるときは早い。大した自慢ではないが、私は高校では常に成績はトップクラスだった。そして、現役でとある有名私大に進学したが、病気もあって、それからはずっと転落人生を歩んでいる。

 もう、かれこれ10年は闘病生活を送っている。学歴もコネもない。あるのは借金だけ。そして、有名人でもないのに、アンチが湧いており、ネット上には本名や経歴までもが晒し上げられている。

 どん底から這い上がるのは、とても難しい。すぐに這い上がれるほど、世の中は甘くない。本人がなんとかしようと努力している間に、周りが愛想を尽かして去っていってしまったりする。

 人はどうすれば、どん底から這い上がれるのだろうか。例えば、三重苦といわれたマザー・テレサは、たくさんの支持者に囲まれていた。結局、人はそこに活路を見い出すしかないのである。ひとりでは何もできないということだ。

 どん底から這い上がるには、他人の協力が必要な場合もある。

 そして、どん底から這い上がるときには、自分が確実に踏めるステップを踏んで、一歩一歩、上がっていかなければならない。間違えても、一発逆転なんか考えてはいけない。宝くじ並みの低確率を狙って失敗したら、再びどん底に落ちるだけだ。

 私が最もどん底だったのは、おそらく2年ほど前だろう。その頃は、病気が悪化してアルバイトすらもままならない状態だった。そこで、すべてのプライドをかなぐり捨てて、障害者手帳を取得し、作業所に通い詰めた。言い方が少し失礼だが、リハビリのようなものだ。少し快復した私は、普通のアルバイトをするようになった。就活も(無理のない範囲で)頑張り、結果、2社から内定を得るまでに私は復活した。

 それでも、色々あって、今は再びどん底にいる。だが、私は諦めてはいない。一度はどん底から這い上がれたという経験を糧に、まだまだやれると、そう自分に言い聞かせている。

 人は意外と強いし、しぶとい。もし、精神的に参ってしまっているとしたら、それはあなたの弱気な心持ちがそれを余計に助長してしまっているのだ。

 自分を追い詰めるのは泣き言だ。

 私はたまに、無性にイライラして、拳が出血するほどに自宅の壁を殴ってしまうことがある。私は、この運命が憎い。ひょっとすると、心の中に怒りを秘めているのかもしれない。しかし、怒りというのは、泣き言とは違い、自分を追い詰めない。むしろ、どん底から這い上がるエネルギーになり得る。

 「自分はもうダメだ」と泣き言をこぼすのではなく、舌を噛み切るくらいの怒りを心の中に秘めるのだ。それがきっと突破口になると信じてやまない。

 私は、父親に「自分に甘いんだよ」と叱責されたことがある。父親は立派な人だ。いかなるときにも、仕事の愚痴なんか一切こぼさず、30年間も満員電車に揺られて、会社勤めをしている。それがどれだけ立派なことか、私はこの歳になってはじめてわかった。

 立派な人の中に、自分に甘い人はいないのだ。