2018年に日文研が所蔵し、本年度中に画像データベースで公開予定の「妖怪四季風俗絵巻」(部分)。狩野派の流れをくむ絵師英一蝶が描いたとされる江戸期の作品で、妖怪が四季の風俗を楽しむ(日文研提供)

2018年に日文研が所蔵し、本年度中に画像データベースで公開予定の「妖怪四季風俗絵巻」(部分)。狩野派の流れをくむ絵師英一蝶が描いたとされる江戸期の作品で、妖怪が四季の風俗を楽しむ(日文研提供)

 妖怪研究の第一人者として知られる国際日本文化研究センター(京都市西京区)の小松和彦所長(72)が3月末で退任する。小松所長は、日文研で「妖怪」の共同研究を約20年にわたって先導してきた。その歩みを関係者が振り返った。

 「この20年、共同研究で何ができたのか。私の『最終講義』のつもりで、みなさまと議論したいと思います」。小松所長の退任にあわせて11日に日文研で開かれたシンポジウム「怪異・妖怪研究の新時代―日文研共同研究を礎に」の冒頭、小松所長は感慨深げに振り返った。大阪大教授だった小松所長が研究者として日文研に移ったのは1997年。「当時、『妖怪』を巡っては一つの大きな盛り上がりを見せていました」
 タヌキが不思議な力を使って人間の開発に抵抗するスタジオジブリの映画「平成狸合戦ぽんぽこ」が94年に公開された。同年に作家京極夏彦さんの小説「姑獲鳥(うぶめ)の夏」も刊行され、ベストセラーになった。

 京極さんも共同研究

 小松教授は日文研に赴任するなり、共同研究「日本における怪異・怪談文化の成立と変遷に関する学際的研究」を組織した。この時、共同研究の題名に「妖怪」はあえて入れなかった。「まだおおっぴらに妖怪研究と言いにくい空気があったので避けた」。社会的な注目を集める一方で、妖怪研究は学界で依然、「きわもの」扱いだった。
 小松教授を代表に国内外の研究者たち総勢28人が集った。その中には、作家の京極さんもいた。
 「めったに驚かない私にはこれまで3度びっくりしたことがあります。水木しげるから電話があった時と、五木寛之から電話があった時、そして小松和彦から電話があった時です」。シンポに出席した京極さんはそう回顧した。「まだ駆け出しの作家で、研究者でもない私になぜ、と思いましたが、尊敬する小松さんからの誘いでしたので、はいと言ってしまいました」
 最初の共同研究は3年間続けられ、その成果は論文集「日本妖怪学大全」(小学館)にまとめられた。その後も共同研究は小松教授の元でテーマとメンバーを変えて受け継がれた。続く「日本人の異界観―その構造と意味」(2002~04年度)の後、「怪異・妖怪文化の伝統と創造―前近代から近現代まで」(06~13年度)で、ついに「妖怪」が題名に冠せられた。

 全国の伝承網羅的に

 「特に怪異・妖怪データベースの公開が大きな功績として挙げられる」。日文研での共同研究のほとんどに参加してきた国立歴史民俗博物館の常光徹名誉教授は、そう振り返った。
 各地に伝わる妖怪や怪異現象の情報を網羅的に集めた「怪異・妖怪伝承データベース」は2002年に日文研のホームページで公開された。小松教授の企画で研究費が認められ、99年春から制作が始まった。
 「最初は何もかもが手探りだった」。担当した日文研の山田奨治教授は回顧した。妖怪や怪異の情報は、全国の民俗誌や近世の随筆から集めることにした。
 ただ、何が妖怪・怪異に当たるのか。例えば、池のほとりで老婆が糸を紡いでいるという話があったとする。これは果たして「不思議」なのか。「怖い」のか。プロジェクト室の一員として事例をカードに記入していく若手の機関研究員は議論を重ねながら、妖怪や不思議な能力を持った動物、神、仏など超自然的存在が関わる出来事を収集していった。「部屋が使えなくなる夜になっても作業が終わらず、仲間とカラオケボックスにこもって、1曲も歌わずカードを作ることもあった」。シンポに参加した当時の機関研究員は、そんな思い出を明かした。

 アクセス殺到、人気

 約1万3千件に上るデータベースの第1版が公開されると、アクセスが殺到。1日で4万を記録し、日文研のサーバーが一時ダウンするほどだったという。その後も登録件数を増やし、07年には3万5千超に及んだ。伝承だけでなく、絵巻などによる画像データベースも10年に公開された。
 「データベースは在野の研究会でも作ろうとする動きがあったが、いずれも頓挫した」。京極さんはそう指摘した。「好事家はみな(日文研データベースを)使っている。僕が若い頃に欲しかった。全国の文献をせっせと集めた僕の青春を返せと言いたい」と冗談交じりに評価した。
 こうした議論を踏まえ、小松所長は「若い頃から周りがやらないことをやってきた。民俗学や人類学の立場で、鬼や異人といった排除されてきた周縁の視点で世界を見つめてきた。ある意味で自分自身も妖怪の一種と思いながら、少しは役に立ったのかなという気持ちでいる」と話した。
 妖怪ブームは一時の盛り上がりこそ落ち着いたかに見えるが、昨年に雑誌「怪と幽」(カドカワムック)が発刊するなど、不可思議な世界に対する関心は低くない。同誌で連載を執筆している小松所長は「妖怪を政治学や社会学から見直す若い研究者がこれから出てきてほしい」と期待した。
 所長退任後は、ライフワークとして取り組んできた高知県に伝わる独特の民間信仰「いざなぎ流」についての著作執筆にしばらく専念するという。