岩佐義宏(いわさ・よしひろ) 東京⼤学⼤学院工学系研究科教授
1981年東京⼤学工学部物理工学科卒、1986年に同博⼠課程を修了(工学博⼠)。1986年から東京大学助手、その後、北陸先端科学技術大学院大学助教授、東北大学教授を経て、2010年より現職。1993年~1994年にベル研究所に滞在。固体物理、ナノテクノロジーの研究に従事。2019年、仁科記念賞を受賞。
捏造は許されないが、論文は物理学の発展を先取りしていた?
2002年9月に調査委員会の結果が出てからは、少なくとも米国ではいくつかの研究プロジェクトが中止され、その研究費で雇用されていた研究員や大学院生も、テーマや所属研究室の変更を余儀なくされ、最悪の場合、解雇、辞職などの憂き目にあったと聞いている。中には大学での研究を見限った人もいる。筆者が獲得していた研究費は比較的大きかったため、資金提供機関の事務所に呼び出され、研究費の停止の可能性を示唆された。しかし、幸運なことに、研究費を停止されることはなかった。もちろん、その際、シェーン氏関連のテーマを表立って研究することは禁止された。
筆者たちは研究者仲間から憐みの目で見られると同時に、このテーマは「禁断の研究」としてアンタッチャブルの状態になってしまった。その結果残ったのは、NHKの衛星放送で放映されたドキュメンタリー番組と、日米から出版された2冊の書籍「論文捏造」(村松秀著)、「Plastic Fantastic」(Eugenie Samuel Reich著)だけであった。これらの素材はその後、大学の研究倫理教育に供されるようになった。
ところが、このあと、研究は意外な経過をたどり始めた。まず、シェーン氏の成果の基盤であった「有機物の単結晶を用いたトランジスタ」は、事件終焉の1年後に米国・ラトガース大学、オランダ・デルフト工科大学、スイス連邦工科大学の3カ所でほぼ同時に作製され 、室温ではシェーン氏の報告を上回る性能が見いだされた。事件に惑わされず、粘り強く研究を継続した人々がいたのである。スイスの論文の第1著者は日本人である。
続いて驚くべきことに、量子ホール効果が、2005年にグラフェンにおいて、2007年に酸化亜鉛において発見された。特に前者の発見は2010年のノーベル物理学賞に直結した大発見であった。また、後者の研究は日本で行われている。この量子ホール効果は、捏造事件とは全く異なる動機から研究が開始されたもので、直接の関係はない。だが、新しい物質での量子ホール効果の発見の意味するところは、シェーン氏の論文と極めて近い。
一方、氏の報告の中心的成果である「トランジスタを用いた超伝導」は、電気が流れない絶縁体を、物質に電圧を印加するだけで電気がいくらでも流れる超伝導に変化させるという一見、錬金術のような現象であった。こちらも魅力的でかつ原理的にはあり得るものだったが、現実的には不可能であるとして、学界からはとくに鬼門と見なされていた。ところが、これも筆者らがトランジスタに電気化学の原理を取り入れることによって、2008年に酸化物を用いて実現したのである。その後、トランジスタを用いた超伝導研究は、様々な物質に拡張されつつある。
さらに、シェーン氏のもう一つの特筆すべき報告の有機レーザーも、不完全な形ではあるが実現されつつある。すなわち、20年前の氏の捏造の多くは、形を変えて実現されているのである。
このような発展を我々はどう受け止めればよいのであろうか? 捏造という行為自体は何がどうあっても許されるものではない。また、上述の発展の多くは、必ずしもシェーン氏の研究に触発されたものではない。しかしながら、20年後から振り返ってみると、氏の報告は物理的に正しかっただけではなく、その後の物質科学やエレクトロニクス応用の発展をある程度先取りしていたように思えるのである。
事件当時、「共著者は何をしていたのか?」「論文査読者は捏造を見抜けなかったのか?」「natureやScienceなどの有力紙の編集者はインパクトのみを求め内容を精査していなかったのではないか?」「著者との癒着があったのではないか?」など多様な疑問が呈された。だが、外部調査委員会が「共著者はだれも捏造に関与しなかった」と判定したことで共著者の責任は問われず、雑誌のあり方についてはうやむやに終わった。また、若い研究者をこのような捏造に駆り立てる学会の在り方そのものが問題なのではないかといった声もわき起こったが、20年たった今、状況はむしろ悪化しているように感じる。そして、論文捏造に代表される研究不正はその後も世界各地で起きている。
結局、20年前に明らかになった課題は何ら解決されておらず、科学の世界は問題山積みのままだともいえる。ただ、そのような中でも、シェーン氏の不正は2年後に正され、20年のスケールで新しい進展があったのも事実である。
「科学は意外としぶとく、人間らしい」というのが、筆者の現時点での感想である。
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