アイドル編<450>フォークとのハイブリット
森進一の「襟裳岬」がレコード大賞を獲得するのは1974年である。作曲はフォークの吉田拓郎だ。翌年のレコード大賞は布施明の「シクラメンのかほり」である。これもフォークの小椋佳の作詞、作曲だ。このように歌謡曲とフォークの「ハイブリット現象」が起こり、70年代後半にはその現象はアイドル歌謡にも浸透する。
桜田淳子の「しあわせ芝居」(77年)の作詞作曲は中島みゆきで、キャンディーズの「やさしい悪魔」(同)の作曲は吉田拓郎である。
「70年代アイドルにとって、ニューミュージックの楽曲を歌うことは、『大人』への成長を示す最も効果的な方法だった」
社会学者の太田省一は「アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで」の中でこのように記している。
70年代初め、フォークとアイドル歌謡は棲み分けていた。アイドル歌謡は主に歌謡界の作詞家、作曲家、歌手との分業の上に成立していた。一方でフォークはシンガー・ソングライター、つまり自作自演の世界だ。その二つの流れはなぜ「異種交配」したのか。
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音楽評論家の富沢一誠はこのハイブリット現象を次のように語る。
「70年半ばになるとフォークといったニューミュージックが大きな流れになり、歌謡曲は押された形になり、歌謡界はニューミュージックの新鮮さや音楽性を求めた」
ハイブリット現象は「脱アイドル」への志向であり、太田の著作のタイトルを借りれば「進化論」でもある。それは伝統的な日本歌謡に、洋楽がクロスしたともいえるだろう。
こうした流れは80年代にも引き継がれる。中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」(84年)の作詞作曲は井上陽水だ。また、中森と並ぶ80年代アイドル、松田聖子の「夏の扉」(81年)は「チューリップ」の財津和夫の作曲である。財津はこのほかにも「チェリーブラッサム」「白いパラソル」「野ばらのエチュード」などの曲を松田に提供している。
ニューミュージック側にとってはどのようなメリットがあったのか。富沢は「アイドルが歌うことで自分の曲が特定のファンだけでなく、お茶の間に浸透する部分はあった」と話す。
アイドル歌謡は日本独特のジャンルである。その進化の過程にはニューミュージックの存在があった。
=敬称略
(田代俊一郎)








