「ファン目線」がもたらした「スター・ウォーズ」の終焉、「ファンへの理解」の正体

シークエル・トリロジーとは何だったのか。2015年~2019年の「スター・ウォーズ」を振り返る

「ファン目線」がもたらした「スター・ウォーズ」の終焉、「ファンへの理解」の正体 - スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け

2年ほど前ディズニーによるルーカスフィルム買収後のフランチャイズ、そしてこれからの展望について考察したコラムが掲載された後、非常に大きな反響と直接のメッセージを多く頂いた。筆者としては嬉しい限りであると同時に、いかに多くのファンがディズニーに対して疑惑の目を向けているのかということも体感することができた(別に僕がファン代表として言っているわけではない)。

今回は2015年から始まったシークエル・トリロジーから始まった“内戦”の勃興から終焉を振り返り、サーガが向かう未来を考察していきたい。

帝国ディズニーのキャスリーン・ケネディが提示した「スター・ウォーズ」の未来像がジョージ・ルーカスにとっては嘘そのものだった

ルーカスフィルムの現社長、キャスリーン・ケネディ。コアなファンは彼女の「スター・ウォーズ」の舵取りに多くの疑問を抱いていることだろう。ここで一度、彼女が一体どのような人物なのか改めて振り返ると、彼女は元々テレビマン出身で、1979年に“戦友”スティーブン・スピルバーグの『1941』のスタッフとして参加してから彼の信頼を勝ち取り、30年近く仕事をともにする。

彼女のルーカスフィルム社長就任はそんな戦友からの紹介、もとい推薦という形で全幅の信頼をおいて指名されたわけだけど、結果としてこれが裏目になったのはファンの知るとおり。ルーカスフィルム買収後早い段階で彼女とルーカスはオウンドメディアの「starwars.com」で対談しており、このときにルーカスはシークエルの制作に自身も監修として参加する姿勢を見せるだけでなく、その関わり方も残りの3部作(7、8、9)の方向性にブレが出ないためのストッパーの様な役割を果たすためであるとも答えていた。これは2012年買収当時の話だけど、このことは海外の掲示板でも引用されて「ルーカスが参加する」という方向で話題になった(最近発売された高橋ヨシキの『スター・ウォーズ 禁断の真実(ダークサイド)』でも言及されている)。

こうした対談があったからこそ当初はディズニー買収という信じられない事態が起きても、ファンは衝撃を受けつつも「万雷の拍手」で迎え入れることができたわけだ。

ところが現実はジョージのプロットは採用されるどころか、完全なシャットアウト状態となる(簡単な脚本草案まで送っていたらしい)。言っていることに統一性が全く無く、何を信じれば良いのか分からなくなってしまうが、よそから来た「スター・ウォーズ」に関心のない、マーケティングしか考えていない人の発言だと考えると怒りも少しは収まるというもの。

ただ、ルーカスフィルム内で厄介なのは新しく「スター・ウォーズ」で仕事をするうえで大切なこととして、ケネディの信頼を勝ち取るだけでなく、どの様な監督も彼女の提案を好意的にかつ速やかに受け入れなければならざるをえないという癖の強さにある。コリン・トレヴォロウの降板や『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の1/3にもおよぶ撮り直し、そして最近のオビ=ワンのスピンオフドラマ消滅が物語っている。どの様な映画制作の現場でも監督とプロデューサー、製作総指揮の意見の食い違いからくる衝突は万国共通で発生するが、「スター・ウォーズ」ほど降板が多く報道されるのも中々見られない。それだけ注目されるビッグコンテンツであるゆえの宿命なのかもしれないが、それにしても一貫性を構築しなければならない作品なのに監督降板騒ぎが多すぎるのは否めない。

エピソード9では女帝こそ誕生しなかったが、「スター・ウォーズ」を取り巻く環境下ではもう誕生してしまっている。もし今回の「女帝パルパティーン」の下りがJ・J・エイブラムス(以下J・J)からの揶揄だとしたら僕はすぐにでもJ・Jへの評価が一転することだろう。これ以上キャスリーンへの不満点を上げてもしょうがないので先に進もう。どうせ次の項目も同じような話になる。


レジェンズと正史の切り分けは英断ではなく、悲劇の始まりとなる

「スター・ウォーズ」の一連の流れは2012年前と後で変わっている。

2012年より前の基準は、「ルーカスフィルム社公認の小説、コミックを含んだサーガ」と「ジョージ・ルーカスが監修した作品」の2通りが存在した。どういうことかと言うと、ルーカスフィルムはルーカスアーツ、ルーカスフィルム・アニメーション、ルーカスブックスなど「外伝作品」の制作、販売においてジャンルごとに部門が存在していた。つまり「ルーカスフィルム社公認」は単にルーカスフィルムという会社から「うちの版権キャラを使って小説を出してもいいですよ」と公認を得られたもので、これはおもちゃ等のグッズと扱いが変わらないと考えればいい。ただ、小説やコミックで展開されたスピンオフは実に100点以上あり、中にはスピンオフ同士はおろか映画作品と矛盾が生じている作品まで存在している。

原作者であるジョージが膨大なスピンオフを全て把握するのは無理な話で、その中でもアイラ・セキュラのようなキャラクターがエピソード3に逆輸入されたのは珍しい例だった。また、スタッフに向けて「参考にしておいてほしい」と紹介した本が数点あり、そのうちの一つにエピソード9同様に皇帝が復活する「ダーク・エンパイア」というコミックシリーズがあったわけだけど、これが後のシークエル・トリロジー制作を混沌に陥れるとは夢にも思わなかったのだろう。

そんなスピンオフ作品にジョージ・ルーカスの監修が入ると話はだいぶ変わってくる。要は「原作者がストーリーや設定に口を出すとそれは完全な正史だよね」という単純な話。この「ジョージ・ルーカス監修」という体制を紐解くとエピソード5から始まるもので、ルーカスは脚本を書くと同時に共同で仕事をするローレンス・カスダンやリイ・ブラケット、監督のアーヴィン・カーシュナー、リック・マッカラムにフォースを始めとした世界観の共有をするティーチングを行うことから来ている。

ジョージが監修したスピンオフ作品もビデオゲームの『フォースアンリーシュド』や『ジャンゴ・フェット』、CGアニメーション『クローン・ウォーズ』、『クローン大戦』、『イウォーク・アドベンチャー』、『エンドア/魔空の妖精』、『ドロイドの大冒険』と数が限られているためメディアも宣伝がしやすく、少しでもコアなファンであろうと思うなら「とりあえずジョージ・ルーカスが監修した作品のみ追えば良い」と大変わかりやすかった(お財布にも優しい)。ある意味フォースの調和が取れていたと言っても良い。

ところがディズニー買収以後は混迷を極める。「スター・ウォーズ」を冠したもの、ライセンス承認が降りた作品は漫画、ゲーム、小説、果てはディズニーアトラクションまで「正史」という無茶苦茶ぶりで、コアなファンを名乗るならすべてを追わなければならないという重い十字架を背負うことになる。これはつまるところお金のある人しか「スター・ウォーズ」ユニバースを把握できないということで、資本主義を突き詰めた拝金主義らしいアメリカの生んだ選民思想と言っても差し支えない。「スター・ウォーズを知りたい? なら全てに金を出せ」というわけだ。

以前も書いたように「スター・ウォーズ」は究極の金の成る木である。「STAR WARS」のラベルが貼ってあればどんな粗悪品であろうと買う層が尽きることはない。この原動力は一体何なのかと言うとファンの奥深くに眠る「他のファンよりも知識を詰め、優位に立ちたい」というマウント取りに他ならない(逆にディズニー買収前は「それはジョージ・ルーカス未監修だよね」というマウント返しができた)。そうは思っていないという人もいるだろうけど、どこの趣味世界にも「自分の知識を持って相手を制する」快楽を得たいという人は一定数おり、今日までのオタク産業が世界各国、ファンの深層心理を突いたマウント取りで成立していることは揺るぎない事実だろう。

そのマウントの取り合いはエピソード7から始まり、カイロ・レンのモデルが古のシス、ダース・レヴァンとジェイセン・ソロ(ダース・カイダス)に由来することを暗に匂わせてしまったことから一気に加速。同時に登場したレイも、双子の姉であるジェイナ・ソロのような匂わせ方だったので、ここから「コア(それも深淵の)なファン」を名乗るには非正史である作品まで把握していないといけないという事態に発展した。

無視すればいいだけの話である。だけどファン心理というのはそんなに穏やかに収束するものではない。自分たちの読み漁ってきたものが無駄にならないと考えたらありがたい話のように感じることもできるけど、この方針が映画にどの様な影響を及ぼしたのかと言うと「J・J・エイブラムスやジョナサン・カスダンのような『ファンに向けたサービス』、『ファンへの理解』をアピールする作品の連発が始まった」という事になる。

ファンに向けたサービスとしてアピールするために買収後に非正史と葬られた100点以上の作品の設定の逆輸入が一度始まると止めどなくなるもので、最終的にはどの様な新作でも何かしらのエッセンスを入れざるを得なくなる。これについては次項で詳しく紹介する。

エピソード8はこの非正史のエッセンスが非常に少ない作品で、そういう意味ではここ5年の中で制作された作品の中ではかなり異端であった。ただ、その思い切りの良さがファンにとってあまり心地良ものではなかったようだが、これがエピソード9の公開から大きく再評価される流れになるのではないかと予測している。

「ジョージ・ルーカス」という映画オタクの作家性が作る「スター・ウォーズ」とオタクが作る「スター・ウォーズ」

「スター・ウォーズ」はジョージ・ルーカスの人生と経験、見てきた事柄を投影し、自身の中にある政治的なメッセージを織り交ぜた作品であると何度も話してきた。このことについては後年大きな批判を生むことになる『特別編』でも同じことが言える。

『特別編』は初代オリジナル・トリロジーを制作したその当時に技術的な問題から制作できなかったシーンの追加や、99年に公開する作品から入ったファンに画作りのギャップを感じさせないためのリファイン化を目的としている。ファン一人一人の立場からするとあれこれ言いたくなる気持ちはわからないでもないが、ジョージの作品なので彼が好きに弄り倒せば良いと思うし、若いファンに77年の古い映画をそのままの状態で鑑賞させるのは酷なので、制作サイドから歩み寄る姿勢として一つの方法として考えればいい。

ジョージは幼い頃から自身が冒険活劇の好きな「映画(映像作品)オタクであった」と振り返っている。『フラッシュ・ゴードン』をはじめレイ・ハリーハウゼンやフィル・ティペット、黒澤明から大きく影響を受けているのは周知の事実。この他にも高橋ヨシキは『スター・ウォーズ 禁断の真実(ダークサイド)』で1939年の冒険活劇映画『ガンガ・ディン』から影響を受けていると「starwars.com」での引用を交えて指摘している。これは僕も買収前に『クローン・ウォーズ』を制作していた時のデイヴ・フィローニのインタビューを読んでいたときにも目にしていたので間違いない。またデイヴは制作の際に「ジョージから『ガンガ・ディン』のアイディアを持ち込もうと話を受けている」というエピソードを口にしていることから、デイブはかなりジョージの精神的DNAを受け継いでいると見てもいいだろう。

ところがJ・J・エイブラムスやジョナサン・カスダンはこのような“英才教育”を受けていない。これは以前も書いたとおりで、全くの他所者、ファンボーイが「スター・ウォーズ」の正史映画を撮ることになった。これが歯車の狂い始めだった。
 
せめてナンバリングタイトルを作るのであれば作品に説得力を持たせるためにジョージのエッセンスを取り入れなければならないのが筋であって、そこを抜いてしまったら説得力も何もなくなってしまう。虚無だ。だからこそ「ファンに媚びるためにファンの喜ぶエッセンス(非正史作品)を入れざるを得なかった」という結果に繋がってしまう。

結構ボロクソにこき下ろしているように聞こえるかもしれないが、実はエピソード7製作時の段階ではジョージのいない「スター・ウォーズ」が信頼を勝ち得るために必要な手法だったことは否定しない。ただ、ディズニー(特に日本)はこれの理解能力が極端に乏しかったので完全に裏目に出ることになる。これも後述する。

エピソード8を全否定したことによる「サーガの崩壊」

機械の歯車が狂うときというのは基本的に「動力元のエネルギー供給が無くなる」か「部品の経年劣化(または整備不良)」か「異物が入ったことに寄るきしみ」によることが多い。

エピソード7による「スター・ウォーズ」シリーズのリブートは旧来のファンも満足させ、新規のファンも非常に好評だったため一見すると大成功を収めたようにも見えるが、実態は「動力元のエネルギー供給がなく(ジョージの不在)」、「部品の経年劣化(捨てたはずの設定の再利用)」、「異物の混入(いわずもがな)」の3点セットを持ち込んだ状態だった。

ここからサーガの継続、続編の制作を行うには再度慎重なメンテナンスを施すか、一度すべてをぶち壊しにして全く新しい土壌を作るしかない。そう考えたのがライアン・ジョンソンだった。現状彼に対する憎しみの声がある以上、僕のような若輩者が何を言っても説得力が皆無なのはわかっているが、ここでは彼の功績を称える主張をしたい。

彼はそれまで「スター・ウォーズ」が守っていたルールをことごとく破ることから着手し、その上で「スター・ウォーズ」で最低限抑えるべき部分を抑えようとした。その結果として観客から総スカンを食らうことになった。余談だが、最近試写で鑑賞した『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』はそうした総スカンを劇中に盛り込んでいるので、憎しみを抱いている人は是非劇場に足を向けて欲しい。

これまで数年隔てて語られてきたストーリーを取りやめ、あえて連続性をもたせて『エピソード8』をスタートさせたことについては「オープニングクロールで語られる空白の期間の想像を観客から奪った」という意見も十分承知している。が、そもそもルークの登場を前作であそこまで引っ張った以上、想像で補完させるのも無理難題かと思う。

「フィンとローズのミッション~逃避劇」(僕はいらないと思っている)や「ハイパースペース特攻」(これはアリだと思った)は良い意味でも悪い意味でも「ファンに媚びない、観たことのない映像」であった。これらがこれまで培われた「『スター・ウォーズ』における映像の革新性」かどうかはさておいて、「『スター・ウォーズ』における当たり前」を破壊したことで今後様々な切り口で「スター・ウォーズ」を語れることに繋がり、言い換えればそれまでSSS級ランクの取り扱いの難しさ(危険物)だった「スター・ウォーズ」という作品群に対し色んな映画監督が参入がしやすくなったと感じられた。

ハイパースペースでぶつかるとどうなるか? ルーク(かつての英雄)を徹底的にダメ人間にしたらどうなるか? ある意味『トイ・ストーリー』のシドのような好奇心で『スター・ウォーズ』という作品を実験に使ったライアンの手腕には賛辞の言葉を送りたい。

その上でヨーダの語りという従来のエッセンスを加えて「『スター・ウォーズ』の土台部分」を再認識させ、さらにルークの「また会おう」というセリフを残してフェードアウトさせ、次回作へのバトンを用意した。「スター・ウォーズ」という作品は概念を取り払い、ようやくまっさらな大地となった。高層ビルを建て替えのために爆破倒壊させ、更地にしたという言い方のほうがわかりやすいだろうか。

ただ、この「ナニモノでもない」(どんなスピンオフにもよらないという意味でもある)作品にファンが大激怒してしまったことによって、このエピソード8は存在するものの、なかば無視せざるを得ないという状況に追い込まれた(この言い方に関しては色々語弊があるのを承知で使っているが、あのエピソード9のストーリーを観たらそうとしか思えない)。

せっかく誰でも新作の「スター・ウォーズ」を組み立てられる状況にしたにもかかわらず、ルーカスフィルムとディズニーはフランチャイズ存続のために立て直しをする必要があると判断した。そのためコリン・トレヴォロウは新作を作る上で不適格とされた。「ファン心理を深く理解している」と評されたJ・Jを再起用する必要があり、死者(皇帝)を蘇らせることにも繋がってくる。 

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