先日、歳が二回りほど上で、いまは出版社を経営している男性と酒を飲んだ。幾つかの業種を渡り歩き、バブルの狂騒もその後に続く退却戦も経験している彼の話は金に関することが多く、確かな月日と少なくはない傷を感じさせるものだった。自分の人生を充分に生きていないかもしれないという後ろめたさは、若いころからわたしにつきまとっている一種の脅迫観念のようなものである。へぇ、そうですかと相槌をうちながらも、そうした危うさやある種の欲とは無縁でいた自分が意気地のない人間のようにも感じられ、聞いているあいだはどこか引け目もあった。
ここまでなかよくなったから言いますけど、最初あんたの顔を見たときは、なんて苦労のない、つるんとした顔かと思いましたわ。年長者には物事の本質がよく見えている。そういわれるのは実はそれがはじめてではなく、ある葬儀のあと、遠縁のはじめて会った親戚からも、あんたはなんや幸せそうな顔しとるなと会うなり言われたことがあった。
いや、これでも毎日苦労してるんですけどと、そのときは苦笑いを交えながら抗議したが、彼の言わんとする苦労とは、たとえば明日の金にも困る日々を、歯を食いしばりながら生きてきたということだろう。そのような人生において、人はポーズをとる必要はなく、自らの顔ひとつで自分の生きた証を証明することができる。
店には、自分で作った本を置いてほしいという人もやってくる。その女性が持ってきたイラスト集も、ああ、あの作家の作風だなと一見してわかるものだったが、その作家には確かに存在する毒が、彼女の作品ではそこだけが抜け落ちてしまっているように思えた。自主製作とはいえ、本屋の店頭に置かれることは、商業出版の本と同様に見られることでもある。あなたのことを知らない誰かが手に取ってみたとき、この本には何かを感じさせる強さが足りないと思う。彼女にはそう率直に伝えた。
わたしにはなにもないから……。何が起こったかわからないという間が二秒ほど続いたあと、女性はそのように言ったと思う。それはわたしに話したというよりは、勝手に口をついて出てきたことばのように聞こえたので、より胸にこたえた。見ていただいてありがとうございました。彼女は店を出ていったが、しばらく作業をするあいだ起こったことは覚えていても、彼女がどんな顔をしていたのかいつのまにか忘れてしまった。
自分には何もないと思う人生は、リアルな苦労を抱える人生よりも軽いのだろうか。わかっているのはその人の持つ顔も人生の時間も、みなに等しく与えられているということだけだ。わたしも彼女と同じ側に立つ人間なので、その容易には説明しがたい不安や苦しさは、ある程度まで理解はできる。
なにもない自分を見続けた先には、何か待っているのかもしれない。それが何かはわからなくても、わたしたち後ろめたきものは、それをずっと見続けるしかない。
今回のおすすめ本
鹿子さんはわたしが知っている人のなかでも、もっとも饒舌な一人である。その饒舌はときに怒りや叫びをはらむものだが、もっとも怒れるものこそ、もっとも愛することができるものであることを、同時に思い出させる。
<お知らせ>
◯2020年1月31日(金)~ 2020年2月9日(日) Title 2階ギャラリー
夏雨(ナツグレ)」加納千尋写真展
写真集『夏雨』(Kite)刊行記念
南西諸島の奄美大島に父方のルーツがある著者が、父を含む島出身の五人きょうだいに記憶をたずね、その言葉をたよりに現代の奄美大島を撮影した写真集「夏雨」。その東京での初個展。
◯2020年2月11日(火)~ 2020年2月27日(木) Title 2階ギャラリー
詩人・山尾三省展~詩集・原稿・写真、そして画家nakabanの装画
山尾三省詩集『新版 びろう葉帽子の下で』(野草社)刊行記念
日常の中で非日常的な時をつづった詩人・山尾三省。彼の詩集新版刊行を記念し、過去の全著作、直筆原稿、アメリカの詩人ゲーリー・スナイダー氏との対談時に高野建三氏が撮影した写真、詩集『新版 びろう葉帽子の下で』の装画担当nakaban氏の作品原画などを展示。
ⓒKenzo Takano
◯2020年2月21日(金)19:30~ Title 1階特設スペース
坊さん、本屋で語る。
『坊さん、ぼーっとする。~娘たち・仏典・先人と対話したり、しなかったり~』(ミシマ社)刊行記念 白川密成さんトークイベント
愛媛県・栄福寺住職の白川密成さんのお話を聞く。本書の題名にもなっている「ぼーっと待つ勇気」や「見る」「ほっとく」「子ども」といったテーマを中心に、ミッセイさんが日常の中で考え、感じている仏教の智慧をやさしくポップに語る。
◯『本屋、はじめました』増補版がちくま文庫から発売されました
文庫版のための一章「その後のTitle」(「五年目のTitle」「売上と利益のこと」「Titleがある街」「本屋ブーム(?)に思うこと」「ひとりのbooksellerとして」「後悔してますか?」などなど)を書きおろしました。解説は若松英輔さん。
◯辻山良雄・文/nakaban・絵『ことばの生まれる景色』ナナロク社
店主・辻山が選んだ古典名作から現代作品まで40冊の紹介文と、画家nakaban氏が本の魂をすくいとって描いた絵が同時に楽しめる新しいブックガイド。贅沢なオールカラー。
春、夏、秋、冬……日々に1冊の本を。書店「Title」の店主が紹介する、暮らしを彩るこれからのスタンダードな本365冊。
◯辻山良雄『本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録』苦楽堂 ※5刷、ロングセラー!! 単行本
「自分の店」をはじめるときに、大切なことはなんだろう?物件探し、店舗デザイン、カフェのメニュー、イベント、ウェブ、そして「棚づくり」の実際。
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本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。
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