いま、Twitter上で二つの潮流が炎上している。
一つは、#Kutoo運動を主導してきた石川氏をはじめとする「ツイフェミ」であり、もう一つが、従来、彼女らに対抗する論陣を張ってきた弱者男性論界隈である。
彼らは、フェミニズムと批判・敵対するばかりではなく、少子化や弱者男性の非モテの原因を女性の社会進出に求め、それらの解決のためには、女性の権利制限が必要であることを示唆してきた。
本稿では欧米のインターネット空間での用法に倣い、後者を「インセル」と呼称したいと思う。
このインセルたちの言説について、私は長い間、微温的な態度をとっており、フェミニズム批判的な立場から、時には肯定的に援用したこともある。
しかし、昨今の行き過ぎたこれらインセルの言説に対して、私が助長する一端を担ったことへの反省もこめて、本稿においてはっきりと批判を加え、反対の意見を表明したい。
なぜ私たちはフェミニズムを批判したのか
原点に返ろう。
私たち、「オタク」や「表現の自由戦士」と呼称された人々が、「アンチフェミ」となってフェミニズムを批判したのはなぜだったか。
女性が憎かったからだろうか。
女性の権利拡大によって私たちの自由が脅かされたからだろうか。
断じて違うはずだ。
私たちが人工知能学会表紙絵問題にはじまり、碧志摩メグ、のうりん、駅乃みちか、キズナアイ、そして宇崎ちゃん……、これらフェミニストが仕掛けた「炎上」に抵抗してきたのはなぜか。
それは、私たちの大事なオタク的な表現物を守るためであると同時に、女性の表象を用いた多様な表現を委縮させないためだったはずだ。
フェミニストの主張を思い出してみよう。
・ほうきを持っているのはジェンダーロールの肯定だ
・女性キャラクターが頬を赤らめているから性的だ
・女性を頷き役にするのは差別だ
・胸が大きいキャラクターは公共のポスターに相応しくない
といった、女性の特定の仕草や特徴について、自らの不快感をあたかも公共的な正義があるかのように装い、その実は魔女狩り的に表現物を告発するものだった。
こうした表現物への攻撃は、単に表現行為を委縮させるだけではなく、女性の生き方の多様性さえ狭めかねないものだったのである。
それゆえ、私たち「表現の自由戦士」は、有名な警句を引いて、批判してきた。
本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる
――ハイネ
そして、皮肉にも、宇崎ちゃんポスターの炎上から時を置かずして、現実の女性モデルがフェミニストからの攻撃を受けることになった。
これに対して、Twitter上の「ツイフェミ」アルファアカウントたちは、この動きを諫めるどころか、促進・擁護し、茜氏にフェミニズムへの理解が足りないと言い放ったのである。
なんという傲慢、思い上がりであろうか。
繰り返すが、私たちが表現の自由を擁護してきたのは、このような人々が多数派となって法制定権力を掌握しないためであり、また、不当な理由での炎上圧力によって、表現物や表現者の可能性が狭まり、潰されないようにするためである。
言うまでもないことだが、そこには茜さや氏のような女性の表現者も含まれる。
いや、それどころか、「オタク」である我々が享受している表現、そのクリエイティビティの相当部分は女性表現者によるものであり、女性の自由の擁護を無くしては語りえないものだ。
私は、過去記事「ポルノグラフィ福祉論」の中で次のように述べた。
商品化された性愛の市場が広大に、豊穣に、実り多きものとなっているのは、日々工夫と研鑽を重ねるアイドルやクリエイターの皆さんのおかげである。私は彼ら彼女らに最大級の賛辞と、感謝を捧げたい。
あなたがたのおかげで、どれほど多くの人の「飢え」が救われていることか。
女性の自由が擁護されているからこそ、私たちは彼女たちが創作したり、モデルとなった表現物を楽しむことができるのである。
上記論考の中で示したように、そのことは「非モテ」「弱者男性」とは対立項ではない。それどころかむしろ、私たちの飢えを癒してくれるポルノグラフィは、女性のクリエイターやモデルの方々が自由に表現することができるからこそ、生まれたものである。
私たちが「アンチフェミニズム」によって擁護してきた自由や多様性という理念は、明らかに、女性の多様な生き方を肯定する側に立つものだったのである。
フェミニズムがかつて女性を自由にしたように。
「ツイフェミ批判」は女性をさらに自由にするよう訴えるものではなかったのか。
このことを今一度、私たちは思い起こそう。
そのうえで、「インセル」の主張を見たい。
インセル・ミソジニー(女性嫌悪)・女性差別
彼らはこのように主張する。
改めて問いたい。
このような主張に与することができるだろうか?
言うまでもないことだが、性行為は男女両性の合意に基づくものであって、責任は両性に発生する。
妊娠、育児、やむをえない中絶のような選択についても、男性側に責任と負担義務が生じることは、論理的にも当たり前のことだし、社会通念としても当然のことと言える。
私たちがフェミニズムを批判してきたのは、単にフェミニズムの主張が不当であり、表現の自由や生き方の多様性といった理念に反するからであり、間違っても女性が憎いからだとか、権利を制限したいからではない。
むしろその逆であったはずだ。
近年、Twitter上で表現の自由を擁護する論陣には、リベラルフェミニストを掲げる女性アカウントも加わっている(多摩湖氏ら)。そして、自由な女性のセクシュアリティを希求する彼女らの運動にとって、人工避妊・中絶はきわめて重大な関心事なのである。
女性の権利を擁護するのだから、表現の自由も、セクシュアリティへのアクセス権も、同じ俎上に上げられて当然だ。
他者の人権を粗雑に扱う者の語る自由論に、一体どれほどの説得力が残るだろうか?
これも同様に、人権への理解を欠いた発言であると言わざるを得ない。
児童との性交が禁じられているのは、児童自身が性交同意能力を有さないからであり、児童の性的身体を保護するための大切な規定である*1
「100億円稼げる男にやる気を出させるため」に供犠されていいものではない。
人権とは、そのようなものではないのである。
表現の自由という人権の普遍性に依拠して論を展開してきた私たちが、「大きな社会的利益のためならば人権を制約しても良い」などという論に与することができるだろうか。
フェミニズム批判という点において共通しているという政治性・党派性によって彼らの言論に批判を手控えるとなれば、私たちが表現の自由について述べてきた人権思想は、まったくのまがい物だったということになりかねない。
故に、私はこのようなインセル理論をはっきりと拒絶する。
弱者男性やオタクの権利と自由を擁護しようとするために、女性全体を嫌悪したり、対立する必要はいささかもない。
個人的に嫌悪するのは自由であるが、私たちの人権を擁護する活動とははっきりと区別しなければならない。
もし、ただの単なる嫌悪を社会正義や倫理と安直に接合して論じ、あまつさえ他者の権利の制約を要請するなら、それは表現の自由を感情で踏みにじって恥じないフェミニストと同じことをしている、と言えるだろう。
ミサンドリーとミソジニー、この二つは正反対であるかのように見えて、他者の権利を自らの嫌悪によって制約しようとしている点で、まるで双生児のように酷似した相貌を備えているのである。
男女対立を扇動するのは誰なのか――奇妙な一致
「宇崎ちゃん赤十字ポスター」や「グラビア雑誌写真」を巡り、私は昨年11月に石川氏と討論会という場を持った。
討論会で私が目指したのは、「相互理解」の端緒、対話の始まりとなるようなものだ。ほんのわずかでも前進すればいいという思いだった。
会の最後に、私と石川氏は「対話のきっかけを作ることができた」「こうした対話の場を積み重ねていこう」という合意に達したのだったが、後日、石川氏は大変残念な「手のひら返し」を披露した。
石川氏の側にもいろいろな事情があるのだろうし、ここでその変転を批判することは避けたいと思う。
しかし、この反応に沸き立ち、私に批判を寄せてきたのは、フェミニストだけではなかった。彼らインセルも、フェミニストとともに私の「対話路線」を批判したのである。
彼らは、フェミニストのことを「敵」と呼び、対話など無意味だ、どころか敵を利することになるぞ……と、敵意を煽り立てた。
戦争の相手国でもあるかのように、ゲリラ戦術を使っているのだ、と恐怖を煽ったのである。
対話することそれ自体を遮断し、妨げ、いったいどのような意味があるのだろうか?
はっきり言うが、私たちが対峙している相手は「敵」ではない。
意見を異にするだけの個人であり、対話するべき相手である。戦争での敵兵士に対するように憎悪と殺意を向け、打倒したり排除すべき対象ではない。
そして、彼らの主張は、奇しくも、「対話は無意味だ」という結論を出した石川氏と一致しているのである。
実はちょっと「わざわざ法規制せんくても、社会通念変わってきてるしいっか」と思い始めていたんですが、この討論で一気にアクティビストモードに戻りました。 厚生労働省に再び要望書を提出します。
先日素案がでたパワハラの指針に服装のことも入れてもらえるように。
この件を決めるのはお前らじゃない。国と世論だ。
(石川氏ブログ記事より引用・強調筆者)
インセルの二人が強調したのと同じように、石川氏もまた、国と世論を動かしさえすればよく、多数を握ったものこそが勝利であり、「どちらが社会に影響を与えていくのか、私は勝手に勝負します。」と宣言している。
ここには、対話を拒絶・批判し、対立状態を是認する両者の奇妙な協調関係を見て取ることができる。
石川氏は、このほど対立者の主張を「クソリプ」として採録し、痛烈に批判する書籍を大々的に売り出し、今や#kutoo運動の立役者としてフェミニズム業界の寵児となった。
石川氏は、対立者の意見を「クソ」と呼び、討論会の相手との合意をブロックのうえでひっくり返し、あまつさえ討論会の傍聴者を十把一絡げに否定した。
その一方で、インセル諸氏は女性への嫌悪感情を扇動し、女性の人権を軽んじる言論を繰り返し、対話の場を妨害しようとしている。
楽しい運動会は勝手にやればいい。
しかし、この対立構造の中で「燃やされている」のは、茜さや氏のような現実の人間であり、表現者が魂をこめて作った表現物なのである。
第三の道へ向けて
改めて言う。
男女は敵同士ではないし、そうみなすべきでもない。
フェミニストと「アンチフェミニストやオタク」だって、思想を異にすることで対立しているだけであり、対話や議論をする相手であったとしても、「敵」ではない。
私たちが求めてきた表現の自由をはじめとする諸人権や、多様で開かれた社会とは、男女その他の属性に関わらず普遍的に保障されるべきものであって、敵から奪い取って勝ち取る性質のものではない。
かつてのように革命が必要とされた時代ではないのだ。私たちには対話と理解、改善と進歩の地道な積み重ねこそが必要とされている。
それは、ミサンドリーでもミソジニーでもない、第三の道である。
私は会の後、対話の可能性を否定する言説が吹き荒れる中で、上記の記事を掲載し、対話の可能性は潰えていない、と訴えた。今も同じ意見だ。
そして私はその後、二回にわたって「アベプラ」に出演したが、特に年末の番組において、私はSNSが対話の糸口になる可能性について繰り返し強調した。
番組の最後、スタジオが紛糾する中で、カンニングの竹山氏が「私は女性が大好きです」と述べて締めくくったのが実に印象的であった。
そう。
アンチフェミニストにとっても、オタクにとっても、女性への嫌悪や差別を是認したいがために論を張っているわけではないだろう。
また逆に、フェミニストも本来的には、男性を攻撃し、排除することを目的とした思想ではなかったはずである。
私たちは相互に思想的な誤りや不整合を指摘しあっているにすぎないのであり、両者の思想を高めあっていく共同作業であるとさえ言えるのだ。
論者の人格を誹謗中傷したり、殊更に属性相互の対立関係を強調する必要はどこにもない。
そして、自分たちの論に誤りがあれば受け入れて修正すればいい。
論争は戦争ではないから、敵に敗れて死ぬなどということはない。
私たちはカジュアルに間違い、カジュアルに修正しよう。
恐れることなく対話し、議論し、遠慮なく相手に異論を突きつけよう。
そして、対立者がもしも論を修正したならば、殊更に責め立てることなく、一人の人間の成長がそこにあったのだと、素直に喜びを分かち合おう。
そうやって対話を積み重ねていけば、私たちの社会はより自由となり、より多様性を増し、そしてわずかずつでも進歩していくだろう。
ミサンドリーもミソジニーも必要ない。対立者への嫌悪や憎悪は議論に不要である。
そのことを記述した私にとって最初の論説として、まずは「序説」と銘打つこととし、今後こうした批判を積み重ねていきたいと思う。
そして改めて、討論会後記にも書いたヴォルテールの言葉を引用し、当論考を終えたい。
われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられている。 われわれの愚行をたがいに宥しあおう。これが自然の第一の掟である。
――ヴォルテール『哲学辞典』
(補足)白饅頭氏の論考への返答
上記のように私は肯定的な文脈で白饅頭氏の記事を引用したが、一人の自由主義者として、私自身もこの問いに答えなければ不誠実であると言えるだろう。
率直に言って、私はまだ完全な処方箋といえるものを持っているわけではない。
しかしながら、はっきり言う。もし、女性の人権を制限し、女性の社会進出を掣肘し、かつての男尊女卑のような社会にならなければ出生率が回復しないとしても、そのような社会に回帰することは決して処方箋たりえない。
私たちの社会に住まうすべての人は自由と人権を等しく享受すべきだ。
それは出生率という社会的利益のために供犠にされていいものではない。
もし、「女性」の人権を犠牲にしなければ私たちの社会が維持できないとしたら、そのような「オメラス」からは歩み去らなければならないのである。
女性の自由、人権、その必然的結果としての社会進出と地位向上を所与の大前提として、私たちは例えば育児休業の充実や子育て支援策のさらなる振興などの出生率向上の施策(たとえそれが緩和策に過ぎないとしても)を検討する必要がある。
これが今のところの、私の暫定的な結論である。
以上
青識亜論
*1:もちろん、どの年齢で線引きをするかという議論はあるし、児童の能力を過小・過大に見積もっているのではないかという議論は常に存在している。しかし、ここで問題にしていることとは無関係であるため、詳しく論じることは避けたい。