いだてん

IDATEN倶楽部

2019年1117

スポーツの見方を変えた東京オリンピック〜変わりゆく日本人の暮らし〜

「いだてん」で風俗考証を務める天野隆子さん。1937(昭和12)年、東京生まれの天野さんは小学生のとき終戦を経験。戦後の変わりゆく東京で少女時代を過ごし、27歳のときに1964年の東京オリンピックを迎えました。
1940(昭和15)年生まれの五りんとは同世代!「いだてん」で描かれる時代を実際に生きてこられた天野さんの目を通して、当時の東京、そして日本人の暮らしについてご紹介します。

焼け野原からの復興

私が生まれ育ったのは杉並区の下高井戸。子ども時代の家は1945(昭和20)年5月の大空襲の際に目の前で焼けてしまいました。火災が広がる中、水浸しにした防空頭巾でかろうじて火の粉を防ぎながら、永福町の田んぼまで逃げました。その後、集団学童疎開に行ったり、戦後のひもじい時代も経験し随分とつらい思いもしてきましたが、ドラマの考証をするという今の仕事にはとても役立っていますね。

戦後は、主にアメリカから大勢の進駐軍が入ってきました。将校の奥さんや家族の暮らしぶりを垣間見て初めて、あんな豊かな国と戦争をしていたんだと驚きました。当時、アメリカの生活を描いた漫画があったのですが、掃除機や冷蔵庫が出てきたりして憧れたものです。日本はきっと、夢のような豊かな生活に手を伸ばすように、産業を発展させ、経済を成長させてきたのではないかと思います。
─「いだてん」では ─
満州から命からがら引き揚げてきた志ん生。空襲で家は焼けていたが、家族の無事を確かめ、ゼロから出直す決意をする。

変化する東京の町

「いだてん」で象徴的に描かれる日本橋。オリンピック前は首都高速がなかったので、当然のことながら、橋の上には青い空が広がっていました。オリンピックのために首都高が建設されたときには、覆いができてしまったようで、なんだか寂しい気持ちがしたものです。当時はまだ車社会ではなかったし、我が家にも車はなかったので首都高の便利さを享受していなかったからかもしれませんけど(苦笑)。マイカーが普及し始めたのはもう少しあとの時代でしたから。

車の前に各家庭に普及し始めていたのが家電。そのなかにはモノクロテレビがありました。そんなテレビの普及に伴って、東京タワーが建設されたのは1958(昭和33)年。当時学生だった私は、学校から東京タワーが少しずつ高くなっていく様子を楽しみに眺めていました。

モノクロテレビは、1959年の皇太子ご成婚を機に一気に普及。その後「いだてん」で田畑政治が池田勇人首相にアピールしたように、オリンピックを契機にカラーテレビがたくさん売れたそうです。とはいえ、当時のカラーテレビは一台約60万円ととても高価で、庶民にはなかなか手が届かなかったんですよ。大卒の初任給が1万5千円ほどの時代でしたからね。
─「いだてん」では ─
東京・代々木にあった米軍施設を東京オリンピックの選手村にしようと手を尽くす田畑だが、返還の条件としてアメリカから60億円を要求される。田畑は池田首相に直談判じかだんぱんし、カラーテレビの普及によって国が潤い、資金がまかなえると説得する。

オリンピックを控えた東京

1959(昭和34)年に東京オリンピックの開催が決まりました。私はその翌年に大学を卒業、1961年には結婚して翌年に長女を出産。オリンピックが開かれた1964年には長男が生まれました。東京オリンピック前後は子育てに忙しい時期でしたが、自宅は国立競技場が建設された千駄ヶ谷からそう遠くない場所にあり、建設ラッシュで変わっていく町の様子やオリンピックのために新しい道路が作られていくのを、一喜一憂して見ていました。

住民にとって特に大きな出来事といえば、都内を走っていた都電が次々と廃止されたこと。私の身近では、青山通りから都電が姿を消しました。当時は都民の足として親しまれていましたし、どこへ行くにも便利に使っていたのですが、日比谷線などの地下鉄やバスがとって代わりました。今思えば、都電がチンチンとベルを鳴らしてやってくる姿はなんとも牧歌的でしたね。
─「いだてん」では ─
タクシー運転手時代の森西栄一が悩まされた東京の道路渋滞。都内各所で道路工事が行われていた。

オリンピックを控えた東京

実は1964年の東京オリンピック以前、日本人にとってスポーツは今ほど生活に根ざしたものではありませんでした。「いだてん」でも登場した人見絹枝さんや前畑秀子さん、織田幹雄さん、古橋廣之進さんらはそれぞれの時代の国民的スターでしたし、競技を見る文化は浸透していましたが、趣味やエンターテインメントとしてスポーツを楽しむ人は少数派でした。

そんななか、オリンピックを目前に控えて快進撃を続けた“東洋の魔女”は大フィーバーを巻き起こしました。ちょうど最近のラグビー日本代表を応援するにわかファンと同じような感じで、日本中が熱狂したんですよ。

そして開かれた東京オリンピック。 “東洋の魔女”の活躍は言うまでもありませんが、母国開催となった日本人選手の活躍はめざましいものがあり、それを見守った私たち日本人にとってスポーツはさらに身近なものになりました。より多くの人がスポーツを見る楽しみを知ったことがまず大きかったですし、そこから発展して自分でやってみたいとチャレンジする人も増えました。オリンピックに伴ってスポーツ施設が充実したこともそれを後押ししたのかもしれません。そうやって思い返してみると1964年の東京オリンピックの前後では、日本人とスポーツの関係がガラッと変わったのだなと改めて感じますね。快晴の国立競技場の空に、五色の飛行機雲で描かれた五輪マークが今でも目に残っています。
─「いだてん」では ─
連戦連勝を重ねる日紡貝塚女子バレーボールチーム。鬼の大松のもと、回転レシーブを繰り出し活躍を見せる選手たちに日本中が注目した。

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