Q.箱根駅伝誕生のきっかけは?
当時、独逸学協会中学校の教員だった金栗四三と明治大学の学生だった沢田英一、そして東京高等師範の教員だった野口源三郎の3人が「アメリカ大陸横断駅伝」を発案。その予選会として行われたのが「箱根駅伝」の始まりだそうです。
当時、専門学校がたくさんあったので、正式には専門学校にも声をかけて、ランナーを10人そろえることができた4つの大学がエントリーしました。ですから、当時の大会名は「四大専門学校対抗駅伝競走」。ちなみに第一回大会に参加したのは金栗先生の母校・東京高等師範学校(現・筑波大学)と、早稲田大学、慶応大学、明治大学の4校でした。
Q.箱根駅伝が駅伝形式になったわけは?
フルマラソンはもちろん、1人で100kmを走破したりと、今でいうウルトラマラソンにも挑戦していた金栗先生。ですから、一区間20kmという長い距離に対して抵抗感がなかったと思います。ただ自分一人が走るだけではなく、たくさんの若者が活躍できるように、駅伝という発想になったのでしょう。京都・三条大橋から上野・不忍池までを走った東海道五十三次駅伝が箱根駅伝の3年ほど前に開催されていますが、このときも関東軍が金栗先生がアンカーを務め優勝しています。すばらしい教育者でもあり、発想がすごく豊かな方だったんだなと思います。
Q.走る距離やコースは今と違っていますか?
往復の距離は当時からほとんど変わっていません。皇居のあたりをスタートして芦ノ湖で折り返し、往復約200kmを10区間に分けて走ります。
コースも当時とあまり変わっていないんですよ。第一回大会では現在の有楽町駅前からスタートしたのが、いくつか変遷があって今は大手町になっている点、そして往路のフィニッシュ地点が箱根神社になったりと少し違う時期はありました。また現在、3区と7区は海岸線を走っていますが、昔は平塚の市内を抜けていました。そこは大きく違いますね。もともと、東海道を走るのが交通の便もよく、往復になれば負担も少ないということでコースが設定されたと聞いています。
Q.選手たちが抜け道を探していたエピソードは本当?
スタート、中継所、フィニッシュ地点が決まっており審判員もいましたが、実は当時の箱根駅伝は、コースの途中に審判員はいませんでした。学生はフェアプレーの精神でルールを守ることが前提で、近道をするような者はいないということだったようです。ところが実際には、特に箱根山中は、大学ごとにいちばん効率のいいコースを考え、獣道などの近道を探したそうです(笑)。しかし、往路は午後のスタート。5区は暗闇を走ることになってしまうので、地元の青年団が松明で照らしてくれることに。ただ、そうなると青年団の行く道しか走れませんから、結局、みんな同じ道になったのだとか。
Q.現在まで変わらないことは?
各校がたすきをつないで走るのは第一回からの伝統です。早稲田のえんじ色(えび茶)と、東京高師の黄色はすぐ決まったのですが、明治と慶応は当時のスクールカラーが両校とも紫で話し合いが紛糾。最後は、慶応が明治に紫を譲って、当時のスクールカラーとは違う青をつけることになりました。現在まで、早稲田、明治、東京高師(現・筑波)のたすきの色は変わっておらず、慶応は現在のスクールカラーの紺と赤が採用されています。
Q.受け継がれる金栗四三の教えは?
金栗四三先生は自分がストックホルムオリンピックで途中棄権してしまった経験から、世界で通用する選手を育てたいと考えていました。そして、「オリンピックで日本を強くするには長距離、マラソン選手を養成すること。一度にたくさんの選手を作るには駅伝競走が最適だ」という考えから生まれたのが箱根駅伝です。ですから、箱根駅伝は創始から一貫して「選手強化」を目的に長い歴史を刻んでおり、これからもその目的が変わることはありません。
金栗先生たちの発案から始まった箱根駅伝ですが、大学生活の4年間しか走れないことから数々のドラマが生まれます。また、毎年顔ぶれが入れ替わることも見どころのひとつ。そしてあまり知られていないことですが、学生が運営している大会であることも知っていただけるといいですね。