え? 明治時代にはスポーツなかったってホント!?
嘉納治五郎は「柔術」を学び、のちに講道館を創設して「柔道」を世に広めました。「柔術」と「柔道」は同じもののように思われるかもしれませんが、その考え方は大きく異なります。「柔術」は相手をねじ伏せることを目的としているのに対し、「柔道」は立派な人間をつくるための“道”であり、礼や精神の鍛練を目的としています。段や級に応じて帯の色を変えたり、公開で試合を行うなど、柔術にはなかった“競技を楽しむ”要素を取り入れたことも治五郎のアイデアであり、のちに「柔道」が世界中に広まる理由の一つになりました。そんな治五郎は、海外で発達していたフェアプレー精神に基づく「スポーツ」に高い関心を抱いていました。当時、「体育」といえば、身体を鍛える「体操」と「武道」が中心。治五郎は“楽しむ”こと、“心身を磨く”ことに一層、重きを置いた「スポーツ」を日本に広め、日本人の心を育もうと考えたのです。
日本スポーツの最先端・「東京高等師範学校」が果たした役割
治五郎が校長を務め、四三の母校としてドラマに登場する「東京高等師範学校(現・筑波大学)」は、国内でいち早く組織的にスポーツに取り組んでいました。柔道はもちろんのこと、1880年代には東京高等師範学校内にテニスコート、神田川に短艇が設置され、まだ珍しかったテニスやボートといった海外発祥のスポーツも盛んに行われていました。1893年に治五郎が校長に就任したのちには生徒らが地方の師範学校や中学校にさまざまなスポーツの指導に出かけるようになりました。こうした取り組みが「スポーツ」を全国的に普及させたといっても過言ではありません。さらに、治五郎は「大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)」を1911年に設立。IOCやFIFAなど海外のスポーツ組織との窓口になり、現在に至るまでの日本のスポーツ発展の礎になりました。
スポーツを学校教育にも生かしたい!
治五郎の思いは、やがて「生涯スポーツ」へ。
今では、当たり前のように学校で「体育」の授業が行われていますが、これも治五郎が貢献しました。治五郎は東京高等師範学校内に「体育科」を開設し、学校教育の現場でスポーツを学べるシステムを全国に普及させたのです。治五郎は「体育」を体操、武道、スポーツなどすべてを包括したものとしてとらえ、健康の保持増進と体力の向上、楽しく明るい生活には「体育」が不可欠と訴えました。
そんな治五郎が学校での体育とともに提唱したのが「国民体育」という考え方です。誰でも親しめる体育を作りたいと考案された「国民体育」には水泳、徒歩・長距離走などが含まれ、現在では当たり前になっている「生涯スポーツ」の礎になりました。
今、私たちがスポーツをごく身近に感じられるのは、治五郎の人並み外れたスポーツへの情熱が日本人の心に広く浸透しているからなのです。
ドラマ序盤では、東京高等師範学校や大日本体育協会を舞台に、嘉納治五郎をはじめとする個性的なキャラクターたちが「スポーツ」をめぐって熱い議論を交わします。日本スポーツの原点ともいえる「東京高等師範学校」はどんな場所だったのか、日本スポーツの父・嘉納治五郎の思いがどう描かれていくのか、ぜひ番組で!