いだてん

IDATEN倶楽部

2018年1223

地球を6周走った男!?
金栗四三の「いだてん」な人生

東京マラソンの応募者数は30万人を超え、仮装や婚活マラソンなどのエンターテインメントなイベントも数知れず。いまや競うだけではなく、それぞれの目的に合わせてマラソンを楽しむ人が増えています。そんな日本の日常風景の一部になっているマラソンですが、その原点には、日本人として初めて世界に挑んだ金栗四三という男がいました。

ぶっちぎりの世界記録を出し、
日本人で初めてオリンピックに出場した男。

四三は、ストックホルムオリンピック(1912)に向けた国内の予選会で、当時の世界記録を20分も更新する2時間32分45秒をたたき出し、日本人として初めてオリンピックに出場しました。

その後も2度オリンピック出場を果たし、全国各地でマラソンの普及に努めるなど、日本のマラソンに多大な貢献を成しました。大阪・道頓堀にあるキャラメル菓子の巨大看板に描かれたランナーのモデルのひとりともなり、「日本マラソンの父」とも呼ばれています。そんな四三が残した功績をたどってみると、どれだけ現代のマラソンに四三の魂が息づいているかがわかります。

足袋シューズ!?高地トレーニング!?
箱根駅伝!?四三の発明の数々。

四三は明治24(1891)年、熊本県玉名郡春富村(現・和水町)に生まれました。隣町にある高等学校まで往復約12㎞の道のりを走って登校していたそうでとにかく走ることが大好き。生涯で走った距離はなんと25万キロ。地球一周の距離がおよそ4万キロですから、四三は地球を6周分以上も走ったことになります。

四三はただがむしゃらに練習するだけでなく研究熱心でもありました。自分の走りを分析し、独自の呼吸法などを発明。今では当たり前と言われている高地トレーニングを日本で初めて導入したり、真夏の耐熱練習やインターバルトレーニングも行っていたそうです。また、マラソンシューズなどがなかった時代に”足袋”を改良しオリジナルのランニングシューズまで作りました。この足袋の開発は現代のマラソンシューズにも大きな影響を与えていると言われています。

さらに、皆さんになじみが深い四三の功績は箱根駅伝でしょう。マラソンはどこまでいっても孤独な競技。もっとチームで楽しむことができれば、国民に広く受け入れられるに違いないと考えた四三は、大学対抗のマラソンとして、駅伝を考案したのです。駅伝は、ただマラソンのことばかり考え、それをいかに広めるかについて考え続けた四三ならではの独創的なイノベーションだったのです。

走ることを生涯楽しんだ。
四三の信念とはー?

こうした四三のアイデアが広く浸透したのは、その人柄によるところも影響しているかもしれません。実直で、マラソンを愛する者に対しては常に真摯に寄り添いました。そこからついたあだ名は”お釈迦様”。指導を受けたさまざまな選手たちは「金栗さんはいつも寡黙で笑顔を絶やさず見守ってくれていた」と語っています。(でもきっと、走ることに対しては、厳しかったんだろうなあ…。)さらに監督として参加したマラソン大会で選手が優勝を果たした際には、涙を流して一緒に喜んだそうです。

四三のスポーツ人生は決して平坦ではありませんでしたが、生涯走ることを楽しんでいた四三は、まさに“いだてん”のように人生を走りきった人でした。

2019年の大河ドラマではそんな金栗四三が主役として登場!人から人へと想いがリレーされていく笑いアリ、涙アリのストーリーをご期待ください!

写真提供 : 熊本県玉名市、熊本県和水町

IDATEN倶楽部トップへ