いだてん

IDATEN倶楽部

2019年75

人見絹枝さんがしてくれたことの大きさを、世の中に伝えたい

第26回「明日なき暴走」では日本人女性初のオリンピック選手・人見絹枝の人生をかけた挑戦が描かれます。そこで、日本人女性で初めてオリンピック2大会連続でメダルを獲得したアスリートで、人見絹枝さんを尊敬してやまないという有森裕子さんにインタビューしました。

Q.人見絹枝さんと同じ岡山県出身。おばあさまが人見さんの後輩だったそうですが…。

父方の祖母が人見絹枝さんと同じ学校の1年後輩だったそうです。ずば抜けて運動神経のよい人だった反面、とてもエレガントな方でもあったそうです。岡山ではとても有名な方で、地元で行われる山陽女子ロードレースでは優勝者に人見絹枝杯が贈られるんですよ。私はその第一回大会で人見絹枝杯をいただき、そのときに祖母にトロフィーを見せ、とても喜んでもらったことを覚えています。

Q.バルセロナオリンピックに人見絹枝さんの写真を持っていかれたとか。

バルセロナオリンピックは祖母が亡くなったあとでした。お守り代わりに、人見絹枝杯をいただいたときに祖母と一緒に撮った写真を持っていったんです。そのつながりで、人見さんにも見守ってほしい、後押ししてほしいという気持ちになり、人見さんの写真も持っていきました。

Q.人見さんにとってオリンピックのプレッシャーはどのようなものだったと思われますか。

本命の100メートルでメダルを逃し、全く練習もしていなかった800メートルに出場する決意をするほどですから、当時の女性アスリートが置かれた環境の過酷さが伝わってきます。種目の特性も違いますし、使う筋肉も違いますから、本来なら不可能なこと。それなのに銀メダルを獲得したというのは、人見さんの身体能力がいかにすごいかということでしょうね。それに、やらなければ帰国できないという切実な思いもまた、壮絶なものだったと思います。

当時とは状況が違いますが、私自身も経験したオリンピックで感じるプレッシャーは、自分の領域にある最高の孤独感に包まれる瞬間でもあります。そういう経験はそうそうできませんよね。私はそれが嫌ではなかったし、ある意味、自分のなかで特別な力に変えられたのかなと今は思っています。

Q.バルセロナで人見絹枝さん以来、日本人女性として64年ぶりに陸上競技でメダルを獲得されました。人見さんをますます意識する存在に?

彼女をより意識するようになったのは、オリンピックでメダルを獲得してからです。くしくも私がバルセロナでメダルを取ったのは、人見さんがアムステルダム大会で銀メダルを獲得したのと同じ8月2日でした。そして人見さんが亡くなったのも8月2日。そういったリンクする部分があったことと、やはり自分がそれまでやってきたことと彼女の生き方に共通点があったので、勝手に「(人見さんの思いを)受け継いでいかないと」と思うようになったんです。

Q.どのような点に人見さんとの共通点を感じますか?

人見さんが生きた時代と現代の女性アスリートでは置かれた環境は全く違います。スポーツをすること自体は人見さんたち先人のおかげで、いまは不自由することはほとんどありません。ただ、それ以外のスポーツ分野では組織にしても、指導者にしても圧倒的な男性社会です。男性社会が悪いわけではなく、同じ能力を持っているなら男女の区別なく現場にいるべきだというのが私の思いです。でも、そんな時代が来るまでにはまだ時間がかかりそうですね。そういう意味では人見さんが後生につなげたかった思いとの共通点を感じます。

Q.有森さんにとって人見さんはどんな存在ですか?

こうして私たちが競技に出られて、世界で戦える環境を得られているのは人見さんのおかげ。人見さんは、日本人女性がスポーツをすることの意義と、その環境を大きく変えた偉大なアスリートです。私自身、自分のたどってきた道筋を思い出せば思い出すほど、人見さんがしてくださったことの大きさを切実に感じます。その存在を世の中の方にもっと知っていただきたいですし、私も彼女の生き方を伝えていければと思っています。

IDATEN倶楽部トップへ