いだてん

IDATEN倶楽部

2019年104

さらば、治五郎 第二弾

日本のスポーツ界をけん引してきた功労者であり、人びとをひきつける魅力の持ち主だった嘉納治五郎を2回にわたって特集! 第二弾では、嘉納治五郎研究の第一人者で「いだてん」のスポーツ史考証も担当する真田 久先生(筑波大学 教授)にお話をうかがいました。

Q.「いだてん」の嘉納治五郎先生について、これまでどのようにご覧になっていましたか?

柔道の嘉納治五郎というと神様のように奉られてきましたが、「いだてん」の嘉納治五郎は、喜怒哀楽がはっきりし、それでいて理想を見失わないキャラクター、つまり人間味のある人物として描かれていると思います。
教育者やIOC委員としての治五郎の資料と照らし合わせると、実像に近いのではないでしょうか。

Q.嘉納先生が日本のスポーツ、特にオリンピックに果たした功績について、改めて教えてください。

日本のスポーツにとっては、オリンピックを通して国際舞台への道を開いたことが大きいですね。オリンピックを契機に、陸上、水泳、テニス、サッカーなどさまざまなスポーツが世界につながっていきました。
オリンピックに果たした功績としては、日本でのオリンピックの開催の意義を世界に認めさせたことでしょう。アジアでの初開催だけではなく、オリンピックを世界の文化にするために日本開催が必要だということを世界の人びとが認めたのですから。

Q.日本・アジアでオリンピック開催をと強く希望していた嘉納先生の行動の根底には、どのような思いがあったと推測されますか。

オリンピックの理念にはスポーツによる平和な社会の建設という理想があります。ですから日本での開催により、治五郎の提唱する「精力善用・自他共栄」(スポーツや教育で得た自身の力を目的に応じて効率よく活用し、特に他者のために尽くすことで、自分と他者がともに繁栄すること)の考えを広め、平和な社会を実現しようと考えていたのだと思います。

Q.嘉納先生が亡くなったことが、1940年のオリンピック返上につながりました。その死が日本のスポーツ界にどのような影響を与えたと思われますか。

政界や軍部の中の主戦派の勢力を防ぐことができなくなり、スポーツも「強い兵士の育成のために利用するものでない」と認められなくなってしまいました。

Q.晩年の治五郎先生について、なにか象徴的なエピソードがございましたら教えてください。

1938年3月のカイロでのIOC総会に出かけるとき、東京の返上やロンドンの突然の立候補(実際にはすぐに取り下げた)などの状況を聞かれ、治五郎は「今からそんなことを心配したら頭が禿げる。いざとなれば柔道の奥の手を使うまでさ」とユーモアたっぷりに出かけました。最大の危機にあっても、逆らわずして勝つ、という姿勢だったのでしょうね。
また、嘉納の逝去にIOC委員たちが追悼のメッセージを送ったのですが、その内容がすごいんです。いかに治五郎がIOC委員から尊敬されていたかが分かります。
ラトゥール伯爵(IOC会長)
嘉納氏の逝去は単に日本にとって偉大なる損失たるにとどまらず、全世界のスポーツ界にとってもまた同様である。氏は青年の真の教育者であった。我々は嘉納氏のおもい出を永く座右の銘として忘れないであろう。あたかも兵士のごとく氏は自己の義務を遂行しつつ逝った。しかし氏はもっと永く生きて、氏の生涯の夢であった東京オリンピックを見るべきであった。この東京オリンピックこそ、氏が日本のあらゆるスポーツを今日の高き標準に引き上げるため費やした永年の労苦に対する報酬であったであろう。日本の全スポーツマンに対し、我々の最も深き哀悼の意を伝えたい。
カール・ディーム博士(ベルリン大会事務総長、スポーツ教育学の権威)
氏とは1913年以来の親しい知友で全く感慨無量である。氏は世界でまれにみるスポーツ教育の総合的人格者で、氏の逝去は単に日本にとってばかりでなく、世界スポーツ界、教育界にとって痛惜に堪えない。
アベリー・ブランデージ(IOC委員、アメリカ・オリンピック委員会会長)
嘉納氏は立派な『サムライ』であり、典型的教育家であり、そのスポーツ界に対する貢献は長く追憶されるであろう。
フランソア・ピエトリ(IOC委員、フランス・オリンピック委員会会長)
嘉納氏は永年の私の親友の一人である。氏はカイロ総会で最大の難事とされていた東京・札幌両大会獲得のため非常な過労を強いられ、ほとんど独力でこの難関を克服していた。日本国民は氏の真摯しんしなしかも勇敢な努力に対して深く感謝しなければならない。
クラレンス・ブルース(第3代アバーデア男爵、IOC 委員、イギリス・オリンピック委員会)
私はかかる素晴すばらしい人物に会った喜びを長く記憶から消し忘れないであろう。また私はかつて氏が柔道の講義と実演をなした際その道場において当時75,6歳であった氏が、わずか一分足らずの間に氏よりもずっと年若い人を投げ倒し、出席者一同をして氏の勇気と熟練とを賞賛せしめたことも忘れ得ない。私は嘉納氏の遺志に従い、日本におけるオリンピック競技会を支えることを最大の幸福と考えるものである。
クリンゲベルグ(IOC技術顧問)
今回の嘉納氏の最後の欧州訪問はオリンピック精神に合致したものだ。カイロ会議では非常な困難に直面したが、氏は巧みに、また自信を持ってこれを執り裁き、オリンピックの東京招致を確実にした。氏の残したもの、すなわち東京オリンピックを成功させることは氏を尊敬する者の義務である。
平沢和重(嘉納と同じ船室に乗船した外交官、後の1959年のIOC総会で招致演説を行い、1964年オリンピックの東京招致に尽力)
あと二日で横浜だというところまで来て急逝された先生の今際いまわの心境を思うとき、万感こもごも至らざるを得ない。しき縁で先生の輝かしき八十年の生涯の最後の十一日間というものを文字通り起き伏しを共にした私は、そして今こうして御遺骸の安置された隣室で思いをその走るままにしたためている私は、心から東京オリンピックの成功を祈らざるを得ないのである。

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