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「体当たり戦法」の採用は、サイパン陥落がきっかけだった

なぜ特攻ははじめられたのか①
生還の見込みのない体当たり兵器に乗り込んだ20代以下の若者たち。彼らの内面に焦点を当てた、一ノ瀬俊也氏の『特攻隊員の現実』が話題になっている。今回・次回と二回にわたって、本書の序章から「特攻はなぜ始められたか」についてご説明したい。

日本側の犠牲者

なぜ日本陸海軍は一九四四(昭和一九)年に飛行機に爆弾を積んでの体当たり、すなわち航空特攻を始めねばならなかったのか。特攻にはいわゆる人間魚雷による水中特攻や、小型艇による水上特攻などもあるが、本書では航空特攻にしぼって特攻を論じることを、はじめにお断りしておく。

航空特攻による日本側の犠牲者については、さまざまな異なる数字が残っている。小沢郁郎はそれらを集計し、敗戦までの陸海軍特攻出撃機を延べ三六〇四ないしは三九〇四機、直掩機(護衛機)を延べ九一九ないしは九二三機、突入・未帰還機を二四六七機以上ないしは二八二二機以上、戦死者を三七二四名以上と推定している。わかりにくい書き方になっているのは、「調査もできぬほどに、特攻隊の出し方も記録も、いい加減なものであった」からである(小沢『改訂版 つらい真実』)。

一九四一年一二月に始まった日米戦争は、主に海の上で戦われる戦争であった。日本軍は開戦するや否や、太平洋に散らばる島々を占領し、飛行場を建設した。そこに日本の航空部隊がいるかぎり、米軍は日本本土めざして進むことはできない。日本軍の飛行機に米軍の兵士や物資を積んだ船団を空から爆弾や魚雷で攻撃され、沈められてしまうからである。

対する米軍は、日本本土めざして進むためには日本軍の占領している島々を奪い返し、その飛行場から飛行機を飛ばして味方の輸送船団を護衛したり、その先にある日本軍の基地を爆撃していった。飛行機のカバーなしに日本本土へ近づくことはできなかった。こうして日米戦争は飛行機によって戦われる戦争になった。

飛行機を発着させて味方の頭上を守るため、日米両軍とも航空母艦と呼ばれる船の建造に力を入れた。工業力に勝る米国が大型航空母艦とその搭載機を大量にそろえることができたのは、一九四三年末から四四年にかけてのことである。

米軍はその航空母艦をまとめて機動部隊を作り、対日反攻を本格化させた。日本軍が守る島々に、機動部隊の護衛付きの上陸船団を向かわせた。日本軍はこれを洋上で撃破しようと飛行機を向かわせるが、米軍の空母から発進した大量の戦闘機と、船から打ち上げる猛烈な対空砲火によって多くが撃墜されていった。やがて米軍は目標の島に上陸して日本の陸上部隊を撃破し、飛行場を作って飛行機を飛ばす。

こうなると仮に日本軍が増援の部隊を船に積んで向かわせたとしても、島に上陸するのは不可能に近くなる。今度は味方が米軍の飛行機に襲われるからである。

こうして、一九四四年に入ると日本軍の守る島々は米軍にあいついで奪い返されていった。数と質に劣る日本軍の飛行機が、米軍の空母や船団に致命傷を負わせられなくなっていたのが、その根本的な原因だった。このままでは、米軍が日本本土まで到達してしまう。

日本側の対応策は、わずかに敵艦船の上空へたどり着いた飛行機から投下する爆弾の命中精度を上げることしかなかった。通常の攻撃方法で爆弾を落としても、米軍の艦船にかわされてしまう。ならば、爆弾を積んだ飛行機を人間が操縦してそのまま体当たりすれば、命中率はいくばくなりとも上がると考えられた。