運転免許の更新を、警察から送られてきたハガキで知った。世の中は変わっても、ハガキっつう更新お知らせの方法は変わっていない。数年に一度送られてくる変わり映えのないハガキが「生きてきたなあ」という実感を僕にもたらし、その実感は年々強くなっている。免許の有効期間を生きてきたという実感。たとえそれが、ただ、ぼんやり、何もしていないような、冴えない人生であってもだ。
二十数年前、免許更新ハガキを持った父が「明日の午前中、警察署まで送ってくれよ」と声をかけてきたのを僕は覚えている。だが、僕がどんな返事をしたのか、さっぱり思い出せない。「わかった」「めんどくさいなあ」たぶんそんな感じだ。僕の返事を受けた記憶の中の父の表情は、解像度の落ちたモヤモヤの影になってしまって、もうわからない。父が自分で運転していかないのが不思議でならなかった。運転手じゃないぞーという軽いムカつきもあった。免許の更新とは、明日の自分に「明日のハンドル」を約束すること。夢をかなえ、義務をはたすための約束だ。そこには、それぞれの明日がある。僕だってそうだ。営業マンとして生きているであろう明日がやってくるから、免許が必要で、更新を続けている。
明日がない人間もいる。「送ってくれよ」の翌日、あのハガキを書斎のコルクボードに貼った後、父は命を絶った。あっけなかった。僕のなかで、免許の更新を考えている父と、突然死んでしまった父のあいだにはどどーんと何万光年の溝があった。「お父さんはあんたに見つけてほしかったんだよ」という親戚の誰かの声もわずらわしいだけで、溝を埋めるにはクソほども役に立たなかった。それから長い時間をかけて、僕は、意味や前兆を探して父の前日の行動を繰り返し検証してみたけれど、ひとつの事実を除いて、何も見つけられなかった。僕が見つけたのは、意識することなく通過してしまった過去の言葉や行動に後から何らかの意味をあたえることの虚しさ、それだけだった。
僕は、あのケーサツまで送ってくれよと言ったとき、父は本気で免許を更新するつもりだったと確信している。明日を生きようとする父と、そうでない父は1人の人間で、溝によって分裂しているのではなく、コインの表と裏で同時に同じ場所に存在していて、何かの拍子でたまたま裏側を上に倒れてしまったのだ。周囲が裏側に気づかなかったのではない。父が巧みに最期まで気づかれないように隠し通したのだと。今振り返れば、前夜の夕食でカレイの煮付けを「うまい。うまい」と言いながらパクパク食べていた父の姿も偽装工作だったのかもしれない。
馬鹿だな、水くさい、母さんはどうするんだよ、という叱責と嘆きと怒りがごちゃまぜになったものは今でもある。だが今は誰とも分かち合えない、どうにもならない闇のような悩みが人間にはありうることも理解できる。「超悩んでいるんだけど」と誰かに語り、シェアできてしまうような悩みや苦しみなどはたいしたものではないのだ。誤解をおそれずにいえば、悩みですらない。父は分かちあえないものと真正面から向き合ってしまった。そして、分かちあえる部分をも分かちあわずに、その重さも含めて全部を抱えて穴に落ちてしまったのだろう。
僕は父の年齢に並んだ。僕は父と瓜二つで、パッと消えるように亡くなったこともあって、鏡をみているとまるであのときの父が正面に立っているような錯覚におちいる。そんなふうにときどき存在を思い出させてくれる父が教えてくれたのは、どうにもならないときはどうにもならないから、明日を信じて今日をやりきるということ、夜、布団にはいって変わらない天井を眺めながら自分を少しだけ褒めてやること、それを積み重ねることしかできないということだ。打ち負かせない失敗や悩みもある。彼らとは愛想笑いをしてうまく付き合っていくしかない。実家の書斎に貼りつけたままの、色あせた期限切れの更新お知らせハガキは「また更新の時期だぞ、よく生きてきたな、次も生き抜けるといいな、俺みたいになるなよ」と父の代わりに語りかけてくるように僕には思える。(所要時間22分)