2020年01月29日

イエスもご多聞に漏れず「男の加害を透明化する男」である

● マルタとマリア
● マグダラのマリア
● ファンティーヌ

ホモソ支配のミソジニー社会の男であるがゆえの、
「はいはいはい、貴方様も同じ、終了」であるところまでは、
「同じ男」以上のものはないのだが、

「見えてない男様」が女性に説教をかますから「ふざけてる」になるのである。

つまり【マンスプレイニング】。

マンスプレイニングとは
・女性が知っていることを
・女性であることで男が侮って、無知と決めつけて
・お呼びでない講釈を独壇場で垂れて
・悦に入る男の迷惑行為

上記の「知っていること」は「経験・体感」を含む。
「ベビーカーを蹴られた経験のある母の、外出時の緊張感」を知ろうともせず
「気にし過ぎ、親が神経質だと子どもがのびのび育たない」と言うようなのも、
「うるせえ!!!!!!!」のマンスプレイニングである。

イエスの「ふざけた説教」はこれに当たる。

● マルタとマリア

「イエスに耳を傾ける」
聖書箇所:ルカによる福音書10章38~42節
http://www.shalomchapel.com/sekkyou/sekkyou_2010/20100718.html
38〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

【客人のために】【自分を後回しにして】立ち働いている女性を、まず労わり礼を言えや!
イエス一行がもてなし不要だったとしても、それならそうと「お気遣いなさらないで」と言えや!
それを何? 間違っているものとして諭し、妹を見習え!?
ふざけんなよ!!!!!!!!

という感想は初見からあったが、
フェミニズムを知り始めるとこれが明確に「加害者のマッチポンプ」とわかる。

男が、女性をケア労働者にさせている。

自発的に、すぐに動き、あちこちに目を配り、漏れのないサービスを、
感情労働とセットで提供するように強制している。
女性がそれをしなければ「女のくせに気が利かない」と非難し制裁する、
家庭でも社会でもあらゆる場面で徹底して行う。

こうやって男社会が「仕込んで」きた女性が、
男社会の「仕込み」通り「自発的に」ケア労働をしているのを、
労わりもなく「諭す」って、モラハラかよ!

妹は、弟じゃないの?
客人を迎えて一切のもてなしを姉に丸投げできるのは男しかいないよ。

この物語を当時の社会通念から考えれば、イエスの足下に座ってその言葉を聞いているマリアは女性としてはふさわしくない行動をしていると考えられます。そしてもう一方のマリアマルタはむしろ客をもてなすと言う当時の社会が女性に求めている価値観の中で行動していたのです。

妹?が仮に
「面倒をできるだけ他者に押しつけて自分は楽しよう、自分の取り分を多くしよう」
という狡猾な性格なのだとしたら、
そうならそうで、そういうズルをこそ諭すべきだろうよ。

この二人の行動は当時の常識では妹マリアの行動が批判され、姉マルタの行動が評価されてよかったのです。ところが、イエスは「マリアは良い方を選んだ」(42節)と語り、姉マルタにも同じようにイエスの足下に座り、そのみ言葉に耳を傾けることを求めているのです。

だから!
そういう規範を女性に強制している男社会スルーだから、
姉への「諭し」がモラハラだっつーの!

「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」じぇねえよ。
「女が勝手にやっている」にするんじゃねぇよ。

「あなたはホモソ支配社会の被害者だ。私も加害側の一人だ、申し訳なく思う」

「だからこそマルタ、私はそのくびきから今だけでもあなたを自由にしたい。
私のために働かなくてよい、ただ私の話を聞いてほしい」

と、言えよ!

● マグダラのマリア

有名な「マグダラのマリア」の件でも、
【「男の加害」を指摘しない、ホモソ仕草】である。

テナルディエをファンティーヌにすり替える男社会の極悪
http://lttlleo.seesaa.net/article/465864312.html
マグダラのマリアを姦淫の罪で石打にするように
イエスに言わせようとした男たち。
姦淫相手の男はどこだーーーーーーー。

これを、イエスは言わないのである。
「なぜここに、女だけを連れてきたのか」
「女が一人で姦淫を犯したと、あなたがたは言うのか」

なんで言わないんだよ。ホモソ仕草やめろや。

※イエスは当時の社会においてマリアに「寛容」だったかもしれないが、
イエスがマリアを石打から救ったのは、マリアへの同情以上の理由がある。
「石を投げるな」と言えば反律法の反ユダヤ、
「石を投げよ」と言えば私刑だから反ローマ、
イエスをダブルバインドに陥らせる策略を、イエスが見事に切り抜けた逸話、なのである。

● ファンティーヌ

イエスの教えを伝導する、牧師の男もまた同様である。

ジャベールのまなざし
https://www.christ-hour.com/archive/detail.php?id=291
コゼットの母ファンテーヌは、若い頃、恋に落ち、
子どもの父親の保護が得られない中で出産し、一人で育てようとします。

「ファンティーヌを妊娠させた男が、恋人であった彼女と我が子である胎児を遺棄した」と書けや。

「罪深い男」をしれっと透明化し、
【被害者の女性を罪深い女にする】、いつもの回路。

こんな「罪深い男である牧師」が、
自分を「世間の冷たい目を悲しく思う、慈愛と俯瞰視点のある私」と自認しているだろうことが、文章全体から伝わってくる。

この「自分に劇甘の過大評価」もまた男様。

「自分を愛に満ちた人間だと思っているミソジニー男」の説教を
「傾聴」していたら、病むわ。

※牧師について詳細同記事
テナルディエをファンティーヌにすり替える男社会の極悪
http://lttlleo.seesaa.net/article/465864312.html


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posted by Erin at 02:00| Comment(0) | フェミニズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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