民族の能力は同じでないという話 | 思うこと

民族の能力は同じでないという話

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イギリスの人は意識魂の能力に優れているそうです。議会制がイギリスで考案されたのは、このことと関係しているようです。

 

意識魂の能力がどういうものかは、イメージで言うと学者のような能力です。世界から引いて書斎にこもって森羅万象を考察します。そこでは全てがあらゆる角度から検討されます。思考と思考がつなげられ全体像が構築されます。しかし外界の生命を写しとろうとしたにも関わらず、生命のない干からびた概念しか得られないという特徴があります。それによって学問の世界には一種の腐臭が漂います。

 

意識魂の能力を持っている人が自分の意見を、理論的にどうなっているのか説明できる時、同じように意識魂の能力を持っている人なら、相手が言っていることが理解できるでしょう。しかし同じ能力を持っていない人、それよりは別の能力に秀でている人が、その話を聞くと、さっぱり言っていることが理解できないかもしれません。それで退屈したり、興味を失ったり、そこから受ける干からびた印象によって反感を感じ、理由なく反対するかもしれません。

 

それで話し合いによって合意に導くという議会制の実践は、意識魂の能力が欠けている国では、なかなかうまくいかない可能性があります。

 

誰かが言っていることを真面目に聞いて、いわんとすることを理解するとか、自分と違う意見を完全に無視するのではなく、納得できる部分を抜き出してそこだけでも活かそうとするとか、他の人の意見と自分の意見を組み合わせてよりよいものにしよとするとか、善意と能力の両方がないと、議会の活動はできないに違いありません。善意もなければ能力もないのであれば、議会の活動は形だけのことになり、実際は全く別の活動が行われる舞台になってしまうでしょう。

 

とはいえ政治家の活動は、悟性・心情魂的な能力を使っています。芸術家の活動もそうでしょう。悟性・心情魂的は、意識魂のように、世界から完全に引いて見るということはせず、ある程度、世界のプロセスに巻き込まれています。政治家が原稿の棒読みではダメなのであって、生き生きと生命的に語り、聞いている人の心とシンクロしなければなりません。そして質問を受けた時には、持ち帰って検討し、文書で発表するのではく、その場で即興で答えなければならないでしょう。質問者は、答えが聞きたいのでもありますが、政治家の人間性を試しているのでもあるからです。自分はそれなりに広くて深い見識を持っており、何でも即座に判断して対応できるということを、人々に示す必要があるのです。持ち帰って検討する人がいたら、もし彼が学者であるなら慎重な姿勢を尊敬する人もいるかもしれませんが、そうでないなら無能な人と見る人が多いでしょう。

 

感覚魂は、悟性・心情魂よりも、もっと世界に没頭する魂なので、世界のありよう、世界のプロセスを、そのまま体験し、もし彼が芸術家なら、それを写しとって表現しようとします。誰かの肖像画が描かれる時、単に顔や服装が写しとられるだけでなく、存在のありようまでもが感じ取られ描かれているかもしれません。しかしある時間の尺をとらなければ描くことができない、物語性のようなものはほとんど含まれないでしょう。スナップショットのようなこと、暗示のようなことが可能なだけです。短歌や俳句なども同様で、ある瞬間を切り取って、ある程度そこからはみ出すことを示唆するのですが、言われたことがあまりにも少ないために、示唆されることが多義的になり、一様に定まりません。これでは現実を写しとったとは言えない面がありますが、感覚魂的な生き方とはそういうもので、それを記録するなら、スナップショットの連続になります。悟性・心情魂的な芸術は、もう少し表現できる範囲を増やして、幅広いものを込めることができるようにしてあるでしょう。意識魂的な芸術は、さらに詳細に細部を検討されますが、生命的なものを失っていきます。

 

悟性・心情魂に優れた人たちはフランスの人たちで、感覚魂に優れた人はイタリアやスペインの人たちだとされています。またドイツの人たちは自我の能力に優れているとされています。自我の文化とはどういうものかは、いまいちわかりづらいです。自我意識が少ない状態では、人間は忘我の境地にあり、衝動から行動してしまい、自分が何をやっているのか自分で理解できません。その逆が自我の文化であるとするなら、自分がやっていることが常に意識されて、自分の好みや道徳観に反することが目の前にあると、気になって考え込んでしまうという性質のことかもしれません。意識魂もそれに似ていますが、自分の本性が常に視界に入ってくることはなく、意識的な能力を便利な能力として自分のために使ってしまうところがあります。自我の文化の場合、自分の行為ですら視界に入ってきて、自分の本性と食い違うことに違和感を持ってしまうのだろうと思います。

 

日本、韓国、中国の場合は、儒教的な文化が存在することから考えて、エーテル体的文化ではないかと思います。人間の中でエーテル体は生命力や習慣を司る部分です。儒教の礼という社会の理想の秩序を、人間の体に刻み込むことで、習慣化することができれば、その人間は社会秩序を構成する一要素として働くことができるでしょう。

 

善なる秩序、理にかなった秩序を、体に刻み込むことができれば、エーテル体の文化は、うまくいきます。しかし社会の外から、儒教文化と全く関係のない文化が押し寄せてきた時には対応できないかもしれません。向こう側では、こちら側の理想秩序を全く顧慮しないで、別のことを押し付けてくるからです。

 

外から変化が襲ってきた時、それをはね返すことができなければ、一部を受け入れ、儒教が想定しないことが同居することになり、混乱が生じます。そこでは新たな秩序を見出すことが必要になりますが、多くの人は優れた人からエーテル体に秩序を植えつけてもらって調和的に振る舞えるようになっているだけなので、自分で社会のありようを考えたりはできません。それで体に刻み付けられた古い秩序をいつでも保持していて、新しい時代に対応していないことを強固に主張することになります。

 

こんな社会では、(孔子のような)一般よりも優れた人が、理想の秩序のありようを検討して、方針を定め、それを人々のエーテル体に植え付けることが、政治になります。

 

これは議会制とどれほど違う営みでしょうか。

 

エーテル体の能力は、名人の技術のように、あらゆる分野で、毎日の仕事に励み、体に仕事を覚え込ませ、最高の高みにまで至ることができる能力でしょう。

 

企業社会で、指示待ちの人を批判することがありますが、それは民族にとって得意な能力をくさし、不得手な能力を求めていることを意味するでしょう。指示されたことを長年の修練で最高点まで高めることが民族的能力であり、指示を必要とせず独自に自分の考究を進める能力は、自我の文化の得意分野でしょう。

 

議会制は、特に意識魂の文化を前提としているので、日本では全員がなかなか対応できないかもしれません。しかし仮に、儒教的な統治をもう一度リバイバルしたとしても、うまくいかない恐れがあります。

 

というのは、「本来こうあるべきだ」ということを教えて、それに沿わせようとする場合、日本国内はそれで統一できるとしても、異文化の海外と付き合うと、その常識が共有されていないので混乱が生じてしまうからです。儒教文化は前提としてある程度の鎖国を必要とするのかもしれません。

 

そしてそれ以外に、「本来こうあるべきだ」という教えは、本当は形式だけでなく、内容の理解にまで進むべきですが、そこまで至らず、形式にとどまる場合があります。その時、言葉では盛んに「本来こうあるべきだ」と言って、他の人をたしなめている人自身が、その精神を理解しておらず実践もできていないという場合があります。つまり「やっているつもり」になっているわけです。そこに虚偽がはびこる余地があります。

 

だいたい同調圧力で人を圧迫して苦しめている張本人は、道徳的に高められているのではなくて、思い込みの世界に生きていて、自分は完璧に礼に即していると思い込んでいるだけのことがあります。そんな思い込みが強い人たちが、お互いに私たちは大丈夫だとかばいあって、目立つ人を叩いているだけということが多いと思います。

 

しかし意識魂の世界でも、別の理由で虚偽がはびこる可能性があります。現実から引いて、経験したものを詳細に検討する能力は、人間を多面的で正確な世界理解に導きます。しかし反面、世界の生成プロセスから離れた、戯画に至り、現実とはあまり似ていない図を描いている場合があります。これが抽象思考の欠点で、現実から遊離し、現実とあまり接点を持たなくなるという特徴があるのです。真実を知りたいがためにそんなことを始めたのに、逆に真実から遠ざかっているということは、悲劇的でもありますが、事実としてそんなことがあるようです。そしてこの抽象思考の、誤謬を犯しやすい欠陥が、意図的に悪用された時、虚偽がはびこることになります。一見本当らしいのですが、実は嘘だということが、誰かの利益を実現するために意図的に使われます。

 

これは儒教文化の中の、型に合わせているつもりが実はできていないという形での、真実からの遊離とは、また別の虚偽のありようですが、社会に害をなすという点では同じです。

 

そして意識魂によって創造される虚偽が、儒教文化の虚偽と合流しているかのような事態が、最近観察されます。

 

安倍政権の虚偽は、理屈で納得できる虚偽ではなくて、理にかなったことが行われている、君主らしい政治が行われていると見せかけて、実は違うという形になっています。

 

実際の世界で本当に君主の理想に沿おうとするなら、困難に直面しますし、失敗すれば君主らしくないイメージを与えてしまうかもしれません。しかし最初から君主らしくすることではなく、見かけ上君主らしく見えることをやろうとするなら、もう少しうまくやれるということなのです。

 

そしてそんな仕掛けを意図してできるのは、意識魂的能力でしょう。世界から引いて十分に時間をかけて計画できるからです。しかし俳優は、演技ができなければならないので、悟性・心情魂か、感覚魂の能力が必要です。安倍さんはスナップショット的な演技なので、感覚魂的な能力を使っているのかもしれません。一連の出し物として見るなら、辻褄が合っていないので破綻しています(小泉さんの方がうまくできていた)が、その場その場では成り立っているのでしょう。

 

どういう方向性が、救われる道なのかと言えば、現実と遊離しがちな、意識魂的文化の中で、なるだけ現実と一致する概念や世界観に至ろうと努力することです。常に現実と一致した概念や世界観を見聞きしていれば、誤謬や虚偽に出会った時に何か変だなと思うだろうからです。

 

日本の場合は、常にあるべき理想(例えば、親孝行)を語っているので、虚偽がはびこる余地が十分にあります。体罰を世に広めている人が、自分の子供には優しくしているとか、そんな矛盾があちこちではびこっているはずです。現実をあまり見ないで、理想のテーゼに注目する傾向があるために、そんなことが起こります。矛盾はあってもよく、そこに目を向ければいいのです。