Photo: New Zealand Government/Alex Smailes
パプアニューギニアからの独立を求めるブーゲンビル
2019年12月11日、パプアニューギニア・ブーゲンビル自治州で、独立か自治拡大かを問う住民投票が行われ、98.31%が独立に賛成しました。国際的にも「新たな国家の独立なるか」と大きなニュースとなりました。
実際のところこの住民投票に法的拘束力はなく、パプアニューギニア政府が認めないと独立は果たせない状態にあります。
ところでなぜブーゲンビルは独立を求めているのか?そもそもブーゲンビルって何?歴史的な経緯をまとめていきます。
1. ブーゲンビルとはどういう場所か
ブーゲンビルは太平洋のパプアニューギニア東部、北ソロモン州。その名の通り南東にはソロモン諸島があり、民族的・地理的・政治的にもソロモン諸島のほうが近い場所です。ブーゲンビルの住民の中には家族や親戚がソロモン諸島に住んでいる人たちも多く、歴史的に赤黒い肌のパプアニューギニアの人よりも、ソロモン諸島の人により親近感を感じ、密接に結びついてきました。
パプアニューギニアの一部に
ブーゲンビルという名は、この地を初めて訪れたフランス人航海者ブーゲンビル(Bougainville)からきています。
しばらくはブーゲンビルはイギリス船とアメリカ船が水を補給するだけてしたが、列強間での交渉の末、1898年に太平洋での権益を求めるドイツに譲渡されることになりました。
第一次世界大戦でドイツが敗れた後、ブーゲンビル島はオーストラリアの委任統治領となります。この時、ドイツ領ニューギニアもオーストラリアに委託されたため、ニューギニア東半分とブーゲンビル島は共にオーストラリアの支配に入ることになります。第二次世界大戦では日本軍が島を占領し、奪還を目指す連合軍(アメリカ軍・オーストラリア軍・ニュージーランド軍)との間で激しい戦闘が繰り広げられました。戦後はブーゲンビル島はオーストラリアに復帰することになります。
このように、近代の列強の都合によりブーゲンビルは文化的に近いソロモン諸島から切り離され、オーストラリアの信託統治領の下でパプアニューギニアと統合されてしまい、それについて住民への何の相談もありませんでした。
ブーゲンビルで独立運動が発生したのは1962年のこと。当時は民族主義に基づく小さな運動に過ぎなかったのですが、これが大きく発展するきっかけは、島で銅鉱山が見つかったことでした。
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2. 抵抗運動の発生
ブーゲンビルで銅鉱床の調査が始まったのは1964年。豪資本のコンジンク・リオティント採鉱会社(CRA)によって進められ、1967年6月2日にブーゲンビル銅山という会社が設立され本格的な操業を開始しました。
これに先立つ1年前、州都マダンにあるホリー・トリニティ神学校で地元の学生グループが雑誌を発行し、行政庁とオーストラリアによる銅の開発を批判し始めました。この学生らは行政庁により退学させられましたが、この事件がきっかけとなって銅山開発問題はブーゲンビルの大きな関心事項になっていきます。
1969年になり、住民たちは銅山の開発によって先祖代々の土地が奪われると抗議行動を繰り広げ、それがオーストラリアのメディアを中心に報道されたことで世界中に知られることになりました。ブーゲンビルは母系社会で、土地の相続権は母親に受け継がれるため、胸がはだけた地元の女性たちは「自分の土地を放棄するなら、このまま子供と一緒にブルドーザーの下で押しつぶされて死んでやる」と警官隊に食って掛かりました。
独立運動に火が付いたのは銅山がきっかけでしたが、1968年9月には大学生の独立運動家レオ・ハネットがサウス・パシフィック・ポスト紙にてこう述べています。
「われわれの歴史的・民族的・人種的・地理的・政治的な結びつきは、ソロモン諸島との間のそれがパプアニューギニアのいかなる部分との結びつきよりも強い。…われわれはパプアニューギニアの同胞との友情を大切にするが、われわれの慣習や信仰は異なっているので、真の民族的な結びつきは成立しえない」
▽レオ・ハネット
銅鉱山の問題はあるにせよ、ブーゲンビルが独立するか、イギリス領ソロモン諸島保護領に加わるかの政治的文脈は充分備わっていたのです。
政党・結社の出現
1968年10月にはパプアニューギニア東岸の都市ラバウルで「メラネシア独立戦線(MIF)」が結成されました。彼らはニューブリテン島、ニューアイルランド島、マヌス島、ブーゲンビル島を統合しパプアニューギニアから独立した「メラネシア連邦」を結成することを目指しました。
MIFではブーゲンビルはあくまでメラネシア連邦の一領域に過ぎませんでしたが、1969年にはブーゲンビルの銅山問題に取り上げるナピダコエ・ナヴィトゥという政治結社が誕生しました。地元の国会議員ポール・ラプンを議長とする結社で、彼らは土地問題を議論し、他の代替地はないのか、仮にキエタの土地を用地とするにしても原住民の経済的権利と社会保全はどうするのか、行政庁とCRAに声明を出しました。しかし行政庁とCRAは少額な補償金を与えるだけで原住民に半強制的に土地を立ち退きさせようとするのみ。その後ナピダコエ・ナヴィトゥは銅鉱山問題の取り上げるも、主要メンバーが個々に政治活動を始めグループの活動が停滞。1972年12月には事実上消滅しました。
3. 独立運動の激化
1972年12月のクリスマス・イブの日、パプアニューギニアのゴロカにて、ブーゲンビルの中でも最高の知識人で人々の尊敬を集めていたルーク・ロビン博士とピーター・モイニが交通事故を起こし、興奮した群衆にリンチにあって殺されるという事件が発生。この事件にブーゲンビルの住民は怒り、独立運動家レオ・ハネットは翌年1月の集会で人々を扇動しパプアニューギニア人とパプアニューギニア自治政府への怒りをかきたてました。
パプアニューギニア自治政府首相マイケル・ソマレは、そんな反抗的なレオ・ハネットをブーゲンビル問題の特別顧問に任命。ハネットはブーゲンビル特別政治委員会(BSPC)の設置を許されます。BSPCではいつでも分離したいときは分離できる権利をブーゲンビルに与えるように要求し自治政府と対立。パプアニューギニア人の激しい憎悪をハネットは受けますが、ソマレは彼を重要ポストに置き続けました。
パプアニューギニア初代首相マイケル・ソマレは人道主義者で、ブーゲンビルの人々の心に寄り添い、一貫して話し合いによる平和的解決を模索します。しかしそんな彼の優しさがブーゲンビル問題の長期化を招いてしまったことも否定できません。
▽パプアニューギニア独立国初代首相マイケル・ソマレ
ブーゲンビル銅鉱山が大儲け
1972年、懸念だったブーゲンビル銅鉱山(BCL)が運用開始になり、関係者の予想を上回る高収益を上げることになりました。BCLはパプアニューギニアの国内総生産の1/3、輸出額の半分を稼ぎ出し、パプアニューギニアにとってまさに「虎の子」になったのです。
この高収益を受けて、ブーゲンビル島民は従来の協定で定められたよりももっと多くの利益を得られるようにすべき、という声が国会議員のポール・ラプン、ジョン・モミス神父らからあがりました。
▽ジョン・モミス神父
パプアニューギニアの国会議員からも、政府とBCLは協定を見直してもっとカネを巻き上げるべき、という声が高まったため、中央政府とBCLとの間で交渉が行われ、1974年に新協定で政府はBCLから約3倍の金額を受け取ることになりました。
しかし、政府が手に入れたこの大幅な増額はブーゲンビル島民に還元されることはなく、中央政府に対する反発が強まり、さらに州政府予算の割り当てでも対立が起こり、パプアニューギニアが独立する1975年9月16日の前に両者の対立は激化していました。
ブーゲンビル独立宣言
1975年9月1日、州都アラワの市場で一人の婦人が「北ソロモン共和国」の旗を掲げ、レオ・ハネットが北ソロモン共和国の独立を一方的に宣言しました。ブーゲンビル島民の86%はこの独立宣言を支持し、事態は緊迫化します。
これに対しマイケル・ソマレは北ソロモン州政府を廃止し、資産凍結を実施し時間をかけてブーゲンビルを干上がらせようとしました。12月から1月にかけてブーゲンビルでは暴力行為が多発し、政府の施設が破壊され空港の滑走路は剥がされ、ソマレは政府内からも軍事オプションをとるべきと圧力を受けました。
しかしソマレはあくまで政治的な解決を目指し、ブーゲンビルを「準国家政府扱い」として認める決定を下しました。こうして政府とブーゲンビルとの間には和解が成立。ブーゲンビルは特例的に政府に近いレベルの権限を持つ「北ソロモン州」として、1975年9月16日にパプアニューギニア独立国の一員として独立を果たしました。
根強い独立の声はあったものの、強硬派のレオ・ハネットがパプアニューギニア議員選挙で落選するなど、独立派の勢いは縮小し、この時から約10年平穏状態が続くことになりました。しかし独立運動は1987年に再度、今度はより過激化して起こることになります。きっかけは再びブーゲンビル銅鉱山(BCL)でした。
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4. 武力闘争への発展
Photo: New Zealand Government/Alex Smailes
ブーゲンビル革命軍(BRA)の結成
1987年の総選挙で、ブーゲンビル地区から出馬していたジョン・モミス神父が「ブーゲンビル銅鉱山(BCL)の総売上高4%を島民に還元すべき」という要求を掲げて選挙戦を戦ったのを機に、再びパプアニューギニア政府のブーゲンビル支配に対する抗議の声が高まることになりました。
抗議が過激化したきっかけは、元BCLの測量技師で自らも鉱区の地主であったフランシス・オナが、自分の土地がBCLによって奪われ環境を破壊されたとして、パプアニューギニア政府に100億キナ(約3100億円)という法外な補償金を要求したこと。
▽フランシス・オナ
オナの声に賛同した連中は約50人にもなり、オナと共にジャングルに入ってゲリラ活動を始めました。彼らはブーゲンビル革命軍(BRA)を名乗り、政府やBCLに対し執拗なテロ行為を繰り広げます。
1988年6月にパプアニューギニア政府は非常事態を宣言し、ブーゲンビル島に国軍と警察を派遣しゲリラの摘発に当たりました。ゲリラの持つ武器は第二次世界大戦で連合軍や日本軍が使っていた武器を含む古くて貧しいものでしたが、深いジャングルと険しい山岳地帯を知り尽くしたゲリラは討伐隊を次々と撃破しました。BRAの破壊活動によってBCLは操業停止に追い込まれ、パプアニューギニア政府は通貨キナの平価を10%切り下げ、政府歳出を削減、金融引き締め、俸給凍結など金融危機に備えざるを得なくなりました。事態の打開を急ぐ政府は大規模な軍を派遣しますが100人以上の犠牲者を出し、撤退を余儀なくされました。
再度の独立宣言
1990年5月17日、BRA最高司令官フランシス・オナはブーゲンビル共和国の独立を一方的に宣言。自らその大統領に就くとしました。
しかしブーゲンビルはBCLの操業停止、パプアニューギニア政府の資産凍結、サービスや援助の停止によって急激に生活水準が悪化。食料・医療・燃料が不足し、BCL操業以来新たにやってきた人々は次々とパプアニューギニア本土に逃げ出していきました。
ブーゲンビル暫定政権もさすがに参り、1990年7月にニュージーランド政府の仲介でパプアニューギニア代表マイケル・ソマレ外相との間で和平会談が開かれました。
この和平会談では、低下したブーゲンビルの生活水準を回復するための各種サービスの再開を目指す合意がなされました。しかし食料や医療品、燃料など生活物資が届けるための軍隊と警察の上陸をブーゲンビル側が拒否し、再び合意は暗礁に乗り上げました。ブーゲンビル側はブーゲンビルに駐屯するのはより中立な多国籍軍であるべきと訴えました。
5. 和平プロセスの停滞
1991年1月24日に完全な復興を目指すための合意宣言「ホニアラ・レコード」が署名されました。この合意では復興を推進するために必要な治安回復は「中立的な多国籍軍」の配備がなされるという約束がなされました。
合意の成立後、ソマレ外相は積極的に外国に多国籍軍の結成を呼び掛けますがうまくいきません。ニュージーランドには拒否され、オーストラリアは許諾するもブーゲンビルがこれを拒否。結局多国籍軍の編成をパプアニューギニア政府は諦めざるを得なくなります。
BRAにも問題がありました。彼らは多国籍軍の駐留は認めると言っていたものの、フランシス・オナが平和維持軍編成についての会議への出席を拒否するなど、方針も曖昧でコロコロ変わる始末。まったく和平プロセスが進まないのです。
結局ホニアラ・レコードで合意された取り決めの多くは実行されず、第三次平和会談も開催されないまま、BRAの抵抗活動も継続されました。
再度の和平プロセスの失敗
1992年のパプアニューギニアの選挙では、対ブーゲンビル強硬派のパイアス・ウェンティが勝利し首相に就任。ウェンティは事態の打開のために国軍を大量に投入し、ブーゲンビルの州都アラワを占領し、ブーゲンビル銅鉱山の解放にも成功します。ハト派の外相ジュリアス・チャンはこれを機に多国籍軍をブーゲンビルに向かい入れようとしますが、ウェンティはこれを拒否。再びBRAのゲリラ活動が活発化し泥沼化に入ろうとしたところで、ウェンティ政権が崩壊し、ハト派のチャンが首相に就任します。
▽ジュリアス・チャン
チャンは多国籍軍の受け入れを前提にブーゲンビル側と和平の打診をし、パプアニューギニアの支援でブーゲンビルの復興を進め、同時にブーゲンビル暫定政府(BTG)を設立するプロセスをスタートさせました。しかしBTGの頑なな態度に加え、BRA強硬派のテロ活動は続き、ハト派のチャンですら和平プロセスを放棄。1996年3月に国軍をブーゲンビル島に上陸させました。
直ちに国連人権委員会やアムネスティ、オーストラリア政府、ニュージーランド政府など国際社会からの圧力が高まり、政府は軍を撤兵せざるを得なくなりました。
そこでチャンは秘密裡にブーゲンビルの治安回復をロンドンに拠点がある民間軍事会社サンドライン・インターナショナルに委託しました。民間軍事会社の兵士主体のパプアニューギニア軍は再びブーゲンビルに侵攻。しかしBRAの抵抗にあって多くの兵士が死亡し作戦は停滞。しかもオーストラリアの新聞にパプアニューギニア政府が民間軍事会社を雇っていることがリークされ大問題となり、チャンは首相辞任を余儀なくされました。
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6. 紛争の終了と自治政府成立へ
チャン辞任後、パプアニューギニアの新首相にはビル・スケートが就任。スケート政権の下で1997年から和平プロセスが再開され、休戦と島の非武装化、パプアニューギニア政府による復興の推進の合意がなされました。
パプアニューギニア軍は順次撤退し、ニュージーランド軍を主力に、オーストラリア、フィジー、バヌアツの支援を受けた停戦監視グループ(TMG)がブーゲンビルに配備されました。
ブーゲンビル自治州の成立と独立投票の実施
その後政治的枠組みの交渉がなされ、ジョン・モミス神父を知事とするブーゲンビル州政府が1999年1月に設立されました。以前のような準国家のような位置づけではなく、パプアニューギニアの他の18の州と同じ地位とされました。しかしこれは BRA・BTG両方からの反対にあって中断されます。
議会での調整を図った後、1999年11月にジョン・モミス神父が率いるブーゲンビル暫定州政府が設立され、2000年初頭に部族レベルでの調整が始まりました。最終的に2001年に和平合意に達し、自治権のあるブーゲンビル自治州(ABG)の創設へのロードマップに至りました。この合意ではパプアニューギニアからの独立に関する国民投票の約束を含んでいました。こうしてブーゲンビル紛争は終結。ブーゲンビル自治州は2005年6月15日に成立しました。
一連の戦争は第二次世界大戦以降オセアニアで最大の犠牲者を出した紛争になりました。オーストラリア政府によると、ブーゲンビル紛争で15,000〜20,000人が死亡した可能性があるそうです。詳しくは分かっていませんが、少なくとも戦闘による死亡者数は1,000〜2,000人に上るそうです。
一方で強硬派のフランシス・オナはいかなる和平プロセスも拒否。BRAの少数の兵を引き連れて銅鉱山のエリアの占拠し続けました。彼は2005年には自ら「ブーゲンビル国王」であると宣言しますが、そのすぐあとにマラリアで死亡しました。BRAのトップであるオナの死亡で勢力は低下していくことになります。
BRAが占領していたブーゲンビル銅鉱山もブーゲンビル自治政府の管理下に置かれ、2015年3月に成立したブーゲンビル鉱業法で州は鉱業の管理権を与えられました。ただし、2020年1月現在もパングナ銅鉱山は閉鎖されたままです。
自治州成立時に認められた住民投票は2019年11月23日から12月7日に開催されました。パプアニューギニア内のより大きな自治か、完全な独立かという選択でしたが、98.31%が完全独立を支持しました。しかし投票には和平協定に基づき法的拘束力がなく、独立できるかどうかの最終決定権はパプアニューギニア政府が持っています。
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まとめ
かなり長くなりましたが、これでもかなり情報を省略しました。もっと詳しく知りたい方は参考文献・サイトをご覧いただければと思います。
2019年12月にブーゲンビルの独立投票が実施された時、世界の関心事項は「果たして新たな独立国が生まれるだろうか」というところに集まったのですが、今回ブーゲンビルの歴史をまとめてみて思ったのが、これは世界の関心を集めるため、引いては自分たちに有利な政治的状況を作り出すためのPRに過ぎない、ということです。
最終的には独立を果たすことができて、銅鉱山に出資する会社が現れて生産を開始できればそれに越したことはありませんが、両方叶えるのが難しいのはこれまでの歴史が証明している。
であれば少なくとも、自分たちに有利な条件で銅鉱山を再開業することをパプアニューギニア政府に認めさせるか、世界の世論を味方につけてパプアニューギニア政府に以前の準国家レベルの高度な自治を認めさせる方向に持っていきたい。
しかし世界情勢が緊迫化する中、人道的観点と銅鉱山の魅力だけで、揉めに揉めたオセアニアの小国に国際社会がどの程度関心を持ってもらえるか。非常に心もとない気がします。
参考文献・サイト
ブーゲンヴィル紛争の考察ー銅の政治学ー(上) 西野照太郎 太平洋学会誌 1991年7月 第51号
ブーゲンヴィル紛争の考察ー銅の政治学ー(中) 西野照太郎 太平洋学会誌 1991年10月 第52号
ブーゲンヴィル紛争の考察ー銅の政治学の時代終わるー(下)西野照太郎 太平洋学会誌 1992年1月 第53号