2020年01月28日

nasukun ぺらさの中にあるものは

● ぺらさの本体
● 「正しさ」の追求と「正しい私」のそれは違うんだよ

nasukun その主張はぺらいっすよ ★追記あり
http://lttlleo.seesaa.net/article/473281540.html

● ぺらさの本体

一言でいうと自己愛。
それが保身、偽善、マウント、驕り、として表れたのが一連のツイートだと思う。



私はキリスト教徒だが、
欧米人のキリスト教徒がしばしば批判されるような傲慢を
私はもっていない。

私はキリスト教徒だが、
異教徒の信仰を尊重し、介入しない弁えを備えた、
正しい信仰者であり、正しい人間だ。

nasukunの本心はこれでしょ。
そのまま言えばいいのに。

私はキリスト教徒だが、を二回とも書いたのはそうする意味がある。

「我こそが善、我こそが正義、異教は邪教、遅れた人々を導き救う、驕り高ぶった偽善者」
のイメージがキリスト教徒に対して程度はともかくあるのは事実。
そのイメージは歴史の事実と発言と直接対話の体感もろもろから成るもので、
偏見と決めつけるならそれが偏見。

それで、nasukunがそのイメージを持たれたくないがために、
欧米人のキリスト教徒を「傲慢」と断定しての「私は違う」の、
【自分をアゲるために他人を勝手に貶める】の典型。

欧米人のキリスト教徒に傲慢がないという話ではなくて、
キリスト教がそもそも傲慢を切り離せない成り立ちをしているのであって、
ゆえにその信仰で「善意の傲慢」に陥ることは当たり前にあるわけ。
個人の感想として言わせてもらえば、
キリスト教そのものがものすごく恩着せがましいと思うわ。

nasukunについて要約すると、
「内への正しさ(信仰の篤い、正しい信者)」
「外への正しさ(信者の瑕疵で非難されることのない、社会の一員)」
を両立したいがために、

欧米人のキリスト教徒にマウントの傲慢をかまし、
イスラム教および信仰を尊重する体で「そこにある女性差別を尊重」し、

それまでの他の正しいと思われた主張もろもろでできたnasukun像がばかっと割れて、

【「正しい私」像、材料自己愛】

が残りました、が今ココなわけ。

● 「正しさ」の追求と「正しい私」のそれは違うんだよ

自分もかなり「正しさ」にこだわるよ。
下手すると「正しさこそが絶対価値の、正しさ教」に陥るかも、
という自覚はいつもあるよ。

実際は「正しさ」を最初から求めているというよりは、
「核心」をつかみたい、というのが主な動機。
核心をつかめたら、結果としてそれは正しいだろうねというあたり。

それで、自分の関心は「物事の核心(+結果としての正しさ)」に向いていて、
「正しい私として見られたい」はゼロとは言わないが本体ではない。

不当な判定をされたら抗議するが、
その不当とは、自分は事実を精査して考察し言語化している、
そのプロセスを主観だの承認欲だの私怨だの等々に捻じ曲げられることで、
論に論をぶつけるなら全然かまわない。
自分は議論を歓迎している。

「正しさ」と「正しい私」の違いは他のことでも同様。

「新星を発見したい」と
「新星を発見し脚光を浴び命名者として名を残したい」の違い。

「新星」への関心と
「新星を発見した未来の自分」への関心。

前者は「星への関心」からぶれない。
後者は「自分への関心=自己愛、その道具が星」だから「別の道具」で置き換え可能。

「正しいことを言っているようで、これか」とがっかりするのは、後者にあたった時ね。

それがリべチンであり、春鳥であり、nasukunであり。


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posted by Erin at 02:00| Comment(0) | フェミニズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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