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1944年、日本軍からフィリピンを奪還するための激戦の最中、レイテ島にあえて徒歩で上陸するマッカーサー。こうして彼は、バターン半島からの撤退後にフィリピン国民に向けて誓った「わたしは戻ってくる(I shall return)」という言葉を守った。(HOLLYWOOD ARCHIVE/AGE FOTOSTOCK)
ダグラス・マッカーサーは、実に多くの顔を持った人物だった。それは彼の経歴によく現れている。第一次世界大戦には最年少の戦闘司令官として参加し、フランスでの戦功によって、米陸軍の名誉勲章の次位となる殊勲十字章2つと銀星章7つを受勲した。その後、最年少で陸軍士官学校の校長に、米軍の参謀総長にも最年少で就任している。その武勇と軍への奉仕により、マッカーサーは米国史上、4人しかいない「5つ星元帥」の一人となった。 (参考記事:「発足から100年、国際連盟は「最初から失敗の運命」」)
マッカーサーの人となりについては毀誉褒貶(きよほうへん)がある。献身的、革新的、礼儀正しい、チャーミング、聡明、大胆といった肯定的な言葉もあれば、傲慢、変わり者、気難しい、派手好き、横柄と表現されることもあった。この評価は、軍でもプライベートでも変わらなかった。
マッカーサーは軍人でありながら、人を殺すことを嫌っていた。戦闘では一切の手加減をしなかったが、部下の安全を守ることに関しては手を尽くしたことが知られている。人をまとめる才があり、仲裁人としても有能という評もある。まさに占領下の日本での、マッカーサーの働きがそうだ。
優れた陸軍工兵として語られることが多いマッカーサーだが、古代史、近代史、経済学、地政学、文学、聖書に関する造詣も深かった。時間のある夜には、決まって映画を見に行った。また奇妙な習慣を持っていたことも伝えられている。なんと、壮絶なニューギニア戦の最中に、密林に設置された即席の司令部をピンクのキモノを着て歩き回り、トレードマークのコーンパイプをふかした、山ほどレタスを届けさせては丸ごとかじりついていたというのだ。
このように、マッカーサーは一言では語れない人物だ。生い立ちを知れば、彼の多面性を説明するヒントが見つかる。
生まれながらの軍人
ダグラス・マッカーサーは、1880年、米アーカンソー州フォートドッジに生まれた。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニアは、南北戦争で栄誉章を受章した陸軍大尉。生涯軍人であり続けようとした人で、マッカーサーも幼少期の大半を、西部各地にある陸軍基地で過ごした。異動のたびに、より辺境にある基地を移ったようだ。
マッカーサーの幼いころの記憶は、メキシコ国境にあるフォートセルデンで、アパッチ族の一団が壁の向こうから火矢を放つところを見たことだという。また彼は、読み書きを覚えるよりも前に、乗馬と射撃を覚えた。記憶に残る一番古い音は、駐屯地で鳴るラッパだという。暑さ、寒さ、埃、ときおり訪れる嵐や鉄砲水、ガラガラヘビ、ドクトカゲなど、普通の人なら、辟易するような環境のなか、幼いマッカーサーは生き生きと日々を送っていた。













