伊集院光とNHKアナウンサーの安倍みちこが司会を務める『100分de名著』にて、作家の小野正嗣を指南役に迎えて、大江健三郎の『燃え上がる緑の木』が取り上げられた。大江健三郎にハマり始めて最初に読んだ時は理解できなかった作品であったが、せっかくだからと、この放送に合わせて一カ月かけてゆっくりと再読してみたら、とてつもなく面白い小説だったということに気付かされたし、良い読書体験を得ることが出来た。
大江健三郎の小説は、デビューしたころはソリッドで濃密な文体で、今読んでもとてもカッコいいのだが、後期は特に、伊集院が「大江先生の本は何かとこう話題になるたびに手には取るんですけど、難しいって挫折してきて、唯一ね『「自分の木の下」で』っていう本だけは割と分かりやすく書いてて、40歳手前くらいのときに多分読んでこれ俺にも読めたと思ったら、先生が小学生向けに書いた本だって言って」と笑いを誘っていたように、例えば、登場人物の名前や紹介が不十分であったり、大江の長男の光が頭部に障碍を持って生まれたということが前提としているなど、予備知識を持っていないと分からないところがあって、ハイコンテクストとまではいかないが、親切な小説ではないことは確かである。
なかでも作中に点在する、大江が読んできたのであろう世界文学の作品が引用について、その意味を理解できずにいたのだが、「第二回 世界文学の水脈とつながる」ではまさにそのことが取り上げられていた。
NHKテキストによると、「大江文学の特徴は、つねに他の文学作品や芸術作品との関係において小説が書かれていることです。別の言い方をすれば、大江健三郎の小説には、他の文学作品という対話者がいて初めて成り立つようなところがあるのです。対話するためには、相手の言葉が必要ですから、どうしてもそうした作品の一節や言葉が、作中に引用されることになります。」とある。さらに、自分が書いた、または書いたが完成しなかった小説までが出てくるが、これは『燃え上がる緑の木』に限らないので、手に取る順番を間違えると、難しい小説と感じてしまうだろう。
『燃え上がる緑の木』も、タイトルからしてアイルランドの詩人のウィリアム・バトラー・イェイツの詩から着想を得られたものであるように、ルーマニア出身の宗教学者のミルチャ・エリアーデ、ドイツの作曲家のワーグナー、フランスの哲学者のシモーヌ・ヴェイユ、ロシアの文豪のドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、谷内原忠雄『アウグスチヌス「告白」講義』などが全体を通して登場し、物語に大なり小なり作用する。
番組では特に『カラマーゾフの兄弟』とヴェィユに焦点が当てられた。
小野は、大江が大好きな作品であるということはもとより、虐げられた子供の物語とも読み説くことが出来る『カラマーゾフの兄弟』の中の、病気のイリューシャを主人公であるアリョーシャが慰めるシーンと、『燃え上がる緑の木』の病気のカジ少年をギー兄さんが慰めるシーンと重なるものであると指摘する。また、大江が子供というものにひきつけられる理由について「大江さんには頭部に障害を持って生まれた光さんっていう息子さんとの共生、共に生きるってことが、大江さんのその文学のほんとうの、ほんとうのその柱なんですね。だから大江さんのお子さんが産まれてから、あらゆる作品に子供の問題ってのは描き込まれていると。」と話す。
そして、その息子の名前である光は、ヴェイユが、「闇夜の世界でカラスが光がほしいと願うと光が生まれた」というエスキモーの話を論じた事に因んで、名づけられたものだという。裏話として、その時に母親に、カラスと名づけようかなと言ったら、怒られたという可愛らしいユーモラスなエピソードもある。
NHKアナウンサーの安倍みちこは、叱られそうですけど、と前置きしたうえで「ゼロから産み出だすのと、引用してこう持ってくるのだと、引用して持ってくるほうが楽なのかと思ったんですよ。」と話すと、伊集院も、「思うよね。最初はね。でもこの使い方はちょっと異質ですよね。」と頷きながらも、小野に尋ねる。小野はそれに「これだけ膨大な世界文学があるんですよ。その中からどれをどのように引用するかということ自体が、もうそれこそがクリエーションですよね。しかもね、引用ってのは、他者を受けいれる作法なんです。それはね、ほんとに、他の詩人たちの言葉も大江さんの作品の中に受け入れられて、そこで出会い、そこである種、対話していって、新しい言葉の世界が生み出されていく。」と答え、大江作品における世界文学の引用という行為の意味と効果について解説する。
伊集院は、「いやなんか、自分の魂について考える。そのよすがになってくれた文学作品の自分を助けてくれたところをまとめたら福音書になるんだっていうことですもんね。自分のその息子さんとの関係、関係の中で生じた魂への疑問みたいなものを、ありとあらゆるものを読んで、それがどんどん解決に向かわせてくれたんでしょうね。」と続ける。それを聞いた小野は、「いや、伊集院さんの方が、僕なんかよりはるかに深く読まれてると思います。つまりやっぱ、自分の魂の問題っていうか、疑問を、世界中の詩人や文学者に投げかけているんだと思いますね。」と話す。
そして小野は、この回の最後に、大江文学のなかにおいての本という存在について、「読書って何かっていうと、人は苦しい時やつらい時に必要としているところにジャストミートするんだ、出会うんだっていう話を大江さんはされていて、なにか僕は大江さんにとっては、読書自体がね、得祈りをささげることに似てるんじゃないかっていつも思うんですよ。注意力を傾けて、自分の持てる注意力を傾けて、他者の文章っていうものに触れていくと。まさにね、注意力っていうのは、その祈りの純粋な形だっていうヴェイユは、そういうことも言っているんですけれども、なにか自分の目の前にある、あるいはこう自分の考えている対象に向かって意を注ぐ。で、そう言われてみれば『燃え上がる緑の木』の教会の祈りって何ですか。集中です。集中するってなにかって言うと、注意を、注意力を何かに注ぐっていうことじゃないですか。で、これってまさに、ヴェイユの言っている、その集中力っていうものが、その祈りであるっていうことと響きあっていると僕は、思うんですけど。」とまとめる。
大江の手法は、現代的にいえばサンプリングだが、『100分de名著』が放送されている一カ月の間に、同じようにサンプリングを多用する手法を得意とするクエンティン・タランティーノ監督作品の『Once Upon a Time in…Hollywood』を観てきた。
1969年のハリウッドを舞台とした、レオナルド・ディカプリオ演じる俳優のリック・ダルトンと、ブラッド・ピット演じるその専属スタントマンのクリフ・ブースらを描いた『Once Upon a Time in…Hollywood』は、タランティーノ作品のなかでは、『ユリイカ2019年9月号 特集=クエンティン・タランティーノ』にはタイトルの「…」がinの前か後かという文章が載るほどに情報量が多い映画であることは間違いないのだが、やはりこれまでのタランティーノ作品と比べる構造が凝られているわけでもなく、途中に緊迫感があるパートがありはするものの、全体の印象としては、だらっとしたチルな空気が流れている。
ただそれは、とても心地良いもので、特にそれが集約されたような、クリフのトレーラーハウスでの生活を描いた場面などはたまらなく素晴らしい。タランティーノは、少なくとも映画を取ることは10作でやめると公言していて、今作が9作目にナンバリングされるわけだが、そんな作品で、いつも以上にサンプリングとパロディを盛り込んでて、それが本当に楽しんで造っていることが伝わってきて、それもまたとても良かったというように、いくらでも語りたくなるようなところはあるが、何よりタランティーノは街並みを再現することにこだわったようで、『アルコ&ピース D.C.GAREGE(2019.9.4)』では、平子が「CG無いらしいですけども、ロスのあの頃の埃っぽさすら伝わってくるような光景だったんですが、こだわりってどうなんですかって聞いたら、たぶん、いっちばん聞いてくれたってとこなんだろうね。俺のことでっけぇ手で指差して、ユゥーッてまず言ってきて、びくぅってして、めちゃくちゃがなってきて、あ、殺されるぅと思ったら、よくぞ聞いてくれたの質問だったんだね。そっからばーって喋ってさぁ」と、タランティーノにインタビューした時の裏話を話していた。
この作品の中で、タランティーノは偽史を作り上げた。それ自体は、『イングロリアス・バスターズ』でもなされているのだが、今作品での結末は、そのことに少し遅れて気がついた瞬間に得も言われぬ感情が心に広がり、理屈を飛び越えた、震えるほどの感動が押し寄せてきた。見終わった帰り道、「これは・・・・・・。これは・・・・・・。」とぶつぶつつぶやきながら、少し肌寒くなった夜空の下を原付バイクを走らせていた。
サンプリングということから、いとうせいこうのダブポエトリーも連想した。
TBSラジオの『アフター6ジャンクション(2019.8.5)』に出演したいとうはダブポエトリーのことを「80年代くらいか、70年代くらいか、ジャマイカで産まれました。自分達が録音したトラックを、ダブエンジニア、まあ、つまりエンジニアの人が最終的にレコードにする際に、えー、まあ、ボーカルをオンにしたり、まぁ、あるいは、ベースを抜いてしまったり、時には、というように色んな事をやるように、つまり技術者が音楽に関わるっていう革命を起こした。だいたいは、低音と高温をものすごく強調するような音楽で、まあそれが各地にダンスミュージックにものすごく影響を与えて、みんながダブサウンドっていうのをやるようになりました。で、ヒップホップもそれに僕は近いと思っていて、要するにDJっていう非音楽家が音楽をやるという意味ではダブと、ダブも、実はヒップホップもジャマイカ系移民が、あのまあ、やったと言われているんですけども。えー、何故かジャマイカから20世紀後半にふたつの非音楽的な音楽が産まれた。で、これをやっぱり僕は、ずっとやりたくて89年にヒップホップをずっとやってたけど、なんか音楽とまぐわえないと思っちゃって。フリースタイルも無かったからまだ。その頃は。で、僕は一回辞めちゃうんですけど。ラップを。それでその90年代ずっと何やってたかっていうと、いろんなDJ達と、この自分の詩を次々読んで、アドリブで読んで、それにダブをかけてもらうっていう。それがやっぱり、意味と、意味でこっちはセッションする。音楽をやっている人達は意味じゃない音を出してるんだけど、それが意味に聞こえる時がある。で、これがやっぱり音楽の醍醐味なんじゃないかっていう風に思って。意味で踊ってもらう。」と説明する。
それから、スタジオで披露されたライブパフォーマンスは、いとうせいこうが、バンドが演奏しているレゲェ風の音楽に乗せて、田中正造の言葉を読み上げる。
「真の文明は山を荒さず。川を荒さず。村を破らず。人を殺さざるべし。人は万物中に生育せるものなり。人類のみと思うは、誤りなり。いわんや、我ひとりと思うは誤りの大いなるものなり。人は万事、万物の中にいるものにて、人の尊きは万事万物に背き損なわず。元気正しく、孤立せざるにあり。明治44年5月14日。田中正造is the poet」
さらに、九鬼周造、ナナオサカキ、与謝蕪村が読みあげられていく。
百年以上前のテキストを、現代人のいとうせいこうが令和元年に、日本の真裏で産まれた音楽に乗せて読みあげることで、過去と現代、さらには国境までもがぐちゃぐちゃになって混ざり合って、クリティカルでそのランダムさも含めて再解釈できる瑞々しいものとして息を吹き返して再度接続し、新たな文脈となり未来へと繋がっていく。
タランティーノはインタビューで、「一年半前にシャロン・テートの名前が話題に出たら、20世紀におきたなかでももっともひどい殺人事件の犠牲者として思い浮かべるだろう。俺は彼女が生きていた姿を見せたかったし、彼女をひとりの人間として描きたかった」と述べているのを見て、こういうことか!と、心が震えた理由を、追って理解することが出来た。きっと、映画が好きな人は、シャロン・テートの名前が出たら、『Once Upon a Time in…Hollywood』を思い浮かべるはずであり、その意味だけでも、タランティーノの手によってシャロン・テートは現代に再び接続することができたわけである。そしてそれは『燃え上がる緑の木』のカジ少年のエピソードや、大江健三郎が描いてきた、死んだら森の中に生えている自分の木の根っこに戻って再び生まれ変わるという話をはじめとした死と再生の物語と共鳴する。
『100分de名著』の第4回の最後に、大江健三郎が今まさに『燃え上がる緑の木』の最後の文章であり、「喜びを抱け!」という意味を持つ英単語の「Rejoice!」を書いて執筆を終える瞬間という貴重な映像が流された。
そこで大江は、「障碍のある子供に父親が死ぬということを教えることをどうするかということは、まあ、僕にとっては非常に大きな問題です。子供に自分が死ぬということを君は恐れることはない。自分が新しく生まれ直してくることがあるかもしれない。その時には君と一緒にあるということをね、言いたいという気持ちは持っているわけですよ。」と語るが、もう泣けて泣けてしょうがなかった。
大江健三郎が『燃え上がる緑の木』を当時、自らの集大成として執筆し、最後の小説と位置付けていたというが、そんな作品が、こんなに希望に満ちた言葉で締められるわけである。
ここまできて、ようやく、サンプリングという手法が持つ効果や役割をつかめたような気がした。
そもそも、ここまでの文章、および、これまでブログ「石をつかんで潜め」にアップしてきた記事は、お笑い批評という性質によるものが多いが、基本的にはサンプリングである。選んだわけではなくて、辿りついたという表現がしっくり来る。そもそも「石をつかんで潜め」というタイトルも、大江の『芽むしり仔撃ち』の最後にある「僕は自分の嗚咽の声を弱めるために、犬のように口を開いてあえいだ。僕は暗い夜の空気をとおして、村人たちの襲撃を見はり、そして凍えたこぶしには石のかたまりをつかんで闘いにそなえていた。」からつけているように、図らずも、大江健三郎の模倣だったわけである。
『燃え上がる緑の木』は、主人公のサッチャンが、K伯父さんから「この物語を書くよう勧めてくれた」から書いたというていが取られている。その時に、サッチャンはK伯父さんからこうアドバイスを受けたと書かれている。
「あったことをそのまま正確に復元しようと、神経質になることはない。それよりもね、こういうことがあったと、サッチャンの言いはりたいことを中心に書いてゆくのがいい。ありふれた本当らしさの物語ではないんだし、とにかくこのような物語を生きたと、きみが言いはり続けるのが書き方のコツだ。」
文章を書いている人間にとってなんと勇気がわき出る言葉だろうか。
意識的にせよ、無意識的にせよ、分断を進める人間の声が大きい時代に抗うための武器としてサンプリングという手法を用いて、好きなものと好きなもの、好きなものと嫌いなもの、嫌いなものと嫌いなものを接続させるための文章を誠実さを失うことなく、決意が出来た。そしてそれこそが、今の自分にとっての魂のことをするということなのかもしれない。