『キャッツ』そのものに“罪”はない。監督の力量不足こそすべての元凶だ:映画レヴュー

ミュージカルに基づく映画『キャッツ』が米国では酷評されている。これを映画評論家の特殊な言葉で表現すれば、本来なら丁寧につくられた「いい作品」である。そのはずが、監督の力量不足によって台なしにされている──。映画批評家のリチャード・ブロディによる辛辣なレヴュー。

Cats

『キャッツ』のダンスシーン。バレエダンサーのフランチェスカ・ヘイワードとロビー・フェアチャイルドを起用したが、スケールや立体感、身体性といったものはまったく感じられない。©UNIVERSAL PICTURES/EVERETT COLLECTION/AMANAIMAGES

映画やドラマのレヴュー記事にはネタバレにつながる描写が含まれていることがあります。十分にご注意ください

映画『キャッツ』を、われわれ映画評論家の特殊な言葉で表現するなら、かなり「いい作品」である。必要な要素を集めて注意深く取捨選択し、丁寧につくられた映画で、出演者は旬の役者から怪優、ヴェテランまで幅広く揃っている。アンドリュー・ロイド=ウェバーの音楽はキャッチーで変化に富み、T.S.エリオットの詩を下敷きにした歌詞も独創的だ。アンディ・ブランケンビューラーの振り付けはエネルギッシュであると同時に緻密で、空間の広がりを感じさせる。

あらすじはしっかりとした弧を描いて感情に訴えかけるし、世界で最も成功したミュージカル作品の映画化という強みもある。CGIを使って人間をネコにしてみせているのだが、嬉しい驚きを感じさせてくれる。

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俳優たちは、しっぽのついたネコの毛皮のデジタルコスチュームをまとい、頭の上には耳が生えている。出来は決して悪くない。超大作には必ずロボットや超人が登場するこの時代にあって、『キャッツ』の空想的な要求は楽しいし、理不尽なものではないだろう。

スーパーヒーローものや人気のSFシリーズで使われているものすごいCGIとは違って、この映画におけるネコと人間の融合体をつくり出したデジタルの魔法はユニークで、興味をそそられる。そこには独自の力と特殊性があるからだ。

ミュージカルとしての「キャッツ」を構成する要素が、この映画をほかの作品から際立たせている。それは、これがエリオットの詩から得られるインスピレーションに忠実に従った、目のくらむような喜びと忘れがたい深遠さに満ちた寓話的なファンタジーだからかもしれない。

トム・フーバーの“失敗”

その一方で、すべてのシーンに何かが欠けているように感じられてしまう。

ダンスは全体像が見えないし、パフォーマンスはぼんやりしている。そして、原作の寓意的な部分は完全に間違った処理が施された。この映画は監督業における実地教育なようなもので、一定のリスクを伴うのだ。

ミュージカルの映画化(特に歌やダンスを映像化すること)は、映画監督にとって最も厳しい試験である。なぜなら、ミュージカルをつくり上げるという作業は、幾何学的抽象と叙情的な想像力を組み合わせた建築に似ているからだ。そこでは科学と芸術を融合させるとが求められる。

この意味では、監督のトム・フーパーに期待することはできないだろう。フーパーはこれまで、退屈で感情移入できない作品をつくり続けてきた。無感動(『くたばれ! ユナイテッド ーサッカー万歳!ー』)からスタイルのなさ(『英国王のスピーチ』)に転じ、その後は悪趣味(『レ・ミゼラブル』『リリーのすべて』)といった具合だ。

映画製作者は一般的に、キャリアの途中で何らかのひらめきを得ることがある。フーパーが『キャッツ』で示したデジタルの大胆な活用法は、彼の新しい方向性となる可能性を秘めていた。だが制作段階に入ると、フーパーはダンスを撮影する上で“プロフェッショル”な方法を選択してしまった。

つまり、自分が観客なら何を見たいかという好奇心はすべて無視して、逆に観客は自分に何を撮ってほしいと思っているかに集中したのである。こうして、自分が経験していないものを観客に提供しようとする映像が出来上がった。出演者たちが素晴らしい演技をしているだけに、この失敗は余計に残念だ。

登場するさまざまなネコ

シャイで美しい白ネコのヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)は、高級車から外に飛び出して裏道に迷い込み、「ジェリクルキャッツ」と名乗るネコの集団と出会う。彼らは「ジェリクル舞踏会」という祭りの準備を進めている。

ここでは長老ネコのオールドデュトロノミー(ジュディ・デンチ)が、新しい人生を始めることのできるネコを1匹だけ選ぶのだ。選ばれたネコは、生まれ変わる前段階として「ヘヴィサイド層」と呼ばれる天上世界に昇っていくという。

物語にはさまざまなネコが登場するが、なかでも記憶に残るのがマキャヴィティ(イドリス・エルバ)とグリザベラ(ジェニファー・ハドソン)だ。お尋ね者のマキャヴィティは恐ろしい力をもっており、舞踏会で選ばれるために策を巡らせる。一方、かつては美しかったがいまは年老いたグリザベラは、仲間から追放された過去をもつ。

ほかにも、ネズミとゴキブリを合唱の仲間にするという才能を披露するグラマラスな飼いネコ、ジェニエドッツ(レベル・ウィルソン)がいる。フーパーは、バスビー・バークレーにならったかのようなカメラワーク(足の間を抜けていくトラッキングショット、輪になったダンサーたちを真上から捉える構図)で、これらのネコたちを捉えていく。

かき消されたエネルギー

ただ、こうした映像を見ても感じるのは、フーパーはバークレーの映画を知っているということだけだ。バークレーのまねをするのは簡単だが、そのセンスを実際に習得するには非常に難しい映画監督で、彼の映像の素晴らしさはそう簡単に再現できるものではない。

イアン・マッケラン演じる劇場ネコのガスは、壮大で優雅な物腰とノスタルジックな雰囲気で、役者だった過去の栄光を彷彿とさせる。陽気な快楽主義者でグルメの貴族ネコ、バストファージョーンズ役のジェームズ・コーデンは、はったりばかりだが実に元気だ(最後は不幸なことになるのだが、それまでは誘惑に屈することになる)。

知性と気品に溢れて崇高な空気をまとったデンチは、まさに長老ネコそのものだ。マキャヴィティ役のエルバは荒ぶる力を見せてくれる。ロイヤル・バレエ団のプリンシパルであるヘイワードのおかげで、美しいヴィクトリアには行動力と好奇心が備わった。そして、ハドソンの熱のこもった演技はオペラ的ですらあり、沈黙のなかにあっても強く訴えかけてくる。

キャストたちは素晴らしい芝居をしたが、フーパーの技量のなさのために、それが十分に生かされていない。クローズアップはほとんどなく、出演者たちはただ歌うためだけにそこに立っているかのようだ。カメラは映画特有の親密な感覚を生み出すほど対象に近づくことはないし、一方で少し離れたところから観察できるように遠ざかることもない。

何よりも、出演者たちのエネルギーがかき消されてしまっている。ダンスシーンではスケールや立体感、身体性といったものはまったく感じられない。カメラが捉えるのはダンスではなく、ただの“踊っているような印象”であり、ブランケンビューラーの振り付けとダンサーたちの魂を揺さぶるような動きは、薄っぺらなフィルムに焼き付けられて矮小化されてしまっている。

無神経なキャスティング

感性とセンスの欠如に起因するこの基本的なミスは、フーパーが犯した視覚的な失敗全体の一部に過ぎない。フーパーは端的に言って自分のやっていることがきちんと見えていないのだが、彼の“視覚障害”のおかげでキャスティングから奇妙なメタファーが生まれたのだ。

出演者を選ぶに当たって多様性に配慮したことは賞賛されるべきだが、フーパーは寛容に表現しても色覚異常としか思えない方向に向かって突っ走っていく。ここで、物語をふたつのナラティヴから眺めてみよう。

まずは、麻薬取引にまで手を染めた恐るべき犯罪者のマキャヴィティ(テイラー・スイフト演じる手下のボンバルディーナに「またたび」を配らせている)を演じるのは、黒人男性だ。次に、白人女性が貧しさの美徳に気づき、黒人女性が演じるグリザベラはその苦悩と仲間から除け者にされる悲しみを歌に昇華させる(ついでに長老ネコのオールドデュトロノミーは、ネコたちをそれぞれの“魂”に基づいて評価していると発言している)。

さらにヴィクトリアは、ミュージカルでは「白ネコのヴィクトリア」と呼ばれているのだが、フーパーはこのためにアフリカ系のヘイワードに白い毛皮を被せるだけでなく、白塗りのメイクをさせた。こんなことは完全に無意味だし、何より無責任だろう。

きれいな魂をもつ黒人は仲間に入れて讃えるが、危険な黒人は追い出すコミュニティというアレゴリーは、キャスティング(それと信じられないほど見当違いなメイク)の結果として出来上がったものだ。これはウェバーの頭のなかにあったアイデアとはまったく無関係なことはもちろんだが、わたしはフーパー自身ですら予想もしていなかったのではないかと思っている。

キャスティングには特別な意図があったわけではなく、ダンスの方向性とアクションの枠組みで考えられたのだろう。要するに、無神経のひと言に尽きる。フーパーは映画のファンタジーという側面を見落としただけでなく、現実を見極めることもできなかったのだ。

リチャード・ブロディ|RICHARD BRODY
映画批評家。1999年から『ニューヨーカー』に映画のレヴューなどを寄稿。特にフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ウェス・アンダーソンに詳しい。著書に『Everything Is Cinema: The Working Life of Jean-Luc Godard』など。

※『WIRED』による映画レヴュー記事はこちら

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アマゾンのワイヤレスイヤフォン「Echo Buds」は、Alexaを簡単に使える点が優れている:製品レヴュー

音声アシスタント「Alexa」に対応し、ノイズキャンセリング機能を備えたアマゾンのワイヤレスイヤフォン「Echo Buds」。日本未発売ながら気になる人も少なくないはずだ。その実力は、大人気のアップル「AirPods」と比べていかなるものだったのか──。『WIRED』US版によるレヴュー

TEXT BY PARKER HALL
TRANSLATION BY KAORI YONEI/GALILEO

WIRED(US)

Amazon Echo Buds

アマゾンのワイヤレスイヤフォン「Echo Buds」。価格は130ドル(約14,000円、日本未発売)。PHOTOGRAPH BY AMAZON

アマゾンの音声アシスタント「Alexa」が勢力を拡大し、鼓膜のすぐそばにまで迫っている。同社初のワイヤレスイヤフォンである「Echo Buds」を初めて試したのは、朝のランニングに出かけたときだった。朝のニュースを読んでいると、寝室にあったスマートスピーカー「Echo Dot」から外はいつもより寒いと言われたので、黒の分厚い手袋をはめてEcho Budsを装着した。

走り始めて10歩。「Discover Weekly」のプレイリストを再生し忘れていることに気づいた。そこで手袋を外し、アームバンドからスマートフォンを取り出そうと思ったのだが、すぐにそんな面倒なことをする必要はないことに気づいた。Alexaにプレイリストの頭出しを頼み、5秒後に再び走り始めた。これは便利である。

あらゆる場所までついてくるAlexa

Echo Budsは、スマートフォンと耳の間にあった数十センチメートルの小さな“空白”を、Alexaが埋められるようにする製品だ。しかしアクセシビリティーという観点で言えば、この製品はグランド・キャニオンを越えたかのように感じられる。いまやAlexaはあらゆる場所まで一緒についてきて、そのデジタルな“脳”を駆使してユーザーのあらゆるニーズに応えようとしてくれる。

アマゾンのエコシステムにまだしばられていない人は、ハンズフリー通話、プレイリストの選択、「BBC News」の即時更新といった甘い言葉に誘惑されることはないかもしれない。それでもこれは、130ドル(約14,000円)という価格にふさわしい製品であり、現時点で最高のワイヤレスイヤフォンのひとつに数えられる[編註:日本では未発売]。

汗だくになりながら何キロメートルも走ったあとで、ウィングチップを装着しないままだったことに気づいた。それでもイヤフォンは感動的なほど安定していた。もしマラソンを走ることになったらウィングチップを装着するかもしれないが、たいていの場合は必要ないだろう。これはいいことだ。ウィングチップは装着に時間がかかり、正しい方向がよくわからないのだ。

またイヤフォンを外したら、自動的に音楽が一時停止するようになっている。これは言葉を使わない制御としては唯一、不可欠だと感じたものである。

バッテリーのもちはやや短め

バッテリーの持続時間に関しては、1回の充電で5時間しかもたなかった。これは多くの最新機種と比べて数時間は短い。だが何カ月にもわたって音楽を5時間以上は続けて聴いていない。文字通り、ヘッドフォンレヴューで生計を立てているにもかかわらずだ。読者の皆さんはどうだろう?

プライヴァシー重視派(残念ながら最近は少数派だが)はAlexaに聞き耳を立てられないよう、マイクをオフにしたいと思うだろう。しかし、そうする意味はないかもしれない。なにしろ自宅では、Alexaに対応したスマートスピーカーがトイレの音を聞き、寝室のいびきを聞いている。

だとすれば、ランニングしながらアウトキャストの曲を大音量で聴いているときに、スマートフォンで音声アシスタントを呼び出すことの何が問題なのだろうか?(「Alexa、アルバム『ATliens』は昨日聴いた。『Stankonia』をかけてほしい」といった感じだ)。

ランニング中に5kmほど走ったところで、「ドッグフードを買わなくちゃ」と思い出したとしても安心だ。Alexaは買い物リストもクレジットカード情報も知っているので、すぐにオンラインで注文してくれる。

Amazon Echo Buds

PHOTOGRAPH BY AMAZON

音質も良好

Alexaのおかげで、音楽を聴くことはとても簡単になった。しかし、Echo Budsが素晴らしい理由はAlexaだけではない。Echo Budsは音質のいいワイヤレスイヤフォンでもある。

Echo Budsの低音はフォーカスがはっきりしており、バスドラムやベースの音がよく響く。ただし、サムスンの「Galaxy Buds」のような競合製品の場合、音がふるえて不鮮明になる場面ではすぐさま低音が後退する。その際に中音も少し控えめになり、ギターやキーボードの入る余地が生まれる。

結果として驚くほど広大なサウンドステージが実現する。特にアコースティック録音のジャズやクラシックでは、極小のスクリーンで傑作映画を見ているような音を味わうことができる。

素晴らしい音のカギを握る要素がフィット感だ。アマゾンは3サイズのイヤーチップを用意しており、Alexaのアプリでテストできる。特殊な音とEcho Budsのマイクで自分の耳を判定し、正しい組み合わせを探していく仕組みだ。この仕組みのおかげで中サイズのイヤーチップのほうが最適だとわかり、交換した途端に音質が向上した。

アマゾンは、BOSEのアクティヴ・ノイズキャンセリング技術を採用しているが、Echo Budsを装着して得られるノイズ低減効果の大部分はイヤーチップによるものだ。230ドル(日本では24,979円)するソニーの「WF-1000XM3」や、250ドル(同27.800円)するアップルの「AirPods Pro」ほどの静けさではない。だが、ノイズキャンセリングを切り忘れていると周囲に迷惑なほど大声で話してしまうくらいの効果はある。

黒いプラスティック製の充電ケースは角のない長方形で、貝殻のように開く。AirPodsのケースより大きいが、ほとんどのポケットにすっぽり収まるだろう。

USB-CではなくMicro USBで接続するため、急速充電は期待できない。しかし、20時間ほどケースに入れておけば、わざわざ充電する必要はないだろう。

タッチセンサーの感度は難点

本体外側のタッチセンサーにはイライラさせられる。曲のスキップだけでなく、Alexaでは力不足なときに「Google アシスタント」をの呼び出すなど自由にカスタマイズできるのだが、いくらカスタマイズできても音量の調節はできない。しかもタッチセンサーに触れても、かなりの確率で反応がない。

このため嫌な思いをしなくて済むように、すべてAlexaに頼むことにした。電波の状況によってデータ接続が切断されるときを除けば、音声コマンドは即座に反応してくれた。

実際、すべてをAlexaに頼んだほうが気分もよかった。少なくとも、寝室とバスルーム、そしていまではほぼすべての場所で、巨大企業にあらゆる音を聞かれる代わりに、いくらかの便利さを手に入れている。

Alexaにすぐアクセスできることは、障害のある人々にとっても素晴らしいことだ、ある『WIRED』US版の読者に会ったのだが、その読者は車椅子に乗り、両手を使ってクルマを運転しながら電話で話し、タスクをこなしたいと考えていた。近い将来、あらゆるワイヤレスイヤフォンで、すべてができるようになるだろう。

ほとんどの音声アシスタントは、すでにボタンを押すという障壁さえなくなればいい状況まで来ている。ハンズフリーでGoogle アシスタントにアクセスできるワイヤレスイヤフォンも登場している。

AirPodsと比べてみると

ワイヤレスイヤフォンのバッテリーには5時間以上もってほしいと思う人もいるかもしれない。正しく装着するのがいら立たしいほど難しいウィングチップは嫌だ、という人もいるかもしれない。いつでも反応してくれるタッチセンサーが欲しい人もいるだろう。Echo Budsは基本的な部分に欠点があるかもしれないが、Alexaのおかげで使い勝手はかなりよく、何より音が素晴らしい。

アップルのAirPodsはハンズフリーで「Siri」にアクセスできるので、iPhoneユーザーはどちらを選ぶべきか迷うかもしれない。それでも個人的にはEcho Budsを選んだ。SiriとAlexaを比べると、Alexaのエコシステムのほうが優れた音声アプリが多いからだ。それにオーディオマニアとしては、よりよい音、汗の影響がないこと、より快適なイヤーチップを求めることになる。

それとも、すでに毎朝Alexaに起こされているからなのだろうか。いずれにせよ、アマゾンに軍配が上がると感じた。

◎「WIRED」な点

ハンズフリーの音声制御、Alexaへのアクセス。快適なフィット感。優れた音質。ノイズキャンセリング機能のおかげで、うるさい場所でも使用できる。汗に強い。

△「TIRED」な点

気難しいタッチセンサー。上位機種に劣るバッテリー寿命。いら立たしいほど装着しにくいウィングチップ。

※『WIRED』によるガジェットのレヴュー記事はこちら

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