古代、弁韓・辰韓と云う地域には弁辰24国と云う小国家が分立していたそうです。
小国家の中から、強勢な国が興ると、弱小国家は次第に併合されます。この場合、強盛な国は辰韓12国の内の斯盧国でした。それが新羅となります。
弁韓12国:彌離彌凍国・接塗国・古資彌凍国・古淳是国・半路国・楽奴国・彌烏邪馬国・甘路国・狗邪国・走漕馬国・安邪国・瀆盧国
辰韓12国:已柢国・不斯国・勤耆国・(彌離彌凍国・楽奴国)・冉奚国・軍彌国・如湛国・戸路国・州鮮国(馬延国)・斯盧国・優由国
(1) 弁辰人の渡来
新羅(斯盧国)が周辺諸国を併合した様子は「新羅本紀」に見えます。
ここでは、 図表1に洛東江東岸での新羅の領土拡大を年表形式でご紹介します。
図表1 洛東江東岸での新羅の領土拡大
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・第3代儒理尼師今の時、42年:儒理尼師今は「伊西国」を討滅す。
・第4代脱解尼師今の時、77年、伽耶と戦って大勝。戦将・阿飡(6等官)・吉門は波珍飡(4等官)に特進す。
102年8月、音汁伐国(慶尚北道蔚珍郡)と悉直谷国(江原道三陟市)・押督国(慶尚北道慶山市)も服属した。
104年7月、反乱した悉直国を討伐、遺民を南部へ移住させた。
108年、南方へ大征を行ない、比只国(昌寧郡)・多伐国(大邱広域市)・草八国(陜川郡)を併合した。
185年、第9代伐休泥師今(184~196)の時、初めて軍主制度を設けた。召文国(慶尚北道義城郡)を討伐した。
231年7月、甘文国(慶尚北道金泉市)を討伐し新羅領内に郡に組入れた。
236年2月、骨伐国(慶尚北道永川市)の国王が民を連れて投降してきた、同様に郡として組入れた。
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<1> 伊蘇国=伊西国の新羅併合
新羅による最初の併合は西暦42年(図表1)に行われました。「三国遺事」によれば、新羅(斯盧国、現慶州市)の第3代の王・儒理尼師今は「伊西国」を討滅・併合します。
今日の慶尚北道・清道伊西面に、「三国史記」は伊西古国(いそごこく)が、「三国遺事」は伊西国(いそこく)が、在ったと云いますが、これら二国は同じ国でしょう。
この「伊西国の滅亡」が伊都国の五十跡手の祖先が渡来する契機となった可能性があります。
怡土県主の祖・イトテ(五十跡手)は、船の舳と艫に榊を立て八尺瓊の玉・白銅鏡・十握剣を飾り立て、引島(彦島)まで仲哀天皇を出迎えて、語ります。
「高麗の国の意呂山(蔚山)に天から降ってきた日鉾の末裔の五十跡手とは私のことです」と。
この事件は、先に「三種の神器」の話で既にご紹介しましたが、「釈日本紀」が引用する「筑前国風土記」逸文にも載り、
仲哀紀8年では、彦島ではなく崗津での出来事とします。
仲哀天皇はイトテが彦島に参上した時、イトテを褒めて「伊蘇志」と云われ、時の人は五十跡手の本国を「伊蘇国(いそこく)」と云った、とこれも仲哀紀にあります。
この仲哀紀が伝えるイトテの本国の「伊蘇国」は、伊西国ないし伊西古国と音韻上重なっていますので、「伊蘇国」はイトテの出身地「伊西国」を意味していると思われます。
怡土県は「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」であり、今の糸島市です。
天日鉾が天降ったとされる「意呂山」は、音韻上通じますので、釜山北方70kmにある蔚山特別市の背後の、烏禮山(オレサン)という山城ではないか、とも思われているのです。
第1に伊西国=伊蘇国、第2に烏禮山=意呂山、この2つで伊都(伊蘇)の人々の故地を伊西国=蔚山(ウルサン)地域に比定して良いのではないかと思われます。
その上での追証です。「魏志倭人伝」が記す伊都国の官職名「爾支(ニキ又はニシ)」が首長(王)号だとすると、新羅が1世紀から5世紀初頭まで王号として用いた「尼師今」(ニシキン)に音が通じ、語源が同一の可能性があり、これから見ても、伊都国は辰韓系である可能性が高いのです。
伊都国(怡土郡)には五十跡手の祖先が辰韓・伊西国からその亡国に際して渡来した、との読みが許されそうです。伊西国は現・蔚山(ウルサン)在の辰韓時代の再奚国だと思われます。
<2> 新羅による辰韓諸国の併合
新羅による辰韓諸国の併合は、この伊西国の討滅・併合後も続き、兵事制度の充実に裏付けされて、3世紀末までには洛東江東岸地域を略々統合し終えたようです。
この内、「草八国」は洛東江を越えた西岸地域ですから、愈々、百済との対決は2世紀以降決定的となる
でしょう。伽耶はその圧力をヒシヒシと感じている頃です。
<3> 安羅伽耶の戦い
「安羅伽耶の戦い」(209~212年)と云う戦いが「新羅本紀」に記載されています。
浦上八国が伽耶国を襲い、伽耶は新羅に救援を求め、その救援軍により救われた伽耶は王子を新羅に人質に出します。図表3は新羅本紀からの抜き出しです。
1世紀には新羅と伽耶の戦いが2度ありましたが、その後、2国は友好的な関係にあったようです。
だが、3世紀初頭のこの「浦上八国の来襲」に伽耶は弱小な戦闘力の故に一大ピンチに遭遇し、新羅に従属する状況に陥ったのです。
図表3 安羅伽耶戦に見る伽耶の弱体化
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77年、新羅は伽耶と戦って大勝した。第4代脱解尼師今の時である。
94年2月、96年9月と伽耶が侵入するも、これも撃退した。第5代婆娑尼師今(80~112)の時である。
・百済、伽耶に対する新羅の国防は強化され、慶尚南道に加召城(居昌郡・馬頭城(居昌郡)を築いた。
201年、第10奈解泥師今(196~230)の時、伽耶が講和を求めて以後、伽耶とは親密な関係を保った。
209年、浦上八国の伽耶攻めの時、伽耶王子の救援請求に応え、新羅は昔于老と昔利音は六部兵を率
いて救援に赴き、八国将軍を撃殺し、虜六千人を奪い、凱旋した由です。
212年、伽耶は王子を人質として新羅に送った。
・新羅本紀:奈解尼師今 六(201)年春二月、伽耶国請和、
十四(209)年秋七月、浦上八国、謀侵加羅、加羅王子来請救、王命太子干老、与伊伐湌利音、
将六部兵、往く救之、撃殺八国将軍、奪所虜六千人、還之
十七(212)年春三月、伽耶送王子為質
・この頃、奈解尼師の19年、23年、27年、29年と2年毎に百済が新羅に侵攻。
214年7月、百済が腰車城(忠清北道報恩郡?)を攻め、城主・薛夫を殺す。奈解尼師今は昔利音に百済に
反撃させ、沙峴城(慶尚北道聞慶市籠岩面沙峴里)を陥落。
・この後、百済との交戦は2~3年毎に続く(218年、222年、224年)
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◆ 上垣内「3世紀初頭の天孫降臨」説
1~2世紀の加羅はむしろ強勢だったようですが、やがて、2~3世紀から続く戦乱と高句麗・百済・新羅の三国からの圧迫が続きます。上垣外先生は、3世紀初頭の加羅国の政治社会情勢の悪化が「原動力」となり、加羅・天孫族の避難行が始まり、日本列島への「天孫降臨」を招いたとします。図表3に照らしても、この説は、中々、良いところに着眼されたな、と思いますが、「西古国の亡国」ほどではなく、また、召文国討伐(185年)、甘文国を討伐、新羅領の郡に組入れ(231年)、骨伐国国王の投降、新羅領の郡に組入れ(236年) などを見ると、これらの亡国に比べて、 上垣内説の云う「安羅伽耶の戦い」が「天孫降臨」を生み出す決定打になったとまではどうも云い切れないように思われます。
「新羅による辰韓併合」や「安羅伽耶の戦い」など相次ぐ戦禍により、日本への流民は、1~2回の渡海流民などではなく、もっと頻度多くの渡海流民が相次いだ、と思われます。
それは、今尚、日本列島各地に残る「カヤ・カラ・アラ、イソ・イト・・」などの地名・人名が暗示しています。 いずれ、この弁辰起源と思われる「カヤ・・・イト」などの地名一覧表をご覧に入れる機会がありましょう。
<4> 糸島・可也山と高霊・伽耶山
伽耶からの渡来を象徴する最も顕著な一例は「可也山365m」でしょう。
「可也山」の大元とされる「伽耶山」は、高霊郡・星州郡(慶尚北道の南西部)と陜川郡(慶尚南道の北西部)に跨がり、小白山脈の一部をなしています。主峰の上王峰(サンワンボン)は1430m、最高峰は1433mの七仏峰だ、と云います。
「可也山」を命名した人々は、望郷の念からか「伽耶山」に因んで名付けたものと思われ、高霊伽耶・星州伽耶からの人々の渡来を推定させるのです。
そして、「彌烏邪馬国は180~190年頃に衰亡した」とする朴炳植氏の推定・指摘がここに結びつきます。
彌烏邪馬国は高霊伽耶・星州伽耶辺りを指すのです。その地は、先に新羅が108年に滅ぼした草八国(陜川郡)に近いです。
・彌烏邪馬国は「神聖な大きなヤマ国」の意で、高霊地方(洛東江中流)は邪馬壹国の母国だ、朴氏は云い、
そして、彌烏邪馬国は180~190年頃に衰亡した、と朴氏は推測します。 「日本語の悲劇」136頁
・但し、これは推測です。史料上は確認出来ません。また、その理由は明示されていません。
朴炳植氏が指摘する「彌烏邪馬国180~190年頃衰亡説」が立証されると、それは当ブログが2世紀だと推定する「天孫降臨期」なので、詳しい詰めは今後に待つにしても、高天原(天孫降臨の出発地)の一候補を「彌烏邪馬国」とすることも出来るでしょう。
・朴炳植「日本語は慶尚道方言」説=「伽耶族の渡来」説:
朴炳植氏は、日本語を色々と研究してみると、日本語は「慶尚道方言」だとし、その理由は「伽耶族の渡 来」説で説明できる、
と書いています。 「日本語の悲劇」朴炳植著(情報センター出版局1986年、31頁)
・慶尚道は、古代朝鮮半島の倭地・金官伽耶国(慶尚南道)からその北の慶州(古代新羅、慶尚北道)辺りを指しますから、大ま
かに云って「弁辰の地」です。慶尚南道の南東部は日本側の表現では「任那」です。
<5> 伊都国の謎
伊都国(怡土郡)と志摩国(志摩郡)とが21世紀の糸島市を構成しており、少し前までは、志摩町(糸島半島部で伊都国に属さず、志摩国に属したらしい)と前原町として存在していました。両町は近距離で接しています。
この糸島市は全部が怡土県だったとすると、可也山の元山・伽耶山と意呂山の元山・烏禮山とは朝鮮半島の南部といっても、前者は中央部洛東江上流の「高霊伽耶・星州伽耶」との繫がりを思わせ、後者は東部海岸部の「西古国」との繫がりを示唆しています。両者の距離はかなり離れています。
ここに「伊都国の謎」があります。 弁辰人は混住をあまり厭わず、突っ張り合いをしない、温和な人々だったのか、これが「伊都国の謎」です。
あえて、「伊都国の謎」を解けば、可也山のある志摩国(志摩郡)に伽耶(高霊・星州)からの渡来があり、前原町のある海岸部の伊蘇国(伊都国)には西古国からの渡来があり、その人達は混住・融和して、伊都国の地域文化を醸成したとすると、他者との穏和な交際性がこの弁辰人たちの特徴だったのでしょう。
先に、猿田彦神の道案内や塩土老翁の国譲り、豊日別命の素戔嗚尊・五十猛命への饗応に、豊国の人々の「もてなしの心」を見ました。それを当ブログでは「豊国の人々の外来の人々に対する、余りにも好意的で寛容なな受け入れ姿勢」(豊日別命の祭祀)と表現しました。
今、ここに、弁辰人の温和な共存のl性さがを見る思いがします。
だが、温和な故に強大な力の前には引き下がり、団結する意思と強力な対抗力を形成しえない時、天は強大化を許さず、激しい変動の時代に亡国の憂き目に遭うのです。真実の古史はどうでしたか、・・。
(2)加羅(伽耶・任那)からの渡来・帰化
伽耶・弁韓:弁韓諸国は新羅・百済よりも国家形成が遅れ、最後まで、強権的な王権国家は出来ず、小国家群の緩い結合しかなく、対外的には弱小の国でした。
新羅本紀が伝える、新羅の伽耶併合は「天孫降臨期」よりも約300年後です。他方、日本書紀が伝える任那(=加羅)滅亡も6世紀前半で、既にこの頃になると情報は彼我で一致しています。
6世紀の加羅滅亡が、直接、天孫降臨につながるわけはなく、2~3世紀の伽耶(加羅)の状況が問題です。
洛国記を見ても、加羅の1~3世紀は詳しくは判らず、三國史記・新羅本紀に僅かにその動向を窺い知るのみです。伽耶は、この時期の「新羅本紀」には出てきますが、不思議にも、「百済本紀」には出てきません。
メモ: 伽耶六国 慶尚北道:1大加羅(高霊伽耶、伴跛)、 2古寧(尚州市咸昌)、 3星山(星州郡)、
慶尚南道:4加羅国(金官国)、 5安羅(咸安郡)、 6小加羅(固城郡)、
他の小国 慶尚南道:7多羅(陜川郡)、 8卓淳(昌原市)、 9滞沙(河東郡)、
全羅北道:10己汶(南原市)
その他・・斯二岐国、卒麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国
・概要:朝鮮古史料の「三国史記」(1145年編)・「三国遺事」(1280年代中頃)は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝え るに過ぎず、考古学資料からは、BC1世紀頃に部族集団の形成が推測されている。
・中国正史「三国志」「後漢書」によれば、1世紀中葉、「倭の西北端の国」の「狗邪韓国」(慶尚南道金海市)とその北に位置 する「弁韓諸国」と呼ばれる小国家群が出現している。
・後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(BC4、3世紀)以後に、従来の土器様式とは全く異なる弥生式土器が
急増し始める。これは狗邪韓国に繋がる倭人進出の結果と見られている。
・「日本書紀」や「宋書」、「梁書」での記述をまとめると、
・倭地(三国志)が任那と云う倭国の支配地域となり、倭の府(任那国守、任那日本府)あり。
・弁韓地域が加羅になり、加羅諸国は倭に従属した国家群、
伽耶滅亡の年譜は、収載スペースの都合上、次報に一括しますのでご了承下さい。
<1> 加羅・任那からの渡来・帰化
1 神社の祭神・伝承に見る渡来・帰化
◇ツヌガアラシト(都努賀阿羅斯等)
垂仁天皇2年紀に、大加羅国王子・都努賀阿羅斯等(于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキ)は、崇神天皇の御代に、越国の気比の浦に到着し、とあります。
垂仁天皇紀条に、崇神天皇の御代、日本へやってきた意富加羅国の王子・ツヌガアラシトは、初め穴門につき、その国の伊
都都比古が国王だ自称したのを信じられず退出し、 出雲国を経て笥飯の浦に到着したと云います。 ツヌガアラシトの来日は、
白石から生れた姫神を追っての来日で、その姫神は難波に至って比売語曽社の神となった、との説話があります。
但し、垂仁2年は320年だと推定すると、天孫降臨の時期(2~3世紀)よりも後の4世紀前半の渡来と見なければなりません。
崇神天皇の崩御後、ツヌガアラシトは垂仁天皇に三年仕え、天皇に問われると、「帰りたい」と答えたので、天皇は「先皇の名、御間城の名をとって国名とせよ」といわれ、赤織の絹を賜り、帰国させた。ここから国名は任那となった由です。ところが新羅の人がそれを聞いて怒り、兵を起こして蔵に納めた絹を奪います。そこから任那と新羅の争いが始まった、と日本書紀は伝えます。
だが、 「ツヌガアラシトの帰国」は創作伝承だと思われます。
伝承上は帰国した筈のツヌガアラシトは石川県七尾市の「久麻加夫都阿良加志比古神社」の祭神です。
この社の祭神二柱は、阿良加志比古神は阿羅国の王族、都奴加阿良斯止神は大加羅国の王子と云われ、「阿良加志比古」は安羅国の加志彦と読め、「都奴加阿良斯止」は安羅国の斯止でしょう。
久麻加夫都阿良加志比古神社(石川県七尾市中島町宮前ホ-64)
祭神:久麻加夫都阿良加志比古神・都奴加阿良斯止神
由緒(抜粋):この神々は韓国の王族です。阿良加志比古神については地神とも、三~四世紀頃の阿羅国の王族とも云わ
れ、現在の鎮座地を平定され、守護神としてお祀りしてあります。
・都奴加阿良斯止神は、垂仁紀二年条の分註に、「御間城天皇之世、額有角人、乗一船、泊于越国笥飯浦。
故号其処曰角鹿也。問之曰、何国人也。対曰、意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等」の記事では、四世紀
頃、大加羅国の王子が、現・敦賀に上陸渡来したとあるのです。
角鹿神社は、氣比神宮の境内摂社で、ここでも意富加羅国(任那国)王子・ツヌガアラシト命が祭神です。
角鹿神社(福井県敦賀市曙町11-68、氣比神宮 境内摂社)式内社、越前国内神名帳「正四位 敦賀神」
祭神:都怒我阿羅斯等命、松尾大神(1839ー天保10ー年、合祀)
・祭神を角鹿国造祖の建功狭日命説あり。江戸末期まで角鹿神社社家だった島家が角鹿氏後裔を称していた。
・祭神は次の七柱。・・・祭神を七柱とする記載は「延喜式神名帳」に見える。
本殿 :(主祭神)伊奢沙別命(気比大神、御食津大神とも称す)、仲哀天皇・神功皇后
四社の宮:(東殿宮)日本武尊、(総社宮)応神天皇、(平殿宮)玉姫命、(西殿宮)武内宿禰命
由緒:都怒我阿羅斯等は、垂仁天皇の時に渡来した意富加羅国(任那国)王子。
神宮の伝承では、天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じ、角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まる
と云う。地名・敦賀は当「角鹿」に由来する。
◇ 香春神社の祭神:辛国息長大姫大目命
七尾市(能登半島)と敦賀市(越前)に、阿良加志比古神(安羅国の王族)、都奴加阿良斯止神(安羅国王子)、を確認しましたが、九州遠賀川中流の香春岳には加羅国の姫神が鎮座しています。
その姫神は香春神社の祭神:辛国息長大姫大目命です。「辛国」はどう見ても「加羅国」でしょう。
古代におけるこの神社の格式の高さは由緒にある通りですが、それが「加羅(辛)国」とどう関係するのかは今のところ判りません。
香春神社(福岡県田川郡香春町香春733)式内社(小社)、豊前の国一ノ宮、県社
祭神:辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命
・辛国息長大姫大目神社- 正一位(843年=承和10年)
・忍骨神社 - 正一位(843年=承和10年)
・豊比咩神社 - 正二位(建仁元年)
由緒:709(和銅2)年、山頂の三社を合祀、現在地に移設、香春宮と称した。
辛国息長大姫大目神社、忍骨神社、豊比咩神社は、元々、香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳) の山頂にあった。
正一位の神叙は、奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)よりはるかに早い。
平安時代初期における香春神社の社格は非常に高く、現在豊前国の一宮は、一般的に宇佐神宮とされているが、
古資料の中には香春神社を一宮と記すものあり。 宮司は代々、赤染氏、鶴賀氏が務める。
社前掲示:第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡 鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。
第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ。
・日本三代実録は、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している。
「忍骨命」は天忍穂耳尊と同一人物と見られています。その「忍骨命」が「香春神社」に隣り合って祀られ、今は合祀されていることは、、中々に意味がありそうで、留意したいと思います。天忍穂耳尊は天孫・ニニギの父であり、この田川郡から英彦山にかけて天孫降臨神話ゆかりの神社を多く見かけますから、ニニギ中心に祀る天降神社群を含めて、あと暫く後に、一報に纏める予定です。
◇ 賀羅加波神社(広島県三原市中之町2174-2) 式内社 備後國御調郡 加羅加波神社、旧郷社
当社は鳥居がない神社で、祭神は太玉命・天鈿女命・瀬織津比賣命となっていますが、社名はどう読んでも「加羅」からみでしょう。
この神社名の現在の読みは「カラカワ」ですが、これは「カラカッパ」又は「カラッパ」が本当の読みだった可能性があります。「加羅輩カラッパ」(加羅人の群れ) と云う表現を紹介しているのは高濬煥氏*です。
それは熊本県八代市の前川橋の袂たもとに「河童渡来之碑」に絡む話です。 高氏は、これは河童が浅井之津付近に3000名で上陸した記念碑だとします。そして、その河童はカラッパ(加羅の群れ)なのだ、と。また、年一回の祭りは“オレオレデーライタ川祭”として今に伝えられていますが、高氏は「オレオレデーライッタ」は韓国嶺南地方の訛で、「長く長くなーれ」の意味*だ、とします。
*「伽耶を知れば日本の古代史がわかる」高濬煥著(ふたばらいふ新書019)65~66頁
但し、現在の八代市観光課は「仁徳朝(313〜399年)に中国から九千匹の河童が揚子江を下り、黄海を経て八代に上陸した」と説明していますので、両者の相違の原因を見極める必要あり、ですが、何とも不思議なことです。
◇ 辛国神社(大阪府藤井寺市藤井寺、藤井寺市駅直ぐ近く。式内社)
祭神:饒速日命、天児屋根命(室町時代に合祀)、素盞鳴命
由緒:今から約千五百年前の雄略天皇の時代に創設された、とあるのは、日本書紀に「雄略天皇十三年春三月、餌香長 野邑を物部目大連に賜う」とあるのを根拠にしている。この地方を治める時、物部氏がその祖神である饒速日命を 祀り祖神廟としたのが創始。
・社名の由来は異説種々あり。物部氏一族の辛国連が当社に深く係わった為に辛国神社と称 した。
「新撰姓氏録」に「辛国連は神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」とある。
神社名は辛国氏が祖神を祀ったので、辛国(加羅国)神社なのです。後出の「新撰姓氏録」河内国未定雑姓の項に「大賀良は新羅国郎子王の後なり」とあり、この社は大賀良氏の祖神を祀ったものでしょう。
藤井寺市地域は古代に「長野郷」と云われ、長野郷の渡来人に「長野連」がいます。長野連がその祖を祭った式内社・長野神社は当神社本殿に合祀され、祭神は牛頭天王・素盞鳴命です。
◇加羅古神社(神奈川県秦野市横野宮ノ子608)
ここに「任那からの渡来神の祭祀事例」を幾つか確認することができ、この他にも、来春から始める「丹波古史」でご紹介する、日本海沿岸の神社には渡来神が祀られており、これらの情報は安羅・大加羅の人々が日本海や瀬戸内海の沿岸地域に渡来していることを示唆しています。
日本海沿岸を北上する対馬海流は、朝鮮半島南東部からの人々の渡来に役立っているのです。
注 来年は日本海沿岸の弥生神代期を考察するわけですが、先走って申し上げれば、そこは、北九州に劣らず、早くから大陸
文化が渡来している考古学的証拠があるだけではなく、神々を祀る神社群は日本有数の地域なのです。
2 任那国主の渡来
2-1 都奴加阿羅志等の後すえ
「新撰姓氏録」に見る任那からの渡来者は、多く「都努賀阿羅斯止の後(すえ)」と称します。その任那人は、大市首・清水首(左京)、辟田首(大和国)などとして登録されています。これは、612(推古天皇紀20)年の是歳条に、「真野首弟子・新漢文、これ今、大市首・辟田首らの祖なり」とあり、「新撰姓氏録」の下記の記載に対応します。
辟田首は大和国に居住し、任那国主・都奴加阿羅志等の後すえと称しておりますので、それならば、都奴加阿羅志等の後すえと称する大市首・清水首も任那国主の末裔となるでしょう。
大市首(任那国人、都努賀阿羅斯止の後)左京在住
清水首(任那国人、都努賀阿羅斯止の後)左京在住
辟田首(任那国主、都奴加阿羅志等の後)大和国在住
2-2 任那独立時代の渡来
その他にも、任那(彌麻奈、御真名)国主と称する人々が「新撰姓氏録」に確かに登記されており、これは見逃せません。「国主」と云えば、それは首長を意味するからです。
「新撰姓氏録」の諸蕃の分類中の「任那みまな」とあり、そこに登記されている「任那国主」とあるのが第一ケースで、これらは任那が独立国家だった時代に渡来・帰化した人々と思われます。
・任那国主・三間名公・御真名国主と称する人々
1 多々良公(御真名国主、爾利久牟王の後) 山城国在住
2 三間名公(彌麻奈国主、牟留智王の後)不見・未定雑姓右京
3 大 伴造(龍首王孫、佐利王の後)大和国
4 道田連 (賀宝王の後、左京)
5 荒々公(任那国、 豊貴王の後)摂津国
2-3 新羅・百済併合後の渡来
次に、諸蕃の分類では「新羅」又は「百済」の出とあり、そこに登記されている「伽耶国主」が第二のケースです。この人々は任那が新羅又は百済に併合された後に、日本に渡来・帰化した人々と思われます。
竹原連は安羅国主の末裔と称し、「阿羅国主の弟・伊賀都君の後すえ(不見)として河内国」から登記されています。だが、当時の朝廷は、その出自を検証を出来ずに「不見」とし、未定雑姓としています。 この安羅国主は新羅に分類されていますので、この人は新羅の支配が安羅の地に及んだ西暦531年後に、渡日した事を示唆しています。 竹原連(河内国未定雑姓): 新羅国・阿羅々国主弟伊賀都君之後也
安羅(慶尚南道咸安郡)は、伽耶(伽耶六国の一)で任那日本府が置かれていた処と云われ、安羅の下韓(南韓)は、すぐ北には高句麗あり、また新羅とも近いので、新羅を制し北の高句麗を防ぐ拠点だ、と云われていました。それ故に、安羅は新羅に併合される時が来るのです。
「新撰姓氏録」には、新羅からの渡来・帰化人として、新羅国・郎子王の後すえとして、大賀良(不見)と賀良姓(不見)が河内国に登記されていますが、いずれも(不見)、且つ、未定雑姓とされ、当時の朝廷はその素性の確認が出来なかったことを示しています。
だが、「大賀良」も「賀良姓」もいずれも「カラ」を含みますので、新羅による「加羅併合」後に処遇を得た「郎子王」の末裔が渡来・帰化したものと読んでよいのではないでしょうか。前出の「辛国神社」に繋がります。
注 「三国史記」に「任那加良人」と云う表現あり。
他方、百済の部に登記されている伽耶からの渡来人もいます。
右京(未定雑姓)在住の「加羅氏」は百済国人・都玖君の裔と称しますが、その姓氏名から明らかに加羅の出身でしょう。和泉国在住の葦屋村主も村主(摂津国、和泉国)も、意宝荷羅支王からの出自と称しています。意宝荷羅は「大加羅」(高霊伽耶)でしょう。
船連(摂津国)は、大阿良王の末裔と称し、菅野朝臣同祖と登記されています。大阿良王の阿良は安羅でしょう。但し、「菅野朝臣」には問題(疑問)ありですので、後報で「百済からの渡来人」を検討する時に「菅野朝臣」を取り上げます。暫くお待ち下さい。
<2> 加羅王子・仙見は神女と共に渡来
「編年駕洛国記」にある「金氏王世系」と云う古記に次のようにあるそうです。
ー仙見センギョン王子が神女と共に雲に乗り去ったので、居登王が河にある石島の岩に登り、仙見王子を呼び戻すための絵を彫ったので、俗に招仙台と伝えられているー
初代・金首露王は十男二女を成し、その長男・居登は199年に駕洛国王に即位し、別な一王子は居漆君に封じられ、残る七王子は出家し、二女の内、一女は太子妃となった。
残る一女・神女と仙見王子は「共に雲に乗って去った」とあるが、これは「日本に去った」のだと云うのは
前出の高濬煥氏*です。 *「伽耶を知れば日本の古代史がわかる」高濬煥著(ふたばらいふ新書019) 残る一女・神女と仙見王子は「共に雲に乗って去った」とあるが、これは「日本に去った」のだと云うのは韓国人・高濬煥氏*です。上垣外先生にも同趣旨の記述があり、「相続争いに破れたり、国そのものが危殆に瀕したりして、失意の境遇似合った王子達が、新天地を求めて加羅を去っていったと云うことだろう」(44頁)と書いおられます。
高濬煥氏は「初代王卑弥呼は駕洛の王女」(68頁)だとしていますが、唐突すぎて、この説にはついて行けません。この「加羅王子・仙見と神女の日本渡来」説は、日本側での接続できる情報が見当たらず、今のところ、「神話」としてしか受け取れないのです。
かなり荒い推定も許容する立場からしても、これは、ありそうではありますが、荒唐無稽な古代史の組み立てとしか受け取れません。
上垣外先生にも同趣旨の記述があり、「相続争いに破れたり、国そのものが危殆に瀕したりして、失意の境遇にあった王子達が、新天地を求めて加羅を去っていったと云うことだろう」(44頁)と書いおられます。
類似の状況はあり得たでしょう。だが、この推定は、天日槍やツヌガアリシトの渡来に際する「阿加流比売アカルヒメ神、比売許曽ヒメゴソ神伝承」以上に、ぼやかされ、情報量が少ないのです。
要約:「弁辰・加羅からの渡来・帰化」を以上で一段落させて、要約します。
弁辰・加羅からの渡来は「天孫降臨」との関係を示唆しながら、必ずしも十分な成果を得ていません。
1西暦42年、新羅の「伊西国」併合は、伊都(伊蘇)国のイトテの祖が辰韓から渡来の契機となった可能性が
高いと思われます。
・伊西国は伊蘇国とが同音なことも、伊都国首長名・爾支(ニキ又はニシ)が 新羅王号・「尼師今」 (ニシキン)に
音が通じることも、伊都国が辰韓系である可能性が高いのです。
2その後も、新羅(斯盧国)は周辺諸国を併合し、洛東江東岸域を略手中に収めたのは2~3世紀です。
・この波乱が「天孫降臨」の引き金となった可能性があります。
3「安羅伽耶の戦い(201~214)」は安羅国の弱体化を示し、「天孫降臨」の引き金となった可能性があるが、
それは決定打とは云えない。
4洛東江中流の伽耶山(高霊郡)と同音の「可也山」(糸島半島)を命名した人々は、高霊郡~星山郡からの渡来
者である可能性を示唆します。
・高霊伽耶の前身・彌烏邪馬国は「180~190年頃に衰亡した」とする朴炳植氏の指摘は立証されねばなら
ないが、それは当ブログが2世紀だと推定する「天孫降臨期」に該当するので、今後も留意します。
5伽耶人の渡来を示唆する神社名やその祭神名の数例をリストしました。
・久麻加夫都阿良加志比古神社(七尾市) 祭神:久麻加夫都阿良加志比古神・都奴加阿良斯止神
・角鹿神社 (敦賀市、式内社、氣比神宮摂社)祭神:都怒我阿羅斯等命、
・香春神社 (香春町) 祭神:辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命
・賀羅加波神社(三原市、式内社) 祭神:太玉命・天鈿女命・瀬織津比賣命
・辛国神社 (藤井寺市、式内社) 祭神:饒速日命、天児屋根命(室町時代に合祀)、素盞鳴命
・加羅古神社 (秦野市)
6新撰姓氏録諸蕃の部には任那国主の渡来を示す記録をレヴューした。
(1)任那国主の渡来
・任那国人、都努賀阿羅斯止の裔と登記した人々:大市首・清水首(左京在住)、
・任那国主、都奴加阿羅志等の裔と登記した人々):辟田首(大和国在住)
・任那国主・三間名公・御真名国主と称する人々
1多々良公(御真名国主、爾利久牟王の後)山城国在住
2三間名公(彌麻奈国主、牟留智王の後)不見・未定雑姓右京
3大 伴造(龍首王孫、佐利王の後)大和国
4道田連 (賀宝王の後、左京)
5荒々公(任那国、 豊貴王の後)摂津国
(2)新羅・百済併合後の渡来
・新羅国・阿羅々国主弟伊賀都君の裔として竹原連が河内国未定雑姓に登記あり。
・新羅国・郎子王の裔:大賀良(不見)と賀良(不見)が河内国未定雑姓に登記あり。
・百済国人・都玖君の裔:加羅氏・・右京(未定雑姓)
・意宝荷羅支王からの出自と称す:葦屋村主(和泉国)・村主(摂津国、和泉国)
・大阿良王の末裔、菅野朝臣同祖:船連(摂津国)と登記されている。