狂牛病がBSEと呼び変えられた時、作家のアーサー・ビナードさんが書いているのを読んで、噴き出した覚えがあります。アルファベット三文字にしたいなら、KGBにすべきだった。おどろおどろしさも伝わるのに、と-。
閑話休題。私たちには概して横文字をありがたがるところがあります。CAFEといっても要は喫茶店、IRといっても要は賭博場なのに、アルファベットになった途端、湿度が失われ、何かこざっぱりした感じになる気がします。
ワンガリ・マータイさんという女性をご記憶でしょうか。ケニア人の環境保護活動家で二〇〇四年にノーベル平和賞を受けました。彼女が日本に来て“発見”したのが「MOTTAINAI(モッタイナイ)」です。
◆MOTTAINAI
環境に優しい消費や再利用のあり方、自然や物への敬意という概念を一語で表せるということのようで、彼女はMOTTAINAIを世界に広めようとしました。
手元の国語辞典を見てみると、「勿体無(もったいな)い」は第一義が「あるべきさまをはずれていて不都合」、二番目が「恐れ多い」で、「まだ使えるのに-」という場合の語意は三番目ですが、既に『太平記』に用例があるといいます。
あの頃、マータイさんの運動には日本人も大いに感化され、MOTTAINAIは一時、流行語のようにもてはやされました。私たちは古くからその言葉も概念も持っていたのに、です。やはり、横文字に置き換わって、初めて「ありがたさ」に気づいた面があったということでしょう。
MOTTAINAIブームから数年後の一〇年、日本では初の生物多様性条約締約国会議(COP10)が開かれています。
英語のBiodiversityが日本語では「生物多様性」となるわけですが、こなれぬ訳語ゆえに、余計、外来の目新しい概念のようにとらえられがちです。
でも、要は、種類の違ういろんな生き物がいるけれど、それらはみんなつながっていて、全部が大事-ということでしょう。ならば私たちは、もっと優雅な言い方を既に持っています。<みんなちがって、みんないい>。有名な金子みすゞの童謡『私と小鳥と鈴と』の一節です。
さらには、加賀千代女の<朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらい水>や<行水の捨て所無き虫の声>という上島鬼貫(おにつら)の句にも思い当たります。
不憫(ふびん)で、朝顔のつるを切ったり秋の虫に残り水をかけたりできない…。違う種類の生き物へのさりげない思いやり、敬意こそ、「生物多様性」を守る心でしょう。
◆ESGと『論語と算盤 (そろばん)』
千代女も鬼貫も江戸中期の人。つまり日本には元来、Biodiversityに通じる概念、それを人々の情の中に包摂する文化があったわけです。
さて、次に挙げる横文字は「ESG」です。Environment(環境)、Social(社会)、Governance(企業統治)の意で、特に「ESG投資」という言葉は昨今、新聞などでもしばしば目にします。
一方で利益を求めるとしても、他方では、環境や社会にプラスになり、倫理的な行動をとる-。そういう企業や事業に投資することを、ESG投資と呼ぶようです。
それを世界中で推進しようというのが、国連の責任投資原則(PRI)。「私たちは投資分析と意思決定のプロセスにESG課題を組み込みます」など六つの原則からなる“誓約”のようなものですが、世界の名だたる企業や機関投資家が続々署名しています。結果、例えば、ESGに整合的な再生可能エネルギーには投資が集まり、逆の石炭火力からは投資撤退が目立ってきています。
日本でも、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が一五年にPRIに署名するなど、ESG投資は急拡大していますが、遅ればせ、の感は否めません。原発と石炭火力にこだわる政府の姿勢が要因で、再エネ推進では、完全に諸外国の後塵(こうじん)を拝しています。
しかし、です。ESGと横文字で書けば、目新しい外来の考え方のようですが、一方で利益を求めても、一方では社会貢献を重視せよ、とは、まさに『論語と算盤(そろばん)』では? 日本資本主義の父と言われ、二四年には一万円札の顔にもなる渋沢栄一の経営哲学。そのままとは言わないまでも精神は通底していましょう。
◆立ち遅れる環境戦略
もともと、わが国資本主義になじみ深い哲学だと考えれば、今の立ち遅れ感は、あまりに惜しい。それでなくても、あの福島の原発事故を経験した国です。日本の技術力を再エネに集中し、世界をリードする。なぜ、その方向に進めないのでしょう。本当にMOTTAI…いや、ここは、横文字でなく、国語で言いましょう。
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