いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

朝鮮人を嫌いなのはどうでもいい。「朝鮮人が嫌いだ!」と触れて周るな。迷惑だ。

実は、前稿で予告していた韓国の書店のレポートだが、校了寸前にパソコンがバグって振出しに戻ってしまった。心が折れたので別のことでも書こうかと思う。ちょうどYahooに馬鹿が陳列されていたので、それを素材にしようと思う。

 

なぜ在日コリアン嫌うのか?「ニンジン嫌いと一緒」 元在特会メンバーら、朝鮮学校ヘイトに謝罪なし
Yahooニュース 2019/12/19(木) 19:06配信 京都新聞

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191219-00200709-kyt-l26

 

(引用開始)

 

「正義のためにやっている」。今年9月、ヘイトスピーチ(憎悪表現)をした過去について、「在日特権を許さない市民の会在特会)」元メンバーの被告の男(51)=京都市右京区=は、京都地裁であった公判で声を強めた。

 10年前の京都朝鮮第一初級学校(南区)の襲撃事件で、差別を扇動する罵詈(ばり)雑言を浴びせたうちの一人。威力業務妨害罪などで有罪となった後に服役し、高額の賠償命令も受けていた。

 今回の裁判では、2017年に同校の跡地そばで「この学校は日本人を拉致している」「学校関係者かな、と思ったら110番して」などと拡声器で言い放ったとして、名誉毀損(きそん)罪に問われていた。

 

     ◇

 

 朝鮮学校襲撃事件を起こした在特会は、事件の動画をインターネットで公開。社会に衝撃を与えるとともに、会員数を激増させた。12年ごろには1万2千人超に達したとされる。当時、襲撃に加わったメンバーたちは今、何を思うのか。

 

     ◇

 

 被告と一緒に襲撃事件を起こしたうちの一人で元在特会員の男性(40)=京都市=が取材に応じた。男性は、襲撃事件の1年ほど前に外国人在留許可問題を巡る在特会の活動をネット上の動画で知った。「すげー」と思い、「日韓断交」などを掲げるデモに加わった。「死ね」「殺せ」と叫ぶことに抵抗はなかった。一連の行動に参加した感想は「『やったった』やね」。

 なぜ、在日コリアンを嫌うのか。「レイシスト(人種差別主義者)」だと自称する男性に尋ねると、自宅近くの在日コリアン集住地域でトラブルを避けるよう親から厳命されて育った記憶を話した。それ以上のエピソードは質問を重ねても語られず、「その人種が嫌いなのは、ニンジン嫌いと一緒」と事も無げに言った。同校の児童に対する今の思いを聞くと「(学校側の)大人を相手にしていた」。事件については「謝罪はしない。自分たちの主張に感化された人がいる以上、裏切れない」と強弁した。

 

■「タブーにびびる世間変えた」自負

 

 公判の傍聴席には、大阪府門真市の飲食店経営者の男性(55)の姿があった。09年の朝鮮学校襲撃事件などで有罪となり、服役した。今は、在特会の元会長が代表となった政治団体の選挙活動などに前述の被告と共に関わりつつ、3軒の飲食店を営む。

 「10年前と考えは何一つ変わっていない。在日は最も身近に日本人へ不利益を与えている。だから、ひとくくりにして出て行けと言う」。大阪にある繁華街のビルの一室に構えた店で、飲食店経営者は取材に応じた。

 水商売の世界で働いて30年余り。一時は10軒以上を経営し、中国に進出した。現地で反日デモに直面して06年に帰国後、在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)などに直接街宣を仕掛ける在特会を知った。「『これや!』と。従来の右翼と違い、普通の市民が自らを危険にさらして行動する姿に美徳を感じた」

 逮捕や服役は気にせず、培った人脈と才覚でどう転んでも食べていく自信はあるという。「仕事と政治的主張は別物」と強調し、「在日コリアンの女性も雇い、自分は慕われている」と話した。

 飲食店経営者は、時に笑顔を交えて家族の話題も披露した。90代の母と2人で暮らし、自身に3人目の孫が生まれたばかりだという。記者には「いい質問しますね~」とくだけた物言い。2時間余りの取材で会話が途切れることはなく、ネオン街の話術が垣間見えた。ただ、あの日、朝鮮学校にいた児童への謝罪はなかった。

 この10年、「嫌韓」の主張がメディアや政治家の間で台頭し、強硬な右派論者も次々と登場した。16年、東京都知事選に出馬した在特会の元会長は11万超の票を集めた。飲食店経営者は、「事件の頃、僕ら以外にそんなことを言う人間はいなかった。世間は『タブー』にびびっていた。世論を変えるきっかけをつくった」

 冒頭の裁判。地裁は11月末、被告の男に罰金刑を宣告したが、拡声器での訴えに公益性を認めた。閉廷後、被告は「差別目的は否定された。保守世論を下支えするため、これからは選挙や」と勢いづいた。

 

朝鮮学校襲撃事件】2009年12月4日、京都朝鮮第一初級学校に在特会メンバーら11人が押しかけ、約50分間にわたってヘイトスピーチを行った。うち4人は威力業務妨害罪などで有罪が確定。後日、同校周辺であった2度のデモ行進でも差別発言が乱発された。民事裁判で在特会側は、同校による隣接公園の「不法占拠」への「意見表明」と主張したが、京都地裁判決は「表面的な装い」と退け、人種差別と結論付けた。大阪高裁も地裁の判断を支持し、高額の賠償命令などに加え、民族教育の重要性を積極的に評価した判決が最高裁で確定した。

 

〈連載「ヘイト追跡 朝鮮学校襲撃事件10年」 全4回の2〉

 

※おことわり 連載記事には、在日コリアンを対象にした民族差別に該当する文言が複数登場します。京都新聞社は、差別の実態を共有するため文言をそのまま報道します。あらゆる憎悪犯罪や憎悪表現を許さない社会をつくる一助とする目的です。

(引用ここまで・強調は引用者)



「差別ではない、正義の闘いだ、批判批評だ」と言えば差別が大手を振って市民権を得る光景。拉致問題さえ持ち出せば、朝鮮・朝鮮人を幾らでも叩くことが許される光景。数十年前から全く変わっていない光景だ。

連中の行動が娯楽的差別目的(月光仮面ゴッコみたいなもの)であること、政治団体を標榜したり選挙に打って出たりしてレイシズムを公共の場に持ち出す手段としていることが、マイノリティから見れば、あるいは初級的な知的鍛錬を得た者であれば明らかであるのに、こともあろうに裁判所が、公共性があると認めたわけだ。

まったくもってどうしょうもないことだが、私は数年前から日本の司法には完全に絶望しており、裁判所による人権救済に何らかの期待をするほうが間違っているという結論に達しているので、裁判所の判断について言及することはしない(マジョリティのなかで勉強ばかりしてきて社会経験が無く、多数者専制を宣言して憚らない安倍政権の下僕としての生存競争から無縁ではない連中が裁判官である。少数者の人権を救済する発想が出て来ると期待するのが間違いである)。


レイシストは相も変わらず、「○○人が嫌いだ」ということをひけらかす自由があると言い放ちふんぞり返っている。今回のインタビューでもそのように言い放ったし、彼らはいつでも、そのような『自由』を侵害するなと主張している。

○○人が嫌いという人間個々の内面を云々するつもりは無い。たまたま近所に住んでいた○○人『個人』の素行が悪いのを見てその『人種』に嫌悪を持つ、あるいはネットや雑誌で○○人を蔑む情報を日々収集してそのような視座を獲得する。いろいろなパターンがあるだろう。

一部の個人を見定めて全体をDNAで一絡げにしている時点で、救いようのない思考回路であるが、その○○人が嫌いという発想に対して、同じ○○人の個人には、責任も無いしやりようも無い。取り合う義務も無い。いろいろ思うことはあるが、しょうがない。

 

しかし、「○○人が嫌いだぁ!」と言って回り、書いて歩き、○○人を嫌う根拠、醜い事例を散々あげつらい、他者に理解や共感を取り付ける行為は、果たして自由なのだろうか?

 

これについて、私は数年前、駄文を連ねたことがある。△△が嫌いだ、という駄文である。拙い。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20111028/1319772824

(△△が何か知りたい方はリンク先からご覧ください)


私がこれを書いて既に8年経った。私の△△嫌いは今も相変わらずである。これを書いた時点で、人生で△△を口にしたのは2度きりだが、それからも一度も更新されていない。未だ2度だ。その2度ともが、辛く、思い出したくもないものだ。

 

私は△△が嫌いであることは間違いがない。時に狂気すら覚えるような△△嫌いだ。しかし△△が好きな者(たとえば私の家族)に向かって罵声を吐いたり、周囲の△△好きを矯正して嫌いにしようとしたり、普段△△を出している食堂に行かない、などということはない。私が△△が嫌いなのは私の自由だが、周囲が△△を好きなこと、それを受け入れていること、それで営業をすることも、まったくの自由だ。

仮にこれが、△△を喰っている場所に出かけて行って「△△を喰うなんて人間の所業じゃない」とほざいたり、△△を出している食堂に罵詈雑言を仕掛けたり、△△の工場労働者をディスったりすると、侮辱とか名誉棄損とか威力業務妨害とかの刑法犯に引っかかろうし、幸運に引っかからなくてもハタ迷惑この上ない行為である。いい大人であればやってはいけない。

 

件のレイシストの例えにしても、仮にニンジンが嫌いなら嫌いで結構だろう。個人の内部に留まる限りは自由である。多少食生活に偏りが出るだろうが、それは個人の責任だし、社会にとってはどうでもいい。

しかし、みんなでニンジンジュースを飲んでいるところに出かけて行って「お前ら気持ち悪いよー、家に帰れよー」とほざいてみたり、食堂で「俺はニンジン嫌いなのにこのカレーに入っているから代金を返金しろ!」と強請ってみたり、「ニンジンを給食から叩きだせぇ!」とアジってみたり、果てはニンジン農家に出かけて行って「なんでこんなの作ってるんだよ!」と嫌がらせをかけてみれば、早速警察が飛んでくるだろう。ただそれだけのことだ。それも理解できず、乱暴狼藉の限りを尽くし、ニンジン嫌いの何が悪い、とふんぞり返っているのが件のレイシストだ。

 

くどくど書いたが、結局のところ、自己の嫌悪感を外部に発散し他者を扇動すれば、いさかいの種になる。それが社会の少数者に向かえば排除排斥の種になる。だから差別扇動は許されない。ヘイトスピーチは許されない。

 

 

このようなことを想うとき、つい数十年前のルワンダでの出来事を思い出す。○○人が嫌いだ、○○人を排除しようと発散し続けるとどういう社会になるか、という人類としての教訓である。ルワンダでは1990年代初頭、多数民族フツの強硬派が出資したラジオ局が設立された。そこでは明るい音楽とともに、少数民族ツチを排斥しようと、日々呼びかけられていた。毎日のように「ツチはゴキブリだ」「立ち上がれ」「殺せ」と扇動していたのである。


千の丘自由ラジオのヘイトスピーチ Hate-speech excerpt from RTLM - Radio Télévision Libre des Mille Collines (1994)
https://www.youtube.com/watch?v=EobbnePn3qw 

それに感化されたフツらが、何の罪悪感も感じずにツチを殺しまわった。虐殺された人数は80万人とも100万人とも言われる。


ルワンダ虐殺の被害者映像と煽動者たち
https://www.youtube.com/watch?v=XqSxVedhnAg

翻って現在の日本社会。ひとに向けるには余りにふさわしくない悪罵が、朝鮮人相手にはやすやすと口から出る。あるべきモラル、倫理観、公共心が、朝鮮人相手には薄まる現在の日本社会。現在の状況がルワンダの前夜にあるとは思いたくもないが、現在の状況は、見事に符合している。

 

 

私を含めた在日朝鮮人が、「朝鮮人が醜い」「朝鮮人はろくでもない」という悪罵を吐かれる、人種に対する攻撃に遭うということは、言うまでもないが、この社会でここ最近に始まった話ではない。思えば私の人生の、それこそ幼少期から付きまとってきた。朝鮮学校への通学途上、電車やバスの中で殴られ、路上でヤジられ、朝鮮人だとバレれば笑われ、けなされてきた。しかしそのような行為に遭えば、周囲の日本人の大人たちが助けてくれたことも多かった。バスの中で私を殴った男子高校生に「やめて!」と制止してくれた女子高生のお姉さん、私をヤジったオッサンに「なんやお前」と割って入ってくれたお兄さん、すべて記憶に鮮明に焼き付いている。だから幼少期の私は、そのような乱暴を働くのがごく一部の堕落者や愚者の行いであると理解できたし、圧倒的な多数はまともな大人であって、私はそんな社会を信頼してきた。

幼少期からつい十数年前までを思い返せば、「差別はいけない」「国と国とにいさかいがあっても人と人との間柄は関係ない」という、当然のコンセンサスは形成されていたと思う。

しかしレイシズムは、いまや街中で何のためらいや良心の呵責もなく吐露できる感情となり、その羅列のみで一冊書いたら書店に平積みで置かれるようになった。行政が推進し、立法が放置し、司法が追認する感情となった。虐げられても助ける周囲はおらず、逆によく言ったもっとやれと喝采が送られ、味方をしようものなら一緒になって叩かれる。私の半生だけでもこの社会は堕ちるだけ堕ちた。レイシズムを社会が必要とし、人々が渇望した結果なのだろう。

 

差別は人間の生存本能や防衛本能に根差した、太古からある感情であり、社会の形成とともに形を変えながら維持された社会構造なのだという。原始的なものであると言える。その原始的なものが、現代になって、人間の理性や普遍的な権利意識によって淘汰されるのではなく、逆に研ぎ澄まされているのが今日の日本社会である。グロテスクな社会に成り下がったと言える。

 

「自分のなかの差別心に向き合わない者の行列だ」と、件のようなレイシストを評する人がいた。差別心を治癒する教育や啓蒙が必要だ、と。半分当たりだが、半分間違いだと思う。教育や啓蒙の不在は完全に同意するが、差別はそれが足りて早速根絶できるほど、人間社会にとって根の浅いものではない、と思っている。

差別心は誰の心にも、私の心の中にも、確実に存在する。そしてそれは死ぬまで治ることはない、とも思う。所詮、99.9%の人間は、仏や聖人君子のような心にはならない。

しかし私は、この世の差別は根絶されないが、差別なき社会を願わずにはおれないと思い描き、自らの差別心が社会に溢れないように理性や公共心を持って行動しよう、とは常に思っている。

単純で下品な例えをするが、セクシーな服装の女性が目の前に現れたからと言って、いきなり手を出したりパンツを脱いだりしないだろう。それが理性であり公共心である。大人であれば当たり前にそう行動する。しかしそれができない幼児性が犯罪に導く。

ヘイトを吐くか吐かないかも結局、おのれの差別心の吐露を理性で抑えるか、本能でダダモレさすか、の違いなのだろう、と思う。


社会をもって朝鮮人を虫けらに見立て嗤うことに熱中している昨今、余程の学習や知性が備わっていない人間は「朝鮮人が嫌い」と属性で括る思考回路に導かれていくのだろうと思う。何らかのきっかけで朝鮮人が社会的な迫害の対象になる環境は十分に備わっていると言える。最後は理性だけが、その垣根を超えることを抑える要素になると思う。

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  • まめ

    こんばんは
    コメント失礼します

    差別心は誰の心にもありますね。
    それを恥ずかしく思い、受入れ難く随分モヤモヤしましたが(若い頃)、もう仕方ないのでそういうものだと自分を認めることにしました。

    何故そこに自分の感情がひっかかるのか、客観的に見つめると、(自分は生命を脅かされるほどの理不尽な扱いや恐怖を与えられた事はない(はず)ので)育ちの中で、回りの雰囲気や何気ない言動を、同じく何気なく受け止めてきた結果のように思えます。
    幼い思考で、そこに色々肉付けされた感情が根っこにある気がしています。

    しかし、もう幼くはないので物事を俯瞰したり、広く情報を得ようとしたり、物事の真贋を見極める努力をしたり、更に取り込んだ情報を咀嚼しようとする程度の能力はあるわけです。
    結果として、単純な思考にブレーキをかけたり、思考を深めることが知性なのだと思うのですが、
    難しいことなのですかね。
    どんな情報をどこから得るのか。
    色々、、ウツクシイクニでは難しいことになっているのかなと。

    教育と、情報は、価値観と人格形成の要だと思っています。
    教育については、法律ベースで変えられてきていますが。

    昨年読んだ本「1★9★3★7」が、かなり心に残っています。
    史実は1つ。
    解釈は多様でもハッタリはだめです。
    本当に、どの口が…?と…

    だんだん記事からそれました。
    長文失礼しました。

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クラウドファウンディング:「ヘイト」に対抗するための言論誌を応援します。

また数か月ぶりの更新となってしまった。


仕事が忙しく気が回らない、というのもあるが、何よりもこの社会に何かを問うことの意義を、私自身が見失っている、ということが最も大きい。

例えば、日本の首相は連日のように己の醜さと能力の無さをひけらかしているし、日本の政治風景、基本的な人権の侵害度合いは、日を追うごとに酷さを増している。公文書は隠ぺいか改ざんか不作成が平常運転になったし、政治家は開き直れば責任を取らなくてもよくなったし、頼まなくても自分らに気に入らない映画や言論は愚民が寄ってたかって潰してくれるし、代わりに朝鮮カルタを展示して「表現の自由だ」とふんぞり返る者には方々から賛辞が送られる。人々は社会の分断を促進し、仮想の敵を作り上げ、あげつらうことに熱中している。来年東京五輪を迎えようというのにこの「発展途上感」は凄まじい。私の眼には、この世は本当に21世紀なんだろうかと錯覚するほどの、社会の劣化を見て取る。
しかしそれが日本のテレビで問題になることは少ない。自国の社会の劣化具合よりも韓国の法相がどうだとか、朝鮮のミサイルがなんだとかのほうがよっぽど重要なようで、朝5時のニュースからニュースを飾る。昼間のワイドショーも「カンコクガー」と言っていればいい。楽な商売である。

例えば、国会で障がい者である議員が、トイレの個室が使いづらいので基準を見直してほしいと意見したことを取り上げたニュースには、障がい者ヘイトと言うに相応しい見苦しいコメントがベッタリ貼りつき、それに賛意を示す「いいね」が連なった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191108-00000074-kyodonews-pol

例えば、首里城が火災に遭ったら、早速「韓国人の放火だ」「ざまぁみろ」というクソを煮しめたようなコメントや動画が溢れた。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1017781.html


https://www.youtube.com/watch?v=WKx9vG_WCx8

本当に探す苦労など無く、幾らでも挙げることができるヘイトの数々。それに対する、あるべき抵抗感や嫌悪感も、日々同種のヘイトが巻き散らかされる圧倒的な量的充実によって、私ですら、もう何とも思わなくなってきた。恐ろしい感覚の麻痺である。

こんな世の中になるとは、正直思わなかった。

約9年前にブログを立ち上げたときは、在日朝鮮人との無接触から来る誤解と偏見を少しでも解いていけたら、という思いだったが、社会の劣化スピードが速すぎて、最早そんな初心など、早い段階で飛んで行ってしまった。今思えば、その初心とやらがどこまで青臭かったのか、と。嘆かわしいまでの「先見性の無さ」であった。

少数者に対する差別など、マジョリティである日本人男性健常者(と敢えて書く)にとってはどうでも良く、逆に自分らへの分配が耳垢程度間引かれることに対する嫌悪感のほうが強いようだ。日本社会はいまや、理性というパンツを投げ捨て、本能を丸出しにして街中を闊歩する連中に、称賛すら与えられる、グロテスクな社会に変質したのだ、と思う。少数者の自由を慮るより、多数者(と思いこまされている我々と同種の弱者)個々人のみみっちい分け前を守るほうが正義なのだと吹き込まれ、それを妄信する者たち。そのような者らの前で、この社会の劣化を、いち在日朝鮮人がカナリヤのように鳴いて知らそうとしても、最早まったく価値がない。もう余りに手遅れだ。

ただ、私にも息子がいる。

これ以上この社会の劣化が進めば、自分の生存権すらやすやすと差し出さざるを得ない状況が来るのは目に見えている。我が家族がいざ殺されようとする前に、息子が「アッパ(お父さんの意)、こうなる前にアッパは何をしていたの?」と訊かれて、恥ずような行動だけはしてはならない。そのような気概のみで何とか書いている。

 

さて、この社会に蔓延したヘイトとの闘いについて、当然少数者一人ひとりの力など取るに足らず、ヘイトを吐くことに羞恥心が不要となった世の中に響くことはない。文字通り多勢に無勢である。
ただ、対抗言論を絶えさせず、常に抵抗し、ヘイト社会への進行を少しでも遅らせる行動には、相変わらず敬意を覚える。ヘイト本が100冊並ぶ脇に、良質な書物が1冊でも並ぶようでないといけないと思うし、そのような書物を応援したいと思う。
そんななか、「ヘイト」に対抗するための言論誌を作りたい、とのクラウドファウンディングがあったので紹介したい。

https://camp-fire.jp/projects/view/206457

呼びかけには、こうある。

私たちは今、隣人に対する「ヘイト」の蔓延する社会に生きています。外国人・移民に対するレイシズム、性差別、障害者差別などが複雑に絡み合い、殺伐とした不寛容が拡がっていく社会。そんな状況を、私たち自身で乗り越えていくための批評/文学/学問の新雑誌を創刊します。

 

実際にどのような雑誌になるのかは分からない。ヘイトに対抗すると大見得を切りながら羊頭狗肉が如くの『残念な』筆致に落胆したことも一度や二度ではないが、彼らに見えているこの社会の現状には同意するところが多い。私も応援してみようと思う。早速少額だが振り込んでみた。創刊号の読了後には、感想文の一つでも書いてみようと思う。微力ではあるが、この社会の劣化が、すんでのところで踏みとどまることを願っている。

(付記)
以前書いた稿(https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20181203/1543846906)の続編を執筆中である。実はこの夏も韓国に行っていくつか書店を回ってきた。そのレポートである。数日中には稿をアゲる予定である。

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  • ナグ

    金ちゃんさん、私の思っている事、感じていた今の日本の危機を全て代弁して頂いた気がします。現在も豪に住んでいるので日本の事はネットで見る程度ですがそれにしても酷い状況でとても信じられません。平気でヘイトを垂れ流してそれを恥ずかしい事だと気づかない人たち、それに賛同すれば賞賛され持ち上げられる芸能人達。豪にも人種差別はもちろんありますがそれを公言する人間は稀です
    人種差別主義者イコール無教養な人間とされるからです。まして特定の国を攻撃してその人種を殺せなどとデモをするなんてありえません。日本に住んでいる在日の同胞、子供たちがどれほど辛い思いをしているかと思うと心が痛いです。少額ですがファンディングに寄付させて頂きました、まともな考えの人間も日本にまだ居るのだと言う事が救いです。

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雑感:日本には民主主義は無理だ、という結論に達している。

開票10日前に書いた 通り、参院選は自民の圧倒的な勝利に終わった。https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/2019/07/10/162830
大阪の結果も予言通りの最悪だった。維新―維新―自民―公明。良心的な政治家である立憲と共産の候補は共に敗北。戦争と富の独占を是とする勢力が、全ての議席を持って行った。

為政者側は、今回の選挙を『存在しないもの』として徹底的に隠し、前期間の国会議論からも逃げ回り、争点をボヤかせた。テレビも徹底的に報道せずやり過ごした。この関係は共犯関係と呼ぶに相応しいが、歴史的な犯罪として裁かれるべきものだろう。少なくとも早速来年の歴史の教科書には載せるべきレベルの話である。
そして大きくは、為政者側が今回の選挙によって、再び、そして決定的な成功体験を得たことだ。国民は選挙を隠せば選挙に関心を示さず投票行動も起こさない、ということだ。これは三年前の参院選でも試されたことだが、改めてこれが効くことを学習したのだ。業界団体の組織票を持つ自民が、この決定的な成功体験を得たことは大きい。
SNSでは、「自民が議席を減らした」とか「公示前勢力より弱体化した」とか「改憲できなくなった」とか言って、ささやかな収穫を喜び合う筆致で溢れたが、余りにヌルイ現状認識で泣けてくる。

心あるネット上の市民が、自民に抗ってSNSで投票を呼び掛け、SNSで比較的まともな情報を得て投票行動を起こした者も居ただろう。しかしマスコミに圧力をかけてテレビを支配し、選挙を無き物にした自民は何議席だったのか。立憲野党を全部足しても全然歯が立たない。世間のSNSが果たす役割など、テレビに比べれば取るに足らない。人生のイベントが相対的に少なくて高投票率を叩く高齢者や専業主婦層の、いったい何割がSNSを見るのか、それがテレビ対比で何%なのか、想像だけで圧倒的な差であることが分かる。その絶対的影響力のあるテレビが選挙を報じないわけだ。そりゃ低投票率にもなろうし組織票タップリの自民が勝つ。当たり前だ。

前にも書いたが、私は、日本では残念ながら民主主義は無理だ、という結論に達している。民主主義という制度が要求するレベルに達していない者の構成比が余りに高すぎて、民主主義を維持することが出来ない、と認識している。

間接民主主義が機能するためには、その代理人を選ぶ主権者自身が、①正しい情報を②正しく理解する能力が必要である。①正しい情報かどうかを見抜く能力(リテラシー)とは、溢れる情報を疑ってかかり、真贋を見抜く能力である。②正しく理解する能力とは、歴史及び人類の普遍的価値を学習し、相互に尊重できる能力のことである。そして、至極当たり前のことだが、③その能力を駆使して、ちゃんと代理人を選ぶという行為を放棄しないこと、例えば自分の主義に合致する代理人が居なくても少しでもマシな代理人に投票するなりして自分の意思を反映させる行為を怠らないことが必要である。これら3つの側面からの行動を主権者が絶えず行って、自らの間接民主主義を維持する必要があると考える。

そう考えてみた場合、現状はどうか。

 ①為政者は、逆立ちしても正しい情報を発信していない。安倍の「口から出任せ」をマスコミが「垂れ流し」、のちにファクトチェックすらしないわけだから、マスコミが機能を失っているのは言うまでもないが、それではその情報を受ける側が違和感から行動したり、真相が何なのか自分で調べたり、「おかしいのではないか」と声を上げたりするだろうか?ほとんどない。何もなかったかのように静かなものである。

 ②物事を正しく理解するために必要なのは、端的には学習量という言い方ができるが、具体的には「何を尊び」「何を追求するか」という価値基準を学習の蓄積によって個々が確立し、そこを基準に理解する、ということである。その際の大事なファクターは、「歴史」「普遍的価値」である。歴史を知ることは、人類の成功体験失敗体験を踏まえ失敗を繰り返さず成功を収める近道になるし、人類が数多の犠牲をもって追求してきた基本的人権や民主主義や平等思想といった普遍的価値を踏まえることは自分たちの代理人を選ぶ基準にもなるし、時代錯誤的な差別主義選別主義排外主義人治主義と対峙する基準にもなる。人類の歴史と人類が求めてきた価値を貶め乱暴で稚拙な基準を弄ぶような代理人、資本主義原理や新自由主義ばかりを追求するような代理人から政治風景を守る確かな知識にもなりうる(政治が再分配の機能と理解する場合、資本主義の原理に任せることを主張するような政治家は、資本家の手先や利益誘導の代理人でありこそすれ、一般多数(庶民)の代理人にはなりえない)。

 ③投票率が5割にも満たないことの愚かしさは、私が戯言を重ねるまでもない。税金一つ基地一つ原発一つ、政治の挙動は自らの生活や環境に密接に関わるというのに、投票するという当たり前のことすら軽んじられる。それこそ、投票という最低限の政治参加さえ冷笑する空気が社会には確実に存在し、政治に行動を起こす人間を冷めた眼で見るのが一般だし、政治の話題など出そうものなら途端に「しらこい」空気が流れる。余りに嘆かわしい状況である。

 

恐らくこれまで試されたあらゆる社会制度の中で最も人類一般(庶民)の理想に近い制度であると現時点では思われる間接民主主義制度だが、それも構成員次第なのかな、と思う。私が知る限り、米国や仏国で多くの血を流して確立された制度、韓国で軍事独裁と対峙し何千人も死んでやっとの思いで手に入れた制度、この国で会話の節々で嘲笑の対象になる朝鮮ではまだ手に入れられていない貴重な制度が、この社会では構成員自身の手によってことごとく踏みにじられている。

 

その原因としては、選挙制度の不完全さによる諦念、自らが血を流して獲得していないという自史から来る当事者意識の欠如以上に、日本社会に馬鹿が揃い過ぎているのではないか、という疑念が、私には払拭できない。

 

これだけ市民の生活と人権を後退させ、好き勝手に自分の友人に利益誘導し、記録を残さず資料も捨て改竄し将来の検証可能性さえ無くし、法の支配を否定して徹底的に人の支配を強化し反目する者を獄に繋ぎ協力する者を逃がし、司法人事にも露骨に介入して破天荒な判決や決定を乱発させ、三権分立立憲主義を否定して『立法府の長』として君臨した、前代未聞の為政者及びその政党への審判が、たかだか10議席減で、投票率は5割に満たないのだ。

 

これはこの国の民主主義の構成員に馬鹿が揃い過ぎている何よりの証明であるし、現在の社会が覆う空気をナチ前夜の空気や大日本帝国末期の空気と対比して危機感を覚える人間の余りの少なさもまた、馬鹿の多さの証明となっている。余りに歴史を知らない。歴史は中学校で習うもので全てだと勘違いしているのではないかと疑ってしまう(その中学の歴史も覚束ないのが安倍であるが)。

そんな貧しい政治風景であるが、政治の成果物(正のものばかりでなく、負のものを含めて)の、最も影響を受けやすい階層の一つが、我々在日朝鮮人である。
資源が再分配される際には最後まで分配が回ってこず、公的扶助から排除する際には最も早く排除されるのが在日朝鮮人である。

単純に資源を均等に分配するより、事細かに要件を拵え選別してから分配するほうが、余計な資源を喰うことくらいは、幾ら計算ができない人間でも理解できると思うが、余計な資源を投じて知恵を絞って、我々在日朝鮮人に分配されないようにするという、醜悪な政治風景がここ何年と続いてきた。社会に閉塞感や不満が蓄積されてきたとき、あるいは為政者の疑獄から目を逸らさせたいとき、社会に「敵」が必要となる。ガス抜き・鬱憤晴らし・資源配分の妬み嫉みの対象に、多勢とは違う『血』を引っ張り出す、ということである。キタチョーセン・朝鮮総連朝鮮学校・そして在日朝鮮人。韓国も然り。これらを「敵」にし、取り締まったり、あげつらったり、貶めたり、資源を分け与えなかったり、取り上げたりという、「制裁政治」「選別政治」が、ここ数年極端に増えてきた。朝鮮・韓国、及びその人間・属性が、政治の直接的な攻撃によって、あるいは政治家の扇動によって散々尊厳を踏みにじられ、それが大衆の安易なナショナリズムの喚起による高揚、ひいては政権の浮揚に利用されてきた。

 

私は既に、この社会に絶望しているが、この絶望を共有できる人間がほぼ見当たらないこともまた、この絶望を加速させている。とことん堕ちるところまで堕ちるだろうが、その過程で私や家族の尊厳は、また醜悪な大衆の娯楽の中で消費されるだろう。
余りに嘆かわしい。

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  • はい差別な
    負けた腹いせにそういう負け惜しみ言うからサヨクは一般人に支持されない

  • 照橋

    民主主義が無理というか、日本の政治はアメリカの犬にならないと長続きしないように出来ている。(アメリカがある程度日本の政治とマスコミをコントロールしてる可能性が高い)戦後長続きした政権は、中曽根政権、小泉政権、第二次以降の安部政権と全てアメポチ政権ばっかり、マスコミも郵政民営化(外資系アメ企業に日本の利権を売り渡す政策)を進めていた小泉政権のことは全く叩かず、第一次の安部、麻生政権は逆に上げ足取りのように連日叩いていた、それが再び安部が政権を取り、アメポチに傾いたとたんマスコミは安部のことを全く叩かなくなった。逆にアメポチ政策に反対していた中川昭一はなぞの急死をとげるし、古くはアメリカの意向を無視して中国と国交正常化を果たした田中角栄は、CSIS(アメリカの組織)のメンバーに嵌められロッキード事件で失脚。あなたが推してた、令和新選組の山本太郎がかりに総理大臣になって仮に公約を全部果たそうとしたら、1謎の死をとげる、2嵌められて失脚する、3マスコミになぜか叩けれ政権が長続きしない、どれかだと思う。この国はアメリカという国がなくならない限りまもとな政治はできないようになってる。

  • id:rawan60

    >はい差別な

    差別ではありません。
    差別に無自覚な社会。差別に晒され被害を受けることへの怒り、嘆きが綴られています。

    >負けた腹いせにそういう負け惜しみ言うからサヨクは

    政権や社会批判に対して、考えることも、まともに反論することも出来ずに脊髄反射的に「サヨク」嫌悪だけを吐くのは「負け惜しみ」にさえなりません。


    照橋さん
    「どうすれば政権が長続きできるか」を論じているのではありません。
    上述してあるように、どんなに醜悪で愚かであろうが、あなたがいう「アメポチ」であうが、それを望み、安易に政権を握らせているのは、この国の国民でしょうということが書いてあります。
    ちなみに、1933年にドイツを支配下に置いたナチスは、1945年に破滅するまで12年間政権についています。

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ビジネス講習のディベートネタにレイシズムを使うって、どういう神経をしているのか?

サラリーマンである私は、企業内研修を受講する立場になることもある。流石に新入社員ではないのでビジネスマナー的な研修はもう流石に回ってこないが、例えば交渉術とか論理的思考力とか、外部講師によるビジネススキルの研修というのは、人事課から多頻度に「受けろ」と案内が回って来る。

スキルを与えてもらえるのはありがたい。しかしここ数回の受講では、教材の記述や講師の言動に、ビジネスはともかくとして、普遍的な価値観、即ち人権感覚とか互いの自尊心を尊重するとか人間としての基本的な価値に対して挑戦していることが目につき、とても気になっていた。私は、たとえ利益を追求するでも、そこに関わるひと同士、相手をいたずらに貶めたり、白を黒と言い包めたりというのは、いくら企業を代表して交渉し、看板を背負って名刺を切るとしても、決してやってはならないものだと考えてきた。松下幸之助の「スーパー正直」を信奉するようなピュアなビジネスマンなどでは決してなく、薄汚れた仕事も散々重ねてきた私だけれども、仕事に人間性を奪われてはならぬ、とずっと考えてきたから、正直何度かの受講で辟易していたのだった。

先日、その何度目かのビジネススキル講習があった。そこではディベートの実地講習ということで、あるいはの立場というのを、受講者がランダムに当てがわれ、その立場で理由提示をしたり反論したり納得させたりして、説得力ある交渉を行う、というものが行われた。自分の嗜好や主義主張とは関係なくがランダムに当てがわれ、それに基づいて即興でディベートを行い、最後に受講者全員の挙手によって、どちらに説得力があったかの投票が行われて対戦が終わる。個人の思想信条を脇に置いてでも会社の立場で交渉しなければならないビジネスマンとしては、一応は必要なスキルなのだろうか。よくわからないが。

最初は「旅行をするならA海外旅行か、B国内旅行か」「食べ盛りの息子をレストランに連れて行くならAバイキングか、B爆盛定食屋か」的な、和やかなネタで始まり、だんだん「早期定年制度の導入にA賛成か、B反対か」などとビジネスライクな設問に移行していったのだが、そんななか同僚に出された設問に、私は言葉を失った。

 

「これからの店舗スタッフはA外国人も採用すべきか、B日本人に限定して採用すべきか」

f:id:dattarakinchan:20190717204758j:plain

 

掲げられた設問は、一言で言えば人種主義・レイシズムを選択するかどうか、である。

店舗スタッフをガイジンだからと一律に間引くか、(まともな)ガイジンも採用していくか、という二者択一の設問である。こんなものは議論するまでもなく、結論は当たり前に瞬時に出る。国籍や人種で一律に採用を制限するなど、21世紀の社会、しかも先進国たる日本に属する企業(それも零細企業ではない)で、議論する余地があろうはずがない。ビジネススキルだディベートだ以前、常識以前の問題である。

 

それぞれの立場を当てがわれた同僚らによって、ディベートは始められたが、私はとてもまともに聞いていられなかった。自分も気づかぬうちに「ありえない」「余りに馬鹿げている」と独り言を重ねていた。周りの同僚も私の変化に気づいて心配していたが、根本的に何に私が怒っているのか理解していないようだった。

 

このディベートを、レイシズム側にも発言権を平等に与えて議論を深める、ということは何を意味するだろうか。

「日本人に限定して採用すべき」理由、「外国人は採用すべきでない」理由を、知的バックボーンもろくに無い人間が、いたずらに羅列することを意味する。何をどう工夫しても『選別主義』『人種差別主義』に帰結するしかない議論。それを軽々に。しかもガイジン(私)を前に行うことになる。たかがビジネススキル講習のネタとして。

実際を当てがわれた同僚が、ガイジン採用のリスクがどうだ、日本人だったら安心がどうだと、苦慮しながら、ではあるが愚にもつかない理屈を並べていた。まさかレイシズムの正当化を即興でさせられるとも思っていなかったようで苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。対戦は当然にに軍配が上がって終了したが、講師が「に説得力を持たせようと思ったら、これだけ小売業に外国人が増えている中で、ホスピタリティやおもてなしの視点から主張したほうがよかったかもしれないね」「日本語もままならず教育コストが増えるとか」などと、が勝つためのディベートの方策を得意げに解説して見せたが、ただ単なる差別の方便、である。

醜悪そのもので、その光景をまともに正視できなかった。

 

また朝鮮人が重箱の隅を綿棒でほじくり返してイチャモンをつけていると思われるかもしれない。しかし想像してほしい。これが仮に「障がい者も採用すべきB健常者のみ採用すべき」「A女性も採用すべきB男性のみ採用すべき」「被差別部落出身者も採用すべき被差別部落出身者は採用すべきでない」だったらどうか。これをディベートだ頭の体操だと切り分けてまともに進行できる人間がどれだけいるか。こんな愚かなディベートを掘り下げて選別・排除する理由をいたずらに積み上げることに何の価値があるのか。議論のネタなら、技術の試行なら、知的探求のための材料であれば、あるべき倫理観や踏み外してはならない常識も脇に置いていいのか。

 

私はそうは思わない。

 

この愚かな試みが眼前で繰り広げられていたとき、私は以前youtubeで見た、ある動画を思い返していた。https://www.youtube.com/watch?v=Pi2rHOhPZZ4


知的興味を培養していく過程で、痛覚が無い人間が頭を使って歩くという「気持ち悪い」CGを作った技術者に対し、宮崎駿監督が「私の知り合いの身体障害者を思い出す」「痛みに対する想像力が無い、極めて不愉快だ」「生命に対する侮辱だ」と喝破する場面である。ビジネススキルとか知的興味とかを追求して、人間性を失ったのなら、それに何の価値があろうか、と言っていると理解する。この怒りに、私もまったくもって同意する。

 

知識や技能を持つ者が繰り出すネタの、知性と想像力の無さに気づくことが多い。

差別主義をダダモレにして、それでもビジネスが大事だと胸を張る。

私はそうありたくない。御免被る。

雑感:また陰鬱な選挙がやって来る。

また選挙の季節がやってきた。私にとっては陰鬱な季節だ。

 

それは私に選挙権が無い、ということも一因ではあるが主要因ではない。

せっかくの間接民主主義の機会である選挙権を有権者の40%近くが放棄しているという嘆かわしい現状に、言いようのない陰鬱な気持ちを禁じえないのである。

 

肝心の残る60%の投票行動自体にも疑問だらけだ。自分の投げた票がどのような効果をもたらすのかというのにまったく想像力を巡らせずにただ単に会社や業界の指し示す候補者や政党に投票する者、かわいいとかイケメンとかおおよそ政治家を選ぶ指標になりえない基準で投票する者、その政党や候補者がどのような政策を掲げているかをろくに考えずに投票する者、既に保守政党ではなくなって久しいのに保守として自民党に投票する者、実際にその政治家が国会でどのような政治活動を行っているかを知らないのに投票する者、などなど。

この国の民主主義の構成員が、寄って集って自らの民主主義を破壊する様を見て、反吐を覚えずにはいられないのだ。

 

大阪は毎回、「お笑い百万票」と揶揄されるような不可解投票行動が続発するが、このままいけば、維新-維新-自民-公明、で大阪の4議席は決まりだ。私服を肥やす不良政治家ばかりを量産し、特に実績も無く、数値的な裏づけも無く、偏差値の恐ろしく低い人間を党首として掲げる、政治家集団の体を成していない維新に投票するなど、何をどう見ればそうなるのか、私にはレベルが高すぎてまったく理解できない。私は住民税と固定資産税で年間約50万円が維新行政に吸い上げられるが、朝鮮学校に通う私の息子の学びには、本当にまったく還元されないし、維新の政策に賛同できるものなどほぼ皆無だ。私からしてみればこれだけ払い甲斐の無い税金もなかなか無い。給与天引だから抗弁の機会さえも無い。腹立たしくて仕方が無い。

しかし何も考えていない能天気な大阪のオバチャンにかかれば、そんなことなどお構いなしだ。残念ながら二人とも受かるだろう。未だにインチキな橋下の亡霊に取り憑かれてでもいるのだろうか。反省の回路が無い大阪のオバチャンの成せる業だ。

逆に政治の腐敗を質し続けた共産党の議員とか、有能な弁護士たる立憲の新人などは、残念ながら落ちるだろう。大阪のオバチャンは日常的に大阪のワイドショーのヘイトに汚染され、ニイチャンネエチャンはそもそも選挙が何なのかも知らない。何の選挙なのか、選挙でどうなるのか、理解していない者ばかりで泣けてくる。

 

テレビは早くも選挙特番の番宣を繰り返しているが、言うまでも無くいまチカラを入れるべきは開票後の選挙特番ではなく、投票前の選挙報道である。この六年間の政治風景を振り返りつつ、未来に向けた政策の比較を行って、選挙民が公正な審判が下せるような材料提供をやるべきだ。ところがこの国は数十年前からどうなっているのか、政策批判は開票後に、という変な「協定」が結ばれているようだ。この国のマスコミは日常的にもまともに権力に対峙しないのに、選挙期間中にもその任を放り投げているのなら、彼らは一体全体何のために居るのか、何がメシの種なのか、本当に意味不明だ。ナチ下、あるいは大日本帝国下のマスコミの風景はどうだったか、いまのマスコミの風景とダブるのではないか、と考えるのは私だけではなかろう。

 

仮に私に選挙権があれば、今回投票する価値があると考えるのが、山本太郎率いる「れいわ新選組」だ。着眼点が庶民の方を向いていて、少なくとも業界団体とかアメリカ資本とかの御遣いレベルの政策を掲げる自民とは、政治姿勢に雲泥の差を感じる。気になったので政党のホームページを覗いてみた(https://www.reiwa-shinsengumi.com/policy/)が、庶民の立場からして、代弁者として推せる要素が様々あることには感心した。特に消費税の考え方や、沖縄・原発の切り口がハッキリしている。これまでの愚策で犠牲になってきた者を救護する、旗幟鮮明な姿勢は、既存政党には無い威力を感じる。次々に発表された候補者たちも、いま日本社会が抱える病理を知る当事者ばかりで、民主主義の構成員が代弁者として送り込むのに適した人材ばかりで、非常に好感が持てる。

しかしマスコミにはまったく露出が無い。既存マスコミには「山本太郎の熱狂」を伝える勇気がない。それだけ官邸の睨みが徹底しているのかもしれないが、とはいえ昼のワイドショーは今日も日韓間の貿易のいさかいを小一時間もかけて面白おかしく伝え、コメンテーターたちは病的な妄想の深さを競っていた。日本政府の挙、これ自体が選挙対策だと分かりそうなものだが、何度も何度もカンコクガーと唸っていた。本当に頭が悪くて救いようがないが、そんな時間を浪費する反面、選挙のことなど1ミリも触れない、まるで選挙など無いかのようである。

 

これは、皮肉とかではなく、本当に真面目に言うのだが、この国の構成員は民主主義の尊さが骨身に染みていないのだろう。それは日本が血を流して民主主義を獲得していないことがその主要因ではないだろうか、と本気で疑っている。それこそ多くの者の血を流して権力に対峙して民主主義を獲得したフランスやアメリカや韓国からしてみれば、これだけ権力が腐敗しきっているのに、こんなにも選挙熱が低い、というのはどう考えてもあり得ない現象だ。先に挙げた国の民衆は、日本の愚鈍な民主主義の構成員を、どのような生暖かい眼で眺めているだろうか、と想像してみる。まったくもって『理解の範疇外』だろう。いや、そもそもこんな呑気な政治風景は民度が低すぎると無視を決め込むかもしれない。それほどまでにレベルは低い。果てしなく低い。

 

このように、まったく盛り上がりに欠く今回の選挙だが、選挙権がないのに選挙の結果如何で人権や公の扶助の取扱が如何様にも翻弄されるザイニチ当事者の私からすれば、毎回の選挙結果は本当に気が気でない。切り捨てるときは真っ先に切り捨て、恵むときには最後まで恵まないのが私たちザイニチに対する人権だ。

これまでも選挙のたびに幾度となく、ザイニチを再分配の対象から外すと言って喝采を浴びた者が首長選挙で当選したり、ガイジンにも差異無く分配をしようとする行政官を槍玉に挙げて攻撃して政治的な功績を上げたり、という、端的に言えば「弱い者いじめ」が横行してきた。そしてこれがまた、この国の節穴の目を持った民主主義の構成員たちには本当によく効くのだ。「日本人の血税の使い道を正した」と。頭が悪すぎて死にそうになる。私をはじめガイジンが納めた税金および資源を全額返してからその言い分が初めてスタートラインに立つというのに、何をふんぞり返って偉そうにモノを言っているのか、と思う。社会の隅で息を殺しながら棲むザイニチを追いかけまわして供物にする前に、やることは手前にいくらでも転がっているだろう、と思う。

 

とはいえ、こんな泣き言をいくら弄しても、確実に選挙は訪れる。

少しでも私たちを含めた社会的弱者の存在が視界に入る政治家が選ばれて欲しい。

少なくとも集票のパフォーマンスの為に、私たちザイニチの尊厳を切り売りするような政治風景には、もう懲り懲りだ。そのような状況がこれ以上進まないように、と願うばかりだ。

 

まぁ、無理だろうけど。

日本には民主主義は無理だ。もう数年前から私は諦めている。
代わりに、「韓国を何とかしろ」とか「北朝鮮に帰れ」とかいう人間がいつものようにやって来るだろう。
それが即ち、日本には民主主義が無理だ、と私が語る理由の、何よりの証明になるのだが、まぁそれが理解できる人間の集まりなら、こんなことにはなっていないだろう。

【自己学習資料】自由朝鮮のための3.1宣言文 日本語全訳(若干の所感つき)

最近、朝米会談の決裂や、南北の蜜月ぶりが減退するのとシンクロするかのように、反朝鮮政府を標榜する組織、「自由朝鮮(旧称:千里場民防衛)」の動きが活発になってきた。過去には金正男氏の息子を保護して証言ビデオを拡散したことで有名だが、最近では在スペインの大使館を襲撃したテロ行為で名を上げた。

私は、現時点ではこの組織の評価は保留する態度であるが、この組織が今年の3月1日、すなわち「3.1運動」100周年に合わせて発表した宣言文には同意するところが多い。拙い朝鮮語能力であるが私自身で全文を訳出したので、朝鮮語と日本語対比で掲載する。専ら自分の学習用として訳出したものであるが、共有しようと思う。

 

 

자유 조선을 위한 선언문 - 2019년 3월 1일(自由朝鮮のための宣言文 – 2019年3月1日)

自由朝鮮ホームページ http://cheollimacivildefense.org/post/2019-2-28_%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%A1%B0%EC%84%A0%EC%9D%84%EC%9C%84%ED%95%9C%EC%84%A0%EC%96%B8%EB%AC%B8_63626/

 

 

(引用開始)

 

백년 전 오늘, 선조들은 무자비한 박해와 견딜 수 없는 치욕의 구조를 전복하고자, 독립과 자유를 외쳤다. 목숨의 위협을 받으면서도, 계몽시대의 전조를 알렸다. 여성과 남성이 몇 가지 양도할 수 없는 권리를 가진 시대이자, 공정하고 올바른 국가가 이웃과 조화를 이루며, 모두에게 안전과 행복을 보장하는 시대였다.

百年前の今日、先祖たちは無慈悲な迫害と耐えられない恥辱の構造を転覆させようと、独立と自由を叫んだ。 命の危険を受けながらも、啓蒙時代の予兆を知らせた。女性と男性がいくつかの譲れない権利を持った時代であり、公正で正しい国家が隣人と調和をなし、皆に安全と幸福を保障する時代だった。


그러나 거사는 마무리되지 못했다. 오늘까지도 수천만 동지들은 타락한 체제의 힘없는 노예로 남아있다. 이들의 고역은 소수의 배를 불리고, 그들은 부패로 군림하며 상상치 못할 파괴력만 키웠다. 그렇게 뿌리박은 전체주의가 항복이라도 할 것처럼, 입에 발린 말과 공물을 바치며, 그 사실을 모른척 외면하는 자들에게는 웃으며 손을 내밀었다.
しかし巨事は終わることができなかった。今日までにも数千万の同志たちは堕落した体制の力のない奴隷として残っている。彼らの高役は少数の腹を肥やし、彼らは腐敗で君臨し、想像できない破壊力だけを育てた。このように根づいた全体主義が降伏でもするかのように、口先だけの言葉と供物を捧げ、その事実を知らん振りする者には笑いながら手を差し出した。

 

이제 조선 인민은 부도덕하고 불법적인 체제를 다음과 같이 고발한다.
먹여 살릴 능력이 있음에도 수백만 명을 기아에 허덕이게 한 죄,
정부 주도의 살인과 고문, 감금의 죄, 
숨통을 죄는 감시와 사상 통제의 죄, 
계급에 의한 강간과 노예화, 강제 낙태의 죄,
전 세계에서 저지르는 정치적 암살과 테러 행위의 죄,
우리 자녀들의 강제 노동과 잠재력 억압의 죄,
살상의 목적으로 만든 거대한 파괴력을 지닌 현대적 무기 개발 및 유통과
잔혹 행위에 사용하려는 이들과 거래한 죄,
이외에도 혼재된 불법행위들을 저지른 죄.

もはや朝鮮人民は不道徳で不法な体制を次のように告発する。
食わせる能力があるにもかかわらず数百万人を飢餓にあえがせた罪、
政府主導の殺人と拷問、監禁の罪、
息の根を掴む監視と思想統制の罪、
階級による強姦と奴隷化、強制堕胎の罪、
世界中で犯す政治的暗殺とテロ行為の罪、
わが子の強制労働と潜在力抑圧の罪、
殺傷を目的とした巨大な破壊力を持つ現代的兵器開発と流通化
残虐行為に使用しようとする人々と取引した罪、
このほかにも、混在する不法行為を犯した罪。


반세기가 넘도록 가족들이 인질로 잡힌 동안, 우리는 그저 구원만을 갈망했다. 힘 있고 부유한 국가들이 우리의 간청을 무시한 채, 되려 괴롭히는 자들의 사리를 채우고 그들을 더욱 대담하게 만드는 것을 목도했다. 남조선의 번영과 발전의 놀라운 업적을 바라보며, 그들이 부국 강성의 역사를 일굴 동안 뒤에 남겨진 형제자매를 기억해주길 바랐다.
그러나 해방은 오지 않았다.
조상과 후손 모두의 요청을 받들겠다. 우리의 영혼은 더 이상 기다려서는 안 된다고 단언한다. 우리도 즐거움과 인간의 존엄성, 교육과 건강 그리고 안전을 누려 마땅하지 않겠는가? 자유를 요구한다. 이로써 우리가 감내할 운명과 의무를 스스로 감당해 낼 것이다.
半世紀を超えて家族が人質に取られている間、私たちはただ救援だけを渇望した。力のある豊かな国が我々の懇願を無視したまま、なお虐げる者の私利を支えて彼らをさらに大胆にさせることを目撃した。 南朝鮮の繁栄と発展の驚くべき業績を目の当たりにしながら、彼らが富国強盛の歴史を作る間背後に残された兄弟姉妹を記憶することを願った。
しかし、解放は来なかった。
祖先と子孫全ての要請を奉る。我々の霊魂はこれ以上待ってはならないと断言する。私たちも楽しさと人間の尊厳性、教育と健康そして安全を享受するのは当たり前ではないか?自由を要求する。これによって私たちは耐える運命と義務を自らで負うだろう。

 

“우리는 이에 떨쳐 일어나도다. 양심이 우리와 함께 있으며, 진리가 우리와 함께 나아가는도다. 남녀노소 없이 어둡고 답답한 옛 보금자리로부터 활발히 일어나 삼라만상과 함께 기쁘고 유쾌한 부활을 이루어내게 되도다. 먼 조상의 신령이 보이지 않는 가운데 우리를 돕고, 온 세계의 새 형세가 우리를 밖에서 보호하고 있으니 시작이 곧 성공이다. 다만, 앞길의 광명을 향하여 힘차게 곧장 나아갈 뿐이로다.”

“我々はこれを振り払って立ち上がる。 良心が我々とともにあり、真理が我々とともに進む。 老若男女問わず暗くて息苦しい昔の巣箱から活発に起きあがり森羅万象とともに嬉しく愉快な復活を遂げることになろう。遠い先祖の霊が見えないなか我々を助け、世界中の新しい形勢が我々を外から守っているから始まりはすなわち成功だ。 ただ、前途の光明に向かって力強くまっすぐ進むだけだ"

자유 조선의 건립을 선언한다. 이 임시 정부는 인권과 인도주의를 존중하는 국가를 건설하기 위한 근간을 세우고 모든 여성과 남성, 아동의 존귀하고 분명한 존엄성을 존중한다.
이 정부가 북조선 인민을 대표하는 단일하고 정당한 조직임을 선언한다.

自由朝鮮の建立を宣言する。この臨時政府は、人権と人道主義を尊重する国家を建設するための根幹を立てすべての女性と男性、児童の尊貴で明確な尊厳性を尊重する。
この政府が北朝鮮人民を代表する単一かつ正当な組織であると宣言する。


지난 수십 년간 인도주의에 반하는 막대한 범죄를 저지른 북의 권력에게 맞서고자 일어선다. 인류 정신의 거대한 오점인 포악한 권력을 철폐하고자 몸을 바친다.
반대한다. 그리고 대항한다. 광복이라는 밝은 빛이 평양에 다다르는 날까지 인민을 압제한 자들에게 맞서 싸울 것이다. 
육체적으로나 정신적으로 얽매인 동포들이 있기에, 우리는 나아간다. 우리는 모든 멍에를 꺾어 버릴 것이다.

この数十年間、人道主義に反する莫大な犯罪を犯した北朝鮮の権力に対抗するために立ち上がる。 人類精神の巨大な汚点である暴悪な権力を撤廃するために身を捧げる。
反対する。そして対抗する。光復という明るい光が平壌に達する日まで人民を圧制した者たちに対峙して闘うだろう。
肉体的にも精神的にも縛られた同胞がいるので、私たちは進む。我々は全ての頸木(くびき)を折ってしまうだろう。

체제 속에서 이 선언문을 듣는 자들이여, 압제자에게 저항하라. 공개적으로 도전하거나 조용히 항거하라. 많은 이들이 가해자이자 피해자이다. 함께 몸을 던져 우리를 갉아먹고, 이제는 우리 아이들 마저 위협하는 야만적인 체제를 붕괴해야 한다. 이 체제 내에서의 공모는 아마도 저항할 수 없는 일이었을 것이다. 오직 지금만이 나라와 이름을 만회할 유일한 기회이다. 지금까지 저지른 부패한 권력에 대한, 어리석은 수령 신격화 집단에 대한, 인간의 독창성과 인성을 옭아맨 광범위하고 이상한 족쇄에 대한, 이 모든 충성에 대하여 면죄 받을 것이다. 우리는 더는 피해자가 아닌 승리자이다. 
体制の中でこの宣言文を聞く者たちよ、圧制者に抵抗せよ。公に挑み静かに抗拒せよ。多くの者が加害者であり被害者だ。共に身を投じ私たちを蝕み、これからは私たちの子どもたちさえ脅かす野蛮な体制を崩壊させなければならない。 この体制内での共謀はおそらく抵抗できないことだっただろう。まさに今こそが国と我が名を挽回できる唯一の機会だ。 これまで犯した腐敗した権力に対する、愚かな首領神格化集団に対する、人間の独創性と人性を縛り付けた広範囲で異常な足かせに対する、このすべての忠誠に対して免罪されるだろう。 我々はもはや被害者ではなく勝利者だ。


뜻을 함께하는 디아스포라 동지들이여, 혁명에 동참하라. 수천년의 역사, 선조들의 희생과 수천만 동포들의 공유된 유산은 자리를 찾으라고 울부짖는다. 우연이 아니었다면 자유롭게 태어난 동포들도 노예로 귀속되었을 것이다. 업적과 용기, 타고났거나 희생과 맞바꾼 재능, 이때를 위함이 아닌지 누가 알겠는가?

志を共にするディアスポラ同志たちよ、革命に賛同せよ。数千年の歴史、先祖たちの犠牲と数千万同胞たちの共有された遺産は、その場を探して泣き叫ぶ。偶然でなかったら自由に生まれた同胞たちも奴隷に帰属しただろう。 業績と勇気、生まれながらの才能は、その時のためのものではないかと誰が知ろうか?


이 체제를 정당화하고 유지하고자 하는 자들이여, 역사는 선택권이 주어졌을 때 당신이 어디에 서 있었는지 기억할 것이다.
과거 독재와 억압의 상처를 지닌 국가들이여, 우리와 연대할 것을 요청한다. 우리와 당신의 자유를 위하여.
이상을 함께하는 전 세계 동지들이여, 과거에 우리의 고통을 몰랐더라도, 오늘이라도 알면 된 것이다. 어떻게 도울지 몰랐더라도, 오늘 그 방법을 알면 된 것이다. 함께 싸울 것을 요청받은 적이 없었다면, 이제 인류를 위해 함께 싸울 것을 요청한다. 
この体制を正当化し維持しようとする者たちよ、歴史は選択権が与えられた時にあなたがどこに立っていたのかを記憶しているだろう。
過去の独裁と抑圧の傷を持つ国家よ、我々と連帯することを要請する。我々とあなたの自由のために。
理想を共にする全世界の同志たちよ、過去に私たちの苦痛が分からなくても、今日でも分かれば良い。どうやって助けるか分からなくても、今日その方法が分かれば良い。共に戦うことを求められたことがなかったら、これから人類のために共に戦うことを要請する。


사랑하는 우리 아이들이 한 세대라도 더 암흑 속에서 태어나는 것을 허락하지 않을 것이다. 조선은 자유로워야 하고 자유롭게 될 것이다. 일어나라! 일어나라, 노예가 되기 싫은 사람들아!
한스러운 역사의 고리를 끊고, 이로부터 새 시대를 선언하며, 새 조선을 위한 길을 준비할 것이다. 때문에 우리 민족의 진정한 정으로 어우러진 더 공정하고 평등한 사회를 건설하려는 목적과 혁명의 탄생을 선포한다.

愛する我が子供たちがひと世代でもまた暗闇のなかで生まれることを許さないだろう。朝鮮は自由でなければならず自由になるだろう。立ち上がれ!立ち上がれ、奴隷になりたくない人たちよ!
恨めしい歴史の輪を断ち切り、ここから新しい時代を宣言し、新しい朝鮮のための道を準備するだろう。そのため我が民族の真正なる情で合わさりより公正で平等な社会を建設しようとする目的と革命の誕生を宣布する。

자유 조선을 위하여!
自由朝鮮のために!

(引用ここまで・訳文は筆者)

 

 

非常に拙い翻訳で恐縮である。特に詩的な記述や独特な言い回しについては、在日社会ではまず使うことがないため、なかなか文意を捉え切れていない部分もあったが、原典の英語版も参照しながら訳出したのでご了承願いたい。また原典の読点を訳文にも忠実に用いた関係で、区切りがやや不自然であるところもあるが、原典を尊重するためである。

 

私は何度もここで表明しているが、朝鮮政府については非常に批判的である。
独裁者は早く死ねばいいと思う。自由を抑制するような体制や親子三代にわたる封建主義的な体制が恐怖によって維持されてきたことを憂いている。朝鮮が自由往来や人権を保障するような社会であってほしいと願うひとりである。

最近の「朝米」「南北」の枠組みでの話し合いの機会に、私は未だに大いに期待はしているのだが、それでもなお、当該政権の評価がいささかも揺らくことはない。早く独裁者は死ぬべきである(ただ、私が言うところの「死ぬ」とは政治生命が絶たれるという意味であって、例えばルーマニアのような杜撰な手続による壮絶な殺し方はよろしくない、とだけ申し上げる)。


私の叔父は1970年代に永住帰国した。総連中央の「供物」として。

私の父と叔父との葛藤、手紙のやり取り、送金、平壌からのコレクトコール…

これらを傍らで見ていた私は、朝鮮学校で刷り込まれる独裁者への礼賛を、完全に冷めた眼で眺めていた。修学旅行で訪れた平壌で、歳より20は老いて頬に深いシワを刻んだ叔母が、高校生の私を相手に散々おのれの不遇と体制批判を繰り出し、帰りのタクシー代までせびる姿を見て、私の朝鮮政府に対する幻滅は決定的になった。

国民の大方を乞食に仕立てておきながら栄光を一心に浴びている独裁者に、わざわざ喝采を送る気持ちは、本当にさらさら無い。

ただ、私は国家の機関と、そのもとの国民を混同して一緒に論じたりという乱暴なことはしないし、当該国家機関が行う一挙手一投足にすべてわざわざ罵倒をくれたりするほどに頭脳は劣化していない。朝鮮の現政権に対する嫌悪感は揺らがないが、当該国民をあざけったり、当該国家機関が発するメッセージすべてにわざわざ敵意をむき出しにしたりするほどの頭の悪さは持ち合わせていない。朝鮮の独裁政権には反対の立場だが、それを軍事的経済的に圧迫し孤立させ続け、結果朝鮮国民を飢えさせ分断を固定化する周辺国の政策にも抗う。独裁者の肖像画には嫌悪感しかないが、その肖像画に難癖をつけて差別のエサにする政治勢力にも反吐を覚える。安全圏から朝鮮政府を無批判に礼賛する者にはその眼の節穴加減を批判するが、朝鮮学校を取り巻く上下左右からの攻撃には連帯して防御を図る。

 

私が朝鮮政府を批判していながら、自分の息子を朝鮮学校に送り、在日朝鮮コミュニティの意義も肯定的に捉えていることを、奇異に思う方も多いと思われる。

これに同意を得る作業というのは、(そのような設問設定をしてくる時点で)余り意義を感じないのでやらないが、端的に言えば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的単純思考には私は与しない、ということである。

朝鮮政府にボロッカスな朝鮮学校の保護者は私だけではない。逆に何人も知っている。朝鮮政府と朝鮮学校の親和性、それに至った歴史的経緯、それを除去しない事情、それらが複雑に絡み合っている。それらを全て認知したうえで、それでもベターな選択として、息子を朝鮮学校に送っている。そのような家庭も少なくない。

 

ものごとは単純ではないのだ。

 

朝鮮が韓国や米国との会話を継続するなり、それこそ「自由朝鮮」が無血クーデターで政権を奪取するなり、どのようなシナリオでもいい。とにかく貧困と圧政が長過ぎた朝鮮の国民に、遠からず安寧が訪れることを信じている。

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  • チャン

    米国の情報機関の下請け業者のような行いをする者たちの言葉に高尚なものを感じたとして、そのメッセージを組織評価と切り離して賛同宣伝できるものでしょうか。

  • kinchan (id:dattarakinchan)

    うん、だから組織評価は保留なんです。
    CIAに資金協力受けて襲撃事件やってますからね。
    ですが、かの体制から逃げてきた者がレジスタンスに立つのは、自然な動きとも捉えられます。薄っぺらい言葉とは、私には感じられません。

  • チャン

    また、「政府主導の殺人と拷問、監禁の罪」、「息の根を掴む監視と思想統制の罪」、「階級による強姦と奴隷化、強制堕胎の罪」、「世界中で犯す政治的暗殺とテロ行為の罪」、「わが子の強制労働と潜在力抑圧の罪」との根拠はご確認されているのでしょうか? このような言葉に賛同できないとしても、「同意するところが多い」との表現は、理論上は可能でも全体的に賛同として捉えられてもよいと考えておられるのでしょうか。

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続:朝鮮学校を知るということ。

久しぶりに朝鮮学校について書く。

非常に良心的な筆致の、朝鮮学校に関するレポートがあった。筆者様に許諾をいただいたので、拙ブログに転載させていただくとともに、若干の所感を示そうと思う。



朝鮮学校訪問、インタビューの感想

狂国見聞史 2019/2/17(日) 午後 9:07

https://blogs.yahoo.co.jp/hanmyoraki3115/56328043.html

 

(引用開始)

機会があって、横浜にある朝鮮学校にインタビューしに行ってきました。エマニュエル ・パストリッチさんという、韓国で活躍される方が本を出版するに当たって私に依頼してきたインタビューなのですが、私も訪問した感想文を書きました。

 

私達日本人は朝鮮民族を誤解するパラドックスの中にいる

~神奈川朝鮮学校訪問を終えて~

                                                    河中 葉

 

私が小学生高学年の頃になると、家庭にはまだ珍しかったがインターネットが少しずつ普及してきていた。当時はまだ電話回線で高額な使用料を払い、時間を限定しながらインターネットを使っていた記憶がある。

 

ドイツで知り合った人の家に行った時に、ドイツのスーパーで買ってきた硬い豆腐を料理して二人で食べた。ドイツ人の知り合いは、「豆腐はインターネットみたいだ。最初はほとんど見かけなかったし食べる機会もなかったのに、今はどこにでもあってみんな食べる。」とインターネットと豆腐の社会への浸透するスピードについて話していた。

 

スマートフォンの普及もそれと似たようなものかもしれないが、情報化社会というものは恐ろしいもので、便利さの中毒に陥っているうちにある偏ったイデオロギーに染まってしまう事もある。

 

日本における朝鮮民族への差別や偏見が、その最たる例ではないだろうか。

 

私も何の悪気もなく、ただ興味本位で性犯罪についてインターネットで検索して調べていた時に、その誰が書いたかもよくわからない記事に「犯人は在日」「韓国や北朝鮮は性犯罪大国」という文字が踊っているのを読んで、鵜呑みにして信じてしまっていた時期がある。

 

その軽い考えと無知が、どれほど日本に住む在日の人達を苦しめ、朝鮮半島の人々も貶める事になっているかを全く知らなかったと思う。

 

私はヨーロッパなどに憧れを抱くようになり、実際にフランスに滞在もしたが、朝鮮半島については隣の国なのによく知らない事が沢山あった。

 

それでも機会あって韓国に知り合いも出来て、時々韓国には行くようにもなり、いかに若い頃の自分の考えが偏っていて無知だったかを思い知った。北朝鮮には行った事がないが、韓国に関して言えば韓国人は日本人に対して非常にオープンマインドで接してくれるし、日本が朝鮮半島を統治した歴史に関してもとても冷静だから、テレビのニュースで報道されている韓国と日本の問題の数々が、戦争ビジネスを目論む日本政府によって煽られているという事が身に染みてよくわかるようになった。

 

「河中さんも、朝鮮学校に行ってみてください」と韓国に住むパストリッチ氏に勧められた時、はいと短く答えたものの朝鮮学校に見知らぬ私が出向いて行って、果たして学校の人達に受け入れられるのだろうかという気持ちだった。訪問する目的がインタビューとなった時に、少し今まで抱いてきた隔たりのようなものが無くなった気になったというか、私は日本人の抱える差別的な考えが、少し取り払われるきっかけができるだろうかと期待した。

 

私が訪問した神奈川朝鮮中高級学校は、国や自治体に差別され、神奈川県内の外国人学校の中で唯一、授業料無償化制度が適用されず、県は同校を含む5校に通う児童・生徒への学費補助を2016年以降停止している。それについて元文部科学事務次官前川喜平氏が横浜市内で講演し、「国や自治体が率先して差別を行い、国民の差別感情を助長している。官製ヘイトだ」と批判されている。

 

私が神奈川朝鮮中高級学校を訪問した際、金燦旭校長先生は私に広い校内を見せ、wifiの配線なども卒業生や父兄の協力を借りて、自らの手でやっていると教えてくれた。高くて広い天井にあれだけの長い配線をするには労力と時間がかかるだろうが、それでも彼等は自分達の手でやるのだ。

神奈川朝鮮中高級学校では、特に語学教育に力を入れていて、生徒達は皆、朝鮮語、日本語、英語の三言語をしっかり学ぶ。学校を卒業する際には、各言語の検定試験の資格保有を目標として、ハードな勉強を毎日こなす。日本の学校が取り入れるよりも前に、情報教育を実践し、情報リテラシーなどを学んで自ら情報発信のできる人材育成をしている事も特徴の一つだと金燦旭校長先生は語った。それは課題のうちの一部であるが、やはり学校の教育方針としてのベースにあるのは、互いに助け合い、何かが得意な人はそれらが苦手な人の手助けをするという助け合い精神を基調とした、朝鮮民族としての心と誇りをしっかり教えるという事だ。

 

私が生徒達との雑談の中で「将来どういう風な仕事をしたいですか?」と聞いたところ、ある生徒は「この朝鮮学校を続けていくために何か役に立てるようになりたい」と、はにかみながら私に答えてくれた。その話を金燦旭校長先生にしたところ、「生徒が学校の心配をするなんて、本来しなくて良い事なんですけれどね。」と言った。神奈川朝鮮中高級学校は、多くの保護者や卒業生の助けによって運営されてもいるから、生徒の目から見てそうする事は当然という意識なのだろうが、金燦旭校長先生は複雑な表情を浮かべた。けれども私が思うに、生徒達の意見は金燦旭校長先生らの教育の成果でもあろう。そこに朝鮮民族の助け合いの精神が受け継がれていく様子を見た気がする。

 

校内で誰と会っても笑顔ではきはきと挨拶され、電車の中でぶつかってもすみませんすら言わないような殺伐とした雰囲気は微塵も感じられない。

 

授業を見学させて貰うと、生徒達は地震災害に対する備えをしっかりしましょうだとか、挨拶は大事なので特に目上の人に対しては丁寧に挨拶をしましょうだとか、自分でテーマを考えて発表し、音楽の授業ではアカペラで合唱して笑い合っていたり、和気藹々とした雰囲気を感じた。

 

少し日本の学校と違うように感じた点は、発表前に多少生徒がおどけていたりしても、先生も叱ったりせずに笑って見守っている事だろうか。そこに大らかさを感じる。


私が在日の人達に対して差別をしてくる日本人に関して質問した時も、感情的な発言をせずにあくまでも冷静に彼等の思想を分析して、決して貶したりする事のない態度は、金燦旭校長先生だけでなく生徒達にも見られたので、少し驚いた。

 

例えば多くの日本人にとって、従軍慰安婦の問題であるとか、徴用工の問題であるとか、戦争責任について問われるのは自分達が一方的に悪く言われているように感じるのか、もう解決済みのことに関して何度も蒸し返してくる朝鮮民族はタチが悪い、というように感情的な意見が多い。

実際に韓国で慰安婦の少女像を守る活動をしている人に話を聴けば、賠償を何回も求めている理由は日本の政治家が次から次へと慰安婦の強制連行はなかっただの、必要悪だったなどと失言を繰り返しているからだと説明してくれるのだが、そういう話をしても「韓国側の態度が悪いからそういう発言をせざるを得ないんだ」と開き直る日本人もいる。

 

インタビューの中で、生徒の一人が「私達は思想というか、自分達の考えをしっかり持つ事を大切にするように教えられているから、日本の人達もしっかりと自分の考えを持って話し合えば、偏った情報に惑わされずに理解し合えるようになると思う」というような事を言っていたが、正に私達日本人は自分達の考えを失ってしまっている事に気付かされたような気がする。

 

金燦旭校長先生は、繰り返し、無知が色々な問題を起こすと言ったが、それは過去の私に聴かせてあげたい言葉である。

 

無知― 知っている気になっていて、実は何も知らないという事が、どれほど多くの差別を蔓延らせているのだろうか。

 

昔の私は単純にインターネットに載っていた情報を鵜呑みにしたがために偏った考えを持っていたと思うが、「知る」という事の大切さすら「知らなかった」のであろう。

 

10代の頃にも病気のために精神的に不安定で、私の家族が差し伸べている手も見えずに、家族に対して悪態をつき続けた経験もあるが、正に日本人の多くが朝鮮民族の差し伸べている手が見えないまま悪態をつき続けている構図と重なってしまう。


人として当たり前の思いやりや公正な目線というものは、失敗を繰り返して学んでいくものでもあるのかもしれないが、頑なになった人の心というものは失敗を失敗とも認められない事がある。

 

しかし、金燦旭校長先生や神奈川朝鮮中高級学校の生徒達は、差別を受ける側でありながらも「日本人と普通に接して理解し合える事」「学校を開かれた場所にして、多くの日本人が足を運んでくれる事」を目標とし、心掛けてくれていた。

 

自分の不満や不安を誰かに向けることで安心しようとしている人達は、どれだけ悪態をつかれようと自分達に暖かい眼差しを向けて受け入れようとしてくれている人の心がないと、安定して立っている事はできない。

 

皮肉にも、それを一番実践してくれているのが、自分達が差別する相手の在日の人達であるという事を、認めざるを得ないのではないだろうか。彼等は差別を許しはしなくても、極めて冷静に公正に接してくれるのだから。

 

学校を去る時に、「またいつでもどうぞ」とお辞儀をしてくれた金燦旭校長先生と、外で遊んでいたのに私を見かけてまた挨拶をしてきた生徒達を見て、日本人が失いかけている心を、彼等が「朝鮮民族の誇り」として教育に取り入れて脈々と継承しているのだと思った。

 

暖かい彼等と接したら、朝鮮学校への補助金の打ち切りや無償化制度から外すといった政府や自治体の対応の全てが、仕組まれたビジネスのような差別の実態だと私達は気付き直せるきっかけを手にできるのではないだろうか。

 

(引用ここまで)

 

 

 

私は以前にも、外部から朝鮮学校を論じるうえでの視点を捉えてほしい意図から、拙い文を書いたことがある。https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20140727/1406467680


ここでも書いたことだが、

朝鮮学校に入り込んで、教師・生徒・支援者など、運営当事者から生の声を聴いたり実際の現場を見たり体験したりして得た情報を元に書かれたレポート

と、

朝鮮学校の外側から、朝鮮学校の運営当事者とは関係ない者や、朝鮮学校の水が合わずにドロップアウトした者の、類推や伝聞や妄想や妬み嫉みを繋ぎ合わせたレポート

とは雲泥の差があるというのが分かってもらえると思う()。

 

結局のところ、

朝鮮学校の教育姿勢を語るとすれば、実際に現役で「その」教育を受けた者が、どのように捉え、育ち、社会の中に巣立っているかを捉えるべきだし、

高校無償化法適用の是非を言うならば、「すべての意志ある者に教育の機会を」という立法趣旨の客体である学生当事者の利益を無視した議論などはゴマカシでしかない。

 

朝鮮学校を知ろうとするのであれば、

外野から・好奇心や猜疑心の赴くままに・都合の良いことだけを摘んで繋ぎ合わせたり、結論を先に設定して情報を収集したりするのではなく、

実際に教育を施し、受け、運営し維持している者の、思いや葛藤や理想に迫って書くべきだろう。

朝鮮学校は、当たり前すぎるほど当たり前だが、運営に携わっている者が運営しているのであり、運営に関係ない者の話を聞いても仕方がない。たとえ批判や要望であっても、運営当事者の手の届かないこと、例えば拉致問題がどうとか国交正常化がどうとか言っても仕方が無い。仕方がないことのいちゃもんに長々付き合って、いつもニコニコしているほど、朝鮮学校もお人よしではない。

 

私は、今般引用させていただいた著者様の、朝鮮学校及び在日朝鮮人に対する、素直で温かい眼差しに敬意を表するとともに、不躾な私の突然の要望にも快く応じていただけたことにも感謝申し上げる。

 

なお、引用させていただいた稿の感想、特に応援メッセージは、是非引用元のほうへとお送りいただければ、と思う。

 

)参考までに、わざわざ詳細は書かないが、私の言うところの「後者」の筆致のレポートや、その批判記事を挙げておく。全部産経が元ネタである。

http://x5jjri.seesaa.net/article/143496840.html

https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/41519302.html

http://d.hatena.ne.jp/three_sparrows/20120408/p1

Add Starrawan60fumiya1428dmasaki
  • Yoh

    こんにちは。私の拙い文章をこちらのブログに掲載していただき、恐縮です。

    私自身も、朝鮮学校に行くのは初めてで、観ると聞くとでは大違いなのだなと気持ちを新たにした次第です。

    知らないで書くことの恐ろしさを痛感します。

    ここの学校の校長先生は、在日朝鮮人への差別について、「自分が持っている社会への不満の捌け口を在日朝鮮人や朝鮮半島、中国などに向けている」と分析されていましたが、聞く所によると今のティーンズ向けの雑誌には韓国の特集が組まれ、東京ディズニーランドよりも韓国に行きたがる若い人が増えているそうですね。

    若いパワーが大人達の持つ偏見を吹き飛ばしてくれることを願いますし、また私のような大人も、少しでも全ての日本に住む人が住みやすく怖い思いをしないで生活できるよう、垣根を取り払う努力をしていかなくてはならないと思います。

    観ること、知ることを大切にしながら、また文章を書いていけたらと思います。

    どうもありがとうございました。

  • kinchan (id:dattarakinchan)

    Yohさま

    この度は全文転載ということを許可いただきありがとうございました。
    まさに、おっしゃる通り、「いっぺん見に行ってみなよ」といつも言っています。

    あの橋下徹だって、朝鮮学校を視察して「教育自体はしっかりやっている」と言わざるを得ない。それくらい、ある意味普通の、ちゃんとした学校です。
    https://blogs.yahoo.co.jp/n_hebaragi/60373827.html?__ysp=5qmL5LiL5b65IOacnemuruWtpuagoSDnlJ%2Fph44%3D

    それが伝われば、嬉しく思います。余りに世間で言いふらされている話がひどすぎますので。

  • Yoh

    Kinchanさま

    そうですよね、一度実際に行ってみたら考えも変わりますよね。

    私が行った朝鮮学校も、普通の日本の学校よりも深いカリキュラムを組んで指導していて、いたってまともな方たちでしたが、世の中には悪意があって朝鮮学校のことを悪く言う人も多いですよね。

    朝鮮学校は徹底した反日教育を行い、日本人女性を陵辱するように指導しているなんていうデマを信じ込んでいる知人も過去にいました。そういうデマを信じるっていう事は、自分の目で真実を見る努力もしないのでしょうけれど。。。

    偏見や差別は醜いですね。きちんとした歴史教育が日本の学校で為されていたら、少なくとも簡単にデマを信じるという事は少なくなるように思います。

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義務は「日本人同様」、権利や保障は「朝鮮人を除く」。今も昔も一緒。 ― 朝鮮人元BC級戦犯の悲哀を描いた良質記事

良心的な記者による、鋭い洞察の記事があったので、記録の意味も含めて紹介したい。

 

 

日本人であることを強要された「元BC級戦犯」の苦悶

いつ命を奪われるか分からない日々に…
栗原 俊雄
現代ビジネス 2019.02.03
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59623

(引用開始)

(前略)

■今も続く「戦争」

「ああ、すっかり変わってしまいましたね。私の宿舎はあそこにありました」。東京屈指の繁華街・池袋、サンシャインシティの公園で、李鶴来さんはそう話した。2015年、8月のことである。

李さんは1925年、朝鮮半島南西部の全羅南道で、小作農の長男として生まれた。郵便局員などとして働いた後の1942年、17歳で軍属、捕虜監視員となった。前年の開戦間もなく、日本軍は東南アジアで占領地を拡大していった。それに伴い、連合国軍の捕虜が増えた。それを監視する人員が必要になり、植民地の朝鮮や台湾で募集していたのだ。

成績優秀だった李さんは、村役場から受験するよう勧められた。「拒否することはできませんでした」。役場ごとにノルマがあったという。

その後2カ月間、釜山で捕虜監視員としての訓練を受けた。「声が小さい、姿勢が悪い」などの理由で、上官から何度も殴られた。「立派な日本人にしてやる」と。命令は絶対。「生きて虜囚の辱めを受けず」=捕虜になることを厳しく戒める「戦陣訓」を暗唱させれらた。

戦時下とはいえ、国際法によって捕虜には人道にかなう待遇が保障されていた。しかし「捕虜になるくらいなら死ね」と教えた大日本帝国は、それを捕虜監視員に教育していなかった。李さんはまったく知らされていなかった。
訓練を終えた李さんは、泰緬鉄道で働く捕虜の監視員となった。タイとミャンマー(現ビルマ)を結ぶ鉄道で、映画「戦場にかける橋」の舞台として知られる。劣悪な衛生環境と過酷な労働、食料事情などで捕虜およそ1万人が死んだとされる。

連合国軍捕虜は大柄だった。少年の面影を残す李さんは「最初、怖かった」。しかし「なめられてはいけない、と思いました。そういう教育を受けましたから」。

泰緬鉄道は、ビルマを守りさらにイギリスの植民地インドをうかがう日本軍にとって、死活的に必要なもので、建設を急いだ。鉄道を敷設する部隊は毎日、労働に必要な人員を出すよう捕虜監視員に命じた。李さんは捕虜側の責任者にそれを通達する。捕虜たちは疲弊しており、病人も多い。

捕虜側が、求められた人員を出せない、と言ってくることもあった。しかし「上官の命令は絶対」とたたき込まれた捕虜監視員たちは、病気の捕虜らを作業にかり出すこともあった。

非情である。しかし日本軍の命令体系の末端にいた李さんたち捕虜監視員に、その非情な措置の意志決定権はない。多数の捕虜を死に追いやった責任は意志決定権を持つ軍体系の上層部にこそある。さらに言えば、戦争を始めた為政者たちにこそあった。

しかし、そうした国家意志決定者たちが李さんたちのように最前線に立つことはなく、したがって捕虜たちと接する機会もなかった。捕虜たちの憎しみは、直接接していた捕虜監視員に向かったのだ。

■「日本のため」だったのに、死刑

1945年夏。大日本帝国の敗戦で、ナチスドイツのポーランド侵攻以来6年に及んだ第二次世界大戦は終わった。しかし李さんたちにとっては、2019年の今日まで続く、別の戦争の始まりでもあった。

李さんら監視員は「捕虜虐待」の疑いで逮捕され、シンガポールの刑務所に入った。李さんは一度、解放された。日本に向かうべく香港に移ったところ再び拘束され、裁判を受けることになった。元捕虜9人から告発されていた。全員帰国しており、反対尋問はされなかった。つまり、告発者の証言に記憶違いや虚偽があったかどうかを確かめる機会はなかった。

さらに判事、検事とも戦勝国のオーストラリア人。およそ人道的とは言い難い裁判で下されたのは、「死刑」。「まったく予想していませんでした」。李さんはぼうぜんとした。「手錠をかけられて、その冷たさで我に返った」。
敗戦後、「捕虜虐待」などの理由で朝鮮人148人が「戦犯」とされた。そのうち23人が処刑された。李さんは、処刑されてゆく仲間を見送りながら考えた。「どうして、日本の戦争のために自分が死ななければならないのか」。納得できるはずもなかった。処刑に値する罪はない。そして、いつ命を奪われるか分からない。どれほど苦しんだのか、想像しがたい。

告発した9人の中には、ダンロップ軍医がいた。泰緬鉄道の現場で、仲間の捕虜を守るために軍医は、李さんと厳しく対立した。そのダンロップは、李さんの死刑に反対した。そこまでの罪ではない、という判断だ。李さんは懲役20年に減刑された。2人は1991年、豪州国立大のセミナーで再会し和解することになる。ぎりぎりのところで、人道の輝きがあったというべきか。

東西の冷戦が本格化する中、「戦犯」たちも翻弄された。1951年8月、李さんは東京の巣鴨プリズンに移された。今は東京・池袋のサンシャインシティ、都内屈指の繁華街だ。

翌年4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たすと「戦犯」たちの扱いは緩やかになった。外出ができた。プリズン内で新聞が発行された。収容所の中で自動車の運転免許を取ることもできた。

「著名な芸能人やスポーツ選手が慰問に来ていましたね。私たち朝鮮人の所には来ませんでしたが」

「戦犯」たちの釈放が続いた。しかし朝鮮や台湾の出身者、大日本帝国時代の「日本人」たちにはさらなる不条理があった。意志を聞かれることなく、一方的に日本国籍をはく奪されたのだ。

戦争にまみれていた大日本帝国には軍人恩給があった。だが、連合国軍総司令部GHQ)はこれを軍国主義の温床として停止させた。日本政府は独立した1952年、これを復活させた。前年には戦傷病者戦没者遺族等援護法を施行している。いずれも、対象は日本人だ。李さんら旧植民地出身者は、「日本人」として大日本帝国戦争犯罪を背負わされた。そして「日本人ではなくなった」ため、「日本人」が受けている補償から切り捨てられた。

55年4月。獄中にあった李さんら韓国人元BC級戦犯が「同進会」を結成した。「戦犯」や家族らが支えあうための団体だ。さらに日本政府に対する援護請求などの拠点となった。李さんは56年10月に巣鴨を出所した。仲間とともに首相官邸前に座り込むなど、補償を目指して運動を続けた。

 

■故郷にも帰れない

 

さて冒頭で見た通り2015年夏、李さんは今は公園となった巣鴨プリズン跡を訪れた。筆者の取材の依頼に応えてくれたのだ。公園はコスプレをした若者たちが集う場所で、この日もにぎわっていた。
「出所して、故郷に帰ろうとは思わなかったのですか?」。そう問うと、李さんは60年前を思い出すかのように、遠い目をした。

「1日でも早く帰りたかった。でも仲間に聞くと「『対日協力者として風当たりが強い。とても住めない』」と言われて、あきらめたんです」

日本に残ったものの身よりはない。仕事のあてもなかった。「戦犯」のレッテルは重く、就職もままならない。生活苦で出所した仲間2人が自殺した。

李さんたちは、タクシー会社の創業を目指した。肝心の資金はない。支援者が現れた。東京・江戸川区耳鼻咽喉科開業医、今井知文さん。すでに日本人戦犯の支援をしていた今井さんは、巣鴨で李さんと面識があった。「日本人として恥ずかしい」と思い、200万円を李さんたちに無担保で貸した。国家公務員6級職(後の上級職)の初任給が8600円の時代である。200万円は、自宅を担保に入れて工面したものだった。

李さんたちは懸命に働き、借金を返済した。今井医師は1996年、92歳で永眠した。「自分の息子のように助けてくれました」李さんはそう振り返る。

日本人として「戦犯」になった李さんたちの同進会は、日本政府に補償を求めた。だが政府は動かない。65年に日韓基本条約などが結ばれると、日本政府は「補償問題は解決済み」と、いっそう頑なになった。歴代首相に要望書を出し、首相官邸前での座り込みも行った。国会議員への陳情も。しかし、事態は改善しなかった。

同進会は、司法による問題解決を求めた。1991年11月。李さんら7人が日本政府に謝罪と計1億3500万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。「戦時中日本人として国の責任を肩代わりさせられ、戦後は日本国籍を失って補償を受けられないのは正義・公平の原理(条理)に反する」と主張した。日本にとって都合のいいときだけ「日本人」として利用し、都合が悪くなると「日本人ではない」として切り捨てる。そういう態度は、不正義、不条理であり、人道に反するものだ。そういう主張である。

96年9月、東京地裁は原告の請求を棄却した。判決は一方で「わが国の元軍人・軍属、遺族に対する援護措置に相当する措置を講ずることが望ましい」と指摘。ただ「どの範囲でいかなる救済を行うかは国の立法政策に属する」とした。

東京高裁も原告の訴えを退けた。ただ、注目すべきは「戦犯者控訴人らについてみれば、ほぼ同様にあった日本人、更には台湾住民と比較しても、著しい不利益を受けていることは否定できない」という指摘だ。

日本政府は1987年、台湾人戦没者と遺族に慰問金を支給している。だが、朝鮮出身者にはしない。高裁は、同じ植民地出身者でありながら日本政府が差別していることを指摘したのだ。その上で「国政関与者において、この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じることが期待される」とした。

そして99年12月、最高裁で敗訴が確定した。李さんたちの被害を認定しつつ、「立法府の裁量的判断にゆだねられるものと解するのが相当」とした。

被害を認定しつつ、解決は立法にゆだねる。李さんたち植民地出身の「戦犯」だけでなく、民間人の空襲被害者やシベリア抑留被害など、戦後補償訴訟で裁判所が繰り返し述べている「立法裁量」論である。

 

■命を削った闘争

 

被害者たちは、その立法ができる政治や行政に長年、しかるべき対応を求めてきた。らちがあかないからこそ、司法に救済を求め命を削って闘争をしているのだ。裁判が続く中で、亡くなる人もたくさんいる。そうした事例を取材している私は、裁判所の裁量論は、立法という権限へのたらい回しであり、虐げられた人権の救済という役割を放棄した判断にみえる。

司法のたらい回しにあった李さんたちは、立法による解決を目指した。これに応じたのが、野党時代の民主党議員だ。2008年5月、議員立法を目ざし「特定連合国裁判被拘禁者特別給付法案」を通常国会に提出した。だが翌年の衆議院解散で廃案となった。翌年、民主党が政権を取っても成立しなかった。

民主党時代の法案をたたき台に、朝鮮や台湾出身で、BC級戦犯として有罪になった人や遺族ら計321人に対し、1人当たり260万円を支給することを柱とする内容だ。予算総額は2億5000万円。対象者全員が請求し認められれば総額はもっと多くなるがが、当事者の高齢化が進んでいること、また当事者側が手を挙げなければ支給されないことなどから、総額を下回る見込みとしている。

2億5000万円は、巨額ではある。しかし日本人の元軍人、軍属らに行われてきた補償や援護の累計60兆円にくらべたらどうだろう。あるいは日本政府が1機100億円以上するアメリカの最新鋭ステルス戦闘機F35を100機以上買おうとしていることも考えたら。1人260万円は、戦争=国策と差別によって人生を狂わされ、かつ戦後74年苦しんでいる人たちへの支給として高額とはとうてい言えない、あるいは信じがたいほど低額だと、筆者は思う。

「低額すぎるのでは?」。そう問う筆者に、李さんは「お金は象徴であって、それが目的ではありません。『戦犯』として亡くなった仲間たちの名誉を回復するため。私たち生き残った者の責務です」と話す。

かつて70人いた同進会の仲間で、存命なのは3人だけ。ここ数年、動けるのは李さん一人だ。国会が開かれる度に、議事堂の向かいにある議員会館で支援者らが集会を開き、李さんが立法を訴える。つえをつき、時には車いすで。

集会に何度も参加する議員は、戦後補償問題に意識の高い人たちだと思う。「日本人として恥ずかしい」と話す議員もいる。筆者も「日本人として恥ずかしい」と思う。

また議員は、「今度(の国会で)こそ(立法を実現する)」などと話す。しかし、実現に至っていない。「シベリア抑留や台湾出身者戦犯への援護などは、議員立法で成立しています。なぜ私たちだけが……」。李さんはそう話す。「同情はいらない。求めているのは日本政府の謝罪と補償です。私が言っていることは理不尽でしょうか。日本人と正義と道義心に訴えたい」。

 「日本人はいい民族だと思うんですよ。勤勉、まじめで……」。李さんはしばしば、そう話す。今井医師以外にも、李さんたちを支援した日本人はたくさんいたし、今もいる。しかし結果として、私たちの日本社会は李さんたちの願いに応えていない。

強靱な精神力と体力で生きてきた李さん。しかし近年は入退院を繰り返すなど、万全の体調ではない。彼の日本人観を裏切らない結末、法案の成立が待たれる。李さんは今、93歳だ。


(引用ここまで)



この記事を見て、どのような感想を持たれるだろうか?


自分の意思とは関係なく、労苦や義務は「日本人として」果たすことを強いられ、刑罰も「日本人として」裁かれた。しかし権利や補償、恩給は「朝鮮人だから」除け者にされた。この不条理を埋める試みは、政治や社会の側からはまったく乏しく、司法にかけ合っても「立法に期待」して主体的な判断を示そうとしない。今も昔も、まったく一緒である。情けない気持ちを抑えることはできない。

過去の植民地政策とその残滓にろくに向き合ってこなかった日本政府によって、搾り取り・辱め・貪った人々への戦後保障は、最悪の解決策によって終結しようとしている。

つまり生命の途絶、という終結である。従軍慰安婦のハルモニたち同様、李さんも長くはない。どうか生命の灯が消える前に、日本政府や日本社会の、誠意ある『戦後補償』を求めたい、と思う。

 

改めて、問う。

 在日朝鮮人が、いまだに「ザイニチチョーセンジン」として存在し続けているのは、日本社会の責任である。

 上記命題の意味するところ、理解ができるだろうか?



(追記)

何の保障も受けられない朝鮮人の元日本兵が『醜い』姿を晒して世間に訴える姿、それを他人事のようにスカす政治家と、何とも冷めた目線で遠めに見る市民の姿を映した記録映画を紹介する。

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  • 照橋

    韓国人に対する戦後補償は、日韓基本条約で終わっています。(無償3億ドル、有償2億ドル、民間3億ドル、日本が朝鮮半島にのこした財産約53億ドルの放棄)当時の日本政府は個人の補償も検討していましたが、韓国側が一括補償を希望しました、これは日本側が一方的に主張しているのではなく韓国側の公文書でも認められている事実です。慰安婦のことに関しても、突然戦後40年以上たって出てきたことにも関わらず、今まで日本の政治家は何度も謝罪してきていますし、2015年の日韓基本条約で最終的不可逆的に解決しています。日米間では日本が戦時中のアメリカ軍によるレイプや原爆、空襲被害者に対する賠償をアメリカに求めることはできないのはサンフランシスコ講和条約により、アメリカに対しての請求権はなくなっているので出来ません。

  • id:rawan60

    >個人の補償も検討していましたが、韓国側が一括補償を希望しました、

    うん、だから日本による「個人補償」はされていないのだよ。
    その前提の記事だよね。日本国がその気になれば、遅ればせながらでも今でも出来るでしょって、そういう記事だよ。理解できていますか?

    なんの補償も賠償もされていない上に、強制的な義務を負わされた同じ立場でありながら、権利を奪われて名誉を傷つけられた個人が、その補償を求めることを否定するのは民衆の権利を否定する「弾圧」でしかありません。

    それからあなたの書いているのは経済的に疲弊していた独裁政権に対する「経済協力の提供」であって、被害者に対する「補償」ではありませんから。

  • kinchan (id:dattarakinchan)

    あのね、日韓基本条約で、私人間の債権を請求する権利は消滅してないの。つい最近も外相の河野がそう答弁してるの。すぐ検索したら出て来るから調べてごらん?河野はマスコミ向けには私人間の請求権は無いって声高に言ってるけど。

    あと、本文くらい読んでコメントしなさいよ。

    >96年9月、東京地裁は原告の請求を棄却した。判決は一方で「わが国の元軍人・軍属、遺族に対する援護措置に相当する措置を講ずることが望ましい」と指摘。ただ「どの範囲でいかなる救済を行うかは国の立法政策に属する」とした。

    いわゆる立法政策によって救済しうる、と司法も判断しているでしょ?あなたより多分相当程度アタマの良い人が書いた文書ですよ。

    戦争の被害者、救われるべき人間が、救われてないということを、国の役人でも無かろうに切り捨てようという発想そのものが、「反動的」と言わざるを得ない。

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在日芸能人の犯罪…なんでいちいち関連付けられなあかんのや?

日芸能人、と在日から見たらすぐに分かるが世間的にはそうだと認知されていなかった者が、破廉恥罪を犯して逮捕状が請求された、という報が駆け巡った。瞬間、嫌な予感しかしなかったが、やはり的中した。

翌日のヤフーニュースには、逮捕後にきっちり本名を晒された当該芸能人の記事が踊り、コメントは嫌韓厨のヘイトコメントで溢れた。

この者の芸名がいわゆる通名なのかどうかがは知らないが、犯罪の中身に言及することなく、わざわざ「本名を晒せ」「通名廃止だ」「在日の犯罪率がこれで分かる」と、嫌韓厨が異口同音に書き殴っている。

https://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20190201-00000248-sph-ent

 

 芸名を使うことも一般的であろう芸能人の本名が朝鮮名だったからと言って、それを在日朝鮮人通名使用の問題に収斂させてしまう。まさに「待ってました!」とばかりの盛り上がりと、脊髄反射的な短絡な反応である。在日という好物が投下されたら最後、個別の犯罪事実はそっちのけで、在日の通名使用だの犯罪率だので盛り上がる。私が命名したところの『パブロフのウヨ』である。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20170522/1495423154

 

そもそも、在日である個人の犯罪を取り出して、在日という社会属性そのものを貶め、「在日=犯罪者予備軍」のようにこき下ろす。そのことを嬉々として行う、ということがレイシズム・ヘイトそのものである。既に批判され尽くしている。私も批判資料を提出しておく。既出のものだが紹介する。

 

言うまでもないことだが、我々在日朝鮮人は単一の企業や秘密結社に全員が属しているわけではない。生計も個々のものである。別々の人生なのに在日の犯罪は、まるで連帯責任のように在日が一緒くたに論じられる。「またザイニチ」「ここにもザイニチ」「こいつもザイニチ」と。

在日は常にザイニチを晒して生きろ、という連中の主張も、ナチ下の六芒星そのものであり、連中の自意識を満たす以外の目的のない、何とも馬鹿馬鹿しい主張である。

このような唾棄すべき行為が、なんの社会的批判もなく、在日の犯罪が報じられるたびに繰り返され、そのたびにザイニチを運命として生きる我々の疲弊は蓄積していく。

 

「良いことをするのは日本人/悪いことをするのは在日」「在日の犯罪率は云々」「在日が日本の社会保障にタダ乗りしている」「在日が通名を使うのは在日特権のため」「在日は不法入国者で云々」「在日のDNAが云々」…

在日がザイニチという記号を抱えて生きることを強制している日本社会が、今日もザイニチに『負』を押し付けて、『日本』を保全している。

 

理不尽だ。

一部のやくざ者にいちいち関連付けられる身にもなってみろ。

放っておけばいい、言わせておけばいいことだが。



(20190205追記)

 

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  • 浜のおじさん

    悪いけど、あなたの祖国による性犯罪は少なくない。統計出せというだろうけど、自分でしらべて。

    あと、ライダイハン。どう責任とるの?あなたは、歴史の話は詳しくないと言いながら、都合のいいことばかりいっていませんか?

  • id:rawan60

    >あなたの祖国による性犯罪は少なくない。

    数の大小をここで論じられていますか?

    >あと、ライダイハン。どう責任とるの?

    ヴェトナム戦争と無関係な在日の一私人に、どう責任を取らせたいの?

    あなたは、もう少しブログ記事をちゃんと読んで、記事に即したコメントが出来るようになってから来るようにしなさい。

    ここは、春休みの子どもの遊び場ではありません。
    今からヘイトスピーチの真似事をするようでは、ロクな大人になれませんよ。

  • kinchan (id:dattarakinchan)

    >悪いけど、あなたの祖国による性犯罪は少なくない。統計出せというだろうけど、自分でしらべて。

    はいはい、聞き飽きたよ。
    あるレイプ魔たる韓国人の「責任」とやらを、私個人が負わなければならない根拠を提示しなさい。それはすなわち、あまねく犯罪すべてをアンタ個人が責任を負うという意味でもあるのだが(呆)

    >あと、ライダイハン。どう責任とるの?

    前記同様。しょうもない。

    中学生は春休みなんだから本を10冊程度読んで、社会の常識をわきまえたほうがいい。
    月光仮面のような単調な勧善懲悪の世界観で、リアルな世界でサラリーマンやってる在日朝鮮人個人に挑んでくる発想が、最早社会性が無いことを証明している、と言えるわな。

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雑感:ガイジンと共存する気が無いのなら何故受け入れるのか?

今日、大阪国際女子マラソンをテレビでやっていて、ぼおっと見ていた。

終盤、アフリカの選手と日本の選手が一騎打ちになったが、アフリカの選手が先行し、日本の選手にはほぼほぼ勝ち目がない、という状況になった。それでもテレビは、その日本選手の過去の試合や生い立ちを取り上げながら、ほぼその日本選手のみをカメラで抜いていた。日本選手が遠くなっていくアフリカの選手を追いかけるさまを、日本選手の背中から前方に向けたカメラで抜き続けていた。『残念なことに』先頭のアフリカ選手がゴールテープを切るさまを5秒ほど映したが、再びカメラは日本選手にズームを向け、2位でゴールをしてからも、ほぼ当該日本選手に画面を割き、インタビューもアフリカ選手を差し置いて当該日本選手のインタビューを先に流していた。
遠い日本にわざわざ招かれて来て、クソ寒い中にもかかわらず1位でゴールテープを切ったアフリカ選手を満足に讃えることも無く、番組はほぼ日本選手のみにクローズアップして終わっていった。


大相撲初場所も、何年も綱を守ってきたモンゴル人の両横綱はそこそこしか取り上げず、日本出身(笑)横綱の充実ぶりがどうだということを場所前に散々取り上げた(残念ながら引退してしまったが)。優勝争いも、初優勝がかかるモンゴル人小結の何倍も、二連覇がかかる日本人関脇を持ち上げる論調であふれ、現場の歓声もモンゴル人小結の対戦相手に対するものばかりで可哀そうな限りであった。

 

思えば、大坂なおみ選手の全豪オープンテニスでの活躍に合わせ、スポンサーの日清食品がアニメで大坂選手を取り上げたが、明らかに白人に寄せたキャラで表現されており、瞬く間に批判が集中して取り下げられた。

 

スポーツの世界では、自国の選手に限らず、外国人選手も多数参加する。
誰それを応援するという次元で日本人を応援するのは勝手だが(身内びいきなのはどの国の媒体も一緒)、対戦相手たる外国人をリスペクトできないような姿勢はいかがなのかと思う。あくまでプロレスで言うところのヒール役でしか、外国人選手を捉えられないのであれば、それは相手に失礼だろう。

大相撲は国際試合でも何でもない。スポーツとして日本以外の普及も盛んではない。それこそ日本の伝統芸能(←と敢えて書く)に、日本語も何も分からずに身体一つで飛び込んできた外国人の若者たちが、ここ20年の大相撲の屋台骨を支えている。多くの外国人無しには立ちいかなくなっているのに、その現状をそれが悔しかったのか何なのかは知らないが、日本出身力士を待望し、日本出身力士がようやく活躍してくれた、と手放しで持て囃しているメディアというのは、どういう神経をしているのだろうか、と思う。

大坂なおみ選手の件などは典型だ。大坂選手が『日本人』であるから、その活躍や優勝を祝福するのであって、彼女が二重国籍だったり肌が褐色だったりという彼女の個性(日本人的でないこと)は露骨に切断しても良いと思っている。それが差別であるということに気づくことすらできない『世界的企業』。重症である。

スポーツを主催する、あるいは観る、映す目線として、スポーツには相手があり、相手も味方同様プライドや人生がある、という当たり前の前提を共有できていないことが多いのではないか、これでオリンピックをやるつもりなのか、冗談ではなかろうか、と思う。

 

 

 

翻って、昨年末、政治の世界を大いに盛り上げ、私がその政治に新たな絶望感を覚えたのが、外国人労働者受入拡充に関する、出入国管理法の改正法案だった。

安定の適当な審議による強行採決だった。安倍は立法機能を素通りすることなど屁とも思っていない。経団連の人件費削減のリクエストに応えるためにはなりふり構わず、というところだろう。慣れとは怖いもので、強行採決程度では既に驚かなくなってきた。

 

恐ろしいのは、この法案の中身がスッカラカンなことである。敢えてスッカラカンにした、と言っていい。ガイジンを単純労働者として大量に受け入れる、ということだけが決まっていて、その中身は省令で決めていく、という。そして、これらガイジンは移民ではない、という。雇用が(安い給料だから)安定しない分野にのみ調整弁として導入し、調整が済んだら帰ってもらうのだ、という。

 

外国人も人間である。機械を導入するかのように気に入らなくて取り換えるとかはできない(するかもしれないが)。子供を産むなとか恋愛をするなとかコミュニティを作るなとか、それは大きなお世話であり、不可能な話である。人間なのだから。

 

大量に流入した外国人は、その地域で、その種族で、コミュニティを形成するだろう。子供もどんどんできるだろう。親は子供に自らの文化や言語を授けようと思うだろうし、子供も日本社会と自らのコミュニティとのギャップに苦しみながら、日本人のそれとは違う自我を形成するなかで、それを欲するだろう。

 

皆まで言わなくてもわかるだろうが、外国人を労働力として受け入れるということは、この社会で根付き繁栄し死ぬということである。日本の産業界は上から目線で、外国人の人間としての営みを制限する気でいるようだが、絶対にそうはならないしできない。心配しなくてもコミュニティを形成するし、子々孫々繁栄するし、それに見合うだけの教育機関が要る(当然民族教育機関である)し、医療や公的扶助も、彼らの事情に特化したそれが新たに必要になるし、多文化共生や(外国人を含めた)基本的人権や民主主義に対する理解も、社会全体で進めていかなければならない。それを踏まえる気が無いなら、受け入れる資格が無い。

 

ところが安倍政権、そのことに想いが至らないのか、あるいはどうでもいいと思っているのか、現在に至るまで表立って触れようとしない。社会においても、多くの外国人が大量に流入したら、安い給料で単純労働を担うようになったら、どのような未来が待っているのかを想像しようともしない。

 

私の眼前には、非常にわかりやすい未来社会が広がる。それはサッサと切り捨てるつもりで無闇矢鱈に外国人を雇って収拾がつかなくなった労働市場と、低賃金競争でいつの間にか足元を脅かされる日本のサラリーマンたち、そして蔓延するレイシズムエスノセントリズムの空気、その期に及んで被害者ヅラする善良なる日本市民の皆様と、半笑いでそれを眺める私の姿、である(必ずそうなるから魚拓でも取っておいてください)。

 

外国から労働力を導入しようとして、その生活や人生を受け入れる気が無いのなら、最初から導入すべきではない。少なくとも現在の日本社会には、外国人との共存生活、多文化共生の価値観は浸透していない。それは既に100年以上前に、自国の都合で受け入れはじめた朝鮮人との共生に、未だにろくな回答を導いていないことからも明らかである。

 

誤読する者が多い(それほど国士界隈には短絡的な者が多い)から付け加えるが、これはガイジンを受け入れるな鎖国しろ、というバカげた主張をしているわけではない。外国人との共生は余程の未開の地でもない限り、避けられない時代的趨勢である。日本が先進国であればなおのこと、である。

つまらない自国優先主義・外国人嫌悪主義・宗主国根性・差別主義・選別主義を後生大事に抱えるのではなく、日本の民族意識や文化や言語は大事にしながらも、他国・他者のそれも隣人として尊重する思考の醸成と、日本に移住しようとする者を日本社会のメンバーとして受け入れる社会的インフラと法制度の構築に早急に取り組むべきであり、それに価値を持つ政治勢力を政治風景の中心に据えるべきである。少なくとも他国への嫌悪を煽って支持率を保とうと画策するような政治屋連中に、外国人を安易に受け入れる資格がないことは明らかである。

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  • 通りすがりの。

    えー…

    一言で言わせて頂けるとしたらですね。

    日本だから。

    ですね。
    そして、我々は日本人だからです。

    これは差別ではなく区別ですね。
    他国に対して嫌悪感を抱いているわけではないです。

    既にグローバルな流れとしてもどの国も人種の坩堝と言えるような状態である現代においては、人種を理由にして差別だのヘイトだのと問題提起している時点で時代遅れのような気がします。

    飽くまでも、日本は日本人のための国であり、決して外国人の為の国ではありません。日本における外国人労働者の受け入れは加速していくでしょう。しかし、それは外国人を日本という国に文化的に、人種的に受け入れるということではなく、国益として受け入れるのであるということです。

    それがまた受け入れられないのか、受け入れられるのかは未知数ではありますが、アナタのブログを拝読する限りはアナタもこの日本の発展や国益を望んでらっしゃるのでしょうから、これに対しての反論はないでしょうし、飽くまで日本で生活する一朝鮮人としてのアイデンティティもお持ちなので肯定的に捉えていただけるのであろうと思っております。

  • id:rawan60

    >日本だから。
    ですね。

    いや、まさに「日本」だからこそ、こんな目先だけの「国益」なんてものを振りかざした差別的でダメダメで姑息な政策を打ち出したと批判してあるんだけどなぁ……

    >どの国も人種の坩堝と言えるような状態である現代においては、

    欺瞞ですな。
    それ、かつての米国を指す言葉としてよく用いられていたんだけど、もう十年以上も前に批判されているんだよ。「「人種のサラダボウル」であって、「坩堝」ではない」ってね。まさに、トランプに扇動される米国人を見れば、その化けの皮が剥がれているのがわかるでしょうに。
    「日本は日本人のための国であり、決して外国人の為の国ではありません。(アメリカは白人のための国であり、決して中南米移民や有色人種のための国ではありません)」なんてネトウヨの決まり文句を吐くような人が「どの国も人種の坩堝と言えるような状態」なんて、どの口がいうのでしょうねぇ。
    「サラダボウル」さえ認めないような国が、本当に「人種の坩堝」に近づけるのなら(近づけざるを得ないのなら)、どうしなければいけないのか、あるいは、「人間」である外国人に対して、「日本人のため」にご都合的に「区別されろ」などという差別は易々と通用しないのだよってことが書いてあるんだけど、何を読んでいるんだろうね。

    「外国人労働力」に限っても、「日本式(技能実習者制度なんてのは、バブル期の外国人3K無権利労働を国が制度化した現代の奴隷制みたいなもの)」を真似て失敗した韓国は、国の出先機関が直接往来を管理監督し、大幅な待遇改善制度をすでに実施していて、今は台湾、韓国が出稼ぎ労働者の希望先として日本を上回っていることぐらい知らないのかな?

    まあ、キミらの言う「国益」なんぞには関心はないけど、その「国益」さえ日本一国、日本人だけでは得ることが出来ないから外国人に頼るのだし、働く外国人の側も、「低賃金で過酷な使い捨てでも「日本人のため」に働きたい」なんてことは誰も思わないってことぐらい理解しておいた方がいいよ。

  • 通りすがりの。

    なるほどですね。

    理解が浅く申し訳まりませんでした。
    大変失礼いたしました。

    勉強し直してきます。笑

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