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市川大河のweb多事争論『人格を障害してしまった人たち』

生きているのはいけないの? 障害者の思い届く

代替テキスト

えぇ今回は、少しやや難しいテーマを扱います『市川大河のweb多事争論』になります。
皆様もご存知のように、先日相模原市で発生しました、障害者施設殺傷事件なのですが、この問題は、様々な障害者問題や、福祉施設問題等が絡んでおります。
一説には、安倍政権の関与も噂されており、もちろんそれは噂の粋を出ませんので、陰謀論である可能性も高く、どちらにしても言えることは、今現在とても国民の注目が、良きにせよ悪きにせよ「障害者」という存在に集まっているという事です。
この問題は非常にデリケートでありまして、少しでも触れ方を間違ってしまいますと差別に繋がりますし、一方で国民社会の危機管理の問題にも関係があります。

しかし、というわけではありませんし、だから、というわけでもありませんが、今回は少し、私自身の体験を踏まえて、少し角度を変えた「人格障害を抱えた人との限界論」を、語ってみたいと思います。
というのも、実は私は、悪漢風の見栄えからは情けない話ですが、今から10年近く前に、人格障害を抱えた女性から、ストーカーにあった過去があります。
その時は、数年越しの案件となり、所轄警察へ何度も足を運び、ようやくストーカーをしていた女性に対する刑事訴訟が受理されて解決したという流れがあったのですが、あくまで今回は一度相模原市の障害者施設殺傷事件との距離を置いて、別な角度から「人格障害を抱えた人」を、私なりの見識で語ってみたいと思います。

人格障害のカルテ 実践編

人格障害のカルテ 実践編 著者: 阿保 順子/犬飼 直子

出版社:批評社

発行年:2007

普通皆さんはストーカー案件といいますと、当然のように「恋愛問題」を連想するのだと思いますが、その相手は一応成人女性でしたが、これはもう私の勘違いでも全くないレベルで、そのストーカー事件は恋愛問題ではありませんでした。
ストーカー事件に関しては、これはもう刑訴まで持ち込んだ話ですので、ここで詳細を書くのは憚れるのですが、これは今現在も、私に執拗に「似非ライター」「自称物書き」と、Twitterや匿名掲示板などでスピーカーを繰り返す、自称業界人のワナビーの人にも言えるのですが、実はなぜか私は「そういう人」とご縁があるらしいと、そういう自覚はあるわけです。

人格障害とその治療

人格障害とその治療 著者: 町沢 静夫

出版社:創元社

発行年:2003

ですが、ただ自分が気に入らない人に対して、障害の名称や病名を付けて感情論の文章を書いてしまうと、差別とかの、そういう問題に発展しますので、大抵の場合私はそういう話題を口にする時は「人格障害者」とは呼ばず「厄介さん」という、ゆるキャラの名前のような言い方にするようにしております。
その方が余計な面倒を抱え込むリスクを避けられるからなんですね。

ではなぜ、私が今回「人格障害者との限界論」という言霊で文章を書く事になったかといいますと、ちょうど相模原市の障害者施設殺傷事件と同じタイミングで、「知人」が今現在「そういう人」とトラブルを抱えていて、どうしたものだろうねという展開になったからであります。
ここで、改めて明言しておかなければならないのは、今から語ろうとする「人格障害者」とは、決して「精神障害者」とは、イコールとは限らないという事です。その辺りはしっかりと、把握の上でお読みください。

人格障害とは何か

人格障害とは何か 著者: 鈴木 茂

出版社:岩波書店

発行年:2001

先ほど私は「何故かそういう人達と縁がある」とは書きましたが、私は精神科医でもセラピストでもないので、いくら経験値を積もうが「そういう人とはこう接すればよい!」等という、便利なノウハウを持ち合わせていないわけです。
いやむしろ、今回の結論を先に言ってしまえば「そういう人格障害者と関わり合いになってしまった場合に取れる、唯一にして最善の策は『逃げろ!』しかなく、他に退治法もなければ、八方丸く収まる魔法の呪文等もないのだ」という話になります。

ここまでが前置きですが、ある種の(あくまで「ある種」の)人格障害の人というの特徴として挙げられるのは、自分以外の全人類を「敵か、味方か」の二択でしか認識できないという。
つまり、その人の認識野では、「普通の知人」が存在していないのですね。
仮に誰かを味方だと認識すれば、どんな美麗な文句も献身的行為も辞さないのですが、いざ敵だと認識すれば、どんなに非常識行為や粘着、中傷、攻撃的行為もこれまた辞さないという両極端な部分が特徴になります。
そのふり幅の広さは本当に半端なく、まさに『ジキルとハイド』多重人格かという勢いで二極化するのです。
そして、さらに怖い所は、その二極性が「気分一つ」「スイッチ一つ」「自分の意志だけ」で、対象の位置づけが全くの真逆に、ある日突然変動するということです。

人格障害と生物学

人格障害と生物学 著者: 中沢 恒幸

出版社:学会出版センター

発行年:1996

簡単に言えば、今日この瞬間まで、その人格障害者に「人生最大の恩人で、一生をかけて愛する人」と思われていた対象が、本当に些細な(むしろどうでもいいような)理由で、「一生を賭けてでも殺さないと気が済まない、人生最大の敵にして仇」へと、役柄を強制変更させられるのです。
そのドラスティックな役割分担は、人格障害者の障害ゆえの承認欲求から来ている物だと思われますが、要するに「世界中の全ての人間が、自分にとって(人生究極の敵か、一生信頼しあえる味方という)重要な関係性にあって欲しい」という欲求の表れなのであります。

神経症・人格障害

神経症・人格障害 著者: 牛島 定信

出版社:中山書店

発行年:1994

仮に貴方が「そういう人」と関わってしまっていたとしますと、そういう人の中では、そのスイッチが入れ替わった瞬間から、貴方も巻き込まれたまま人間関係は一変します。
ネットでも良く語られますが、人格障害者は一見すると「良い人」に見える(見せる)場合が多く、そうなるとその人は自分の二面性を最大限利用して、周囲の人間関係や他人同士の関係性をも巧みに操る事で、敵になった貴方をとことん追い詰めて、死ぬまで(といっても殺人事件に至るケースは稀なので、事実上は「永遠に」)貴方につきまとい、貴方に対する根拠のない噂を触れ回ったり、周囲を味方につけたりして(人格障害者は潜在的にこの能力が総じて高いという話もあります)貴方の信用を棄損し、時には被害者を装い、時には自分の命を人質に(要するに自殺すると脅して)他人に要求をのませ、時には刑法の枠を超える行為にまで踏み込みながら、自分の「害がなさそうな外面」「自分の思い通りにならない存在への憎悪と巧緻」を武器として使い分けながら、とことん追い詰め続け、そして「それ」は(人格障害者というぐらいですから)常人では絶対信じられない程の持久力とパワーを持って、貴方が周囲の人間関係の全てを失うまで、貴方の人生が狂うまで続けられるのです。

特に「その人格障害者」が女性であった場合、恋愛感情や性行為をカードに使って人間関係構造をコントロールしたり、敵認定した同性を排斥したりする手段も頻繁に見られることも多いわけです。

人格障害の精神療法

人格障害の精神療法 著者: 町沢 静夫/福島 章

出版社:金剛出版

発行年:1999

まぁここまでの人格障害者概念は、ネットによる情報が流通し、人格障害という概念も可視化されるようになった昨今、ある程度は認識されている前提論なのですが、それは逆を言うと「人格障害者自身が自身の症状を認知し、それを隠匿する為に偽装する」為に「頭の良い人格障害者(人格障害はIQや頭の良い、悪いとは実は関係ない)」になると今度は、自身が有する人間関係において敵・味方の間に、巧みに自己催眠のように「普通の距離感の知人」を疑似配置することで、自身が人格障害であるという自己認知から逃避する行動に走るようになるのです。

自己愛性人格障害

自己愛性人格障害 著者: 町沢 静夫

出版社:駿河台出版社

発行年:2005

今や「人格障害とは」がネットで簡単に検索できるようになればこそ、当事者達も自覚・対策を立てやすく、逆に一般人が認知することが困難になっているのが実情であります。
なんといいますか「パブリックに公開された情報には、被害者も加害者も接することが出来る」からなんですね。
むしろ、人格障害者には、知能指数が高い人が多いとも聞きます。
「その人達」は巧緻に長けていて、むしろ初対面や心理的な距離がある人に対しては、とてもジェントルに振る舞い、心を開きやすいように接してくる場合が多いのです。
しかし逆に「そこ」に、人格障害者を見ぬくポイントがあります。
人格障害者は、ある一定の距離を保っている間は、無害な知人の一人というスタンスでいてくれる存在でありますが、いざ距離が近くなった途端(それが初対面でも)率直に「敵か味方か」を判定しようと、「本能的に違和感があるレベルで親密にすり寄ってくる」のです。

この「本能的」は、あくまで概念論でもありますし、数値化できない感覚でもあるので、明言は出来ませんが、仮に「貴方」が「その人」に対して、「え。この人はなんで、もうこんなに私に対して親しげなの? 私とこの人、いつの間にそんな親しい関係になったっけ? まだそんな仲は良くない筈だよね?」と思うにも拘らず、無暗に近づいて来ては「私と貴方は親友だよね」ですとか「私はあなたの味方だよ」ですとか言うとしましたら。
その上で、貴方が聞きたくもない、その人の「内面性や過去に関する辛い話」「普通は相当仲良くならないと打ち明けない筈の重要な話」「自分とは一切関係のない、他人に対する誹謗中傷や虚実の判断がつかない罵詈雑言などを勝手に打ち明けてきたとしましたら。
「その人」が人格障害である可能性は、疑ってかかった方がいいかもしれません。

重ねて書きますが、今回私は何も「人格障害者を批判する」ことを目的に、このような長文を書いている訳ではありません。
むしろ「人格障害者は、皆さんが思った以上にすぐ隣にいる」事が多く、「人格障害者と交流関係を持ってしまった場合どうすればいいのか」を、書き記しておきたくて今回の『市川大河のweb多事争論』になったのです。
もちろんその回答と結論は「逃げるしかない」なのですよとは。序盤で語りましたが、それは障害者差別ではないのか? 社会を構成する人として、人と繋がり合う社会論としては、ある種の責任放棄ではないのか? という仮想論調に対して、少し書き記してみたいと思います。

①「人格障害者に何も期待してはいけない」

これはとても大事な前提論です。
私自身が、ストーカー問題の時に、精神医学の先生にお尋ねする機会があった時に教わって、目から鱗が落ちたのですが「障害は治らない。むしろ治らないから障害と呼ぶ。治療や投薬で治る場合は最初から『○○病』と呼ぶ」というのがありました。
障害は治らない。これは残酷な現実ですが、当事者も周囲も、踏まえねばならない重要なポイントです。
専門家は続けて僕にこう仰いました。
「身体障害で腕が無いとか足が不自由な人がいるじゃないですか。薬を飲んで手が生えてきますか? 治療で治りますか?」成程至極納得のお言葉です。
では、そこまで言い切られてしまった、人格障害者自身はどうすればいいのでしょうか。
ここでも身体の障害を例にして解説するのであれば。

A「まず、自分が障害者であると認知する(これは身体であれば普通に認知できる)」

B「自分の障害を正しく学び受け入れ、一生その障害と共に生きていく運命を受け入れる」

C「障害を前提に、どう他者と向き合えばいいか、どう生活していくべきかを実践し、会得する」

この3ステップしかないのですね。
もちろん現代医学の限界論として「人格障害を治す投薬や治療法」もあるのかもしれないのですが、実はこれよりも、もっと面倒な問題が事前に待ち構えています。

②「人格障害者は人格障害であるからこそ、自分が人格障害者である事実を認めようとしない」

まるで禅問答か哲学のような文章になってしまいましたが「そういう事」なのです。
人格障害の一つに「自己愛の突出化」が挙げられますが、人格障害者が望むのはいつでも「自分が悲劇の主人公」であり「自分が被害者」である事実誤認です。
その場合、仮に頻出する症状が自覚されて病院へ自ら赴いたとしても、そこで求めているのは「貴方は(俗に言う)鬱病です」というような、「闘病の悲劇に浸れるような『可哀想な病』」のみでありまして、そこで医師が馬鹿正直に「貴方は人格障害ですよ」とも言おうものなら、即座にその医師は「敵認定」を受け「コイツは藪医者だ!」という認識になって、その人は自分が求めている診断を下してくれる医師が現れるまで、病院を変え続けるのが、しばしばみられる現実です(悲しいかな措置入院のケースを除き、概ねの医療現場に於いては、患者に通院先を選択する自由が認められています)。

③「治らない人格障害者に、他者がしてあげられる事はない」

ここまでを前提に言うのであれば、この結論しかないのであります。
人格障害がなんらかのコミュニケーションで「治る」のであれば、友情や愛情を前提として献身的に接してあげる事も一つの社会のありようであろうとは思います。
しかし、今も書いたように「本人が自覚して向き合おうとしない限り、決して治る事も症状が沈下することもない人格障害」を相手に、人生を捧げる覚悟もない他人が接し続けるのはリスクが高すぎるのも現実です。
言ってしまえば24時間365日「表が出れば生涯の友。裏が出れば一生恨み続ける仇敵」というコイントスを、され続けるようなものなのですから。
『絶愛する親友』から『殺さなくては晴れない恨み相手』へ」
そのトリガーは、人格障害者の中にだけ存在し、その法則性は不規則であり気分的な物であり、一度決まったら(本人の気分以外では)誰にも覆す事は出来ないという、「無敵の法律」なのであります。
仮に、人格障害者に敵認定をされてしまえば、大げさではなく「人生を変えられるレベル」で、騒動や紛争や厄介事の嵐に巻き込まれてしまうのです。
貴方にとって「その人」が、そこまでのリスクを負う価値が本当にあるのでしょうか?

境界性パーソナリティ障害

境界性パーソナリティ障害 著者: 岡田 尊司

出版社:幻冬舎

発行年:2009

迂闊で浅い弱者擁護論だけで、ここまでの論説を批判しないで、どうか皆さんにも考えて頂きたいと願うのです。
私は別に「人格障害者を排斥しろ」「人格障害者を社会から追い出せ」と言っている訳ではありません。
例えば血の繋がった家族は、概ねにおいては一生その繋がりを解消することは出来ず、親子や兄弟は(法的にはどうであれ)死ぬまでそのままであり続けます。
その親子・兄弟が、家族として生まれてしまった以上は、とるべき最低限の責任と責務を負えばよいのだと、私は思います。
もちろん「さすがに家族でさえも持て余す」という人や症状も、ケースとしてはあるでしょう。
そうなったらどうするべきでしょうか?
さすがにそれ以上は「自己責任で」と言うしかありません。

私は何も「治療不可の、難病認定の病人を見捨てろ」と述べている訳ではありません。
人格障害も「本人にその気さえあれば」自分で認知し学び、社会に適合していけるようにエクササイズを繰り返し、ちゃんと他者と対等に向き合えるようになる事は可能なのです。

ただ、本人が障害さえ認知せずに、被害者面だけを保持し、自らの不幸の責任を他人のせいばかりにし続ける限り、やがて待っているのは「果てしのない孤独」でありますでしょうし、それを救う事はブラックジャックでも米軍でも不可能だという話なのであります。
そんな難行を貴方は果たせると、自信をもって言い切れますか?

果たせる自信がおありでしたら、これ以上止めはしませんし、どうかその人が真なる孤独に落ちぬように、自分がある日突然敵認定されない事を運命の神に祈りながら、付き添ってあげてくれれば良いとは(嫌味抜きに)本当に願います。
しかし、今書いた「人格障害者の『たった一つの生き延び方』を前提にした時には、そこへ誘導してあげる事は誰にも不可能であり、本人の自覚と自立を待つしかないのが現状だということも、動かない事実なのであります。

序盤でも書きましたが、人格障害者は表向きの社交性だけは高いので、表層上だけの友人の人的数だけには恵まれるでしょうから、自分の対人環境だけを題材にして、自己の危機感には至らないである可能性は高いですから「放っておけば、いずれ因果応報で、我が身に気が付く時もあるだろう」は、往々にして果たされる可能性はないと、これは言い切れます。
ここまでの長文をお読みくださった方に向けて言える事は、たった一つだけです。

「貴方が『なんかおかしい』と感じた知人や友人や人間関係について、思い当たる節があったらネットで『人格障害』で検索をかけてじっくりお調べなさい。そこであげられてる『人格障害者の特徴』に当てはまるポイントが多く感じられるようであれば、貴方には、貴方の生活と平和を守る権利があるのだから、その人からはゆっくりと御逃げなさい」であります。

逃げる時はあくまでも「ゆっくりと」であることが大事です。
急激に逃げますと、人格障害者はそれを的確に察知して、ものすごい勢いで追いかけてきます。
追いかけてくる最中に「見捨てられ症候群」は、自動的に「敵認定・悪意」へと変質し、目的と手段が入れ替わる顛末を迎える可能性も高いです。そうなってしまうと、私のように数年単位で「厄介さん」の気分と執念とバイタリティ溢れる非常識行為に、悩まされる羽目になるかもしれません。
なので、貴方が気づいた「その人」との関係が「日々職場で毎日食事を共にする関係」程度であれば、最初は一週間に一回、やがては三日に一回といったペースで「ちょっと今日は一人で食事をしてくるね」と、何気なく装いパージしていく、こういった距離の取り方がベストだと思われます。
その相手が、TwitterやSNSで頻繁に対話をしている「ネット上でだけの関係」の相手であれば、ログイン時間をずらすか、別アカウントで大事な友人達と対話するようにシフトしていき(その動きはバレないように。人格障害者の多くはネットの利便性を熟知しています)TL等で対話する時は「最近忙しくてねぇ」とでも呟き、ダイレクトメッセージ系に関しては「大丈夫。最近忙しいだけだから。でもいつまで忙しいかは分からない」等と返しておくしか他はありません。

「まるで、ジャングルで猛獣と出会った時の対処法のようだ」「自分が何も悪いことをしていないのに、どうしてわざわざ、自分が慣れ親しんだSNSのアカウントを変えたりまでしなければいけないんだ」そう反論してくる方も多いかもしれません。確かに正論です。しかし「厄介さん」には、正論は何一つ効力を発揮しないのです。
こうしてアドバイスが弱腰ばかりになるのも、正直言いますと、私個人が「そういう厄介さん」に対する決定打的手段を持ち合わせていないからです。
何も参考にならないかもしれないとなれば、ここまで読ませておいてなんだと怒られるかもしれません。
しかしそれは、私個人からの「見知った現実を、書き留めておきたくなった衝動」ゆえ他ありません。
人には誰にも等しく「自分の平和と自由を守る権利」があり、平等なはずだからであります。
その平和を侵し、平等を踏みにじる件においては「徹底的に(法的等)戦う」「なりふり構わず逃げる」かしかない、というのが、現実論です。
これを読んでくれた貴方に、私のような迂闊ささえなければ、杞憂に終わる逸話なのかもしれませんが……。

「ストーカー」「厄介さん」は、普通の人間が「いくらなんでも、そこまでのことをするはずがないだろう」と思うレベルまで、何でもしてきます。法を踏み越える犯罪者はむしろまだまだレベルの低い「厄介さん」で、彼らは決して病人ではありませんから、知能も技能も働きますので、「嫌がらせを気が済むまで行うためならば」「好きな人に想いを受け止めてもらうならば」、ありとあらゆる「法の隙間」をかいくぐって、どんな手段も講じます。
桶川ストーカー殺人事件をはじめとして、各種ストーカー犯罪がそうであったように、世間の一般常識人どころか、犯罪相手のプロの弁護士や警察まで「そこまでやる人はいないだろう」と、笑って信じないレベルのことまでを「自分の感情に素直に」「正義のために」で自分を誤魔化し、やってのけます。

相模原市の障害者施設殺傷事件の犯人が、重度の精神疾患患者であったのか、それとも精神障碍者なのか、人格障碍者なのかは判断が出来ませんが、一説によれば「神に命じられたから」という理由で、戦後史に残る大量の殺害被害者を出したという話も聞きます。

差別のない社会を作ることは大事なことです。
しかし一方で、良い意味で「差別と区別」を混同してしまう「優しすぎる社会」は、まっとうな罪もない人達が、人生や命や名誉を失わされるリスクを増やしてしまうこともあるのです。
この国の、障害者対策や福祉が、なにを目的として、どこへ行こうとしているのかはまだ判断できかねますが、国や集団ヒステリーが、差別や切り捨てを行う前に、我々全ての人々が「(どちらかの)当事者感覚」を持って、良い偏見も悪い偏見も捨てて「そこにある事実」を、共有するべきタイミングが、来ているのかもしれません。

多事争論でした。


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