93歳か……
酒田の焼きそばは、焼き上がったものにセルフでソースをかけるという後かけ方式であるらしい。具材がゴロゴロと麺の海の中を転がっている。適度なコゲを浮かべた麺にソースを満遍なく回しかけて、カラシマヨネーズをぎゅっと絞って端に添える。なんとも素朴で、ひどく長く退屈な午後の昼飯…というタイプの焼きそばを口に運ぶ。ソースの味に黄身の味がからみ、後からカラシがつーんと追いかけてくる。おいしい。
東京のことを思い返していた。
「雪国っていうカクテルがあるだろ?それを考案した人が山形にいて、日本最高齢のバーテンダーとしてカウンターに立ってるらしいんだよ」
「そうなんですか、それはなかなか興味深いですね。何歳なんですか」
「93歳だよ」
「93歳…!?歴史ですね……」
「これはいくしかないだろ?」
「そうですね、これは行くしかないですね……」
雪国は、ケルンのバーテンダーの井山氏が考案したカクテルで、1959年にサントリーが主宰したカクテルコンテストで、賞をとったことなどから人気になり、全国的に飲まれるスタンダードカクテルとして有名になった。近年、雪国の物語が映画化されるなどして注目を集めているようだ。
雪国 詳細情報 カクテルレシピ - Liqueur&Cocktail - サントリー
サントリー曰く「戦後の日本が生んだカクテルの傑作」
僕はもくもくと焼きそばを食べた。ここからは酒田である。シーンがぽんぽん飛んで困ったものだ。戦後、混沌の日本、東北の地、山形で生まれたカクテル。グラスの淵に、雪を模した砂糖が華やかな、ハイカラでモダンな一杯。なるほどなるほど…僕は1人でもくもくと焼きそばを食べた。
僕を酒田行きへ焚きつけた張本人の友人は「ごめん!酒田行くの次の週だと思ってた!」などと供述し行けなくなり、僕は酒田で一人であった。とにかくケルンで雪国を飲むのだ!と他にはあまり深いことを考えずに酒田にやってきた僕は、寒くなり損ねた冬の長閑さの中で暇を持て余していた。
酒田のコミュニティセンターのようなところでフリーのWi-Fiを掴み、地元の受験勉強高校生に混じって椅子に座り、スマホで酒田についてググっていると、どうやら酒田には即身仏があるらしいということがわかった。
即身仏というのは、お坊さんが木の実だけを食べるなどして、体の水分と脂肪を限界まで落とし、からっからになったところで、土の中に入り、亡くなると共にミイラになるというげに恐ろしい修行のことである。
こわいものみたさで行ってみることにした。
街の隅まで歩いていき、海向寺にて即身仏を拝んだ。
我が余生は 衆生済度のため
木食行に身を投じ……
願いをかけるものにはすべての諸願を成就せしめん
崇高とともにある人生だ。みなの救済を願って、自らの意思で断食をしミイラになってしまうのだ。信仰というのはすごいものである。 人間に信仰よりすごいものなどあるのだろうかと思わされる。
うむむ、宗教というのは大変なことだなあとおもいつつ街中に戻る。カクテルを飲みに酒田までやってくるなどという煩悩の塊であるところの僕は、人類における信仰という人間存在の極北とでもいうべき問題系をいったん脇に起き、大通りにある定食屋に入り、夕飯を食べることにした。定食はまたまた煩悩の横溢とでもいうべきものであった。
なんと500円である。この品数で500円とは原価計算が間違っているとしか思えない。浮世は消費税10%なのである。税込み500円……
即身仏を見た後で、この量のご飯を食べるというのもなんとも言えない感じがある。信仰のため、木の実をたべる僧。酒を飲みに、酒田までやってきて煩悩炸裂の夕飯を食べるわたし……
しかし出てきてしまったものは仕方がないので、慎み深く食事を済ませた。煩悩の横溢500円定食は500円だなあと言う味のどこか、小学校の給食を思わせるものであった。
いよいよ、酒田に待ちわびた夜が迫ってきて、僕は身をかまえた。ケルンに行かねばならない!定食屋を出て大手を降って夜道を歩いていく。酒田の夜は静かだ。ケルンはすぐ近くにあった。手を擦って温めて、ドキドキしながら扉をあけた。バーに入るのは、いつだって緊張するものなのだ。
女性のスタッフが、カウンターでもテーブルでもどちらでも、といって迎えてくれた。落ち着いた内装でランプの明かりもおだやかな店だった。7時開店で7時10分くらいに入ったのだけど、すでに客が5人もいた。うち4人は外国のかたたちであった。世界中から雪国を飲みにきている人がいるのだなあと驚いた。煩悩は世界中に偏在する。
せっかくなのでとカウンターに座るかと、はじのほうに腰をかけた。1人で飲むときは壁際の方が絶対的に落ち着く気分になるものなのだ。
カウンターの向こうの女性のバーテンダーさんに、雪国でと告げると「マスターがまだ2階から降りてきてないんですよ」とすこし笑って、いそいそと準備を始めた。
「わたしたちみんな今日ご飯食べすぎちゃって眠いんですよ。マスターも食べすぎて調子悪いのか、ひとまず血圧図らなくちゃって言って、おりてこないんです」とバーテンダーさんが教えてくれた。
「みんなでご飯食べて、仲がいいんですね」
カウンターのすみで目の前に積まれたレモンをじっと眺めながら座って待った。
「あ、きたきた」
バーテンダーさんがそういうと、マスターが軽快な足取りで現れた。93歳とは思えない軽やかさであった。
「マスター、仕事サボれなかったですね。血圧の値が悪かったらサボる口実になるんですけどね」とバーテンダーさんがに言った。マスターは「また働かにゃ」といった感じでカウンターに入った。和やかなムードであった。
人間は何歳でもスキアラバ仕事をサボりたいものなのだ。
写真をお撮りしても良いですかと聞くと、全然いいですよとのことだったので、恐縮ながら雪国を作る姿を撮らせてもらった。
何千、何万と作ってきたのだろう。自動的に体が動いているような感じだった。90歳を超えてもまだまだ現役のようだ。
ゆっくりと、しかし小気味よくシェイカーをふる。
「取材があったりすると、深いことを見出そうとするひとも多いんですけど、本人はけっこう適当にやってるんですけどよ」
女性のバーテンダーさんはそんなことを説明してくれた。
「 はい、どうぞ」とマスターが雪国を出してくれる。薄緑のアルコールに、ミントチェリーが沈む。
すごく飲みやすい。さっぱりとした味にライムの香り、後からふちにまぶしてある砂糖が口の中で溶けだす。一人で飲むことになってしまったけれど、ひとりひっそり飲むのがいいカクテルであるような気もした。ちょっとした宝石のようなそのカクテルをちびちびと飲むことにした。
スタンダードカクテルになるということは、これから100年、200年と飲み継がれていったりするわけだ。気が遠くなるような話だなあと思う。
苦が笑い 欲しくもないのに 歳は増え
マスターがかいた詩なんだとか。
隣には、へっへと笑うおじさんが座っていた。ほんとに何も変わらなくてもね、年ばかりとっていくんだよと言う。おじさんもケルンで雪国を飲むために遠くからやってきたらしい。歳をとってもこうして一人で、酒を飲むためだけに一人旅をできるのであれば、なにをこれ以上望むことがあるのだろう!
マスターがこれ入れてるんですよ、どこにでも売ってるものですけどね、とミントチェリーを見せてくれた。
調子に乗って、ボサノヴァ・デイジーを頼む。これもオリジナルカクテルなんだという。シナモンスティックが刺さっている。洒落ている…… なんなのか最初わからなくて、あやうく食べてしまうところだった。
となりのおじさんが、ルビーの誕生を頼んでいたので、便乗して、同じものを頼む。ルビー……煩悩である。
お客さん、何月生まれなんですかときかれて、2月ですなんですと言うと、じゃあ、アメジストですねといって、バーテンダーさんが、紫のカクテルを作ってくれた。感謝しながらごくごくと飲み続ける。どちらもおいしいのだけど、きっとどれも20%くらいのアルコール度数はあるのだろう。
4杯もカクテルを飲むとこれがなかなかテキメンにくらくらになってくるのである。
2月生まれの人にはこれからはこれをだせばいいですねとバーテンダーさんは言った。
「2月生まれってのはロマンチストが多いんだよ、おれもだけどな」
おじさんがへっへと笑った。2月生まれの僕も笑った。次行った時に、アメジストのカクテルがメニュー表にあったりしたらいいなと思った。
煩悩はなかなかつきないものなのだ。