
一条真也です。
21日、東京に来ました。
22日、全互協の新年行事であるグリーフケアのパネルディスカッションにパネリストとして出演します。
『最強の系譜』那嵯涼介著(新紀元社)を読みました。「プロレス史 百花繚乱」というサブタイトルがついています。プロレス史専門ムック『Gスピリッツ』(辰巳出版)に、2008年から現在まで著者が寄稿してきた、論文や評伝、インタビューといった文章のほぼすべてを1冊にまとめたものです。著者は1965年、埼玉県出身。本名非公開。格闘技史研究家。ライター。2008年、『Gスピリッツ』誌に「Uの源流を探る―カール・ゴッチとキャッチ・アズ・キャッチ・キャン」を寄稿、ライターとしてデビューしました。

本書の帯
本書のカバー表紙には、左上から時計回りにルー・テーズ、カール・ゴッチ、ダニー・ホッジ、ビル・ロビンソン、ローラン・ボック、ビリー・ライリー、エド・ルイスといった最強プロレスラーたちの写真が使われ、帯には「格闘史研究家 渾身の評論集」「テーズ、ゴッチ、ホッジ、ロビンソン、そしてボック・・・・・・プロレス史を彩る強豪たちの軌跡」と書かれています。帯の裏には「欧州を中心とした、強豪レスラーたちのエピソード満載」「プロレス・ファン必携の一冊!」と書かれています。

本書の帯の裏
アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。
「テーズ、ゴッチ、ホッジ、ロビンソン、そしてボック・・・・・・。プロレス・ファンの間で語り継がれる伝説の強豪レスラーたち。本書は長年にわたり格闘技史研究を続けている著者が、彼らの真の強さを探求した評論集です。特に1978年にドイツ・シュツットガルトでアントニオ猪木と死闘を繰り広げその後、長い間、沈黙を守り続けたローラン・ボックのロングインタビューや、1977年、78年にアントニオ猪木や坂口征二と異種格闘技戦を行ったザ・モンスターマンのインタビューなど、これまであまりプロレス・マスコミに登場しなかった選手の証言も収録。昭和プロレスファンには必読の内容となっています」
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」
第1章 ベルギーのカレル・イスタス
―カール・ゴッチの欧州時代―
第2章 ウィガンにあった黒い小屋
―‟蛇の穴“”ビリー・ライリージムの実像―
第3章 危険で野蛮なレスリング
―キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの起源―
第4章 JIU-JITSUは果たして敵なのか?
―日本柔術とキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの遭遇―
第5章 ゴッチが勝てなかった男
―伝説の強豪バート・アシラティ評伝―
第6章 「イスタス」から「ゴッチ」へ
―カール・ゴッチ アメリカ時代の足跡―
第7章 カール・ゴッチが出会ったアメリカン・キャッチの偉人たち―オールド・シューター発掘―
第8章 史上最強の三大フッカー
―テーズとゴッチ、ロビンソンの複雑な関係―
第9章 ふたつのリスト
―テーズとゴッチ、それぞれの最強レスラー論―
第10章 20世紀のパンクラティスト
―ダニー・ホッジ回想録―
第11章 世界各国の戦前レスリング稀覯本
第12章 恐怖のトルコ
―コジャ・ユーソフとトルコレスリング―
第13章 戦前の英国プロレス盛衰記
―「白紙の20年」とオールイン・レスリング―
第14章 大河に抗わず―前座レスラー長沢秀幸の人生―
第15章 『ゴッチ教室』の全貌
―指導者カール・ゴッチの原点―
第16章 もうひとりの‟ゴッチの息子”独白
―ジョー・マレンコ インタビュー―
第17章 盟友アントニオ猪木とともに
―琴音隆裕 インタビュー―
第18章 木村政彦のプロレス洋行記
―知られざる戦いの足跡―
第19章 30年の沈黙を破り、あの‟墓堀人”が甦る
―ローラン・ボック インタビュー―
第20章 『イノキ・ヨーロッパ・ツアー』の全貌
―猪木のロマンとボックの野望―
第21章 ダイナマイト・キッドとシュート・レスリング―爆弾小僧の創生期―
第22章 ウィガンからのメッセージ
―ロイ・ウッド インタビュー―
第23章 怪物たちの述懐―ザ・モンスターマン&ザ・ランバージャック インタビュー―
「あとがき」
「参考文献一覧」
「はじめに」の冒頭には、「プロレスラーに‟強さ”を求めて何が悪い」と太字で書かれ、著者はそういう視点でこのジャンルと接してきたし、これからもそうやって生きていくだろうとして、以下のように述べています。
「『プロレスとは元来、強さを競うものではないし、ましてや‟最強”などというワードを当てはめるのは幻想にすぎない。愚の骨頂である』
格闘技ファンのみならず、プロレスを愛する者たちの間でも、そうした論調が大勢を占めるのは百も承知である。だが待て。果たして本当にそうか。我々は子どもの頃、彼らの勝ち負けや強さの優劣に一喜一憂していなかったか。ボクシングや大相撲の延長戦上に、プロレスを捉えていなかったか。『ガス灯時代の強豪』に、思いを馳せたことはないか。そして世界中のプロレスラーの中で果たして誰が一番強いのか、知りたいと思ったことはないか。少なくとも、筆者はそういう少年だった。長じて、プロレスというジャンルの‟本質”を知ったあとでも、その想いは一度も萎える事はなかった。そのことに一切の後悔はない」
また著者は、プロレスについて以下のように述べます。
「プロレスというジャンルは、決して狭義なものではない。万人の眼があれば万人の捉え方があり、いずれの想いにもプロレスは必ず応えてくれる。正解など存在しないのだ。筆者の如く、プロレスラーの強さに興味を抱き、その術理や系譜を紐解くべく歴史書を読み漁り、多くの声を聞き、悠久の歴史に想いを馳せる者にすら、プロレスは胸襟を開いてくれる。もちろん、それは、観る者に留まらない。プロレスラーの側にも、強さを飽くことなく追及し、その生涯を捧げ全うした多くの者たちが間違いなく存在し、そして、彼らが有したプロレス固有の技術も、様々な形で現存している」
最後に、「この本は、そんな‟最強”を追い求めた男たちのドキュメンタリーである」と述べるのでした。
第2章「ウィガンにあった黒い小屋―‟蛇の穴”ビリー・ライリージムの実像―」では、カール・ゴッチやビル・ロビンソンといった多くの強豪を生んだ「スネークピット(蛇の穴)」ことビリー・ライリージムについて書かれています。英国北部のランカシャー地方に、ウィガンという小さな炭鉱町があります。この町には約1000カ所の炭鉱があり、人口の多くを炭鉱労働者が占めるのですが、著者はこう書いています。
「採掘作業が終わったあとの彼らの楽しみは、仲間と興じる酒盛りと賭けレスリングであった。どちらも強ければ仲間から尊敬され、レスリングに勝てば1日の稼ぎも増える。低所得者層が殆どのこの町だが、レスリングを教えるジムは無数にあった。そこで教えられるレスリングは、もちろんキャッチ・アズ・キャッチ・キャンである」
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、英国南部の支配者階級からは「野蛮で危険である」と毛嫌いされたスタイルですが、北部労働者階級の荒くれ男たちには制約が少なく勝ち負けが分かり易いキャッチ・アズ・キャッチ・キャンはうってつけのレスリングだったのです。ビリー・ライリー・ジムは炭鉱で働くレスラーたちのために開かれましたが、「スネークピット」というジムのニックネームは現地で命名されたものではないそうです。ビル・ロビンソンによれば、「アメリカに渡るまで、ライリー・ジムがスネークピットと呼ばれていることを全く知らなかった」そうです。著者は、「この呼び名はロビンソンがこのジムに入門するずっと以前に、ライリー・ジムを訪れたアメリカのレスラーたちによって名づけられたようだが、長くて暗い炭鉱(ピット)と、相手に蛇のように絡みついて技を仕掛けるキャッチ・アズ・キャッチ・キャン独特のスタイルの両方を掛け合わせた‟ダブル・ミーイング”であることは間違いないだろう」と述べています。
ビリー・ライリー・ジムでは、純度100パーセントのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンが行われました。その最も大切な理念について、ロビンソンは「相手の動きに合わせてリアクションする。待ち構えていてはいけないんだ。同じ相手でも状況によってその動きは千差万別に変わってくるものだから、それに如何に素早く反応できるかが重要になってくる。逆にこちらの攻撃に対して、相手の逃げ道が5つあるとする。そうしたら、そのうちの4つを潰してしまうんだよ。彼には最後の1つしか逃げ道は残されていない。そこを捕まえるんだ」と語っています。
第6章「『イスタス』から『ゴッチ』へ―カール・ゴッチ アメリカ時代の足跡―」では、「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチのアメリカ・デビューについて書かれていますが、「‟鉄人”ルー・テーズとの出会い」として、本書には以下のように書かれています。
「ゴッチの記念すべきアメリカ進出第1戦は(1959年)8月1日、対戦相手は後にアンドレ・ザ・ジャイアントのマネージャーとして有名になるフランク・バロアであった。この試合で勝利を収めたゴッチは、続く9月26日に行われたシカゴ大会でもタイガー・タスカー戦に勝利する。そして、この二大会のメインイベントを務めた‟鉄人”ルー・テーズがゴッチの試合を観戦。その優れたレスリング技術を高く買い、昔からゴッチのような俗に言う‟ガチガチのシューター”を好み、重用したことで知られるオハイオ地区のプロモーター、アル・ハフトにも働きかけ、テーズ自身もゴッチのアメリカ永住権(グリーンカード)取得の保証人になる」
しかし、テーズとゴッチの関係は微妙に変化していきます。
第8章「史上最強の三大フッカー―テーズとゴッチ、ロビンソンの複雑な関係―」では、「ルー・テーズとカール・ゴッチ」として、1964月5月2日、デトロイトでNWA世界ヘビー級王者テーズにゴッチが挑戦したエピソードが書かれています。それまでの両者の対戦成績はテーズの2勝3分。過去の対戦同様に、この試合も序盤までは両者の激しくもフェアな攻防が続きますが、テーズが‟フィニッシュ”のバクドロップを放とうとゴッチを抱え上げた瞬間から戦局がガラリと変わりました。著者は述べています。
「テーズに抱えられたゴッチが空中で咄嗟に体勢を入れ替え、全体重を預けて下になったテーズを押し潰したのだ。テーズはこの『バックドロップ潰し』でアバラを3本折り、試合後10日間の入院、1ヵ月半の長期欠場を余儀なくされた。当然、ゴッチにもテーズの‟報復”が待っていた。試合中、リング下に無理やり落とされ、生還のためにエプロンに上がりかけたゴッチを襲ったのは、テーズが痛みを堪えながらも全力で放ったドロップキックだった。この一瞬でリングサイドの記者デスクに頭を強く打ちつけたゴッチは、ついに立ち上がることができずリングアウト負けとなった」
59年にゴッチを見初めたテーズは、彼のアメリカ入りに大いに尽力したばかりか、その実力を高く評価し、自らが保持するNWA世界王座への挑戦の機会を何度も与えてきたとして、著者は以下のように述べます。
「『世界王座はそれに相応しい実力を持つレスラーでなければならない』という持論を持ち、各地のプロモーターが推す人気だけの‟王者候補”たちをリング上も含めて‟却下”してきたテーズは、自分の後の世界王座には、その‟政治力”を駆使してでも傑出した実力を持つゴッチを据えようとさえ思い描いていた。だが、『やはり駄目だ。こんな、あとさきをまるで考えない試合をやってしまうゴッチは王者の器じゃない。私の後釜などとても務まらない』と、この日を境にテーズのゴッチに対する思い入れは跡形もなく消えた。テーズは後日、『大変申し訳なかった。決して意図的にやったわけではないんだ』と謝罪に来たゴッチに対して、『私にだけじゃない。誰と当たっても二度とあんな試合をするなよ』という言葉しか掛けられなかった――」
第9章「ふたつのリスト―テーズとゴッチ、それぞれの最強レスラー論―」では、「中軽量級はシューターの証」として、著者は以下のような私見を披露しています。
「『プロレスリングにおける‟シュート”の技術は中軽量級のレスラーにこそ必須なもので、ヘビー級の体躯に恵まれたレスラーには基本的に不必要』だったのではないだろうか。ボクシングを例に挙げれば、肉弾相打つKOが身上のヘビー級ボクサーと比較して、卓越したテクニックとスピードを持つのは主に中軽量級ボクサーである点からも明らかだ。モハメッド・アリが偉大である最も大きな理由として、ヘビー級のボクシングにミドル級のテクニックとスピード感溢れるフットワークを導入したことが挙げられるだろう。プロレスに話を戻せば、充分なヘビー級の体躯でありながら、‟フック”の技術を高いレベルで習得したテーズやゴッチ、ロビンソンが特別な存在であるとも考えられるのだ。大きな肉体がそのまま売り物になるヘビー級と異なり、中軽量級のレスラーはプロならではの技術を身に付け、それを売り物にしなければならない。その技術とスピードさえあれば、充分ヘビー級のレスラーにも対抗することができる、そういう“プロの技術”だ」
ちなみに、この章ではテーズとゴッチが選んだ最強レスラーのリストが紹介されています。テーズは31人を選んでいます。そのメンバーは、エド・ストラングラー・ルイス、アド・サンテル、ジョージ・トラゴス、レイ・スティール、カール・ゴッチ、ディック・ハットン、ダニー・ホッジ、ジョージ・ゴーディエンコ、ルター・リンゼイ、ビル・ミラー、ベン・シャーマン、バーン・ガニア、ティム・ウッズ、ドン・カーティス、パット・オコーナー、ジャック・ブリスコ、ビル・ロビンソン、アール・マックレディ、レイ・ガンクル、ゴードン・ネルソン、デール・ルイス、ヒロ・マツダ、ボブ・ループ、ファーマー・バーンズ、フランク・ゴッチ、ジョージ・ハッケンシュミット、アール・キャドック、ジョー・ステッカー、スタニスラウス・ズビスコ、トーツ・モント、ジム・ブロウニンです。

また、ゴッチは37人選んでいます。そのメンバーは、バート・アシラティ、ビリー・ジョイス、ジョー・ロビンソン、デヴィッド・アームストロング、ギデオン・ギダ、ベン・シャーマン、フランク・ウルフ、ジュール・ラランス、ジョニー・デムチャック、ルー・テーズ、ビル・ミラー、ドン・レオ・ジョナサン、ドン・カーティス、藤原喜明、ファーマー・バーンズ、フランク・ゴッチ、アール・キャドック、ジョー・ステッカー、エド・ストラングラー・ルイス、ジョン・ベセック、レイ・スティール、トーツ・モント、ジム・ブロウニン、マリン・プレスティナ、フレッド・グラブマイヤー、アド・サンテル、ジョージ・トラゴス、ジャック・レイノルズ、ワイノ・ケトネン、クラレンス・イークランド、チャールズ・フィッシャー、ジョニー・マイヤース、ジョー・ボナンスキー、フランク・モラッシ、トニー・モラリー、エンリケ・トルマー、ピート・ハワードです。なお、テーズとゴッチが「最強の日本人」と認めたのは力道山でもアントニオ猪木でもなく、ヒロ・マツダでした。
第19章「30年の沈黙を破り、あの‟墓堀人”が甦る―ローラン・ボック インタビュー―」では、「欧州最強の男」と呼ばれたローラン・ボックが「あなたが見た中でベストシューターは誰ですか?」という質問に対して、ボックは「よく聞いて欲しい。私のプロレスのキャリアの中で出会ったシューターはただひとり、ジョージ・ゴーディエンコだけだ。彼には本当に強烈な印象を受けた。彼はそのラフ・アンド・タフなレスリングスタイルのため、プロモーターにシューターとして使われるだけで、決してホーガンのようなステイタスを手にすることはなかったと思う。だが、ジョージはホーガンのようなビッグネームも含め、世界中のどんなプロレスラーでも打ち負かすことができた本当にただひとりのレスラーだった」と答えています。ボックと激闘を繰り広げたアントニオ猪木はシューターではないのかという質問には、「猪木はもちろんアマチュアに近いスタイルのシリアスなレスラーだったが、シューターではなかった」と答えています。
アントニオ猪木vsローランド・ボック
1978年11月25日、シュツットガルト大会で猪木とボックは4000人の観衆の前で、3度目の対決を行います。この1戦は、欧州代表であるWWU世界王者のボックと、アジア代表であるWWA世界王者の猪木による「世界統一王座決定戦」の一環で、この試合の勝者で二冠王となった者は、後日アメリカ代表であるブルーノ・サンマルチノと「世界統一王座」の最終決戦を行う予定だったそうです。猪木が判定負けを喫し、「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれたこの試合について、著者はこう述べています。「これまでの試合で満身創痍となった猪木がボックの怪力を利した攻撃を、ボックより勝るサブミッションの技術で巧みに切り返していくシーンは必見であるし、9Rに疲労困憊しているはずの猪木が、それまでエゲツない攻撃を繰り返し敢行してきたボックの顔面に報復のヘッドバットを叩き込み、ボックにとっても『一生忘れられない試合』にした点は、注目に値するものである」
このとき、欧州遠征した猪木は23日間で21試合という「殺人的なスケジュール」を課せられました。また、ボック自身の攻撃で猪木は負傷を負いながら試合を続けていたことについて、プロモーターでもあったボックはこのように語っています。
「我々はプロモーターとして間違いなく重大な過ちをいろいろとやってしまったんだが、とりわけ猪木をほぼ毎日メインイベンターとしてリングに上がらせたのは問題だった。彼の出場はもっと減らした方がよかっただろう。現在、私はそのことをこの上なく後悔している。そして、本当に申し訳ないことだが、数多くの試合によって猪木を酷使し過ぎたことを認めねばならない。何と言っても彼だって人間なのだから、他のレスラーと同様、疲労回復の時間を充分に取るべきだったろう。猪木がデュセルドルフで重傷を負ったというのを、私は今まで知らなかった。遅ればせながら、心から彼に謝罪したいと思う」
そして、猪木というレスラーについて、ボックは「私にとって猪木は最高のアマチュア精神を充分過ぎるほど持っていたプロフェッショナルのレスラーであり、練習熱心にして純然たる挑戦と勝利の意志を持ち合わせていた」と語りました。
最後に「猪木の述懐」として、過酷過ぎた欧州遠征について、猪木は「プロモーターでもあったローランド・ボックはヨーロッパのプロレス界では異端児だったんだけど、俺と目指している方向は一致していて、理想の点では意気投合してたんだ。それで、まあとにかく行ってみたんだけど、行ってみたら行く先々で地元の英雄と呼ばれる選手たちが待ちかまえていて・・・・・・いつもそうなんだけど、相手の話をうかつに信じたら、話が違うというやつで(笑)。ヤツも本当のところは俺をうまく利用して、金儲けしようという気持ちのほうが強かったみたいだんだよね」
また、「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれたボックとの対決について、猪木はこのように語っています。
「俺とボックとはね、‟本当のストロング・スタイルのプロレスを世界に広めよう”という、ある意味で同じ理想を持っていたんだ。シュツットガルトでの試合は、いままで誰も観たことのない試合をやろうという2人の実験的な意味も本当はあったんだよ。あんな試合ができるレスラーは世界に何人もいなかったから、ボックの存在は貴重だったんだがね。なにしろ野心家のくせに見かけによらず気が小さかったんだ。冷酷なところもあったしね。レスラーになったら実力はみんな紙一重だから、本当のトップを取るには‟こいつなら万が一負けても納得できる”というように、相手に人間性を認めさせるモノがなければいけないんだよ。そういう人格的な部分がボックには欠けていたのが、非常に残念だった」
わたしは、この猪木のコメントを読んで、「やはり猪木は器が大きいなあ!」と感心しました。何度自殺してもおかしくないぐらいの苦労や借金を抱えながら生きてきた男の凄みのようなものさえ感じます。猪木とボックの試合は当時のテレビ朝日「ワールド・プロレスリング」でも録画中継され、わたしも観ましたが、暗い照明の会場の中でオールド・クラシックなプロレスが延々と続いていたという印象です。後年、旧UWFが旗揚げして行われた前田vsマンテル、その後の前田vs藤原の試合をビデオで観たとき、「猪木vsボック戦みたいだな」と思ったことを思い出しました。猪木vsボックは、UWFの原点だったのかもしれません。
2020年1月22日 一条真也拝