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ロシアに眠る幕府の大砲 江戸後期の紛争略奪品?東大調査(1/2ページ)

 江戸時代後期に起きた日ロ紛争による幕府軍からの略奪品が、ロシアのサンクトペテルブルクの博物館に多数収蔵されていることが東京大史料編纂(へんさん)所の調査で明らかになった。近代へと向かうなか、外国との初めての軍事衝突に慌て戸惑う日本の姿が見えてくる。    ◇ ロシアにある日本関連資料の調査を同編纂所は10年来続けている。今年は7月に保谷徹教授らが博物館などを回り調べた。 一行を最も驚かせたのは砲兵博物館で確認した大ドラゴンネスト RMT砲だ。「フランキ砲」「石火矢(いしびや)」などと呼ばれる種類で青銅製。2門あり、どちらも口径79ミリ、全長約260センチだった。 大砲の一つには「FRCO」と刻まれていた。同編纂所の岡美穂子助教によると、これは戦国時代に大分を本拠に活躍したキリシタン大名、大友宗麟の印章だという。宗麟の洗礼名フランシスコから図案化したもので、1579年から2年ほど使っていた。 「宗麟が注文したか、宗麟の受洗を祝いイエズス会が贈った可能性が考えられる」と東大の五野井隆史名誉教授。ポルトガルの拠点だったインドのゴアなどが製造地の候補にあげられるという。 フランキ砲は鉄砲より少し遅れ16世紀後半に日本に伝わった。宗麟が最初に導入し、城の攻防に威力を発揮、「国崩し」の異名をとった。 そんな大砲がなぜ、ロシアに渡ったのか。江戸時代の紛争での略奪品であることをロシア側の記録は示していた。 ロシア使節のレザノフが、通商を求めて長崎にやってきたのは1804年。半年にわたり江戸幕府に交渉を求めた。 だが、幽閉さながらの状態に置かれたうえ、交渉そのものもまったく進展しなかったことから仕返しを計画。部下に命じ、1806年と1807年に樺太や択捉島など日本の拠点を攻撃させた。当時の年号から「文化露寇」と呼ばれる。

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