香川県はゲームよりも「うどん依存」を規制せよ
香川県議会の安易な規制案
香川県議会が、ゲーム依存症対策として、高校生までの子供に対し、ゲームやネットの利用時間を平日60分、休日90分と制限する条例案を示したことが話題となっている(「香川県議会が「ゲームは1日60分」の条例素案 全国初」)。
さて、最初に僕は香川県に対してこういう条例を提案したい。「うどん依存症対策条例」だ。
香川県は「糖尿病」による死亡者数が多く、毎年ワーストを争っている。その原因の一つとして指摘されているのが「うどん」である。うどんそのものは他の炭水化物と比して決して糖質が多い食品ではないが、おにぎりやいなり寿司などといった、同じ炭水化物のサイドメニューとの組み合わせが一般的だったり、食べやすく早食いや大食いとも相性が良いことから、自然と食べる量が増えるという問題があるとみられている。
よって、香川県民に対して一週間にうどんを通常の盛りで3杯までとする条例を制定してはどうだろうか?
糖尿病に苦しむ人の数と、ゲーム依存症に苦しむ人の数。どう考えても糖尿病に苦しむ人の方が多い。ゲーム依存症に苦しむ人がいるからゲームを規制してもいいと言うなら、うどんはもはや規制待ったなしのレベルなのである。
たとえ規制したとしても、普通の人は一週間でうどんを3杯も食べないのだから、大多数の人には影響は無い。香川県民も健康になって大喜びだろう。さあ、香川県よ! うどん規制条例を制定するのだ!!
なに? 大きなお世話だ? そんなの各自が自制すればいい? はい、ごもっともごもっとも。それは今回の条例案についてもまったく同じである。大きなお世話にもほどがある。
うどんを常食していない人が、他人のうどん食にケチを付けることは簡単だ。少なくとも僕は、週にうどんが3杯に制限されようと困らない。困らないから何とでも言える。
それはゲームについても同じことだ。日頃ゲームで遊んでいるわけでは無いであろう香川県議会議員たちにとって、ゲームを規制することは簡単だ。
規制したところで自分は一切影響を受けない。ましてや子供たちに対する規制だ。それこそ「ゲーム感覚」で簡単に規制を行ってしまうことができる。さらに言えば、こうした規制は自身に対するデメリットが無いのと同時に、有権者に対するウケもいい。
ゲームはすでに単なる子供の遊びではない
かつて「ゲーム脳」という言葉があった。ゲームをプレイすると脳の活動がおかしくなるというバカげた話であったが、こうした話を「ゲームが子供たちに悪影響を及ぼす科学的根拠だ」として期待を寄せた人たちがいた。それは子供の親や教育関係者たちだ。
彼らは、子供たちがゲームに夢中になって、勉強をしないことに困っている。そこに訪れた「ゲームは脳に悪いらしい」という科学的な視点が提供されたことは、まさに福音であった。
幸いにも、多くの人がこれを批判し、科学的根拠が脆弱であったことからゲーム脳という言葉は忘れ去られていったが、昨年にWHOが「ゲーム障害」を国際疾病として正式に認定したことから、その対策と称した規制が出てくることが懸念されていた。
その懸念の実現が、今回の香川県の条例案であると言えよう。そもそも、子供がゲームにかまけて勉強をしないのは、親にせよ教育関係者にせよ、自分たちの指導力不足が故であるはずだ。
しかし、自分の責任お構いなしに、科学に自分の願望を託してしまう大人が数多くいる。そうした怠惰な有権者には、法的根拠を持って子供を縛ることができる政策はウケがいいのである。
ファミコン黎明期に子供たちのヒーローであった高橋名人は「ゲームは一日1時間」と言っていた。この言葉はゲームを規制する意味合いというよりは、ゲームばかりで遊ぶのでは無く、外で遊んだり勉強したりと、子供のうちは様々な経験をして欲しいという、子供の将来を見据えた上での言葉である。
では、今回の平日60分、休日90分の条例案もそのような言葉と考えられるかと言えば、そうではない。高橋名人の言葉は、同じゲームを楽しむ仲間として、子供たちの自発性を促すための言葉である。一方で、今回の条例は行政側が上から押しつける言葉である。
高橋名人の言葉を無視して3時間ゲームを遊んでも親に怒られる程度だが、条例を無視したら法的にアウトである。今回の条例案に罰則規定はないが、政治の言葉の影響は決して軽視できない。
そもそも、高橋名人が活躍したファミコン黎明期というのは、ゲーム自体、100円を入れてプレイするアーケードゲームが中心だった。ファミコンなどのコンシューマ機のゲームはアーケードの劣化コピーに過ぎず、子供たちの遊びの中の1ツールに過ぎなかった時代の話である。
しかし、すでにゲームは単なる子供の遊びでは無い。eスポ-ツの隆盛でプロゲーマーという職業が注目されており、野球やサッカーのように、プロを目指す人たちも増えている。
また、レーシング界ではかつては子供の頃からカートで慣らすことが当たり前だったが、今ではそれに加えてレーシングゲームもプロドライバー育成のための重要なツールとなっている。
将来プロになることを目指して、野球やサッカー、レースに多くの時間を費やす子供たちに対して「1日60分に制限しろ」などというバカなことは言わないだろう。
また、プロゲーマーを目指さなくても、オンラインゲームやソーシャルゲームは多くの子供たちにとって、重要なコミュニケーションツールとなっている。オンラインでコミュニケーションなどと言うと、教育関係者などが「顔が見えないコミュニケーションは危険だ」などと言うのだが、では顔の見えるコミュニケーションは安全なのだろうか?
本当に子供の将来を見据えているか
厚生労働省の「自殺の統計」によると、2018年における19歳以下の自殺者数は568人。家族問題での自殺者数が116人。学校関係と分類されたうち「いじめ」と「学友との不和」で自殺者数が29人となっている。
ことさらオンラインは安全だと言うつもりはないが、しかしオンラインを避けていれば子供が安全かと言えば、そんなことは無いとは確実に言える。
子供たちが社会に触れて成長するためには、さまざまな人たちと接することが必要不可欠である。その入り口ともなるゲームを子供たちから遠ざけることは、子供たちの可能性を奪うことにもつながるのである。
そしてオンラインでつながらないゲームもまた、子供たちに影響を及ぼしている。影響を及ぼすと言うことを、今回の条例を支持する人たちは悪い意味でしかとらないのだろうが、そうではない。
子供の頃に学校になじめなかった子供が、テレビゲームを一緒に遊ぶことで、学校以外の友達とは遊ぶことができたり、不登校や積極的に生きることに絶望してしまった子供が、ゲームをすることで生き続けることを選択したり。僕もそんなゲームの存在に命をつなぎ止められたひとりである。
高校生の頃、半ば不登校でなんとか出席日数だけを保っていた頃。家に籠もってゲームをプレイして達成感を味わっていなければ、僕は生きることを放棄していただろう。
大きな声では言わないが、ゲームに助けてもらって感謝している人もいる。県議会議員などというご立派なお仕事をしている人たちには、そのような存在は見えないのだろう。
僕が子供の頃、コンピュータというのは、一部の人が仕事をするかゲームをする物でしかなかった。それから30年くらい経って、誰もがスマホを持つ時代になった。
仕事やゲームはもちろん、家にいながら映画をレンタルをしたり、銀行の振り込みをしたり、動画を作ってアップロードしたりできるようになった。そんな未来を30年前に予測できただろうか?
そんな未来を予想できた人は、パーソナルコンピュータの父とも言われる「アラン・ケイ」くらいなものだ。未来を予想するというのは、とても困難なのである。
では、この条例を制定しようという人たちは、これから子供たちが育つ未来に対して、どのような予測を立てているのだろうか? コンピュータや通信技術が発達し、様々なことがゲームを含めて発展、変化していく中で、子供たちゲーム依存症対策などと称してゲーム機やPCやスマホと触れることを管理監視して削減することが、子供たちの将来にとってマイナスにならないという保証はあるのだろうか?
僕にはとてもこの条例が子供たちの未来を見据えた条例であるとは思えないのである。