エステル・デュフロ。ノーベル経済学賞受賞が決まった2019年10月、MITにて Photo: Scott Eisen / Getty Images
Text by Delphine Strauss
2019年のノーベル経済学賞を受賞したフランス人学者のエステル・デュフロ。長年、「55歳以上の白人男性」が占めてきた経済学賞を、女性が、しかも最年少で受賞したとして注目を浴びている。インドなどの貧困国において調査を続けてきた彼女が、メインストリームの経済学の「最大の誤り」に斬り込む。
エステル・デュフロと私(記者)はロンドンで会った。いつものように記者から厳しい質問を浴びせられるだろうとわかっていながら、彼女は折り目正しい。ノーベル賞受賞後の1ヵ月について、「いい意味で忙しいです」と言う。
彼女はいま、ボロボロになった経済学の評判を立て直そうとしている。新著『Good Economics for Hard Times(未邦訳)』では、移民、貿易、広がる格差などの切迫した問題に、経済学が貢献できることを示した。彼女はこう言う。
「(出版は)最高のタイミングでした」
4分の3は55歳以上の白人アメリカ人
ノーベル委員会の選考は、あらゆる意味で「伝統からの決別」だった。過去20年ものあいだ、経済学賞受賞者の4分の3は「55歳以上のアメリカ人男性、それも白人」だったのだ。
47歳のデュフロはこの分野で最も若い受賞者であり、女性としては2人目となる。2019年の同賞はデュフロと夫でマサチューセッツ工科大学(MIT)同僚のアビジット・バナジー教授、そしてハーバード大学のマイケル・クレマー教授との共同受賞だった。
プライベートに関する話になると、デュフロは少し慎重になる。夫との緊密な仕事の関係について訊くと、心地良い関係だと簡潔に述べた。
「私たちはふたりとも経済オタクで、仕事大好き人間ですから」
エステル・デュフロ(左)と、ノーベル経済学賞を共同受賞した夫のアビジット・バナジー Photo: Scott Eisen / Getty Images
一般論に我慢ならない
だが、彼女が先駆者となった手法の説明になると、生き生きと語りだした。ワクチン接種率の向上には「メールで注意喚起する」「村内でうわさ話を広める」「接種後にレンズ豆を無料配布する」のどれが一番効果的か──こういう細かい点に彼女がどっぷり漬かるのはまったく驚きではない。経済成長や貧困の根源などの「大いなる疑問」に対して、一般論で答えようとする同僚たちに、デュフロは我慢ならないのだ。
彼女はそれよりも、小さな疑問に対する実質的な答えを追うことで開発経済学を変えた。インドの田舎で教師をきちんと出勤させるためには、あるいは子供にワクチン接種させるよう親を説得するには、どうするのが一番か、といったような疑問だ。
ちなみに、ワクチン接種率を向上させるためのベストな方法は、レンズ豆のプレゼントだ。初期のインドでの現地調査では、移動型クリニックへのアクセスがあると田舎でのワクチン接種率が3倍になることがわかった。だが、摂取した人にレンズ豆1kgを配った村では、その効果はさらに上がった。こうした金銭ではないインセンティブが、人々の行動を変える力になることを証明したのだ。
これはクレマーが先駆けとなり、バナジーとデュフロが制度化させたアプローチのほんの一例である。2人はJ-palリサーチ・センターを創設し、世界中の研究者ネットワークと政治家やNGOを繋げている。
学校に関する研究では、クラスの規模を縮小したり、教員を追加採用したりするよりも、補習を取り入れたほうが子供の勉強に役立つことを明らかにした。さらに、少額融資制度は推進派が言うほど人々の生活向上に効果がないことも立証した。とはいえ、デュフロはこう話す。
「私たちは長いあいだ、これらの結果について宣伝するようなことはしませんでした。大きな論争を引き起こす問題だと感じたからです」
ちなみに、ワクチン接種率を向上させるためのベストな方法は、レンズ豆のプレゼントだ。初期のインドでの現地調査では、移動型クリニックへのアクセスがあると田舎でのワクチン接種率が3倍になることがわかった。だが、摂取した人にレンズ豆1kgを配った村では、その効果はさらに上がった。こうした金銭ではないインセンティブが、人々の行動を変える力になることを証明したのだ。
これはクレマーが先駆けとなり、バナジーとデュフロが制度化させたアプローチのほんの一例である。2人はJ-palリサーチ・センターを創設し、世界中の研究者ネットワークと政治家やNGOを繋げている。
研究発表は慎重に
学校に関する研究では、クラスの規模を縮小したり、教員を追加採用したりするよりも、補習を取り入れたほうが子供の勉強に役立つことを明らかにした。さらに、少額融資制度は推進派が言うほど人々の生活向上に効果がないことも立証した。とはいえ、デュフロはこう話す。
「私たちは長いあいだ、これらの結果について宣伝するようなことはしませんでした。大きな論争を引き起こす問題だと感じたからです」
調査後、さまざまな国で7度の評価がされ、どのような背景でも同様の結果が出たことで、やっと2人はこれを公表した。
フィールドワークの結論を導き出す手法には、新薬の臨床試験をモデルとした「ランダム化比較試験(RCT)」を用いることがあるが、これには批判もある。場所を限定した研究から一般論を引き出すのは不可能、というのが理由だ。だがいまは、貧困への取り組みにおける手法の効果を計るのにRCTは標準ツールになっており、先進国でも使われることが増えている。
デュフロがRCTを積極的に広めているのは、そもそも経済学に足を踏み入れた動機──研究は政策に影響を及ぼすことができる──という強い思いがあるからだ。
彼女は貧困を強く意識しながら育った。パリの医師だった母親は、家族の都合でアルゼンチンに移住したものの失敗に終わったため、極貧で孤独な幼少期を過ごした。のちに母親はNGOの活動のため、毎年、数週間を危険地域で過ごした。「お母さんを縛らないのが、あなたたちにできる人助けなのよ」と、デュフロたち子供に話していたという。
大学で歴史を専攻したデュフロは最初、自分にできる「意義のあること」とは脇役的なものだろうと思っていた。だが、ロシアで1年間研究助手を務めていたとき、ジェフリー・サックスのような経済学者が政策アドバイスをしに来ると、政治家が耳を傾けるのを目にした。そしてこう悟った。
貧困を意識した幼少期
フィールドワークの結論を導き出す手法には、新薬の臨床試験をモデルとした「ランダム化比較試験(RCT)」を用いることがあるが、これには批判もある。場所を限定した研究から一般論を引き出すのは不可能、というのが理由だ。だがいまは、貧困への取り組みにおける手法の効果を計るのにRCTは標準ツールになっており、先進国でも使われることが増えている。
デュフロがRCTを積極的に広めているのは、そもそも経済学に足を踏み入れた動機──研究は政策に影響を及ぼすことができる──という強い思いがあるからだ。
彼女は貧困を強く意識しながら育った。パリの医師だった母親は、家族の都合でアルゼンチンに移住したものの失敗に終わったため、極貧で孤独な幼少期を過ごした。のちに母親はNGOの活動のため、毎年、数週間を危険地域で過ごした。「お母さんを縛らないのが、あなたたちにできる人助けなのよ」と、デュフロたち子供に話していたという。
大学で歴史を専攻したデュフロは最初、自分にできる「意義のあること」とは脇役的なものだろうと思っていた。だが、ロシアで1年間研究助手を務めていたとき、ジェフリー・サックスのような経済学者が政策アドバイスをしに来ると、政治家が耳を傾けるのを目にした。そしてこう悟った。
「『そうか、これが経済学者の仕事なんだ』と気がついて、自分もそういうことをしたいと思ったのです」

現在デュフロは、現場で過ごす時間を減らしている。その代わり、家族や仕事の繋がりがあり、幼い子供2人を同行させやすいインドへ旅することが多い。彼女は言う。
「子供たちと一緒に、村にも行きます。ホーリー祭も見たんですよ。とても素敵な場所に連れて行っているので、子供たちはインドをクールだと思っています」
デュフロは、人口2500万のハリヤナ州政府のために、予防接種の普及に向けたアイディアを実験している。だが、新たな障壁にもぶつかった。そこでは大量のレンズ豆を保存し、配るのは不可能だとわかったのだ。
その代わりに、携帯電話のプリペイドカードを贈呈することにした。この代替案を決めるのには数年かかったという。彼女は、「現場には、残念ながら特効薬などない」と語る。
「医学的な臨床試験は、新薬の開発が目的です。でも経済学におけるRCTの役割は違う。多くの場合、『行動の基本を理解すること』を目的としているんです」
貧困国における行動の動機を明らかにすることは、富裕国の政府にとって重要な教訓になる、とデュフロは信じている。そして、経済学者はもっと声を上げるべきだというのも彼女の信念だ。トップクラスの学者たちは誤解されることを警戒しすぎて、イデオロギー信者や評論家に場を明け渡している──そのことが、人々が専門家に不信感を抱く原因になっているというわけだ。
バナジーとの共著では、「現代のトップ経済学者が世界をどう捉えているか」を説明する一方、自分たちの研究に基づいた洞察もしている。たとえば、なぜチャンスがあっても貧困層は移住しようとしないのか、といったことだ。
現実には、人々は必ずしもいい仕事のために引っ越さない。そして、最も生産性の高いビジネスに投資するわけでもない。健康や自尊心、綺麗な空気など、人がGDPの最大化よりも尊重することはたくさんある。掴みどころのないGDPという目標は、もう先進国の政治家が優先すべきことではなくなっているのかもしれない。
デュフロよると、メインストリームの経済学者が侵した大きな間違いのひとつは、財政的な優遇処置を過信したことだ。アメリカが優先すべきは、復員軍人援護法を手本にした労働者への手厚いサポート、早期教育への投資、「ロボットに奪われることのない」雇用の創出だという。彼女はこう語る。
「貿易に税制……社会プログラムについて考えるとき、この誤解が大きな影を落としているのがわかります」
一般的な学説にそぐわない証拠を、経済学者はなかなか受け入れない──デュフロはこう批判的にみている。受け入れられなかった例として、ペティア・トパロヴァを挙げる。国際通貨基金(IMF)の経済学者トパロヴァはMIT時代の研究で、「インドにおいて貿易が盛んな地域では、貧困が減るペースが遅い」と結論づけた。
グローバル化によって失ったものの埋め合わせが必要とされるからだ、という彼女の結論は、現在ではわかりきったことに見える。だが当時、トパロヴァの論文は冷笑され、彼女は学問以外のキャリアを追わざるを得なくなった。
「このようなことは絶対にもう起こらないと言えたらいいのですが、断言はできません」と、デュフロは言う。経済学者が自分たちの前提を信じて疑わないのは、文化的問題、とくにジェンダーの多様性を気にしてこなかったことが大きな原因だというのだ。
控えめな性格ながら、デュフロは男性優位の経済分野でキャリアを積むのにまったく苦労しなかったように見える。パリのエリート校である高等師範学校で学び、30歳を前にMITの終身在職権を得た。さらに2010年、ノーベル賞の前哨戦ともいわれるジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞した。だが、彼女は言う。
「以前は(ジェンダーに)問題があるとは気づかずにいました。でもいまはこう思うんです……彼女(トパロヴァ)がもし積極的な青年だったら──控えめで、育ちがよく、礼儀正しすぎる若い女性でなければ──人々は彼女のことをあんなに簡単に否定しただろうか、と。きっと違ったはずです」
デュフロの最大のメッセージは、欠点はあるにせよ経済学者は世に貢献できる、というものだ。
「発展途上国で仕事をすると楽観的になります。なぜなら、ずいぶん多くのことが改善に向かいましたから」
乳児死亡率とマラリア発症数が減り、学校に行ける子供が増える──実際、これらは経済成長を遂げた国、そして未だ成長を遂げられずにいる国の両方で起きた。デュフロは言う。
「正しい政策へ焦点を合わせれば、大きな進歩に繋がるかもしれないのです。落ち込んだとき、私はそのことを考えます」
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2019年12月、ノーベル賞授賞式に出席したデュフロ Photo: Pascal Le Segretain / Getty Images
現在デュフロは、現場で過ごす時間を減らしている。その代わり、家族や仕事の繋がりがあり、幼い子供2人を同行させやすいインドへ旅することが多い。彼女は言う。
「子供たちと一緒に、村にも行きます。ホーリー祭も見たんですよ。とても素敵な場所に連れて行っているので、子供たちはインドをクールだと思っています」
デュフロは、人口2500万のハリヤナ州政府のために、予防接種の普及に向けたアイディアを実験している。だが、新たな障壁にもぶつかった。そこでは大量のレンズ豆を保存し、配るのは不可能だとわかったのだ。
その代わりに、携帯電話のプリペイドカードを贈呈することにした。この代替案を決めるのには数年かかったという。彼女は、「現場には、残念ながら特効薬などない」と語る。
「医学的な臨床試験は、新薬の開発が目的です。でも経済学におけるRCTの役割は違う。多くの場合、『行動の基本を理解すること』を目的としているんです」
貧困国における行動の動機を明らかにすることは、富裕国の政府にとって重要な教訓になる、とデュフロは信じている。そして、経済学者はもっと声を上げるべきだというのも彼女の信念だ。トップクラスの学者たちは誤解されることを警戒しすぎて、イデオロギー信者や評論家に場を明け渡している──そのことが、人々が専門家に不信感を抱く原因になっているというわけだ。
GDPを求めるのは時代遅れ?
バナジーとの共著では、「現代のトップ経済学者が世界をどう捉えているか」を説明する一方、自分たちの研究に基づいた洞察もしている。たとえば、なぜチャンスがあっても貧困層は移住しようとしないのか、といったことだ。
現実には、人々は必ずしもいい仕事のために引っ越さない。そして、最も生産性の高いビジネスに投資するわけでもない。健康や自尊心、綺麗な空気など、人がGDPの最大化よりも尊重することはたくさんある。掴みどころのないGDPという目標は、もう先進国の政治家が優先すべきことではなくなっているのかもしれない。
デュフロよると、メインストリームの経済学者が侵した大きな間違いのひとつは、財政的な優遇処置を過信したことだ。アメリカが優先すべきは、復員軍人援護法を手本にした労働者への手厚いサポート、早期教育への投資、「ロボットに奪われることのない」雇用の創出だという。彼女はこう語る。
「貿易に税制……社会プログラムについて考えるとき、この誤解が大きな影を落としているのがわかります」
経済学者はもっと声を上げるべき
一般的な学説にそぐわない証拠を、経済学者はなかなか受け入れない──デュフロはこう批判的にみている。受け入れられなかった例として、ペティア・トパロヴァを挙げる。国際通貨基金(IMF)の経済学者トパロヴァはMIT時代の研究で、「インドにおいて貿易が盛んな地域では、貧困が減るペースが遅い」と結論づけた。
グローバル化によって失ったものの埋め合わせが必要とされるからだ、という彼女の結論は、現在ではわかりきったことに見える。だが当時、トパロヴァの論文は冷笑され、彼女は学問以外のキャリアを追わざるを得なくなった。
「このようなことは絶対にもう起こらないと言えたらいいのですが、断言はできません」と、デュフロは言う。経済学者が自分たちの前提を信じて疑わないのは、文化的問題、とくにジェンダーの多様性を気にしてこなかったことが大きな原因だというのだ。
控えめな性格ながら、デュフロは男性優位の経済分野でキャリアを積むのにまったく苦労しなかったように見える。パリのエリート校である高等師範学校で学び、30歳を前にMITの終身在職権を得た。さらに2010年、ノーベル賞の前哨戦ともいわれるジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞した。だが、彼女は言う。
「以前は(ジェンダーに)問題があるとは気づかずにいました。でもいまはこう思うんです……彼女(トパロヴァ)がもし積極的な青年だったら──控えめで、育ちがよく、礼儀正しすぎる若い女性でなければ──人々は彼女のことをあんなに簡単に否定しただろうか、と。きっと違ったはずです」
デュフロの最大のメッセージは、欠点はあるにせよ経済学者は世に貢献できる、というものだ。
「発展途上国で仕事をすると楽観的になります。なぜなら、ずいぶん多くのことが改善に向かいましたから」
乳児死亡率とマラリア発症数が減り、学校に行ける子供が増える──実際、これらは経済成長を遂げた国、そして未だ成長を遂げられずにいる国の両方で起きた。デュフロは言う。
「正しい政策へ焦点を合わせれば、大きな進歩に繋がるかもしれないのです。落ち込んだとき、私はそのことを考えます」
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