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通信はモールス信号から始まりました。この音を相手方に聞きやすい均一な音量で提供することは技術的に簡単でした。音質に対する要求もほとんどなく、利用も政府や軍関係で、とにかくクリアに聞き取れればそれで良しでした。しかし音声を送受信するようになりラジオというものが出て来ると、リスナーという顧客が満足する品質が求められるようになってきました。音量レベルが頻繁に変わるのは聞き苦しいので、ある程度レベルを揃える必要があることや、急な信号でリスナーのスピーカーを飛ばすような事故も避ける必要がありました。音声のスムージーな伝送を安全に行う機器が求められるようになってきました。そのため、一定以上の音量を抑制するリミッターが開発され、後に、効きがナチュラルなコンプレッサーも設計され使い分けられました。
1935年に開発された史上初のリミッター Telefunken U3は、1936年ベルリンオリンピックで使用されたPAシステムに、突発的な過負荷(マイクを落とした時に大きな音でスピーカーを壊すなど)から保護する目的で収められました。当時はまだモジュールとして構築されてはいなかったので単体では作られておらず、そのためほとんど現存していないとされています。1945年には改良されたU13、49年にはコンプレッサー U17、54年にボリュームが追加されたコンプレッサー U20、スタジオでも使用可能な技術的水準に達したとされるリミッター U23が設計されました。しかしIRT(ドイツ放送研究所)はFM放送で全周波数応答可能なコンプレッサーを目指し、3年の歳月を掛けて開発されたのがTelefunken U73でした。このモデルはCDが登場した1980年まで製造され、カッテングマシーンの最終マスタリングコンプレッサーとして納入されていました。従って当時の欧州製レコードにはほとんどU73が通されているとされています。
このうち、U23,U73は回路図が残っており、バリミュー管という真空管を使って圧縮しているものであることがわかっています。それ以前のU3,U13,U17,U20がどのような回路だったのか確認できていませんが、U13はバリスタ型(現代では「ダイオードブリッジ型」。歴史の部分だけバリスタの呼称で通します)だったという話もあります。U3が登場してから米国でもリミッターが次々に開発され、大きく分けて3種類の圧縮方法がありました。最初に開発されたのは1937年Western Electric 110-A バリスタ型でした。同年のうちに、RCAは96-A バリミュー式を、Gatesは17-A ブリッジ型(最初の写真)を開発しました。これは2つの並行したトランスの間にランプを点灯させて圧縮を行なっていました。やがてコリンズ Collinsがランプではなくバイアスをかける26cを開発しました(2つ目の写真)。トランスの接続をたすき掛けすることで信号を相殺する逆相を得てそれをバイアスで操作するものでした。当時のカタログにもこの回路の特徴が示されています。コリンズは間も無くこの方式を採用することがなくなり、WEもバリスタ型を使うことなく、バリミュー管に移行しました。
第二次大戦中にエストニア出身のレイン・ナーマ Rein Narmaは貨物列車で故郷から逃れ、行き着いた難民キャンプで米軍第一歩兵師団に無線技士として入隊、そのことによって戦後ナチスの軍事法廷・ニュルンベルク裁判の音響を担当しました。その頃に初めてドイツの音響技術に触れたと思われ、後に米国に渡り、ニューヨーク・ゴッサムでノイマンの代理店に勤め、U47の正規改造を手がけていました。1959年にはフェアチャイルド社にて660を、そしてステレオのFairchild 670を開発しました。アタックタイムは最速で50mSと宣伝されていたようですが、実際には個体差はありますが200mS前後だったようです。ナーマはより音楽的であるためにはアタックが高速である必要があると考えていました。実際の切り替えは6段階のプリセットで(アタック/リリース)、1:200mS/300mS、2:200mS/800mS、3:400mS/2S、4:800mS/5S、5:200mS/Auto(トランジェント2S、マルチピーク10S)、6:400mS/Auto(トランジェント300mS、マルチピーク10S、常に高いレベルのプログラム25S)でした。ポジション5が最も良いようですが、バリミュー式の場合は戦前から、高速アタックに非常に長いリリースが好ましいとされていたので、ポジション5,6のようなプリセットが用意されたものと思われます。その上で広帯域になるように工夫したと思われ、ナーマは真空管とトランスの決定にかなりの数を試したとの言葉を残しています。これはナーマ自身の回顧によるとほとんど売れなかったようで、そのため今日現物を見ることは稀ですが、それでも最高の名機とされています。実際には30~40台が製造されたと言われており、価格は$1,495でした。現代の貨幣価値で日本円では150万円ぐらいになります。バリミュー式は他にも幾つか昔の名機が知られていて、RCA BA-6A,同 86-AL,Gates SA-38/39,ALTEC 436,CCA Electronics LA-1D,Federal AM864があります。クローンで最も普及しているのはManley Variable Muです。670は名機なのでManley以外にも製造しているメーカーもあり、そのうちの1つはウクライナ軍需産業出身の会社が製造しているHCL Varisで、現在製造は東南アジアに移していると言われますが、ガレージメーカーなので作っている人も来ており、ただ場所が変わっただけで製品は同じと言われています。
ハンダゴテを握る方であればご存知だと思うのですが、フェアチャイルドというと半導体ですよね。これで世界支配しています。フェアチャイルドの当主はある意味、世界を知り尽くしています。軍事・産業・通信の全てが支配下にあります。そういう影の皇帝がレイン・ナーマのような一技術者を見た時にどう思うのか。優れた能力を持っているのだけれども、むしろそうであるがゆえに経済的なものも含めてあらゆる成功から遠いところにいます。だけど楽しそうです。当時の総帥シャーマン・フェアチャイルドはナーマに突然電話し、会っては「毎月予算を振り込むからそれで仕事をしてくれ」と言ったとされています。開発した製品の権利も一部彼のものになるように配慮すらされていたようです。ナーマがアンペックス Ampexから引き抜きを受けた時は、シャーマンは自宅にナーマを招いて一日かけて話し合ったようです。その上で「もしかしたら、行った方がチャンスがあるかもしれない」と言って送り出したと言われています。おとぎ話のネタにはならないが、内容はほぼおとぎ話という、シャーマンはナーマが好きだったでしょうね。660コンプはそういう潤沢な資金的背景で作られたものでした。Telefunken U23はドイツ政府の支援がありました。お金があり過ぎて、あれだけ重い化け物コンプになったのでしょうか。あり得ると思いますね。なぜかコンプというのはそういう傾向があるような気がします。もっともっととやっていくとどんどん大きくなってしまいます。
Altec 436のマニュアルの最初のページに本機の基本的な接続図が載せられており、さらに後ろの方にも発展形の図があるのですが、どちらも用途はPAです。放送の場合でも急なピークで音が乱れたり、スピーカーを破壊したりすることから保護するために使われていましたが、採用はPAよりも10年程遅れたと言われています。放送で使える品質に向上するのにしばらく時間がかかったことが伺えます。
ダイオードはバリスタ型ではないコンプレッサーにも多用される重要なパーツの1つです。1898年にSiemens&Halske社のKarl Ferdinand Braun(ブラウン管を発明。英国のマルコーニ Guglielmo Marconiと無線に関する共同研究を行い1909年にノーベル賞)によって発明された水晶ダイオード整流器が最初のものでした。ドイツがディスクリートでコンプレッサー/リミッターを設計した時に採用したのはバリスタ型で、1960年に設計されたSiemens U273(アタック1mS)でした。1963年には歪みが抑えられたTelefunken TAB U373(アタック1mS)が導入されました。U273のマニュアルには回路の動作についての丁寧な説明がありました(写真左)。シーメンスはトークバックシステム(スタジオ内のインターホン)にもバリスタ型を採用しU274(アタック10mS)、テレフンケンは改良モデルのU374A(アタック1mS)に採用しました。ロンドン・ABCテレビでは当時PWM(Pulse Width Modulation)式のロンドンオリンピックでも使用された英Pye 6040を採用していましたが、かなり熱を持つという問題がありました。そこでNeveが1969年にバリスタ型を採用して2252、後に改良されたNeve 2254(コンプのアタックタイムは5mS固定でリミッターは100uSと1mSの選択可能)を開発しました。これはマイケル・ジャクソンのボーカルに使用されていたことでも有名です。発展形のNeve 33609も含めて今日に至るまで名機とされています。PYE 4060もロックシーンで好評を博し、同様のPWM式でドイツ系ではスイスEMTのコンプに採用されていました。
シーメンスが設計したU273とU274はどちらもバリスタ型でしたが、異なった回路が採用されていました。U274はシンプルで、フィードバックされた信号をダイオードブリッジに通してバイアスを掛けていました。U273はフィードバックされた信号をプッシュプル方式でトランスに入力してからダイオードブリッジに通していました。U273Bではフィードバックされた信号をまずトランスに入力して正負の信号を得、その後プッシュプル回路に通していました。のちにテレフンケンが設計したバリスタ型は全てU273B型でした。シングルとプッシュプルはパワーアンプでも特徴がかなり異なるのはよく知られていますが、コンプレッサーの場合でも同じことが言えます。シングルは透明感のある清清しい響き、プッシュプルは重厚感のあるリッチな響きです。シーメンスがこの2つを同時に提示した理由はわかっていません。U274はトークバック用でしたが、後代にはトークバックであってもU273B型が採用されました。Neveが2252を設計した時にU273を参考にしたのではないかと言われていて確かに大まかな構成は似ていますが、しかし正負の信号を取り出しているのはリミッター部のトランスの出力だけでプッシュプルは採用していません。軽くした一方、コンプレッサーも別途内蔵させる2重構造になっています。サウンドには重厚感がありました。テレフンケンはU273B型を採用しましたがサウンドは現代的で、シーメンスのように真空管時代を強く想起させるようなサウンドではありませんでした。U274はある意味、シーメンス的ではなかったようにも思えますが、それでも懐古的な情緒はありました。Neveは2252から約半世紀後に535を設計します(これは現行で販売されています)。Neve 535は、Siemens U274と音がそっくりです。U274に-6dB(つまり半分)のドライ音(リミッターに掛ける前の音)を混ぜた音はU274のようです。しかし回路構成はそのままとは思われません。535のプリセットはU274より幅広く多様だからです。
U273は幾つかバージョンがあり、U273とU273aの回路はほぼ同じです。しかしaの方が大きさが半分になっています。bとTAB U373aも少しの違いはありますが、基本的には同じ回路です。70年代はU273bとU373aの時代だったようですが、おそらく80年代に入って、TABがU273aを一部のパーツをNTPのディスクリート・オペアンプに変え、トランスはピカトロン製にして製造しています。U273aにTABと刻印してある謎のモジュールが存在します。ドイツ音響界の混乱期を象徴しているように思えます。この後、AEGの経営がおかしくなってゆき、やがて消滅します。
PWM式は1uSという驚異的な高速アタックを持っていましたが、ビル・パットナム(経済的にあまり成功せず、生涯に3つの会社を興しています。UNIVERSAL AUDIO、Studio Electronics、UREI)が採用したのはFETというトランジスタの一種でした。これはアタックが20uSと若干劣りますが(それでも驚異的な速度ですが)、真空管に近い特性と言われるFETを使ってUrei 1176(1967年)を開発しました。幾つものマイナーチェンジを経て今でも製造されていますし、クローンもかなりあります。ヴィンテージ系のコンプレッサーで最も手に入りやすいのは1176系であろうというぐらいたくさん出ています。他にも高速アタックを持ったモデルはありますが、FETはその中でも抜群に高速であるし、ウォームでパンチも効くと、設計は古いものではありますが現代の音楽シーンで非常に重宝されるものであるのは間違いないと思います。
ドイツの初期のモジュールにはB(リミッター)とK(コンプレッサー)が切り替えられるようになっているものがあり、Kはレシオが数種類選べるものもありました。しかし選択できるのはこのうちの1つだったので現代のコンプレッサーと同じでした。しかしNeve 2254は両方同時に使用可能でした。安全保護のリミッターを作動させておいた上でコンプを使っていました。どちらも別々にON,OFF可能でした。現代のデジタル録音だとリミッターは普通は切ると思うので、現代の2254クローンの多くはリミッターはついておらずコンプだけになっています。しかし両方使っていくオプションも使えると考えるエンジニアもいます。アナログ時代はレコードのカッテングマシーンに過負荷がかかるのを防ぐ目的で使われていましたから、デジタル時代でもリミッターならではのアナログ時代の味を求める場合に使われるのでしょう。Altec 436はそういう保護用のリミッターだったのですが、これを当時のレコーディングエンジニアたちが改造して音楽録音用に使うようになったので、1958年には入力ゲインコントロールを備えたALTEC 436Bが開発されました。このようにアルテック正規の製品もバージョンを重ねるごとに機能を増やしていきました。モータウンではこのコンプをベースに使っていたと言われています。改造されて製品化されたものでよく知られているのは、パットナムによるUA 175でした。私的な改造では、英EMIがビートルズのポール・マッカートニー(ベース)の求めによって制作改造したRS 124があります。
同じパットナムの会社からは真空管を使うも圧縮は特殊な光学素子で行うTeletronics LA-1(1958年)が開発されました。ジム・ローレンス James Lawrence Jrが米軍でICBM 大陸間弾道ミサイルを制御するために開発した光学素子を音響に応用したものでした。1962年にはさらに改良されたTeletronics LA-2A(最速10mS)が発売されこれを以って現代でも名機とされています。真空管バリミュー管も球の中の天然作用でコンプレッションしますが、光学素子も天然作用を利用するので、一方で高機能なものも魅力があるのですが、用途によってはこういう自然な方が音楽的であるとして愛されています。光学素子はその素子さえあればコンパクトな回路にできるので、真空管とは違い使い勝手が良いということで結構な製品が出ています。
やがて1970年代には新しいVCA方式のコンプレッサーが米dbxから発売されました。dbx 160です。これは普通の増幅回路を設けてそこに制御信号を送るというものです。これ以降、開発された多くのコンプレッサーはVCA式になりました。有名なものでは英SSL(Solid State Logic)のBass Comp、米API 525Cなどがあります。高速でがっつり効きますが、その反面、ナチュラリティに欠けるし、音も痩せやすいので音楽的なVCAコンプの設計は容易ではありません。上記のdbx、SSL以外にNeve,APIなどよく知られた有名なメーカーのものが結局は最良と言われる傾向があります。
その他の方式では、特殊なものとしてバクトロール Vactrol素子というものもあります。リンギングという反響が出るので、シンセサイザー音楽など特殊な用途でしか使われていません。
コンプレッサーの方式をまとめるとこのようになります。
・バリスタ ダイオードの組み合わせで制御(ダイオードブリッジ型)
・Vari-Mu管 Vari-Mu管という球を使って圧縮
・ブリッジ 2つのトランスをたすき掛けにして制御
・PWM パルス幅変調で高速アタック
・FET 真空管の特性に近いトランジスタ
・光学素子(オプト) 光学素子が発する光で制御
・VCA 電圧を制御する新しい方式
名機とされている機器はほとんどがコンプレッサー初期の製品で、その特徴はとにかく応答速度が速いということです。極めて高速のアタックを持っています。本来放送局などがリミッターとして使う用途だったので、とにかく原音に干渉しないものが求められていたからでした。やがて世間がコンプの掛かり方に慣れてきて善用するようになってきたのでアタックの速度は段々求められなくなってきたのかもしれません。それでも初期の高速タイプは今でもスタンダードです。
名機とされているものであっても、中国音楽愛好家が意識していなければならないのは、これらが主に欧米の音楽中心で見た時に良い道具ということなので、それが二胡に合うかどうかは別問題、慎重に考えないといけないということです。Universal Audioなどは昔のアメリカ独特のプレスリー・シナトラ的甘ったるさを体現したような会社なので二胡もアメリカンになってしまう、流石にそれはどうか、気持ち悪いような気もするので、難しいかもしれないということは念頭に置いておく必要があります。これはここでは主に1176を念頭においてのことですが、中国音楽関係者でなくても1176が優れていることは認めつつ何となく自分には合わないとか、年代によってバージョンがあるので特定のモデル以外は好きになれないといったことはあります。クローンの方が安心して使えるものが多いという意見もあります。クローンというとどちらかというと印象はネガティブですが、このようなものを作る人というのは心酔しているとか理解が深い人が多いので、工場の作業員が作ったであろう本物よりも良い場合すらあります。人が作るものである以上、クローンには製作者のなにがしかの意見が介在されてしまう可能性も多分にありますが、それがまた良かったりします。ファンが多いガレージメーカーというのは珍しくありません。素人が口を出してロクなことがないので社長に「あんたが良ければそれで良し」と言って全面的に任せたりします。ですからここでは1176、中国音楽に合うのだろうかという疑問を提起はしますが、合うものもあるかもしれない、種類が多いので探せばあるのでしょうね。1176のような稲妻アタッカーであっても板胡だと合いそうですし。ガレージメーカーで特注することができるのであれば、相談の上でトランスに関してはタムラなどに変えて貰えば東洋音楽にも合ってくると思います。アメリカンが強すぎる個体は難しいと思いますね。同じ理由でAPIも合わない気がします。その一方で、戦前の米国製と中国音楽は割と合います。この頃の中国機器は米国からの輸入だったことと関係があると思います。しかし戦後の中国音楽は比較的ドイツ機器と親和性が高く、ユーロ的な方向の方が馴染むと思います。そのため中国のエンジニアは割とドイツ物を使います。しかしドイツのダイナミック系でヴィンテージは入手難が多いし、プラグインもほとんど開発されていないとかなり環境が厳しいものがあります。それで微妙なところで英国物などに行く方向も考えられます。しかし英国は根底にロックの血が流れていますので容易ではありません。
機器がまだ商業製品として流通していなかった頃はほとんど特注でしたので、EMIのアビーロード・スタジオ Abbey Road Studiosは、自社で開発部門を持っていました。その開発部門が同スタジオをしばしば借り切っていたビートルズのために特注機器やカスタマイズに応じていたことはよく知られており、上述したRS 124もその1つです。英国では米国製の感覚に疑問を持たれることが多く、島国人らしく改良が多数あります。光学素子については否定されておらず、EMIの最初のディスクリート・コンソールには採用されていたし、Neveも設計しています。dbxがVCA式を発明したら、NeveもSSLもVCAになっていきます。VCAはかなり機械的な掛かり方をするので最も音楽的ではありませんが、時代がより高性能を求めていたのでこれしかなかったのかもしれません。しかし同じ英国でDRAWMERは主に真空管かFETを使いマルチバンドのコンプまで作っています。Neve,SSLあたりになるとスタジオで求められる普遍性が重要になってくるのでVCAだったのかもしれず、これぐらいの品質になると機械臭もしません。かなりナチュラルな掛かり方でガツっと来るし、深く掛けても魅力があります。
YouTubeなどでFairchild 670の実機(ソフトウェアモデリングではなく実機)の検証をやっているものが複数ありますので、真空管式のサウンドがどのようなものか把握することができます。静謐感、そこから泉のように沸々と湧き出すような瑞々しいサウンドです。個性や音質の議論を超えた魅力があります。Fairchild 670は数十本の真空管、多数のトランス、重量は30kgという正に化物ですが、とにかく原音を損なわず忠実にという方針であれば、当時としては大型化はやむを得なかったと言われています(今でも?)。しかしより回路が簡潔なALTEC 436も似たような傾向の音は得られます。ただアタックの速度がだいぶん違いますので670の方がもっとナチュラルなのだろうと思いますが、それ以上に音にも重みがあります。似てはいるが余裕が違うという感じがします。436はビートルズ、モータウンなどがベース専用に使っていましたが、それは中低域の質感が優れているからだろうと思われます。中域以上が悪いということではなく、優れているのが低い帯域なのです。一方、670はどの帯域でも余裕があります。コンプレッサーは全帯域をコンプレッションすると低域で歪みが出やすいのでHPFでカットしたりします。しかしこれら真空管式では低域でも滑らかです。真空管式コンプレッサーに絶対的優位性があるとすればここなのかもしれません。436の使用にあたってはある程度割り切った方が良いということなのかもしれません。全帯域で使えないということもないと思いますが、それなら他に良いものがありそうです。436が中低域でリッチなのであれば二胡にはちょうど良いものです。これを1台自作いたしました。低音楽器全般でも使えそうです。
パーツは電解コンデンサーは欧米製(日本製の方が良かったかもしれませんが手持ちがあったので)、ボリュームも1つは日本製、Vari-Mu管も中国製が手に入らず米GE製と完全に中華ではありませんが、それでも息を呑むほどのサウンドが東洋に最適化された形で堪能できます。真空管時代の上海製トランスを入手するのがもっとも困難で1式揃えるのに1年程を要したので、このような困難なミッションに挑戦せずとも普通に日本の味が出るタイプのトランスを使えば現行であるし、中国音楽においてもそれで十分なのではないかと思います。もちろん現行中華のトランスでも良いでしょう。トランスでほぼ個性が確定されます。真空管式があれば他はなくても大丈夫ぐらいに圧倒的な効果があります。
ドイツのモジュールでコンプは高額なので手が出しにくいですが、トークバックモジュールならかなり安価で購入できます。U274,U374Aです。アナウンス用ですから、かなり拘ったアマチュア無線家が使ったりしますが少数です。なぜなら自分が聞くためのものではないのです。相手に如何に美音を届けるかを追求しているわけですから、普通は自分が聞く方の環境に力を入れるものです。それで需要がほとんどないのだろうと思います。しかしこれは二胡と結構合います。声用なので当然ボーカルとは抜群に合います。ただあまりに効き過ぎます。大きな問題としては演奏技術が高くないと良くも悪くも全部はっきりしてしまい、余程のプレイヤーでないと使用が躊躇われるということはあり得ると思います。とにかく声を非常に聴きやすくする趣旨のものなので相当な解像力です。デジタル的精細さではなく、リアリティが増し過ぎるのです。しかし何もかも艶っぽくしてしまう毒リンゴ的魅力に抗し難いのも確かです。素晴らしい静謐感を加えることができます。霊感に満ちた音というと気持ち悪いかもしれませんが、気配がリアルに録れる、そして音が実態感を伴って迫ってくるという事実に感銘を受けることができるでしょう。弱音が明瞭に聞き取れます。真空管式があったら他は要らないと言った手前、これもか?と突っ込まれると返答に窮するのですが、それにしてもこんな凄いものをよく作ったなと感心します。時代的に後代の80年代のものですが、Neumann U475のグラフがわかりやすいのでトークバックの特性を確認します。
本題に入る前に回路図の方ですが、ブルーのところでコンプレッションし、緑がスレッショルドで、トークバックモジュールなのでこれだけしかありません。グラフを見るとリミッターであることがわかります。さて、肝心なのは赤の方ですが、20,21ピンを繋ぐとC22コンデンサーがバイパスされ、グラフを見ると低域がカットされず、フラットになります。音楽で使う場合はC22をバイパスして使えるようになっています。デフォルトでは、ドイツが考えるトークバックの相応しい特性を見ることができます。低域は300Hzぐらいでカットしており、高域は8kHzあたりを6dB程も持ち上げています。
このモジュールは音楽用でも使えるようになっていますが、そうでない場合はブレンドは欠かせません。100%通した音は使えないと判断される状況が多くなると思います。ドイツの場合、弦楽器の美しさと引き換えに低音を切り捨てるのは、程度の差こそあれ音楽用のスピーカーやマイクでもありますが、トークバックではその傾向をより深化させていると感じられます。非常に清らかではあるが、重厚感は皆無という、どっちも欲しかったら音を混ぜれば得られるという、しかし混ぜる配分は熟慮が求められるという、そういう使い方になると思います。ブレンドすれば繊細感と透明感を維持したまま、むっちりした迫力も得られます。ボーカルで耳に刺さりやすいサ行の音を処理するデュエッサーというものがありますが、これは主に高域をコンプレッションします。二胡に使用しても聴きやすくなります。
弦堂の設備のU274は写真のように改造してアタックは2,4,6,10mSで選択できるようにしてあります(灰色ノブ)。このモデルはかなり高域に寄り過ぎています。しかしそれによって高域の比類なき美しさを得ています。ダイオードブリッジ式に関しては、Neveではネット上の音源で535を確認したのですが、U274に対して約-6dBのドライ音(コンプに通す前の元の音)を混ぜると535とほぼそっくりな音になります。ということは現代のダイオードブリッジ型においても使われる音源が低音楽器のものであったとしても主に高域を処理している可能性が高いと思います。その上で内部でブレンド処理しているのではないか、それでもその処理は控えめにならざるを得ないので、Neve 535においてはブレンド用のノブも用意しているのではないか、それぐらいストレートでは使いにくいものなのだろうと思います。ただこれは推測に過ぎないので実際のところはわかりません。U274にしても使うマイクにもよりますので一概には言えませんが上海派の二胡など何故かブレンドの必要は感じないケースもあります。それでもU274はかなり攻撃的なのでツマミを増設して調整する必要は十分にあると思います。自作するのであれば是非ともブレンド機能は追加したいところです。
低域の低下に関してですが、上海の古い音響用トランスの特性も似たような傾向を示します。下のグラフで上はホワイトノイズをそのまま出力したもので、下はトランスを通したものです。ホワイトノイズはオリジナルの状態で低域が持ち上がっていますが、概算で100Hzで10dBぐらいも上昇しています。それがほぼフラットになるということは-10dB、そうするとU475と同じということになります。この辺りが上海派の二胡でブレンドが不要な理由なのでしょう。
トークバック回路のトークバック以外の用法で有名なのはドラムにこれを使うことです。英SSLによるとかつてエンジニアがドラムに「シークレット・ウェポン(秘密兵器)」としてトークバックを使っていたとして、500モジュールで販売されているLMC+ Moduleは、トークバックアンプをマイクアンプに内蔵しています。SSLの表記でトークバックは「リッスンマイク」とありますが同じものです。高域に寄ったペラペラに潰された音になりますが、攻撃的になりミックスにも馴染みやすくなります。この機能はSSLによる小型のミキサー・SiXにも搭載されています。SSLの言う「かつてのエンジニア」というのはおそらく英EMIのことで、アビー・ロード・スタジオでは1962年にテープのノイズを消すためにTG12321 コンパンダーが開発されましたが、これは一度圧縮してから戻すことでノイズを減らすという古くからある技術を使ったものでした。ドルビーも同じ方式です。この機器の圧縮だけを使い、復元しない音がクールということで使われていました。これはトークバックではありませんでしたが、その効果はSSLと同様です。おそらくこれはどちらもSiemens U274系です。
モジュールはメーターが付いていないものが多いので感覚に頼らざるを得ず客観的に判断できないのはかなりのペナルティです。ゲインリダクションは僅かに留めたいので視覚的な方が安心感があります。自作の場合はなんとしても増設したいところです。必ずしも針である必要はなくダイオードが並んでいて順番に光るタイプの簡潔なものでも十分に使えます。しかし元々メーターがないものはコンプレッサーでもリミッターに近い動作のものが多いので、これも結構良いのですが、メーター付きの方が効きもナチュラルだと思います。メーターがないものであっても、別ユニットに接続して別途メーターとアッテネーターを用意するものもありますが、こういうものをメーター無しで使用するのはやりにくいかもしれません。メーター無しモデルはドライ音とのブレンドは必須と感じられます。或いは本来の用途に従ってトークバック専用にすることもできます。ただ声を収録するだけにこのようなモジュールを使うのは贅沢ではありますが、一旦使うとやめられないぐらいの快適さがあります。トークバック用アンプは必ずしもリミッターが入っているわけではなく、もう少し癖の少ないタイプもあります。
EMIのスタジオ内で作られていたTG12413というモデルもダイオードブリッジ型でした。Neve 2254,33609,12413の3種は正規品、別メーカーのもの、ガレージメーカー、キット、基板だけなどいろいろ見つかります。ダイオードブリッジ型は東洋系に合うと思います。「トランスとアナログ感」の項でOver Qualityについて書いてありますが、アナウンス収録用のサウンド・イン Qスタジオには、ヘッドアンプとイコライザーにOver Quality、コンプはAMS Neve 33609Nが置いてあります。Over QualityとしてはUR-76Sという1176系コンプレッサーを製品化していますのでそれを置いていないというのは意味深長です(生産停止になる可能性もあるのでスクリーンショットも貼らせていただきました)。ということはおそらくですが実際にはQスタジオは音声の収録中心で考えているものではないかもしれません。用途としては和楽器系を想定していると思いますね。そしてダイオードブリッジに関しては現行の33609で満足されていて、FETは満足するものがないので自社開発したのかもしれません。33609オリジナルの販売先は日本が一番多かったらしく、ジャパンエディションなるものまで出されていました。出来が良いということも確かにあったと思いますが、東洋系にはそのままで合いやすかったということだと思います。だけれども、こういうことを言うと暴言と取られかねませんが、マリンエアよりタムラに替えた方が東洋楽器には良かったでしょう。唄とか映画などの音声では1176系が使われることが多いのかもしれませんが、弦堂の個人的見解では落ち着きを失うと思いますね。商業的には良いのかもしれないですが。2254系だとちょっと狭い感じになるかもしれないし、難しいところなのかもしれません。それでUR-76Sの開発だったのかもしれませんが、FETではなくダイオードで可能性を探って欲しかったような気がします。FETはどこまで行ってもアメリカンだと思いますね(米国嫌いと言うことは断じてありませんが適材適所というものがあると言う意味で)。一方、トークバック(声)はダイオードですから、その辺はそれなりの根拠があると思います。
マイクの集音というのは忠実過ぎる故に音が散ったような不自然さがあります。和楽器でリボンマイクを使っていた頃はこういう問題は少なかったと思われ、コンデンサマイクに変わっていった時にコンプレッサーは必要性が出てきたのかもしれません。しかしなぜか東洋ではトークバックぐらいにしかコンプは作られておらず、音楽用としてはおそらく製造されていません。目的に応じて色々やり方はあったと思われますが、高速アタックをもったガッツリ掛かるコンプが必要となった時に33609は当時1つの有力な選択肢だったのかもしれません。ダイオードブリッジ型はタイトで清潔なサウンドなので雑味の多い東洋楽器には合わせやすいし、この回路は一度大きくレベルを下げてからリダクションし後段で戻すのですがこれをトランスで行う古典回路ではトランスの色がかなり載ることになります。また信号を一旦小さくすることで、イメージとしては狭いトンネルを潜らせるような感じとなるためダイナミズムの大きな散り過ぎた信号はあまり合わないのですが、ある程度の範囲で収まっている東洋楽器にはちょうど合う感があります。いろんな意味で理想的です。そして2254,33609はリミッターとコンプレッサーが両方入っています。リミッターはクリップを防止する目的で掛けておき、その上でコンプレッサーを使うというやり方はあるし、アナウンスはリミッター、楽器はコンプレッサーという使い分けもできますが、ナチュラルなコンプレッションを得るために薄く2段に掛けるというやり方を採るならば東洋音楽にはより最適かもしれません。リミッターに通せば、通すトランスも1つ増えます。
現代の商業録音では音圧をしっかり上げて提供するのが普通ですが、場合によってはかなり踏み込んだ効果の強いものもあります。テレビ広告はおそらく全部そうです。中国伝統音楽においてはこれらとは一線を画しているのは良いことです。どうしても音圧の強い方がパッと聞きで評価されやすく、他はすぐに否定されがちなので、プロの演奏家におかれてはこの辺りを理解しておくのは必須ながら、勝ちを得て失うものもまた少なくないのでは残念なことです。勝ちに行くとどうしても商業性が高くなってしまい、芸術活動をしたい場合とは齟齬があります。この辺りは悩ましいところです。そう考えるとどんなコンプレッサーを持つかというのは哲学にも似たものがあります。
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