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【社会】

<東京2020 祝祭の風景> 第2部 届かぬ声(3) 都の立ち退き要求、住民交流分断

旧国立競技場隣にあった都営アパートを出ざるを得なかった伊藤純子さん(仮名)。「誰とも会話しない日もある」と話す=昨年12月25日、東京都渋谷区の都営アパートで

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 「みんなもぐらになっちゃったのかね」。伊藤純子さん(93)=仮名=が切り出すと、ほかの高齢者も「ここは交流がないね」「困るねえ」と応じ、ぐちの言い合いになった。

 昨年暮れ、東京都渋谷区にある都営アパートの集会所。区の地域支援事業の一環でクリスマス会が開かれ、高齢者ら十数人が何カ月ぶりかに集まった。

 伊藤さんらは、旧国立競技場(新宿区)の隣にあった都営霞ケ丘アパートに住んでいた。競技場の建て替えに伴い都がアパートの取り壊しを決め、四年前に転居を余儀なくされた。

 かつてのアパートでは住民の交流が盛んだった。「ごみ出しをすると、近所の人とすぐ立ち話になってね」。もちつきや盆踊りといった行事が多く、祭りの準備も手伝った。夫に先立たれ、三十年余はひとり暮らしだったが、「寂しくはなかった」という。

 住民の交流を支えたのが甚野公平さん(86)だ。夫婦で日用品雑貨店を営み、地域の世話役としてさまざまな催しを企画した。「店を開けると、誰かが店の外のベンチで待っていて、雑談が始まったもんだ。世代の近い家庭が多く、いろんな行事を楽しくできた」と振り返る。

 そんなコミュニティーは二〇一二年、都の立ち退き要求で分断される。東京五輪・パラリンピックの開催が一三年に決まると、都は取り壊す姿勢を鮮明にした。転居先として三つの都営アパートを示し、解体工事に着手した。

 その一つに入った伊藤さんは、親しい住民と離ればなれになり、食料品店やバス停から遠くなった。

 「誰とも会話しない日もあるのよ」

 住み慣れた地域での生活を希望したのは、伊藤さんだけではない。上智大の稲葉奈々子教授(社会学)は一四年、取り壊し前の霞ケ丘アパートで住民にアンケートをした。約百六十世帯のうち四十三世帯が回答し、八割が移転を希望していなかった。そのほとんどが高齢者だ。

 「十棟のうち一棟だけでも現地で建て替え、残りたい人の意思を尊重する選択肢はなかったのか」と稲葉教授。「五輪に反対する人はほとんどいなかった。でも、国家的なイベントのためなら個人の人生を犠牲にしてもいいのかという点は、もっと考えられるべきだ」と言う。

 伊藤さんは五十年以上、霞ケ丘アパートに住んだ。一九六四年の前回五輪当時は、国立競技場から「わーっ」という歓声が聞こえ、ベランダから聖火台も見えた。終戦後、中国から命からがら引き揚げた経験があるので、「日本も平和になった」と実感した。

 今のアパートの部屋から競技場は見えない。天気の良い日に、近所の人と雑談できるようなベンチもない。そんな風景を窓越しに見て、寂しそうに話した。

 「オリンピックは楽しみだけど、ついのすみかだと思っていたからね。ぐちってもしょうがないんだけど」 (森川清志)

 

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