後藤新平「日本植民政策一斑」大正10年10月30日発行 ※1921年

台湾は大体申すと第一期第二期と分けます、第一期は平和克復の時、即ち明治二十八年から三十五年に至るを第一期と云ふ、即ち土匪鎮定したのである、此の最後の年即ち明治三十五年中に土匪を殺した数は実に四〇三三人の多きに達して居る。今三十一年前後の土肥殺戮数を示せば左表の如し。

匪徒殺戮数(林少猫討伐まで)

年度

捕縛若は護送の際抵抗せし為

判決に因る死刑

討伐隊の手に依るもの

31

166

84

2,850

3,100

32

324

507

3

834

33

468

873

9

1,350

34

682

997

311

1,990

35

4,033

537

106

4,676

5,673

2,998

3,276

11,950











是は内地の人で知って居る人がない位である。其前には僅の人を殺しても惨酷だとか言って非常に宣教師がやかましく言ったのでありますが、土匪帰順法を以て帰順さしたことにつき当局者内地新聞社其他より総督府は天皇の大権を侵害したものだとまで攻撃を受けました。併し此攻撃は兒玉総督に対するよりも後藤の専横といふ方に傾いたが此事実は総督の有徳を証明し且統治の大成せし所以たることの一大参考であると存じます。其後本帰順証交付の為警察署弁務署支所等へ呼び出し訓令を加へ之に抵抗したるものは之を殺戮することに予定し同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであります、此時に当って少も此外国人の宣教師などは前日と違って非難の声がなかったは大にご注目を請ひ度き一事であります。
 土匪帰順法は御記憶になって居りませうが、天皇の大権に亘る生殺与奪の権で………一体不都合であると言って主として民政長官たる後藤に対して日本の各新聞が筆を揃へて攻撃した、外国宣教師などは之を以て徳政とし日本新聞の攻撃を怪しみ当局に対し非常に同情をして居ったが、帰順させた者の中には良民たるべきものと不良民にして到底ものにならぬ奴がある、先づ仮帰順証を与へて若干月日監視し選び抜いて其悪い者を同日同時に殺したのであります、其時に居られた旅団長は西島少将であったが、其時に匪首林少猫と云ふ者が一城の主として非常な勢であって、名を帰順投城にかりて所謂面従腹非徒党を擁し左右数方里に亘る所を領して居って、帰順しては居るが中々命に応じて役所に出て来ない、村民に収税的強請をなし応ぜざれば多数襲撃掠奪を事とする殆ど一年以上になりましたが兒玉総督はそれを黙って見て居った、是が為に近村から苦情があったが、其儘にして置いた、それを各弁務署警察署などに呼出して帰順証を渡すと言って誘ひ出して、各弁務署に十人なり二十人なり、多い所には三十人、五十人も来たのを一斉射撃にて殺した、併し当時予想の通り林少猫と云ふものは出頭しない、そこで其数日前斯あるべしと予想しましたから兵の練習と号してずっと遠く其城郭を回擁し(外囲第一列)さうして中に憲兵を置き(外囲第二列)其中に巡査を置き(外囲第三列)又其中に巡査補と云ふ土人から採用した巡査が居るで(外囲第四列)相当地点に砲兵の陣地を置いて林少猫の居る城郭に向て大砲で射撃した愈々予定の時刻になり放撃して夕方は雨が降ったが、城が落ちたから行って見ると林少猫が居らぬ、それで今の大島神奈川県知事が其時の警視総長であったが、林少猫を取逃がしたと云ふので、是は申訳がないといふて騒いだ、電報往復などで混雑して翌朝になって巡検すると城郭から一町ばかりある所に林少猫は倒れて居った此城郭の中には賭博場もあり、居酒屋もあり遊廓もある、ちゃんと一廓一城の主人として暮して居った、六七百人の子分の掠奪して来た所の物は総て上前を取って、其上尚ほ取るやうに城中に市街をつくり乾兒の金銭をまき上げる仕掛であった。なかなか偉いことをして居った、斯様な者を殺して、即ち三十五年に土匪鎮定と云ふことが出来た、宣教師などはどうもあれは仕方がない当然な処置であると言って非難する者はなかった。(27~30頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980879/21

矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」1929年

新領土たる植民地に於て異民族を統治するに当り民族的抵抗を受くるは通例のことである。ただ其の反抗の態様は歴史的に発展する。台湾にありても当初我が国の領有に反抗したるものは旧清国官吏及び地方豪族等が台湾の割譲に悲憤したるものである。其後各地に跳梁して我が統治を擾乱したる土匪は、日本の統治に対する政治的不満経済的苦痛を原因とするものあれども、其性質は尚水滸伝式匪賊たるを脱しなかった。由来台湾居住の漢民族は対岸よりの自由植民者にして生蕃に対する抗争上慓悍なるもの多く、彼等の中にても福建人広東人相争ひて所謂分類械闘の弊深く、又鄭成功は明の遺臣たりし関係上清国の統治に対する人民の反抗心も大であり、且つ政府の威令も強からざりしにより、清国治下二百年に亘り匪徒の反乱絶えず、「五年大反三年小反」の諺も敢て空言にあらず、「青年に土匪を働き壮年に富豪となる」は住民の理想たる状況であった。我領台後明治二十八年より三十四年迄土匪の台北を襲ふこと二回、台中を襲ふこと二回、其他各所の守備隊弁務署支庁憲兵屯所を襲ふこと五十数回、巡査派出所襲撃等は枚挙に遑あらず、漸く兒玉後藤政治の下に保甲制度の制定及び土匪招降策の採用によりて之を圧迫し、最後に兵力を以て南部の匪首林少猫を討伐し―(林少猫の拠りたる地域は台湾製糖会社の模範農場たる後壁林農場と化した―以て土匪鎮定の功を奏し得たのであった。之れ明治三十五年である。明治三十一年乃至三十五年に土匪殺戮数一万一千九百五十人、内、匪徒刑罰令により判決を以て死刑にせしもの二千九百九十八人である(10)。
 然るに明治四十年北埔事件なるもの起り、四十五年林杞埔事件あり、其後大正四年迄に暴徒の官庁襲撃及政治的陰謀約十件を数へ、大正四年の西来庵事件が最大であった(11)。之等はいづれも既に我が国家権力及び資本家権力が確立期に入りたる時代に起りしものにして、我資本の圧迫(例へば林杞埔事件は三菱竹林払下問題に関連あり)、及び警察政治(例へば北埔事件は保甲民の生蕃討伐参加に関連す)に反抗し、或は大正元年の支那革命の思想的影響を受けて革命的陰謀を計画し、革命的ならざるものも概ね支那より援兵来るとか支那の封冊任官を受くるとか号して人民を糾合し、以て日本の統治を脱せんとするものであった。然れどもその首謀者の閲歴動機に於ても、民衆の付随に於ても、運動の迷信的色彩暴動的性質に於ても、多く個々的衝動的且つ地方的にして近代的なる組織的民族運動の域に達しなかった。(240-242頁)