叩頭とは「頭を地に付けて礼すること」あるいは単に「頭を下げて礼すること」である。

長谷川善作編「最近社会百放談」1902年

▲醇親王叩頭三跪の礼を拒む
義和団匪暴挙して独逸公使館を襲ひ、公使以下難にあった其謝罪使として、醇親王は遥々独逸まで出向いたのであるが、独逸では此度の暴挙を憎む事が一方ではないのだから、腹癒せにとでも云ふ積りなのか、叩頭三跪の礼を為せと迫った、けれど醇親王それは国辱を受くると同じ事なれば、強ひて為せとならばむしろ此儘引き返しても構はないと、一寸小面倒な悶着が起ったと云ふ話である。
元此「叩頭三跪の礼」と云ふのは、満州の最敬礼で、まづ左の膝を直角に屈め、右の膝頭を地に付け、両腕を一斉に右の乳の辺にあてゝ、ペコペコと三度頭を低げると云ふ儀式だが、之れならあまり体面の結構なものではなく、醇親王が承引せなかったのも尤だ。(24・25頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798561/19

 上島長久「紳士読本」1903年

(二)叩頭百拝
ソレから候補者の大役は、各選挙人の家に、叩頭百拝して、頼み廻らなければならぬ、堂々たる有髯男子が、有権者の奉公人に、顎の先で扱(あし)らはれて飽迄もヘイヘイして居るのは、実に紳士の体面として卑屈極まった仕方であるが、此卑屈が対選挙の唯一の方法であると、拳々服膺して居るのは大失態である。(88頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757280/52

森田太三郎 著「名流漫画」1912年

▲森鴎外氏の叩頭(振り仮名「おじぎ」)ぶり
文学好きの書生さんにこそ「森さん」であり「鴎外さん」であるけれど、陸軍省へ訪ねて行けば医務局長森林太郎閣下である。受付の小使は必ず励声一番して「森閣下に御面会」と叫ぶ
話は沢山あるしハキハキして要領よく香の高いシガーを薦める。何一つ来客に取って不足はないが、小禽の瞬きのやうに迅速なホンにちょいとしたあの叩頭(振り仮名「おじぎ」)の仕様が私は癪に障る。(106頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851839/62

宮武外骨「奇想凡想」1920年

叩頭と握手の対比研究
人が互に敬愛の意を表し、交欵の情を現はす挨拶法は、世界各地方によって種々あるが、日本人は叩頭、西洋人は握手する。此叩頭は野蛮的で、握手は文明的である、抑も挨拶の起源は、互に殺戮し掠奪し合った野蛮時代に、敵意を持たぬ事を対手に知らしめる表象であって、(124頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908134/74

増野悦興「筆華舌英」1920年

叩頭と士風
「サア選挙ごっこしようじゃ無いか」、「善からう、松ちゃん御前は豆岡さんになるんだよ、そして其の味噌漉を御被づき」、「竹ちゃんはアノホラ衛生組合で札の懸ってる家の叔父さん、豆岡先生が御廻りで御座いますって来るの、」「松ちゃんは味噌漉を取って丁寧に御辞儀するんだよ、」「ソレカラお梅ちゃんは酒屋のお内儀さんになるの、松ちゃんが御辞儀をしたら、此れは此れは生憎主人が不在で御座いましてと御言ひ」。
予輩は斯る新なる遊戯が、東京の子供仲間に行はれ始めねば善いがと思ふ者である。過る幾週間東京に於ける議員候補者の運動振を観察し、其の濫なる叩頭を目撃して心窃に士風の為めに憂慮したる者は、決して予輩のみで無かったであらう。議員候補者は言ふまでもなく悉く紳士である、其の或者に至ては特に自己の国士たることをすら宣告した。而かも紳士たり国士たる彼等が、酒屋の店頭に高利貸の玄関先に、所撰ばず叩頭し、誤っては九段坂下の立ちん坊にまで叩頭せりと聞くは、果して憲政の威厳の為めに祝すべき次第であらうか。
 言ふ勿れ、前に曲がる様に出来たる首を前に曲げて叩頭する、千遍万遍繰返せしとて疲労を覚ゆるにもあらず、其に由りて投票が集め得らるれば又と無き軽便の手段なりと。濫なる叩頭は追従軽薄の表号に外ならず、唯々目的の達し得らるゝが為めに之を軽便視し珍重するが如きは、大なる誤謬と言はざる可らず。(48-50頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961771/86

服部宇之吉「孔子及孔子教」1926年

六 支那に於ける孔子尊崇
・・・北進事変以後新教育制度を布き大中小学堂を設くるに至って、従来の私塾で行ったものが其儘各学堂に入り或は更に儀節を増した。即ち小学堂の如きは朝夕孔子の神位に礼する外に、毎月朔望には校長教員一同が児童を率ゐて神位に向って礼を行ふこと及び春秋丁祭と孔子の誕日とには更に厳格に神位を拝することになった。中学堂以上の学校では必ずしも毎日朝夕神位を拝することは為さぬが、毎月朔望、春秋丁祭、聖人の誕日には校長以下生徒全員を率ゐて拝する。丁祭と誕日とを特に重んじ、此の日は校長以下の職員も生徒も皆礼装を為し神位に向って三跪九叩頭の礼を行ふのである。而して此の三日は課業は無論廃して祝意を表する。三跪九叩頭とは、初め全員列を正して立ち、然る後先づ一斉に地に跪き次に両手を地に着け次に頭を垂れて地に至り次に頭を挙げ両手を地より離し上体を真直にし両手を真直に垂れる、これにて一叩頭とす、之を三回行ひて終に又立つ、これを一跪三叩頭とす、之を三回繰り返へすにて三跪九叩頭となるのである。此礼は天子に対して行ふものと同じもので、所謂最敬礼である。(116・117頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954036/64

京城日報 1933.3.4-1933.3.5 (昭和8)
熱河省の話 (一) 文学博士 稲葉君山

・・・英国のジョージ三世は大使を支那に派遣してこの熱河で皇帝に謁見させた。大使の名をマカートネーといい、書記官にはスタントンがついて来た、当時英国は印度に東洋貿易の根拠地を得た、即ちクライプやヘスチングならの経営した東印度会社はさかんに活躍しておったのであるから、大いに支那の貿易に着眼して広東方面の現状を打開し特別の地位を獲得せんとしてマカートネー大使を派遣したのである・・・
 即ち当時の西洋諸国はロシアといわず和闌といわず、総べて支那に出入するものは朝貢の礼を執った、即ち属国としての礼儀作法を執らなければ支那との通商貿易を許されなかったのである。マカートネーはこの旧軌を突破して対等国の態度を以って支那に臨み、将来の貿易関係をば同じく対等国として国際条約を締結せんとしたのである
 朝貢の礼とは所謂叩頭を行わなければならにのであった叩頭は天子に謁見する時の臣下の礼である、即ち三度跪いて九度頭を下げる礼である、マカートネーもこの礼を強要されたが彼等はこれを拒んだ。そこで侍従の一人が彼を訪問し種々交渉をかさねたのであるが、マカートネーは英国の大使である以上、国土の使者として対等の礼を与えて貰わなければならない、若それが許されなければ自からは自らの国土に対する礼を以て貴国の皇帝に捧ぐるであろう、かように答えたのである、それで侍従は如何なる形式で国王に対するのかと聞いたのであるがマカートネーは吾々は吾々の国王の手に親く接吻を行うのである、これが吾々の皇帝に対する最敬の礼であるといった、侍従はこれを聞くや愕然として驚き、手中の茶碗を地に落して微塵に砕いたという逸話も伝わっている。
 斯様な押問答の結果英大使の言分は全く拒絶せられ、僅かに離宮庭園を散策中の皇帝に対して型ばかりの謁見を行うに過ぎずもたらした使命は完全に行うことを得なんだのである。当時支那政府は漢文の勅書一通、ラテン文のもの一通をジョージ三世に与え大使にもたらし帰らしめている、今その支那に伝わった勅書を読んで見ると、英国は支那の属国扱いにされている、その時の勅書は、多分は倫敦の博物館あたりに保存されているとも考えられるが、まだそれを見るの機会を得ていない。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00464194&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

太田陸郎「支那習俗」1943年

叩頭
 一般支那の人々が会った際の礼式は長袖に手を入れて上下に動かす礼の様式、それはすでに古態に属してゐてあまり見かけない、途上で会った場合など日本と同様頭をさげてゐることが多くことに軍隊、警察凡て今では挙手の礼であり、又洋式の手を握ることも多く行はれてゐる、勿論之は都会地域の話であるが、今も昔も変わらないのは「叩頭」の礼であらう。
 何といっても正月はよほど古式を遺存してゐる、昭和十五年の正月(旧暦)に某知友の中国人の家庭にまねかれた際、来訪客が其家の賓貝(坊ちゃん)に押歳銭(お年玉)をやってゐるのを見ると子供は床上に土下座して頭を地につけて礼をするのに自分は実に驚いたが、何処の家でも上長が正月に来訪した場合には子供にお年玉を必ずやる習慣があり、其際は叩頭の礼をするのだと聞かされてみると、驚くに足らないわけを今更知るに及んだ。
 それから何ケ月か後に至って自分の隊で使用してゐた苦力が、夕方作業を終って船から岸に上陸するに当って、まだ船が着いてゐないの〔ママ〕飛びあがらうとして墜落、揚子江に落ちて其まゝ沈んでしまった。(死体は幸に三日目にやゝ下流であがったが)其際彼自身の過失といへ女房子供母親があり、其日の生活に困難してゐると聞いて、隊から少額ながら香料を贈ったのに対して女房子供が謝礼に来て、二人が地上に座して泣きながら叩頭されたのには何んだかすまない気がした。あまり可愛いさうなので、十二三歳の女の児にあり合せの菓子をやると又々叩頭益々恐縮々々をした。
 後になって初めてそれが叩頭と知った事は漢口に入城した十月二十七日朝雨中某地点を通ると歩哨の前に一人の中国人が泣いてゐるので、其理由をきくと中国人通行禁止区のこゝを通してほしいといふ意だが、如何にたのまれても軍律を破ることは出来ないので、歩哨も困ってゐるとのこと、お互に言葉が通じない、そこへ丁度通りあはせたわけである。
 泣いてゐた中国人は自分の顔をみると早口にしきりに其意味を語るらしい。だが当時支那語は凡てが唐人のねごとで不明白の頃とて、手まねでだめだといふが彼は聞かない、遂には雨中座して「叩頭々々」全く自分もこれにはよはり切ったが、入城したばかりでそんなことに取合ってゐられない、あとはどうなったか。
 さてさてあれが「叩頭」だったのかと後になって思ふと誠にすまない気がする、それとともに叩頭を受けた際の感じは何だかあかりにも相手が気の毒でむしろ不愉快である。
 そこに大きな習俗の開きがあることは否めない事実であらう。(163-165頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1439681/86


大昔には実際に頭をたたきつけて流血したこともあったようだが、それは大昔の話である。
研究ノート
〈五体投地・如太山崩考〉 ―拝礼の中国的展開―
田中文雄

叩頭により流血する事例は、『史記』巻一一一六、滑稽列停の西門豹俸の「叩頭して且つ破り、額血は地に流れ、色は死灰の如し」とある様に、史書の中にはしばしば現れる。(67頁)https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/3013