尾崎豊。
1980年代、「15の夜」や「卒業」など、当時の若者の心を掴む曲を世の中に送り出し、26年の短い生涯を終えるまでに数多くの伝説を残した。
しかし、1992年の彼の死から20年以上経った今、彼の曲に対し否定的な意見が目立つようになる。
「学生の反応は年を追うごとに悪くなっている」と精神科医の香山リカさん(46)も言う。00年ごろから大学の授業で「卒業」などを聴かせている。当初から「この怒りがどこから来ているか分からない」という意見はあったが、最近はきっぱりと否定的な感想が目立つという。
―朝日新聞デジタル『没後15年尾崎はどこへ 消えた反抗心』(2007年04月24日) より引用
「なぜ大人や社会に反抗するのかわからない」
「自己中心的で共感できない」
尾崎豊の曲に対し、こういった否定的な意見や、共感できないといった意見が増えている。
確かに、僕もこういった意見によく触れる。この記事を書いている今、僕は18歳なのだが、僕と同じ世代の友人達も彼の曲に対しピンとこない人が多い。
ここ数年において尾崎豊が話の引き合いに出されるときは、たいてい若者のあり方にまつわる話題のときだ。ここで、次の文章を引用したいと思う。
新成人よ、「自分はどう思うのか?」と考えるクセをつけ、自分で自分を支え、試行錯誤をサボらず、紆余曲折を怖がらないで欲しい。くれぐれも言うが、バイクは盗まなくていい。窓ガラスも壊さなくていいのだ。
上記記事は、朝日新聞の成人式にまつわる社説を常見陽平氏が批判する内容ものである。かいつまんで説明すると、「最近の若者は、尾崎豊のように社会や大人に対してもっと反抗したらどうだ」といった内容の朝日新聞の社説に対し、常見陽平氏が「尾崎豊のように反抗しなくていい。物事を自ら見極め、自分の好きなようになってほしい。」と反論したのだ。
僕はこの彼の反論に同意しているが、同時に違和感を覚えた。なぜならば、彼の主張は尾崎豊がかつて表現した事そのものだからだ。
尾崎豊の曲の根底にあるものは、「反抗」ではない
尾崎豊といえば、「15の夜」や「卒業」において描写されるような「大人や社会に対する反抗」をイメージする人が多い。最近の若者が彼の曲に対して否定的な意見を持つことが多いのも、もっぱらこのイメージに由来する。
だが、彼が伝えたかった事、表現したかった事は本当にそれなのだろうか。若者たちに向かって「社会や大人に反抗しろ!」と叫び、奮起させたかっただけなのだろうか。
それは違う。彼が表現したかったこと。それは、他者との関わりや自分のアイデンティティのあり方、生き方に対する苦悩だ。
自分の存在すら何なのかさえ
解らず震えている 15の夜
盗んだバイクで走り出す 行く先も解らぬまま
暗い夜の帳の中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜
―尾崎豊 『15の夜』
あと何度自分自身 卒業すれば
本当の自分に たどりつけるだろう
―尾崎豊 『卒業』
受け止めよう 自分らしさにうちのめされても
あるがままを受け止めながら 目に映るもの全てを愛したい
―尾崎豊 『存在』
「15の夜」や「卒業」は、ただ単に非行を自慢するだけの曲ではない。自らのあり方や生き方に悩み、苦しんだ結果、あるまじき行動に出てしまった...。歌の中で描かれる反抗は、あくまでも自由への悩み、苦しみの結果として表現されているのだ。
それはこの二つの曲に限った話ではない。自分はどんな存在なのか、自由とは何か、一体何が正しくて、何が間違っているのか、そして、自分はどう生きてゆくべきなのか...。そんなテーマが尾崎豊の曲における最大のテーマの一つであるのだ。
現代の若者は、アイデンティティに対しどう考えているのか
ところで、最近の若者は「アイデンティティ」に対しどのような感情をいだいているのだろうか。
現在、尾崎豊に代わって若者の心を捉えているのは、シンガーソングライターのあいみょんだ。彼女の曲に、最近の若者が「自分らしさ」に対しどのような感情を抱いているのかが分かるヒントがある。
大人になるたびに
見たくないものを見ては 泣いちゃうし
本当の自分に
気づくことは 少し怖いんだ
―あいみょん『19歳になりたくない』
尾崎豊『卒業』と、対称的な歌詞だ。尾崎豊は「本当の自分」に辿りつきたいと強く願い、苦悩する様子を歌っているのに対し、あいみょんは「本当の自分にたどりつきたくない、怖い」と、真逆の事を歌っている。
また、先程引用した朝日新聞の記事には、このような意見が掲載されている。
尾崎の生涯を描いた著書がある作家吉岡忍さん(58)は「彼の歌は、内面に深く食い込んできて、いまの若い人にとって触ってほしくないところに及ぶ。現状に適応してトラブルなく日々を過ごすことに価値を置くと、そこに気づきたくないのだろう」と語る。
― 朝日新聞社『没後15年尾崎はどこへ 消えた反抗心』(2007年) より引用
このように、最近の若者の多くは自らのアイデンティティを確立し、「本当の自分」にたどりつくことに強い拒絶感を持っているのだ。
だいぶ前のことであるが、友人の一人と予備校のラウンジで音楽の話をしていた時のことである。米津玄師の話題になり、僕が「米津は大ッキライだなぁ」という話をしたら、友人に「そういうこと言うなよ、回りに好きな人がいたらどうするんだ。」と言われてしまった。
自分がどのように見られているかに敏感に反応する。そして、自分らしさを殺し、回りの色に合わせようとする。そんな特徴が最近の若者にあるのではないだろうか。
そして、僕が尾崎豊の曲を同世代に聴いてほしい理由
僕が同世代の人たちに対して尾崎豊の曲を聴いてほしいと思う理由は、アイデンティティや自分のあり方について悩み、考えてほしいからだ。
尾崎豊が人気を博した1980年代から、社会は大きく様相を変えた。2019年現在、インターネットの普及やグローバル化に伴い、様々な生き方が若者たちに対して提示されている。
好きなことで、生きていく
これはYoutubeのCMで使われているキャッチコピーだ。この言葉に象徴されるように、これからは自らの生き方、あり方を、自ら選択したり創り出したりしてゆく時代なのだ。
しかし、自分が本当に好きなように生きていくためには、本当の自分を知る必要がある。大きく流転してゆく現代社会において力強く生きてゆくためには、自らのアイデンティティを確立しなければならない。
確かに本当の自分を知ること、知ろうとすることはとても辛く、苦しいものである。だが、自分らしさを手に入れるために考えて悩む過程と、その先で得られるものは、きっと素晴らしいものになるのではないだろうか。
これからの令和の時代は1980年代と違い、社会がそれぞれの個性をずっとよく知ってくれるし、応えてくれる時代だと思う。本当の自分である事は今まで以上に強い輝きを放つだろう。
だから、ちょっとだけでいいから、「自分らしさ」に向き合ってみたらどうだろうか。ちょっとくらい尾崎豊の曲を聴いてみないか?
僕はそう思っている。