名の無き人の、名も無き地図

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歩きスマホはナゼ無くならないのか | 一連の啓発活動で欠けている重要な視点

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「歩きスマホ」という言葉が生まれて久しいが、状況はまったく改善の兆しを見せない。

多少混雑した街を歩けば必ず数人は目にするし、中には危なっかしい人もちらほら。この数年間、まったく同じ状況が続いている。

鉄道会社や大手携帯キャリア各社の他、マスメディアや様々な団体によって絶えず危機喚起が行われているものの、状況はまったく改善されていない。

では、なぜ状況は良くならないままなのだろうか。歩きスマホを取り巻く現状から、それを探っていきたいと思う。

 

 

歩きスマホを取り巻く意識と感情

 まず、現在歩きスマホを取り巻く意識について触れていこう。歩きスマホは危険であるという事は周知の事実であると思うが、それ以外に、人々はどの様な感情を歩きスマホに対して抱いているのだろうか。

試しに「#歩きスマホ」とTwitterで検索をかけてみよう。すると、歩きスマホに対するたくさんの批判を目にすることができる。中には、強い苛立ちと怒りを滲ませたツイートもあるようだ。

twitter.comこのように、歩きスマホに対して強い不快感を持ち、怒りをあらわにしている人がいるようだ。

さらに、こういった怒りをTwitterでぶちまけるだけにとどまらない人もいる。2017年には歩きスマホに対してわざとぶつかる人が逮捕、送検されて話題となったが、2019年9月にも同じような出来事が起こった。

www.news-postseven.co

news.yahoo.co.jp

歩きスマホに対しては暴力も辞さないと考えるほど、怒りをあらわにする人までいるのだ。

このように、歩きスマホ対して強い怒りを持ち、敵意とも取れるような意識を持っている人が確実に存在している。そして、歩きスマホをしている人を馬鹿にしたり、(精神的にも肉体的にも)多少傷つけたって構わないとさえ考えているのだ。

では、こういった意識を持つ人達はほんの一部の人だけなのだろうか。それでは、次の広告を見てほしい。

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2016年、神戸新交通三宮駅に貼りだされた啓発ポスター

j-town.net画像は上記記事『「歩きスマホ今日から略して『あホ』...話題のポスター、神戸新交通に聞いてみた」』―J-CASTニュース より転載した

上の画像は神戸新交通三宮駅に張り出されたポスターである。このポスターに書かれている「あホ」の表現に、歩きスマホに対する蔑みを感じるのは僕だけだろうか。

僕だけではないはずだ。歩きスマホをしている人に「アホ」とかけたあだ名を付けているのだから、馬鹿にしてしまえという意図があるのは明らかである。公共の場所に張り出されるポスターにまで、こういった意識が現れているのだ。

さらに、画像を掲載したニュースサイトによればこのポスターに賛同の声が多かったそうだ。多くの人が、歩きスマホをしている人達を多少バカにしたって良いと思っているのである。

このような事実から、歩きスマホに対するヘイトは一部の人だけが持つものなのではなく、社会全体において広く浸透していると言えるだろう。

 

歩きスマホを取り巻く様相

これらの状況から、歩きスマホを取り巻く様相が見えてくるだろう。

歩きスマホにまつわる人たちは、ざっくり分けると「歩きスマホを嫌う反対派」と「歩きスマホをやっちゃう派」の二つに分類できる。

「反対派」は歩きスマホをやめさせたい人達だ。例えば、マスメディアや大手携帯通信会社、そして歩きスマホに問題意識があり、苛立ちを感じている人たち。「やっちゃう派」はその名の通り、頻度に関わらず歩きスマホを行う人たちだ。

「反対派」が「やっちゃう派」に対して一方的に言葉を投げ掛けているものの、「やっちゃう派」はそれを相手にしていない。相手にされない上に日々迷惑を被る「反対派」には憎しみや怒りが蓄積され、啓蒙活動はだんだんエスカレート。両者の間に深い溝が掘られながら、現在に至っている。

これが、今現在歩きスマホを取り巻く様相であると言えるだろう。この不毛な対立が、この数年間に渡ってずっと続いてきたのだ。

 

「反対派」にある最大の問題点

前述の通り、「反対派」が「やっちゃう派」に対して敵意や苛立ち、蔑みといった感情を向け、そういったニュアンスを含んだ言葉を投げかけてきた訳である。

では、ここで皆さんに聞きたいことがある。自分のことを理解しようとせず、時にはバカにまでしてくる相手の言うことに、素直に従おうと思うだろうか。「反対派」の人達が向ける、敵意や蔑みを含んだ言葉を受け取った「やっちゃう派」の人達は、はたしてどう思うだろうか。

確かに、今まで歩きスマホをしている人達に対して言われてきたことは正しい。歩きスマホは危険で、事故も起こっていて、迷惑している人がいる。だから、やめなければならない。これは至極まっとうな話であると思うし、だから歩きスマホをしている人達は問題であると思う。

しかし、いくら相手の行動が至らないものであったとしても、適切な伝え方と態度というものがあるだろう。何かを相手に伝えたい時には、相手の気持ちをなるべく理解するように努め、寄り添わなければならない。特に相手の欠点や態度、マナーなどを指摘する時にはなおさらだ。

人間は自分に対し、憎悪を向けてくる相手の言うことを素直に聞けるほど、都合よくできていない。たとえ、それがぐうの音の出ないような正論であってもだ。自分たちの事が理解されないまま、一方的にかつ時に暴力的な言葉を投げつけられれば、しゃくに触って突っぱねてしまうのは人間の性である。

「反対派」にある最大の問題点は、相手の立場に立っていないことだ。どのようなコトバを、どのように伝えれば素直に聞いてくれるだろうか。どのような行動を取れば、「よし、やめよう」と思ってもらえるだろうか。そういった、何かを相手に伝えたり頼んだりする上で大切となる想像力や配慮が、「歩きスマホ」という言葉が誕生した頃から、ずっと欠け続けていたのだ。

もちろん、歩きスマホへの危機喚起のすべてが配慮を欠いているものではないだろう。だが、怒りや憎悪の雰囲気が漂い、それを滲ませた言葉がもてはやされている世間では、相手に気を配った言葉も目立たなかったり、不快なイメージを伴って伝わってしまう。

もし歩きスマホをなくすため、「やめてほしい」というメッセージを伝えたいのならば、このような高圧的な態度や、それを良しとする社会の風潮を変えていかなければならないと思う。そして、歩きスマホをしている人達の視点に立ち、その人達の気持ちを考え、理解を示そうという雰囲気を創り出していくことが、必要なのではないだろうか。

 

歩きスマホの立場に立つ事が重要であるもう一つの理由

また、歩きスマホの立場に立つ事がが重要となる理由は他にもある。それは、この意識を持つことでこの問題の根本的な原因が見えてくるからだ。

従来の活動では、歩きスマホの危険性を訴える方法が主流であった。「歩きスマホは危険」「事故になるケースが増えている」そういった事を、ずっと訴えてきた。

しかし、その訴えは歩きスマホをなくすことに全く繋がっていない。なぜならば、歩きスマホしている人たちにも、歩きスマホは危険であるという認識があるからだ。

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― 一般社団法人電気通信事業者協会 プレスリリース『「歩きスマホ」の実態および意識に関するインターネット調査について』 より引用

www.tca.or.jp調査結果の詳細は、以下のURLにて

https://www.tca.or.jp/press_release/pdf/190306sumahochosa.pdf

これは、一般社団法人電気通信事業者協会が2019年1月に実施した調査の結果である。この図表から、歩きスマホをしているほとんどの人が、歩きスマホが危険であるという意識を持っている事が分かるだろう。危ないと分かっていながらも、ついついやってしまうのだ。

当事者の立場になってみれば、こういったことも自然に見えてくるのではないだろうか。

なぜ、ついつい歩きスマホをしてしまうのか。歩きスマホを一番やってしまうような場所や時間、シチュエーションは何なのか。

当事者でしか分からないような事が見えてくれば、おのずと適当な指針を打ち出し対策を講じることができる。たとえそれが失敗したとしても、たやすく方針を修正できるだろう。少なくとも、上の例のような見当違いな活動をすることはずっと少なくなるはずだ。

 

スマホをいじりたい人も、そうでない人も

最後に、歩きタバコの例を出したいと思う。

歩きタバコは歩きスマホと類似点が多い上、問題の解決に大きく前進しているということから、歩きスマホの問題の議論でよく引き合いに出されている。

歩きタバコがなくなった理由は条例で禁止したからだ、とよく言われている。確かに、この対策は歩きタバコの問題を解決する上で大きく貢献していると思う。が、果たして本当にそれだけが理由なのだろうか。

歩きタバコの啓発活動で見られた特徴の一つに、喫煙者の立場にも立ったという事が挙げられる。JTが打ち出している『吸う人も吸わない人も心地よい共存社会』というスローガンは、まさにこれを象徴している。

喫煙者の味方であるJTだけはない。行政だって、そういった意識を持って取り組みを行っているのだ。

 この条例をつくるにあたっては、「いろいろな立場の市民の声を聞く」ことを意識したそうです。禁止や規制を求める人たちはもちろんですが、タウンミーティングでたばこの歴史や文化を学んだり、喫煙者が語り合う座談会を開いたり。吸わない職員もこれを聞いて、「吸う人の気持ちや悩みが少し分かった」と言います。「喫煙者を排除するのではなく、喫煙者も非喫煙者もお互いを配慮しよう」と共存を呼びかける条例は、そんな議論の積み重ねから生まれてきたのだな、と実感しました。

―尼ノ國 『吸う人も、吸わない人も「ピース」になる? 尼崎市たばこ対策推進条例』(2019年1月17日) より引用

www.amanokuni.jp

 このように、歩きタバコの問題に取り組む様々な団体が、迷惑を被っていた「吸わない人」だけでなく、原因となっていた「吸う人」の立場も考え、お互いに譲り合いましょうという雰囲気を作り出そうとしている。

そして、この理念は実際の取り組みにも現れている。

具体的な取り組みのひとつは、喫煙所しっかりと整備したことだろう。喫煙所のある地域ではほとんどの人が喫煙所を利用しており、路上で吸う人は昔よりもずっと少なくなっている。

先程紹介した兵庫県尼崎市の例では、喫煙者の座談会やタバコの歴史や文化を学べる機会を設けるなど、様々な面からこの問題を捉え、取り組んでいることが分かるだろう。

このように、ただ禁煙を義務付け喫煙者を追い出そうとしたのではなく、きちんと喫煙者の声を聞き、それに基づいた活動をしているからこそ、歩きタバコの問題は解決に向けて大きく前進しているのである。

歩きスマホについても同じような事が言えるのではないだろうか。一方的に歩きスマホを悪者にし、正論を叩き込むのではなく、相手に理解を示してして対話していこうという環境を整えること。それが、歩きスマホにまつわる問題を解決する上での第一歩となるのではないだろうか。

そして、歩きスマホのこと、歩きスマホをついついやってしまう人の事を知り、それに基づいた工夫をすれば、誰も不快にさせる事なく歩きスマホの問題を解決できるはずだ。

 歩きスマホを無くすために大切なのは譲り合いの精神である。譲り合いは、お互いがお互いに対して譲ることで始めて成り立つものだ。片方が相手に譲ることを求めるだけでは、決して譲り合いにならない。

歩きスマホに関わる人は、決してこれを忘れてはならないだろう。歩きスマホをしている人については言うまでもないが、歩きスマホをやめさせたい人だって、忘れてはならないことなのである。