名の無き人の、名も無き地図

世間知らずが、世間知らずなりに考えたことをまとめ、書いていきます。

エスカレーター片側空けに見えるイビツなマナーの意識 | その「マナー」は誰のため?

f:id:weirdog:20191229235144j:plain

 

エスカレーターをご利用の際は、ベルトに掴まり、黄色い線の内側にお乗りください──

 

おそらく誰もが聞いたことがあるだろう。エスカレーターで必ずと言っていいほどよく流されているアナウンスだ。

しかし、誰もが周知しているはずのこの呼び掛けに応じず、エスカレーターで歩いていく人はたくさんいるし、多くの利用者が歩く人たちのために右側を開けている。それがマナーであり、他の利用者のためであると。

 

 

分断されるマナーとルール

文化人類学者の斗鬼正一氏の論文『エスカレーター片側空けという異文化と日本人のアイデンテティ』(2015年)によると、エスカレーターで立ち止まることの呼びかけが日本で一番最初に行われたのは1996年のことらしい。それ以来、メーカーや鉄道会社はエスカレーターで立ち止まる事をずっと求め続けてきた。

エスカレーターの入り口には必ずそれを伝えるシールが貼ってあるし、前述のように音声アナウンスまでされている。日本エレベーター協会は、エスカレーターで歩くことを禁止事項とし、立ち止まることを求めている。

f:id:weirdog:20191231205456p:plain

―一般社団法人 日本エレベーター協会ホームページ『エスカレーターのご利用について』

www.n-elekyo.or.jp

このように、エスカレーターを設計、整備し、保守する側がエスカレーターで歩くことを禁じている。これはエスカレーターという公共の設備を利用する上で守るべき決まりであり、強制力は無いもののルールであると言えるだろう。

しかし、現在エスカレーターではルールよりもマナーが優先されている。地域にもよるが、歩く人は右側を、立ち止まる人は左側に立つというマナーだ。

文京学院大学経営学部 新田都志子ゼミが実施した調査によれば、エスカレーター利用者のうち「必ず歩く」「ときどき歩く」人が81%存在しているそうだ。

f:id:weirdog:20191229190947p:plain

二人乗り用のエスカレーターに乗る際、片側を空けますか

f:id:weirdog:20191229190943p:plain

エスカレーターにおける歩行率


学生によるWEBアンケート事前調査では、85%の人が「エスカレーターに乗る際、片側を空けている」、81%の人が「エスカレーターを歩行している」と回答しています。そして73%もの人が「エスカレーター利用において、片側空けは常識だと思う」としており、その理由として一番多く挙げられたのは「ルール違反と感じるから」というものでした。
文京学院大学 経営学部からのお知らせ『エスカレーターの安全利用に関する調査』(2019年3月8日)

www.u-bunkyo.ac.jp

このように、エスカレーターで歩くことを、ルールを守っていない人も、守っている人も容認しているのが現状だ。

しかし、それは健全なことなのであろうか。本当に利用者にとってよいものなのだろうか。

 

エスカレーター 従来のマナーの危険性

エスカレーターにおけるルールは、本音と建前のための形式的なものだと言われるかもしれない。確かに、世の中には存在意義のない、形式的なルールが存在していることは事実だ。

しかし、エスカレーターにおいてそれは通用しない。このルールを守るべき理由がちゃんと存在し、それを守らなければ本来保証されるべき安全が損なわれることになる。

エスカレーターの段差は歩くために作られていないゆえ一段一段が高くつまづきやすいし、他の利用者の荷物にぶつかったときや、歩いている最中にエスカレーターが停止したときにはバランスを崩しやすい。バランスを崩して利用者が転落すれば、本人や他の利用者が怪我するだけでなく、命にも関わる。

消費者庁の資料によると、平成23年から平成25年の3年間、東京消防庁管内において3800人以上がエスカレーターでの事故で緊急搬送されている。事故の形は様々であるが、歩くことで段差や他の利用者の荷物につまずくケースがあるそうだ。

東京消防庁管内において、平成23年から平成25年 までの3年間で3,865人が、エスカレーターでの事故により救急搬送されています。転んだり落ちたりといった事故から身を守るために、エスカレーターでは手すりにつかまりましょう。

消費者庁『事故原因調査報告書』(2015年6月26日)より

https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_safety/centralization_of_accident_information/pdf/150722kouhyou_1.pdf

 

上記調査が掲載されたページはこちら

https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_safety/other/information_004/

さらに、エスカレーター片側空けのマナーで迷惑を被っている人もいる。体が不自由で、エスカレーターの右側でしか安全に体を支えられない人たちだ。

 病気やケガなどで、片腕や片足が使えなくなったり、半身に麻痺が生じた場合、歩行は自立できても、階段を使うのにはバランスを崩しやすくなるなど、かなりの危険を伴う事があります。脳卒中などの後遺症で、片麻痺が生じた場合、バランス感覚も崩れてしまうので、麻痺がない方でてすりに掴まる必要があります。

―おたくま経済新聞『知ってほしい エスカレーターの「わけあってこちら側で止まっています」』(2019年6月21日)

otakei.otakuma.net

上に引用した記事に書いてあるように、病気や怪我の影響で右側にしか立てない利用者もいる。ただでさえ体が不自由なのにも関わらず、右側開けのマナーのせいで本来不要な注意を払わなければならないそうだ。

また、エスカレーターを歩くことで予期せぬ事故が起こるという指摘もある。

14年1月9日放送の情報番組「モーニングバード!」(テレビ朝日系)では、畑村創造工学研究所・危険学プロジェクト研究統括の手塚則雄氏に話を聞いていた。

手塚氏によると、エスカレーターの予期しない故障の原因の一つに「エスカレーター歩行」があるという。多くの人が同じタイミングで足踏みすると、複数の振動が同時に起こることで衝撃が急激に増大する「共振」という現象が起こる。この衝撃がエスカレーターの寿命を縮めているというのだ。

J-CASTニュース『「エスカレーター歩行」が予期せぬ故障の原因 名古屋地下鉄では10年前から「歩行禁止」呼びかけている』(2014年1月9日)

 

www.j-cast.com

このように、エスカレーターの右側を歩くことは、様々な面で危険をはらんでいるのだ。

 

 エスカレーターで歩くことの合理性

さて、エスカレーターで歩くの理由のほとんどは、歩いたほうが早く移動できるからというものである。では、エスカレーターで歩くことでどれほどの時間を短縮できるのだろうか。

エスカレーターで歩くことでどれほど時間を短縮できるかについて実験したブログがあったので、そちらの結果を引用したいと思う。

まず、静止して、エスカレーターに乗ってみた時のタイムを測定した。

▲上り
28秒74

▼下り
29秒20

次、歩いて乗ってみた。なお、歩く速度は一般に駅のエスカレーターを歩行する際のくらいになるよう心がけた。

▲上り
15秒04

▼下り
15秒42

 ―はてなブログ ギブギブン『エスカレーター歩行問題に現実的決着をつける 【前編:歩くと速いのか?】』(2017年10月9日)

 

give.hatenadiary.com

場所:東急東横線日吉駅 4番線(上り方面)改札への上り階段
1、エスカレータに歩かずに乗る
   28秒99
2、エスカレータを歩いて登る
   13秒26
3.併設されている同じ距離の階段を歩く
   17秒65

エスカレータに乗るのと、エスカレーターを歩くのは、エスカレーターを歩く方が15秒速い。
階段を上るよりも、エスカレータを歩く方が4秒速い。

gooブログ 記録。『エスカレーターを歩く実験結果』(2008年5月21日)

blog.goo.ne.jp

1つめに引用した実験では、エスカレーターを歩いて登る場合と立ち止まる場合に生まれる時間差は、上りで13.70秒、下りでは13.78秒という結果が出ている。2つめの実験では、エスカレーターを歩いて登るのと、立ち止まって登るのとでは15.73秒、エスカレーターを歩いて登るのと、階段を歩いて登るのとでは4.39秒の差があった。

エスカレーターの速さや長さ、体力によってまちまちであるが、エスカレーターで歩く場合と立つ場合ではおおむね10秒から20秒、エスカレーターで歩く場合と階段を歩く場合では、およそ5秒から10秒の差が出ると考えて良いだろう。

歩いても立ち止まっても、そこに生まれる差は長くてもたった20秒である。エスカレーターを立ち止まって利用したとしても、エスカレーターを降りた後や駅を出た後に数十秒小走りすれば余裕で挽回できるほどの時間だ。それを考えると、エスカレーターを歩くことは、時間を短縮する上であまり有効な手段とは言えないのではないか。

そして、ここで疑問に思うことがある。エスカレーターで歩いている人達は、本当に急いでいるのだろうか。もし、本当急いでいる人が沢山いるのならば、エスカレーターを降りた後に急いで走ったりするような人がもっと多く見受けられるはずである。が、実際はそうではない。エスカレーターを降りた後は、立ち止まった人達と歩いてきた人達が同じような速度で歩いてゆくことが多い。

この様子を見ると、エスカレーターを歩く人の多くが、本当に時間に追われているのかと疑問に思ってしまう。エスカレーターを歩く人の多くは、立ち止まって落ち着くことができないか、何となく時間を得した気になりたいだけなのではないだろうか。

 

暴力的に作用する「マナー」

現在、自分だけの視点からマナーを意識している人があまりにも多いのではないかと思う。

「急ぎたい人にだって急ぐ権利がある。」「メーカーは歩いてもいいようなエスカレーターをさっさと開発すべき」「高齢者や障害のある人はエレベーター使えばいいだけ」

エスカレーター歩行賛成派のこのような意見に触れると、彼らは自分たちにとって気分がよく、都合の良い「マナー」を振りかざしているように見えてしまう。

エスカレーターで歩く事に賛成している人たちは社会全体のためというよりも、自分自身や、自分と同じような境遇の人のために発言したり、行動しているのではないだろうか。

その上、そういった人たちは自分が迷惑していない時や、都合が良い時には何とも思わない。そして、知らず知らずのうちに自分とは異なった境遇の人たちを隅においやっているのだ。

現在、「マナー」とは強者による、強者のためのものになっている。強者の都合のために弱者や少数派の事情を無視し、踏みにじっている。そして、本来すべての利用者に対して保証されるべき確固たる安全を脅かしている。

さらに、「マナー」における同調圧力が悪い方向に向かい、少数派にむける配慮を妨げている。エスカレーターの右側に立とうものなら歩きたい人たちから冷ややかな目線を浴びることになるし、もしかしたら自己中心的な人物からトラブルや暴力を受けるかもしれない。マナーとして良いものでないと思っていても、強者が向ける視線や無言の圧力が、「マナー」を守ることを強制させようとしているのだ。

そして、「マナー」の形はいびつなまま固着し、状況は慢性的に続いているのだ。

 

そのルール、そのマナーは誰のため

エスカレーターだけでなく、世にある様々なルールやマナーを少しでも守ろうと思ったり、人に守ってほしいと思うすべての人に聞きたい。その「マナー」は、誰のためにあるのだろうか。

もし、「自分が嫌な思いをしかたら」「自分がされたら嫌だから」という、自分だけを軸にした理由や動機でマナーを意識するのであれば、それをやめるべきだ。そして、そのマナーやルールの本来の意義を考えて、誰のためにあるべきなのかを意識してほしい。その意識がなければ、ただいたずらに正義が暴走し、現在のエスカレーターにあるような歪んだ「マナー」になってしまう。

それでは、すべての人のためにあるはずのマナーやルールが、強者にとって都合よく、一部の人に無理を強いるものになる。すべての人の安全のためにあるはずなのに、見えない危険が人々を脅かすようになる。誰かへの優しさのひとつの形であるはずなのに、様々な形と因果をもって人を傷つけてしまう。それは、誰も望むことではないだろう。

思慮が浅いままルールやマナーを語り、片寄った認識を持てば、その本来の意味を見失って誰かを傷つけることにつながる。それを防ぐためには、ひとりひとりがルールやマナーの本質的な意味を考えたり、意識することが大切だ。

 

昨今はマナーにまつわる話で何かとよく騒がれている。その意識の高まりや、エネルギーが正しい方向に向かってほしいと願うばかりだ。