ただし、このような「分人」的な若者にも弱点はある。それは、場の空気に逆らえないことだ。
「分人」的な若者は、直接的にケンカしたり、激しく自己主張したりはしない。ひとまとまりの「自分らしさ」にこだわる必要が無い以上、それぞれの場の空気を読み、それぞれに最適なキャラに切り替えて適応したほうが、 “コスパ”が良い。ケンカや激しい自己主張で消耗するのは“コスパ”が悪いのだ。
「その場の空気に適したキャラを立てて、空気に適応しろ。その場の空気のなかで実現できないことは、別の場所、別のアカウントでどうにか対処して、全体としてのメンタルのバランスを維持しろ」
若い世代が年上世代に表立って逆らわず、一見、物分かり良く振る舞ってみえるのも、彼らが凡庸だからでも従順だからでもない。
彼らが適応の“コスパ”を見極め、場の空気に合わせているからだ。あるいは、年上世代がいない場やアカウントを、他で自由に選べるからでもあり、全体としてのメンタルのバランスを、よそで合わせられるからではないだろうか。
そのかわり、そういった場の空気に逆らわずに振る舞う「分人」ばかりで場が形成されるようになると、場の空気は、そう簡単にはひっくり返らなくなる。その場におけるみんなの行動は、個人の意志による選択よりも、場の空気に依存した選択にならざるを得ない。
たとえば、「アイドルは恋愛禁止だ!」という場の空気ができあがったファンコミュニティに属している人は、その場の空気に逆らって行動することはもちろん、その場の空気に逆らって考えることすらも難しくなる。
空気に逆らって考えるのは、適応の“コスパ”が悪いことだ。なぜなら、場の空気に逆らって考えることは、自分の中に葛藤が生じることを意味する。そして、その葛藤はストレスに直結してしまう。
同じことが、「現政権はデタラメなことをやっている」と考えているコミュニティや、反対に「現政権は正しいことをやっている」と考えているコミュニティにも当てはまる。
なんらかの政治的コミュニティに所属する「分人」は、コミュニティの空気を変えるために行動したり考えたりする動機を、頭の固い老人と同じぐらい持ちにくい。
なぜなら、「分人」的にスマートなのは、その場で「自分らしさ」を表現することや自分の意見を通そうとすることではなく、その場にあわせてキャラやアカウントを最適化させることだからだ。
会社の規則、就活のルール、クラス内のスクールカースト、等々についても同様だ。じゅうぶんに「分人」的な個人は、場の空気を変えるために努めるよりも、別の場やアカウントを作ったほうが少ない労力でメンタルのバランスを維持でき、それぞれの場にも上手に適応できる。
そのような個人が寄り集まって同じように振る舞えば、場の空気はますます変わりにくくなり、「分人」的な個人は、ますます場の空気に依存して適応するようになる。
たとえば、映画『桐島、部活やめるってよ』では、そうやって場の空気に依存しきった若者が、急に場の空気を失ってしまった時の様子をうまく描いていたように思う。
スクールカーストの頂点に君臨する桐島が部活を辞め、校内の場の空気に空白状態が生じたことによって、それまで場の空気どおりに考え、行動していた生徒達は大混乱に陥った。しかし、場の空気が壊れてしばらくすると、一部の生徒は自分で考えて行動するようになっていった。
作中、映画オタクの主人公がスクールカーストの底辺に位置していてもメンタルを病んでいなかったように、たとえ場の空気のなかで下位に甘んじていたとしても、「分人」はそれだけでは頭を悩ますことはない。
校内では下位のまま適応していても、たとえば、映画部の部室やネットコミュニティといった異なる場で異なるキャラを立てられ、メンタルのバランスを保てるような「分人」なら、それでなんとか生きていける。
それは、ほかの生徒達についても当てはまる。それぞれには塾があり、バイト先があり、部活動がある。校内のスクールカーストだけが「自分」の世界ではない。
それなら、一度できあがってしまった校内の空気に逆らって消耗するよりは、空気に乗っかっておいたほうが適応の“コスパ”が良いというものだ――桐島が部活を辞めて、場の空気が消え去り、各々が自分で考えて行動しなければならなくなったような緊急事態を除けば。
NHKスペシャル取材班