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【ドラニュース】「守道監督と呼んで」ファンとの距離を縮めた"ミスタードラゴンズ"星野仙一さんに続きまた竜の宝が…寂しい[高木守道さんを悼む]2020年1月18日 10時36分
現役時代は中日の名二塁手として活躍し「ミスタードラゴンズ」と称された中日元監督の高木守道さんが17日、急性心不全のため名古屋市内で死去した。78歳だった。 訃報を聞き「うそであってほしい」より「うそだろう」と、まず思った。「僕は元気だよ。また、お好み焼きでも食べに行こう」。守道さんとこんな会話を交わしたのは、それこそ、つい最近のことだった。 いぶし銀。職人。派手さはないが、昭和の時代を代表する名二塁手としてドラゴンズファンのみならず、プロ野球ファンに愛され、親しまれた。 憧れの人は長嶋茂雄さん。「でも自分は長嶋さんや王(貞治)さんにはなれない。それならプロとして、ファンをうならせるような選手を目指そうと思った」という。 守道さんが追い求めた究極のプレーは、一塁への悪送球を二塁からのバックアップで直接捕球。オーバーランした走者をタッチアウトにするという普通、考えもしないものだった。「惜しいのがあったんだけどね」と真顔で悔しがっていた。 当時のナゴヤ球場の芝生は二塁の部分だけ、守道さんが走り回るため、いつも数メートルはげて後退していたらしい。守道さんとのコンビで、しばしば二塁走者をけん制で刺した星野仙一さん(故人)は「サインなし。背中に殺気を感じて投げると、必ず守道さんがベースカバーに入っていた」と話していた。 バックアップ、ベースカバー。内野手としては目立たない地味なプレーだが、その一つ一つに決して手を抜くことがない。いかにも守道さんらしい、名手とうたわれた男のエピソードだ。 監督としては1994年の「10・8」決戦。2012年のCSファイナル。いずれも巨人を相手に、あと1勝としながらリーグ優勝、日本シリーズ進出を逃すなど「悲運の将」の肩書が、いつもついて回った。 一度、冗談交じりに「もう一回(試合を)やらせてくれんかな」とつぶやいたことがある。現役時代、味方の手抜き守備に怒り「一緒にやってられん」とロッカールームに閉じこもったほどの負けず嫌い。多くを語ろうとはしなかったが、誰よりも、あと一歩の敗戦を整理しきれないでいたのが守道さんだったように思う。 「一つ、お願いがあるんだけど」と言われたのが70歳で2度目の監督に復帰した2011年オフだった。「中日スポーツの見出しを『高木監督』ではなく『守道監督』にしてほしい」との申し出だった。 「その方が、ファンも身近に感じてくれると思うんだよね。『守道、何やっとんだ』と怒ってもらえれば…。サインも、これからは『守道』だけにしようと思ってるんだわ」 野球を愛し、ドラゴンズが大好きで、ちょっと不器用だが、いつもファンを思い、自ら歩み寄る方法を考えている人だった。仙さんに続いて、またドラゴンズの宝が…。寂しい。「ミスタードラゴンズ」よ永遠に―。 (1991年~2000年中日担当・館林誠)
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