道成寺観能は3年前の福山の大島能楽堂で大島衣恵師以来。京都の観世会館では味方玄師以来。
3年前の道成寺観能で観能引退をした事を思い出した。それから何回かの観能休止をしてからの道成寺観能。
初めて観能したのが道成寺で通算1000番目も道成寺。自分にとって道成寺は特別なものだ。
集中力が、まだ伸び代がある事に驚いている。去年の5月に再び観能休止して8月に観能復帰しましたが、この道成寺観能したら、また休もうかなと思っている。
今までで休止してから3か月内に復帰しているのは、それを過ぎたらもう観能しなくなるだろうという事を肌が感じているからだ。ただ、少しずつ休止期間は伸びて来ている。
継続する事の難しさを感じている。去年からインプットしてきたロックライブやアルゼンチン音楽やジャズライブなども、道成寺でアウトプットで全部出してしまうだろう。
観能のための充電期間のためのインプットが大変になってきた。いや、インプットは楽しいけど、観能のためのアウトプットがキツくなってきた。
今まで思わなかったんだけどな。先日の辰巳孝弥師の八島観能の時に、今までで1番の観能が出来た。それ以上は出来ないんじゃないかとも思った。ちょっと自分が怖くなった。
辰巳孝弥師や道成寺を披く松井美樹師は、縁がある。だからこそ足を運んで観能したし、観能するたびに良くなってきている。
そういう縁が、まだ観能するモチベーションに繋がっている。
八島観能する前までは、ちょいちょい観能するんだろうと思っていた。八島観能したら、19日の道成寺観能したらまた休もうと思ってしまった。
今年はクラシックのコンサートにもっと行きたい。特にピアノのコンサートに行きたくて堪らない。レオンスカヤ、ペーターレーゼル、ヴィルサラーゼのピアノをナマで聴きたい。
能楽クラスタは、もう組み込まれてしまったから興味が失せてしまった。伝統芸能のシステムに組み込まれると厳しい。
観能能力とは何なんだろう。その事を考察する時期に来たのだろうな。場の空気を一観客が支配してしまうのはどうなのか。舞台と観客のパワーバランスを考えなければいけない。
かつての能の名人や名手の藝の力を肌で感じて来て、藝の力と観る力のパワーバランスが自分の方が強くなっていると勝手に感じている。
観る側の力が舞台より強いのは果たして良いのだろうか?
本当に個人的な勝手で偏見な思い込みなんだろうが、ここ何年かの観能で藝の力と観る力のパワーバランスで怯んでしまったのは関根祥丸師ただ1人だ。何故かはわからない。いや、彼は今までにないタイプだからだ。藝の力と観る力の違いはあるけど、自分とタイプが似ているからだと勝手に思っている。
こういうタイプの能楽師は、これから少しずつ出て来るであろう。
具体的にはどういう事なのか。それを整理していつか書いてみたい。