現役時代は中日の名二塁手として活躍し「ミスタードラゴンズ」と称された中日元監督の高木守道さんが17日、急性心不全のため名古屋市内で死去した。78歳だった。
高木さんの21年に及ぶ現役生活で、唯一の優勝を勝ち取ったのが1974(昭和49)年だ。生前の高木さんが「ベストゲーム」に挙げたのが、6月28日の首位・阪神との一戦(中日球場)だった。3点を追う9回、1点を返してなお一、二塁ながら2死。ここで逆転サヨナラ3ランを左中間席に打ち込んだ。
その後もデッドヒートは続き、迎えた10月11日に再び高木さんの勝負強さがチームを救った。残り5試合で優勝マジック3。しかし、東京、名古屋、東京と場所を変えながら、3日間で5試合を戦うという強行日程が組まれていた。負ければマジックが消滅するヤクルト戦(神宮)は、誰もが「大一番」と認識していた。2点を先制され、6回に追いついたが直後に勝ち越された。9回、2死三塁。ここで高木さんが三遊間を破る同点打を放ち、裏を星野仙一さんが締めて辛くも引き分けでマジックを減らした。
「あんな緊張感の中で立った打席は、後々も含めてなかったね。とにかく必死。巨人戦(2日後に予定されていたダブルヘッダー)に持ち越したらやばいってみんな思っていたから」
1度ならず2度も「あと一人」から放った値千金の一打をこう振り返っていた。翌12日に優勝を決め、巨人の10連覇を阻んだ。高木さんの人柄がにじみ出るのはここからだ。13日に予定されていた巨人戦は雨天中止となり、14日に順延。これによりすでに組み込まれていた名古屋での優勝パレードと、長嶋茂雄の引退試合が重なった。球団が下した苦肉の決断は「主力は優勝パレード。巨人戦は若手主体で臨む」。これに必死の形相で食い下がったのが高木さんだった。
「パレードの日程を変えられないのか! それが無理なら自分だけでも東京へ行かせてくれ」。もちろん聞き入れられるはずもなく、名古屋の街を凱旋(がいせん)した。その夜、高木さんは自宅の電話の受話器を取ろうとし、自分の手を見つめた。何万、何十万というファンの手を握ったため、腫れ上がっていた。夫人に頼み、回したのは長嶋邸の番号だった。
「きょうは試合に出場できなくて申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた。2人の出会いは県岐阜商在校中。「あの小柄な二塁手は才能がある。試合に使わなきゃダメですよ」。そう助言してくれたのが、当時立教大4年で特別コーチとしてやってきた長嶋さんだった。16歳で知った長嶋という太陽の輝き。見る者をアッと驚かせるのがミスターのプレーなら、自分はうならせる選手になりたい。その集大成ともいえる最高のシーズンが、1974年だった。2人の野球人生は、この20年後に再び交差する。今度は巨人と中日の監督として、あの『10・8』の激戦譜をつむいだのだ。