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【ドラニュース】

高木守道さんは『初めて大人扱い、プロとしての自我を芽生えさせてくれた』立浪和義さん「10・8勝たせたかった」

2020年1月17日 22時50分

『選手立浪』成長させてくれた高木守道さん(左)

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 現役時代は中日の名二塁手として活躍し「ミスタードラゴンズ」と称された中日元監督の高木守道さんが17日、急性心不全のため名古屋市内で死去した。78歳だった。現役時代プロに入り2人目の監督として指導を受けた立浪和義さんがその思いを語った。

 最後に高木さんにお目にかかったのは昨年12月5日、私の野球殿堂入りパーティーでのことになった。出席してくださり、あいさつをさせていだくと「おめでとう、がんばれよ」と温かく声をかけてくださった。普段は温厚で、本当に優しい方だった。

 最初の出会いは私がまだPL学園の高校生だったときのこと。対談のため高木さんが大阪のグラウンドまで来てくださった。その後もご縁があり、ドラゴンズで再会することになった。

 プロでの最初の監督は星野仙一さんだった。非常に厳しく、プロの世界、勝負の世界の厳しさを教えていただいてスタートした。私にとってプロでの2人目の監督が高木さん。星野さんとはまったく違った。若かった私にもある程度自由を与えてもらい、基本的には自主性に任せてもらえた。

 プロで、初めて大人扱いしてくれた監督が高木さんだった。自分のことは自分でやる。ある意味、プロ中のプロ。そんな監督であり、星野さんとはまた違うプロの厳しさを教えてくださった。

 私が肩を痛めていたことを考慮してもらい、ショートからセカンドにコンバートしてくださったのも高木さんだった。何とか結果を出して応えたい、そう思ってプレーしていた。

 巨人と優勝を争った「10・8」では勝つことができなかった。監督だった高木さんがいろいろと言われ、世間の風当たりもきつかった。だが、勝てなかったのは選手の力がなかったから。監督どうこうではなく、選手の力量が足りなかったということ。私も一塁へのヘッドスライディングで左肩を痛め、試合の途中に退いてしまった。勝つことができず、高木さんには本当に申し訳ないことをしたと思っている。

 口数が少ない監督だった。だから正直、誤解する選手もいた。選手に対し、多くを語らないことがあだになった面もあるかもしれないが、私にとってはプロとしての自覚を芽生えさせてくれ、成長に導いてくれた指導者である。心から感謝しています。ご冥福をお祈りいたします。(元中日ドラゴンズ内野手)

 

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